らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

飛鳥の旅(その4)日本最古の寺院「飛鳥寺」

2009-11-30 | 旅行

今日は日本最古の寺院といわれている「飛鳥寺」をご紹介します。

飛鳥寺は飛鳥の代表的なお寺の一つで、588年に百済から仏舎利(釈尊の遺骨)が献じられたことにより、596年に蘇我馬子が発願して創建された日本最古の
本格的なお寺です。
寺名は、法興寺、元興寺、飛鳥寺で、現在は安居院(あんごいん)と呼ばれています。

・飛鳥大仏標石です。
 江戸時代の寛政4年(1792年)、飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻された優秀な文字で、台石は飛鳥寺創建時(588年)の礎石を用いています。


飛鳥寺は588年に造り始められたお寺で、東西200m、南北300mで、金堂と回廊がめぐらされた日本最初の本格的な大寺院であったそうです。
塔を中心に、その北と東西に三つの金堂が建っていたといわれており、北の中金堂に鎮座している飛鳥大仏は今もその位置を動いていないそうです。

・飛鳥寺正門です。


・飛鳥寺の境内です。


飛鳥寺の旧伽藍は877年と1196年に落雷のため焼失し、室町以降は荒廃しましたが、1632年と1826年に再建され現在に至っています。

・飛鳥寺の本堂です。
 講堂の中に鎮座している本尊の飛鳥大仏(釈迦如来)は、605年に推古天皇が詔して、帰化人系の仏師・鞍作鳥(くらくりのとり)に造らせた日本最古の仏像で、
 東大寺の大仏より150年も前に造られたそうです。


・万葉歌碑です。

 「飛鳥川 川淀さらず 立つ霧の 思い過ぐべき 恋にあらなく」 山部赤人(巻3-325)

当時、都は平城京だったので、山部赤人は古都・飛鳥を慕って、”飛鳥川の霧のように消えてなくなるような古都への思いではないのだ”との思いを詠んだそうです。


・真神原(まかみはら)の眺めです。
 ここの説明に、「ここに立ちて見る風景は古代朝鮮半島新羅の古都・慶州、百済の古都・扶餘(ふよ)の地と酷似しており、大陸風で飛鳥地方随一なり」と記されて
 います。


・飛鳥寺西門跡です。
 西門は礎石を置いて柱を建てた瓦葺きの門で、間口3間(11.5m)、奥行き2間(5.5m)だったそうです。
 このお寺の四方に開いた門のなかでは最も大きく、飛鳥の桧舞台であった「槻(ケヤキの古名)の木広場」があり、645年に大化改新を成し遂げた中大兄皇子
 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)はここの蹴鞠の場で出会ったといわれています。
 二人は飛鳥寺に陣を構え、西門から甘樫丘の蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)親子の館をにらんでいたといわれています。
 672年の壬申の乱以後は外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となっていたそうです。


蘇我入鹿は大和朝廷の有力者で大臣(おおおみ)でしたが、飛鳥時代の政変である乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足)らによって宮中で暗殺された人物です。中大兄皇子はこの後、大化の改新を断行しました。

飛鳥寺は蘇我氏のお寺ということもあって、お寺のすぐ横には蘇我入鹿の首塚があります。
当時は蘇我氏の立派なお屋敷がたくさんあったといわれています。

・蘇我入鹿の首塚です。
 奥に見える森は、蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の親子が権勢を示すために、丘の麓に邸宅を構えていたと考えられている甘樫丘です。


・歴史書や教科書でお馴染みの蘇我入鹿の暗殺の図です。
 奥に立ち去るのは中大兄皇子の母。皇極天皇です。(akiraさんのブログより)



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飛鳥の旅(その3)橘寺と聖徳太子

2009-11-29 | 旅行

今日は聖徳太子お誕生所と言われている橘寺をご紹介します。

橘寺(たちばなでら)は、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、聖徳太子・如意輪観音を本尊としている天台宗の寺院です。
寺院の名前は、第11代 垂仁天皇の命により、不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するそうです。

・橘寺の全景です。
 橘寺は、聖徳太子が誕生した処とされ、当時ここには、橘の宮という第29代 欽明天皇の別宮があったそうです。
 当初は東西八丁(870m)、南北六丁(650m)の寺地に金堂、講堂、五重塔を始め、六十六棟の堂舎が建ち並んでいたそうです。
 1506年に多武峰(とうのみね)の兵により焼かれ、昔日の面影を無くし、更に、江戸時代には正堂、念仏堂共に大破し、僧舎一棟のみとなったそうです。
 現在の堂は、1864年に再建されたものです。


・聖徳太子お誕生所です。
 太子は、第29代 欽明天皇の第四皇子の橘豊日命(たちばなのとよひのみこと・第31代 用命天皇)を父として、572年にこの地に生まれ、幼名を厩戸皇子
 (うまやどのみこ)と申されました。


・橘寺の西門です。正門(東門)はこの正面奥にあります。


橘寺は、聖徳太子が、父である用命天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝えられ、太子建立七大寺の一つに数えられています。
本殿の前の馬は、聖徳太子の愛馬の「黒駒」の像です。甲斐の国から献上され聖徳太子の足となった馬といわれています。

・橘寺本堂です。


・蓮華塚です。
 聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃の時、天から降った蓮の花を埋めたところで、大化の改新でこれを一畝(36坪・約100㎡)と定め、面積の基準として
 田畑が整理されたので畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれています。


・三光石です。
 聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)を講じていると日・月・星の光が輝き、不思議な出来事が起ったので天皇は驚き、太子にこの地にお寺を建てるよう命じられ
 ました。そこで御殿を改造して建てたのが橘樹寺(たちばなのきてら)です。


・往生院です。
 聖徳太子の念仏精神を生かすべく念仏写経研修道場として、平成9年に再建された往生院です。左は聖徳太子立像です。


・往生院 の天井画です。
 天井には、著名なる画家たちの華の絵が260点奉納され、華の浄土の様相を呈しています。


・二面石です。
 右は善面、左は悪面と呼ばればれ、私達の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つだそうです。

・これは左の悪面です。


・こちらは右の善面です。


(参考)
・「田道間守(たじまもり)」について
 日本書紀によると、11代垂仁天皇の時、勅命を受けてトコヨの国(中国雲南省あたり)へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守(たじまもり)が、10年の長い間
 苦労して漸く秘薬を捜し求め、持ち帰ったところ、天皇は既に亡くなっていました。
 この時、彼が持ち帰ったものを「トキジクノカグノコノミ」といい、この実を当地に蒔くとやがて芽を出したのが橘で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝えられ
 ています。
 また彼は、黒砂糖をも持ち帰り橘と共に薬として用いたので、後に蜜柑、薬、菓子の祖神として崇め祭られるようになったといわれています。



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飛鳥の旅(その2)甘樫丘と大和三山

2009-11-28 | 旅行

飛鳥の旅(その2)の今日は、甘樫丘と大和三山をご紹介します。

甘樫丘(あまかしのおか)は飛鳥川西岸にある東西数百メートル、南北1kmほどの丘陵で、丘全体が国営飛鳥歴史公園の甘樫丘地区となっています。
標高は148mで、丘の北側にある展望台からは、大和三山、藤原京、飛鳥京などの風景を望むことができます。
また、園路の一部は万葉の植物園路として万葉集、古事記、日本書紀に歌われた40種類の万葉植物を観察することもできます。

甘樫丘は、大化の改新以前に、蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたと考えられており、2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表されて、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されたそうです。

・ここがが蘇我親子の邸宅があったのではないかと考えられている甘樫丘です。


国営飛鳥歴史公園内は広く、私たちは時間の関係で他地区を散策したので、 大和三山の画像は「料理旅館 大正楼」HPからお借りしました。

大和三山とは、次の三つの山を言います。
耳成山(みみなしやま)140m
 大和三山の中ではもっとも均整のとれた円錐状の美しい姿をしています。
 元々は火山で、もっと高い山でしたが、盆地の陥没で沈下し、山の頭部だけが残ったそうです。
 人の顔に例えて、耳がないように見えることから、耳無山⇒耳成山と呼ばれるようになったそうです。

・耳成山です。(料理旅館 大正楼HPより)
甘樫丘の川原展望台から望む耳成山

畝傍山(うねびやま)199m
 大和三山の中で最も高い山で、火山が噴火してできた山といわれています。
 麓は神武天皇が宮を開いたところとされており、山麓には橿原神宮神苑や神武天皇陵の森が広がっています。

・畝傍山です。(料理旅館 大正楼HPより)
甘樫丘展望台から見える畝傍山と二上山

・香具山(かぐやま)152m
 香具山は他の二山と違って火山ではなく、多武峰(とうのみね)山系から延びた尾根が、侵食で残り、その部分が独立峰に見えるようになった山と言われて
 います。
 風土記では、天から降ってきた山との伝承があり、三山の中で最も神聖視された山で、そこから「天の香具山(あまのかぐやま)」とも呼ばれているそうです。
 山麓には「天岩戸の神社」や「天香山神社」があり、山頂の「国常立神社(くにとこたち神社)には国常立神と竜神が祀られているそうです。
 また、「天の香具山」は天皇が国見をする場所でもあったそうです。

・香具山です。(料理旅館 大正楼HPより)
天の香具山 香久山

・下の画像は紅葉がはじまった甘樫丘(あまかしのおか)です。


(参考)
・蘇我蝦夷(そがのえみし)(~645年)
 飛鳥時代の豪族で、曽我の馬子の子供です。推古天皇・舒明天皇・皇極天皇3代の大臣を務め、自分の墓を陵と称し、子の入鹿に紫冠を授けて大臣に擬したと
 いわれ、入鹿が討たれた時、その家を焼いて自刃したそうです。

・蘇我入鹿(そがのいるか)(~645年)
 飛鳥時代の豪族で、蝦夷(えみし)の子供です。皇極天皇の時代に国政を掌握し、山背大兄(あましろのおおえ)王を殺しましたが、中大兄皇子・中臣鎌足に滅ぼ
 されました。




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飛鳥の旅(その1)高松塚古墳

2009-11-27 | 旅行
先日、ご近所のKさんご夫妻に、奈良県の「国営飛鳥歴史公園」を案内していただきました。
そこで、今日から「飛鳥の旅」シリーズとして、この「飛鳥歴史公園」の各地区についてご紹介します。

初日の今日は「高松塚古墳壁画館」をご紹介します。

・高松塚古墳から眺めた飛鳥の風景です。万葉の姿をそのまま現在に伝えていると言われています。


高松塚古墳は7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)および18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
昭和47年の発掘調査において日本で初めて石室内に描かれた壁画が発見されました。
当初は、発見された銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年~710年)の間と確定されたそうです。
なお、被葬者は特定されていませんが、
1)天武天皇の皇子説、
2)臣下説、
3)朝鮮半島系王族説
の3つが主な説のようです。

・築造当時の姿に復元された高松塚古墳です。


・花四神です。
 四神とは四つの聖獣で、石室を守るようにそれぞれ東西南北に描かれています。 
 その四神たちを草花で飾ったのが花四神で、左は青龍(東)、手前は玄武(北・亀と蛇)、右は白虎(西)、奥は朱雀(南)です。


壁画館に展示されている石槨の大きさは、奥行き265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cmで、その内面の壁には色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武(亀と蛇)、日・月像、天井に星宿が描かれています。
このような壁画古墳は、日本ではこの高松塚古墳と、キトラ古墳しか知られていないそうです。

・高松塚壁画館入り口です。


壁画館の内部は撮影禁止なので、「飛鳥保存財団HP」と、「文化庁HP」より画像をお借りしました。

下は石槨(棺を入れる箱)の原寸模型で、古墳発見当時の石槨をそのまま復元しているそうです。
石槨の奥行きは265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cmで、その内面の壁には色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれています。
四角に削られているのぞき窓のようなところも発見当時のままであり、ここから何者かが埋葬されていた副葬品を盗み出したそうです。

・石槨の手前の削られている部分の内壁に朱雀(南)が描かれているそうです。(飛鳥保存財団HPより)


・原寸大の石室と壁画を模写したものです。(飛鳥保存財団HPより)


・西壁の女子群像です。翳(さしば)、如意(にょい)を持っています。(文化庁HPより)
西壁女子群像

・西壁の男子群像です。蓋(きぬがさ)、柳筥(やなぎばこ)、床凡(しょうぎ)、鉾(ほこ)のようなものを持っています。(文化庁HPより)
西壁男子群像

・高松塚古墳です。


「四神と日像・月像」
四神は中国の思想に基づくもので古来、天子の象徴として用いられ、四方を鎮護し、東西南北の方位を表します。
青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北・亀と蛇)は星座の形から具像化されたものです。
青龍、白虎の上部にそれぞれ、日像・月像が描かれており、天井の星宿とともに被葬者の尊貴性を物語っていると思われているそうです。

「人物群像」
男子4人、女子4人、各1組の群像が、東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれています。
男子群像のいずれもが蓋(きぬがさ)、柳筥(やなぎばこ)、床凡(しょうぎ)、鉾(ほこ)のようなものを持っているのに対し、女子群像は2人ずつが東壁では団扇
(だんせん)、払子(ほっす)を、西壁では翳(さしば)、如意(にょい)を持っているのが特色です。


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ホトトギスの花と伝説

2009-11-26 | 

今日は我が家の庭に咲いている「ホトトギス(杜鵑草)」の花をご紹介します。

「ホトトギス(杜鵑草)」は日本原産のユリ科の多年草で、別名を「トキドリソウ(時鳥草)」、「ケイキャクソウ(鶏脚草)」と言います。
東アジアを中心に19種が確認されていますが、その内、日本では13種が確認されているそうです。

・斑紋が美しいホトトギスの花です。


名前の由来は、花弁の斑紋がホトトギスの胸の模様に似ていることから、名付けられたといわれています。
6枚ある花被片は、3枚が萼で3枚が花弁です。そして中心から出ている太いオシベの先は3つに分かれ、その先がさらに2つに分かれています。
ホトトギスは夏の高温多湿を嫌いますので、鉢植え、地植え共に半日陰で育てるとよく生長します。

・桃の木の下の半日陰でいきいきと生長しているホトトギスです。


・下記、「ホトトギス伝説」にあるように、鳥のホトトギスが喉から血を吐いて、血に染まった羽を思わせるようなホトトギスの花です。


・ホトトギス伝説
 
「鳴いて血を吐くホトトギス」をご紹介します。
 あるところに貧しい兄弟がおりました。兄は生まれつき目が悪く、全く目が見えませんでした。
 心優しい弟はそんな兄のために、山で山芋を掘ってきて美味しいところを食べさせ、自分は残った芋のしっぽの部分だけを、しかも、兄に心配をかけまいとして
 そっと隠れるようにして食べていました。
 そんな弟のそぶりに、兄は、「弟が隠れて美味しいものを食べているに違いない」と邪推をつのらせるようになりました。
 そして、ついに弟を殺してしまい、包丁で腹を割いてみました。
 すると、突然、兄の目が開いて物が見えるようになりました。弟の腹にあったものは粗末なものばかりでした。
 兄は弟のむくろを抱いて悔やみ、嘆くうちに、魂が抜けて鳥になってしまいました。
 そして、「おととこいし(弟恋しい)」と泣き叫び、喉から血を吐いて胸をかきむしるたびに、血に染まった羽がはらはらと落ち、ホトトギスの花になったといいます。
  
 ホトトギスになった兄は、弟を殺した罪で一日に八千八声、喉から血が出るまで叫ばなくてはならないといい、子供を自分で育てることも許されなくなりました。
 「ホトトギスの託卵」即ち、ホトトギスがウグイスなどの巣に産卵し、抱卵・育雛を委ねる鳥となったのは、このようなことからと言い伝えられているようです。


(参考)
・野鳥の霍公鳥(ほととぎす)です。
 この鳥の胸の模様と花の斑紋が似ているでしょうか?
         ホトトギス

(一言メモ)
・俳人の正岡常規(子規)は明治22年に吐血して肺結核を発病し、明治35年に35歳で亡くなりましたが、発病以降に「鳴いて血を吐く」ホトトギスを意味する『子規』
 を号したそうです。

・ホトトギスに不如帰の字を書くことがありますが、これは中国の伝説に基づくものです。
 古代の蜀の国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れましたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギス(不如帰)になりました。
 そのため、ホトトギス(不如帰)は今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているということです。




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「しまなみ海道」~道後温泉の旅

2009-11-25 | 旅行
先日、家内の姉夫婦と四国・松山の道後温泉に日帰りドライブに行ってきました。
四国には、本州四国連絡道路の「しまなみ海道」が通じているので、私達の故郷である岡山県西部の笠岡市からでも2時間30分くらいで行ける手ごろな温泉地となりました。

今日は四国に通じる「しまなみ海道」と「道後温泉本館」をご紹介します。

「しまなみ海道」は通称名で、正式名称は「西瀬戸自動車道」と言い、広島県の尾道から愛媛県の今治を繋ぐ高速道路です。
瀬戸内海に点在する向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島などを橋で繋いでおり総延長は59.4kmで、平成11年5月に全通しました。
「神戸淡路鳴門自動車道」、「瀬戸中央自動車道」と共に、3ルート建設された本州四国連絡道路の中で唯一、歩いたり自転車で渡ることができる海の道となっています。

・瀬戸田PAより眺めた「多々羅大橋」で、世界一の斜張橋だそうです。


当日は曇り空でしたが、それでも瀬戸内海の島々を見渡す眺望は素晴らしいものでした。

・生口島に設けられている瀬戸田PAより眺めた瀬戸の島々です。


大島と四国の今治の間には来島海峡があり、その海峡に来島海峡大橋が架かっています。
この来島海峡大橋は「来島海峡第一大橋」、「来島海峡第二大橋」「来島海峡第三大橋」の3つの長大橋で構成されており、全長4,105mもある世界初の3連吊り橋となっています。
この3長大橋を含め「しまなみ海道」の海峡部には10本の橋があり、この海道の総事業費は7464億円要したそうです。

・来島海峡SAから眺めた「来島海峡第三大橋」です。右側、島の奥が「来島海峡第二大橋」です。


「来島海峡第三大橋」のケーブルの直径は636mmで、その長さは1,703mあります。
また、ケーブルは直径5mmの素線12,954本で構成されており、その全重量は6,780トンだそうです。

・これが直径636㎜のケーブルの模型です。


「しまなみ海道」を渡りきって四国・今治に入り、国道317号線を約40㎞ほど南下した所に道後温泉があります。
道後温泉の中心にある「道後温泉本館」は温泉共同浴場で、別名「ぼっちゃん湯」と呼ばれているようです。
この本館は、明治時代27年に建築された三層楼の歴史ある建物であり、1994年には国の重要文化財に指定されています。

松山市のシンボル的な存在で、大衆浴場番付において、東の湯田中温泉(長野県下高井郡)と並び西の横綱に番付されており、2009年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されているそうです。

・これがお馴染みの「道後温泉本館」です。大勢の観光客で賑わっていました。


夏目漱石は「道後温泉本館」完成の翌年に松山中学に英語教師として赴任し、その建築に感嘆し、小説「坊ちゃん」の中で「温泉だけは立派だ」と絶賛していますが、実際に自ら頻繁に通ったそうです。
本館が「坊ちゃん湯」の別名で親しまれているのは、このことに由来しているといわれています。
1階の男湯の浴室内には、「坊ちゃん泳ぐべからず」の札が掲げられていましたが、これは小説で、「坊ちゃん」の主人公が湯船で泳いで注意の張り紙をされたことに因んでいるそうです。

また、宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」は、木造による重厚な重層構造の共同浴場として描かれていますが、この「道後温泉本館」はそのモデルの一つとも言われているそうです。



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皇帝ダリアの花

2009-11-24 | 
11月20日から昨日まで所用があって、ブログの書き込みを休ませていただきました。
今日からブログを再開しましたので、引き続きご愛読くださいますよう宜しくお願いします。

さて、今日はダリア界の王様といわれる「皇帝ダリア」の花をご紹介します。

「皇帝ダリア」はキク科の多年草で、別名を「木立ダリア」「帝王ダリア」と言います
メキシコが原産地といわれており、日本には江戸時代末期の1842年(天保13年)にオランダ人によってもたらされたといわれています。

・花径20cm超の大きな花を咲かせる「皇帝ダリア」です。


名前の由来は、リンネ(スェーデンの博物学者、生物学者、植物学者)の弟子であった、スェーデンの植物学者アンデル・ダース(Anders Dahl)からきているそうです。
和名は「天竺牡丹(テンジクボタン)」と言い、花の形が牡丹に似ていることからつけられたようです。

・家内の実家に咲いている草丈が3m以上の「皇帝ダリア」です。
 

「皇帝ダリア」は短日植物なので日照時間が短くなる11月頃に花をつけ、霜が降りる頃まで咲きます。
草丈は高く、大きいものでは4~5mになります。今回撮影した花は3m以上の高さがありました。

・これは切り取って生けていた「皇帝ダリア」の花です。


・「皇帝ダリア」の葉です。


この「皇帝ダリア」は茎の直径が5㎝くらいですが、大きくなると10㎝くらいまでの太さになり、1株で100個以上の花をつけるようです。
枝は放射状に分枝し、花茎の先端にピンク色の大輪を咲かせます。

・たくさんの蕾がついている「皇帝ダリア」です。



「花言葉」 乙女の真心、 乙女の純潔


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「霜月」の語源と「霜」あれこれ

2009-11-19 | 雑学

先日から急に寒くなり、北海道や東北では積雪が見られ、西日本でも高山では初冠雪が伝えられています。
今週に入って大阪でも最低気温が5度近くまで下がり、最高気温も11度と、真冬並みの寒さに見舞われ、「霜が降りる」のも近いのではないかと思われるような寒さでした。

そこで、今日は11月の旧暦の呼び名である「霜月」の語源と「霜」について調べてみました。

「霜月」とは、旧暦11月の呼び名で、文字通り霜が降る月の意味です。
現在では新暦の別称としても用いられており、別名は「神楽月(かぐらつき)」「子月(ねつき)」などとも呼ばれています。

「霜月」の語源については、「霜降月(しもふりつき)」の略とする説が有力とされていますが、その他では、十は満ちた数で一区切りなので上月になり、それに対して下月で「霜月」になったとする説や、「神無月」を「上な月」と考えて「下な月」で「霜月」ななったとする説など、上下の「下」とみる説があります。
また、「食物月(おしものつき)」の略とする説や、「凋む月(しぼむつき)」、「末つつき(すえつつき)」が訛ったとする説などがありますが、いずれも有力とはされていないようです。

一方、英語の11月である”November”は「9番目の月」の意味です。
”November”の”Novem”はラテン語で9を意味し、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算であるため、3月から数えて9番目という意味から”November”になったようです。

「霜」あれこれ
・「霜」とは、物体の表面が冷やされることで空気中の水蒸気が昇華(固体化)し、氷の結晶として堆積したものです。
・「霜が降る」とは、霜が空気中から降るのではなく、空気中の水蒸気が氷となって物や地面に付着したもので、多くは、晴天無風の夜、地表面付近の気温が氷点
 下になった時に生じます。
・「霜柱」とは、土の中の水分が土の隙間を通って上昇し、地面に出てきたときに冷えて氷となったものです。
 氷は下から上に伸びてゆき、その長さは10㎝を超えることもあるそうです。
・「霜の形」は雪の結晶と似たようなものもありますが、多くは雪に見られる結晶の形の一部分だけが大きく成長している状態だそうです。
                              


「お詫び」
  いつも当ブログを見ていただきありがとうございます。
  誠に勝手ながら、明日20日から23日まで休ませていただきます。
  24日から再度書き出す予定にしていますので、引き続き宜しくお願い致します。



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「パイナップルセージ」の花

2009-11-18 | 

今日は我が家の庭に咲いている「パイナップル・セージ」の花をご紹介します。

「パイナップル・セージ」はシソ科サルビア属の半耐寒性常緑亜低木で、原産地はメキシコといわれています。
名前の由来は、葉と花にあるパイナップルに似た甘い香からつけられたと言われています。
別名は「サルビアエレガンス」と言います。

・別名のとおり、エレガンスな感じのする「パイナップル・セージ」の花です。


この花は短日性なので、庭植では秋が深まる10月~11月頃に咲き、霜が降りる頃には終わりますが、鉢植えにして室内に置けば冬でも楽しめるようです。
花が少なくなるこの時期に、真っ赤に咲くこの花は花壇の主役となります。

・鮮やかな真っ赤な花を咲かせます。


タマゴ形の葉は大きさが5㎝から10㎝で、周縁には小さな鋸歯状のきざみがあります。

・卵形の葉を揉むとパイナップルのような甘い香りがします。


花や葉は食用となります。
花はサラダに散らしたり、クッキーやケーキにも利用され、また、葉はハーブティーなどに利用されるようです。

・一輪ごとの花には表情があってとても魅力的です。


「セージ」は、昔から全世界で不老長寿のハーブとして高く評価されてきた植物で、イギリスには「長生きしたければ5月にセージを食べなさい」という格言があるそうです。
17世紀の中国では大変珍重されたようで、オランダの商人はセージの葉1枚につき中国茶3箱という高価な値段で売っていたそうです。

余談ですが、ソーセージ(Sausage)の語源は、Sau(牝豚)とSage(香辛料のセージ)という語が合成されてできたとの説もあるそうです。


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ソラマメ栽培(その1)

2009-11-17 | 家庭菜園

今日はソラマメの栽培についてご紹介します。

ソラマメ(空豆、蚕豆)はマメ科の一年草または越年草で、別名をノラマメ(野良豆)、ナツマメ(夏豆)、テンマメ(天豆)などと言います。
世界各地で栽培されていますが、原産地は西南アジアから北アフリカで、日本には8世紀ころ渡来したと言われています。

このソラマメは、秋に播種し、5月頃に収穫する栽培サイクルなので、この時期は、農家では既に定植が終わっている頃です。
我が家でも10月下旬に播種した種豆が定植できるまでに生長してきました。

・10月下旬にまいた種が芽を出し始めました。ソラマメはこのように均等に発芽しにくいので、家庭菜園の場合は、直播きは余りお奨めできません。


苗はポットに播種(種をまく)する方法と畝に直播きする方法がありますが、発芽や初期育成をそろえるために、家庭菜園ではポットに蒔いて苗をつくります。
私は畝の1箇所にまとめて播種(種まく)して苗を作りました。

・まもなく定植できるくらい大きくなった苗です。


ソラマメ(空豆、蚕豆)の名前の由来は、莢が空に向かってつくので空豆、または蚕を飼う初夏に食べ、莢の形が蚕に似ていることから蚕豆という字が当てられたそうです。

・上の画像から更に4~5日後には本葉が4~5枚になりました。この頃が定植の時期です。


・我が家の定植は、幅60㎝の畝に株間50cmで2条の千鳥植えとし、栽培数は2畝に30本の苗を植えつけました。


私の栽培方法をご紹介します。
「栽培方法」
・種蒔き時期
 種蒔きは10月下旬頃に蒔きます。早くし過ぎて大きく育った状態で越冬すると寒害を受ける恐れがあります。
・畑の準備
 1㎡当たり堆肥2~3kg、苦土石灰150g、化成肥料50gを目安に施し、畝幅100cmの畝を作ります。
・種蒔き
 ・ポット植えまたは1箇所にまとめ植えする場合
  1個の種豆を、お歯黒という黒い部分を斜め下向きにして植えます。種は酸素を必要としますので2/3を土の中に入れ、たっぷり水遣りをします。
 ・直播するときは、株間40cmで1粒をまき、同様にたっぷり水遣りをします。
・定植
 本葉が3~4枚で定植します。表面が見える程度の浅植えにします。
・防寒対策
 寒さには比較的強いですが、防寒と乾燥防止のため敷き藁等をします。
・追肥
 11月中旬~下旬に1回目の追肥を株間に行います。
・整枝
 3月中旬頃、側枝の背丈が50cm位に伸びたら、1株あたりの枝を6~7本残し、余分な枝は付け根から摘み取ります。
 この頃、2回目の追肥として化成肥料を畝の肩に施し、土寄せします。
・病害虫予防
 アブラムシなどの害虫がつきやすいので、早めにスミチオン乳剤などで予防します。
・摘心
 側枝に莢が付き始めたら、それ以上伸びないように側枝の先を摘心します。
・収穫時期
 開花後1ヶ月くらいで莢が膨らみ、真横より下に垂れ下がってきたら収穫です。



コメント
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