らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

七夕の節句の謂れ

2021-07-07 | 伝統行事

今日は「七夕(しちせき)の節句」です。
七夕は、7月7日の夜に星を祭る行事で、江戸時代に制定された五節句のひとつでもあります。
当時、公的行事や祝日として誕生した五節句は、1873年(明治6年)に新暦への改暦と共に制度としては廃止されることになりました。
しかし、五節句は、形を変えながら四季折々の行事として現代まで受け継がれています。
「五節句」
五節句とは次の節句を言います。
・1月7日:人日 (じんじつ)の節句
・3月3日:上巳 (じょうし)の節句
・5月5日:端午(たんご)の節句
・7月7日:七夕(しちせき)の節句
・9月9日:重陽(ちょうよう)の節句

「七夕(しちせき)の節句」
「七夕の節句(笹竹の節句)」とは、日本古来の「棚機津女(たなばたつめ)信仰」と中国の「乞巧奠(きっこうでん)」伝説が結びついたものです。
 (「棚機津女信仰」と「乞巧奠伝説」については後記しています)
「七夕の節句」は江戸時代後期には、各地域で盛んに催され、紙や布などで作った様々な飾り物(短冊、吹流し、着物、折鶴、巾着、投網、西瓜、鯛、そろばん、大福帳、筆、硯、太鼓、宝船、人形など)を竹に飾って楽しんでいました。
また、七夕は神に捧げる収穫祭でもあり、小麦や野菜は供え物として欠かせませんでした。



「棚機津女(たなばたつめ)信仰」
棚機(たなばた)とは、古い時代の日本行われていた禊(みそぎ)の行事で、乙女が着物を織って棚にそなえ、水の神様に秋の豊作をお祈りするというものです。
選ばれた乙女は「棚機女(たなばたつめ)」と呼ばれ、川などの清い水辺にある機屋(はたや)にこもって神さまのために心をこめて着物を織ります。
そのときに使われたのが「棚機(たなばた)」という織り機です。
棚機(たなばた)とは棚(横板)の付いた織機で、「棚機津女」は水辺の機屋に一晩こもって織物を織り神に捧げるという神事です。

仏教が伝わると、この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになりました。
現在、七夕と書いて「たなばた」と読んでいるのは、ここから来ていると言われています。

「乞巧奠(きっこうでん)」
「乞巧奠」とは、一年に一度、七月七日の夜に牽牛(けんぎゅう=彦星)と織女(おりめ)が、天の川を渡って会う恋物語が中心となり、この二つの星に供え物をし、女子が裁縫や手芸の上達を祈願したという中国の伝説です。
奈良時代に中国から伝わったこの習慣は日本の宮中に広まり、七夕の夜に女性がお供えをして祈るお祭りへと変遷し、更に、男女の良縁を祈る意味も加わったと言われています。

日本でよく知られている織姫と彦星の話はこの乞巧奠伝説がルーツとなっています。
その一般的なあらすじは、結婚によって全く仕事をしなくなった織姫と彦星に怒った天帝が、天の川によって2人を離れ離れにしたというものです。
そして天帝は、仕事に真面目に励むことを条件に、7月7日に年に1度だけ2人が天の川を渡ることを許したとされています。

現在、新型コロナウィルスが蔓延して、日常の生活様式が一変しましたが、一日も早く通常の生活に戻れるように『七夕の節句』の今日、星に願いをかけてみてはいかがでしょうか。

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墓石に水をかける理由

2020-09-24 | 伝統行事

秋のお彼岸も明日25日で明けます。
今年は前半の4日間が連休だったことから、ご家族揃ってお墓参りをされた方も多かったのではないでしょうか?

お墓参りでは、墓の周囲を掃除し、花や線香、お団子(私の故郷ではお米)などを供え、墓石に水をかけます。
墓石に水をかけるのは、決して水が余ったからではなく、また、墓石をきれいに洗うのが目的でもありません。
では、墓石に水をかけるのはどのような理由があるのでしょうか?
今日はその理由について調べてみました。

「墓石に水をかける理由」
墓石に水をかけるのはあくまで仏教上の理由からなのです。
仏教の教えによれば、死者は生前の行いによって裁判を受け、あの世で行く世界を決められます。
あの世には六つの世界、いわゆる六道があると言われています。
六道とは、天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界のことです。
その内、天道が「極楽浄土」と呼ばれる天国であり、「成仏する」とか「仏になる」とは、この天道へ行くことを意味しています。

しかし、もし成仏できなければ、他の五つの世界のいずれかへ落ちることになるのですが、中でも餓鬼道に落ちると、永遠に飢えと渇きに苦しめられるとされています。
そんな餓鬼が唯一飲むことができるのが、お墓にかけられたお水なのだそうです。

お墓にお水をたっぷりとかける慣習は、「先祖にも、ひょっとすると餓鬼道に落ちている人がいるかもしれない。もし、いるなら、その先祖の苦しみを癒したい。」という想いから始まったものとされています。

勿論、汚れてしまった墓石を水で綺麗にすることが供養の一つと考えられていることもあります。
また、水をかけることは「冷や水を浴びせる」行為として、ご先祖様への侮辱に値すると考え、濡らしたタオルなどで墓石を拭いて浄めるという習慣がある地域もあります。

お墓へ水をかけるのも、かけないのも地域の慣習に従うべきでしょうが、かける場合の本当の意味は、前述した仏教上の理由からとされているようです。

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夏越の 祓

2020-06-30 | 伝統行事

令和2年も今日で前半の6カ月が終わります。
昨年12月に中国・武漢で発生した新型コロナウイルスは、この6か月で世界中に感染が広がり、昨日の報道では世界の感染者数は1000万人を超え、死者も50万人を超えて更に感染者、死者共に増加しています。

日本でも緊急事態宣言の解除から1か月が経過しましたが、依然として東京や北海道では発令前を上回るような多数の感染者が確認されています。
決定的な治療薬がなく、ワクチンも開発中という現状で、経済を優先をせざるを得ない各国の事情から終息の見通しは全く立っていません。
三密を避けると共に非科学的ながら神様にもお頼みせざるを得ないでしょう。
幸い、今日は日本における伝統行事の「夏越の祓(なごしのはらえ)」の日です。

そこで今日は「夏越の祓」とはどのような行事なのかを調べました。

「夏越の祓」

「夏越の祓」とは、一年を半分にした6月の晦日、旧暦6月30日に執り行われていた神事で、心身の穢れや、災厄の原因となる罪や過ちを祓い清める儀式です。

「由来」
夏越の祓は、年に二つある神事「大祓(おおはらえ)」のうちのひとつです。
大祓とは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)を起源とする神事であり、701年には宮中の年中行事として定められていたようです。

心身の穢れや厄災を祓い清める儀式であった大祓は、毎年12月31日と、それまでの一年を半分にした6月30日に執り行われていたのです。
このうち、6月30日までの半年間の厄災を祓い清める儀式が「夏越の祓」です。

由来は、『備後風土記(広島県福山市)』に記されている素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)の蘇民将来伝説です。
その伝説で、武塔伸の指示により茅の輪を腰につけたところ災厄から免れ、武塔神は自らを速須佐雄と名乗り去っていったと書かれていることに由来しています。

・「茅の輪くぐり」(ネットより)


「夏越の祓の行事」
「夏越の祓」の行事としてよく知られているものに「茅の輪くぐり」と「人形代(ひとかたしろ)」の行事があります。

・茅の輪くぐり
茅の輪くぐりとは、参道の鳥居などの結界内に、茅という草で編んだ直径数メートルの輪を作り、これをくぐることで厄災を祓い清めるというものです。

茅の輪くぐりは、日本神話のスサノオノミコトに由来するといわれ「水無月の夏越の祓するひとは、千歳の命延ぶというなり」と唱えながら、8の字に3度くぐり抜けるのが作法とされています。

・人形代(ひとかたしろ)
人形(ひとかた)とは、人の形をした紙の形代(かたしろ)です。
この人形に名前などを書き、自身の調子の悪い箇所を撫でて穢れや厄災を人形に移し、身代わりとして神社に奉納して厄払いする行事です。

奉納された人形代は、川に流す、かがり火で燃やすなどで厄払いされ、地域によっては藁の人形を使う場合、人が直接、川や海で清めるなども行われているようです。

「神頼み」
武塔神(素戔嗚尊)様、今日は「夏越の祓」です。
どうかコロナウイルスをお祓いください。
そして、日本や世界のコロナ汚染を祓い清めてくださいますようよろしくお願い申し上げます。

 

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ハロウィンの由来

2019-11-03 | 伝統行事

10月31日はハロウィンでした。
毎年、渋谷のスクランブル交差点の映像がニュースで流れますが、今年の渋谷は仮装をした若者を中心に大勢の人でごった返したものの、飲酒して暴れる者はおらず、昨年より穏やかだったようです。
他の町や地域でもトラブルのニュースはなく、今年のハロウィンが平穏に終わって何よりでした。

さて、このハロウィンの行事は、今では日本でもすっかり定着してきましたが、そもそも、ハロウィンはどのような行事で、なぜ10月31日なのでしょうか?
今日はその由来を調べました。

「ハロウィンの起源」
ハロウィンの起源は、古代ケルト人が行っていた宗教的な行事である「万聖節」だと言われています。
万聖節とは、キリスト教で、諸聖人を記念するため11月1日に行う祝日で、ハロウィンはその前夜に行われるお祭りです。
紀元前5世紀頃のアイルランド地域に住んでいたケルト人にとっては、11月1日が新年であり、その前日の10月31日は一年の終わる日(大晦日)でした。
そして、新年の前の10月31日の夜には、この世とあの世を隔てる扉が開け放たれ、死者がやってくると信じられていました。
その時、死者に混じって魔物や魔女もこの世にやってきて、生きている人間から魂を奪うと信じられていたのです。
そのため、人間だと気付かれないように人々は仮装をするようになったと言われています。

ハロウィンの語源は、「諸聖人の祝日の前夜」を意味する「All Hallow's Even」が短縮された「Halloween」で、「Hallowe'en」とも表記され、そこから、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭りが行われるようになり、それが、キリスト教に取り入れられて、現在のハロウィンの行事になったようです。

・「ジャック・オー・ランタン(カボチャのお化け)」です(ネットより)

「ジャック・オー・ランタン(カボチャのお化け)」
ハロウィンに飾られるカボチャのお化けの名前が「ジャック・オー・ランタン」です。

直訳すると、ランタン(吊り下げ式のランプ)を持っているジャック、という意味になり、このジャック・オー・ランタンには次のような逸話があります。

「逸話」
その昔、ジャックという堕落した人生を送っていた男が、ハロウィンの夜に悪魔に魂を取られそうになった時、悪魔を嘘で騙して自分の魂を取らないようにと約束をさせました。
それから時が流れ、ジャックは年老いて亡くなったのですが、生前悪いことばかりをしてきたジャックは天国に行くことができず、地獄へと向かいます。
しかし、地獄の門の前には昔騙したあの悪魔が立っており、「お前の魂を奪わないと約束したではないか」と、追い返されてしまうのです。

天国にも地獄にも行けないジャックが困り果てていると、悪魔は「元にいた場所に戻ればいい」と言い、暗い道中に灯りになる地獄の火種を分けてくれました。
ジャックは近くにあったカブをくり抜いて、その中に悪魔から貰った火種を置いてランタンにし、永遠にあの世とこの世を彷徨い歩くようになったと言われています。

「Trick or Treat(お菓子をくれないとイタズラするぞ!)」
死者の霊の中には悪霊も混じっており、その悪霊に立ち去ってもらうために「おもてなし」の風習がありました。
その悪霊の疑似体験をするために、子供たちはお化けの仮装をして各々の家庭を訪問したのです。
悪霊の子供たちは、おもてなしのお菓子をもらって、悪霊に帰ってもらうという「悪霊を追い払う儀式」を疑似体験し、それが定着したのだそうです。

子供たちが「Trick or Treat(お菓子をくれないとイタズラするぞ!)」と可愛く言うこの言葉には、元は、「おもてなしをしないと取り憑くぞ〜」という恐ろしい意味があったのですが、これが次第に「Happy Halloween(ハロウィンを楽しんで!)」と言って、子供たちにお菓子を渡す楽しくてうれしい行事になってきました。

しかし、アメリカでは今年もハロウィンで死者が出たそうです。
日本ではあまり過激な行事にならないように、節度を持って楽しんでもらいたいものです。


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亥の子と十日夜

2017-12-01 | 伝統行事

家庭菜園をしていると、農業に関する言葉をよく耳にします。
その一つをご紹介すると、「亥の子(いのこ)」と「十日夜(とおかんや)」と言う言葉があります。

広辞苑で調べると、
・「亥の子」とは、①陰暦10月上の亥の日。江戸時代にはこの日から火燵(こたつ)を開いた。
            ②西日本で陰暦10月亥の日に行われる行事。収穫祭の一つ。
            田の神が去っていく日と信じられ、子供が石に縄を何本もつけ、土を打って唱えごとをして回る。亥の子突き。
・「十日夜」とは、10月10日の夜。東日本で、この日、刈り入れが終わって田の神が山へ帰るとして祭る。西日本の亥の子と共に重要な農村行事。
と説明しています。

辞書が示すように、旧暦10月最初の亥の日(今年は11月20日)が、暦の雑節「亥の子」です。
収穫祭的要素が強く、主に西日本で行われている行事です。
お餅をついてお供えし、田の神様と同様に亥の子神を山にお返しする行事です。
本来は、旧暦の十月最初の亥の日に行われていた行事で、茶人の間では、この日を「炉開(ろびらき)」として夏の間の風炉(ふろ)を撤し、炉を開くようです。

一方、西日本の「亥の子」に対して東日本では旧暦10月10日の「十日夜(今年は11月27日)」があります。
「十日夜」は、4月10日に山から下りてこられた田の神様が、この日、山に帰るのを感謝する行事です。
秋の名月「十五夜」と「十三夜」と共に冬の月待ちをおこなう晩としても知られています。
この行事も収穫祭的な意味合いが強く、長野県の一部では案山子揚(かかしあげ)と言って、収穫を終えた田から案山子を引き揚げ、庭先に飾る風習があります。

「亥の子」も「十日夜」も、これから来る厳しい冬を前にささやかな楽しみを味わう、昔人の慎ましい生き方を感じさせる暦の雑節です。

 

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花祭り

2017-04-10 | 伝統行事

一昨日の4月8日は「花祭り」でした。
「花祭り」と言ってもお花見のことではありません。

花祭りとは、正式には灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)と言い、お釈迦様の生誕を祝福する仏教行事で、その俗称として花祭りと言う言葉も使われています。
お釈迦様は今から2,500年ほど前の4月8日に北インド ルンビニーの花園で生まれたと言われており、その後、悟りを開かれ、その教えが仏教として世界に広まっていきました。
灌仏会はその釈尊の生誕を祝して行う法会です。

花祭りでは花で飾った小堂(花御堂)を作り、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶を釈尊像の頭上に注ぎ、また、持ち帰って飲みます。
日本での起源は、606年推古天皇の頃に、元興寺で行われたのが最初で、その後、寺院・宮廷・民間の行事として広まったようです。



お釈迦様は生まれた時、右手は天を指し、左手は地を指し、7歩進んで四方を顧みて「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と唱えられたと言われています。
誕生仏とか誕生釈迦仏と呼ばれている仏像は、この姿をあらわしたものだそうです。

なお、「天上天下 唯我独尊」とは、広辞苑によると、宇宙間に自分より尊いものはない、と説明していますが、お釈迦さまはそのような意味で言ったのではなく、「天の上にも天の下にも 唯 我々人間だけになしうるたった一つの尊い使命がある」と言う意味だと宗教関係者は説明しています。

また、誕生仏に甘茶を注ぐことについては、生まれたばかりのお釈迦様の体に、9頭の龍が天から清浄の水を吐き注いで産湯をつかわせたとか、竜王がお釈迦様の誕生を祝って甘露の雨を降らせたという伝説にちなんだものと言われています。

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鏡開き

2017-01-11 | 伝統行事

今日は正月行事の一つ「鏡開き」です。
そこで「鏡開き」の由来について調べました。

「鏡開きの由来」
昔の武家では、男は鎧などの具足に供えた「具足餅」を、女は鏡台に供えた餅を下ろし、1月20日に砕いて雑煮で食べたのが鏡開きの始まりと言われています。
「鏡開き」は、江戸初期以前は「二十日(はつか)」が「刃柄(はつか)」に通じることから1月20日に行われていましたが、1651年1月20日に、3代将軍家光が亡くなったことから幕府は20日を忌日として避け、商家の行事である「蔵開き」が行われていた11日に変更しました。
それが現在に至っているということです。

「鏡開き」
「鏡開き」とは、正月に年神様に供えた鏡餅を下ろし、雑煮や汁粉に入れて食べ、一家の円満や開運、発展を願う正月行事です。
鏡餅の円く平たい形は神が宿ると考えられた銅鏡に見立てたとされ、餅は長く伸びて切れない事から長寿を願う意味も含まれているそうです。
また、この餅は望月(もちづき:満月)に通じ、その丸い形が家庭円満を象徴すると考えられており縁起物とされていたようです。
そして、「鏡開き」の「開く」と言う言葉は、歳神様が宿っている餅なので、神様と縁を切らないように「割る」や「砕く」とは言わず、「開く」という縁起のよい表現を使い、その意味は、「鏡」は円満を、「開く」は「割り」の忌み詞(ことば)で末広がりを意味するともいわれています。

「包丁を使用しない」
「鏡開き」の餅は包丁を使用せず、手や木槌で割って細かくします。
間違っても包丁で切ったりしないようにしましょう。
刃物を鏡餅に使うことは切腹を連想させたり、歳神様を切りつけるということになって縁起が悪いと言われています。
必ず、切る以外の方法でとりわけるようにしましょうね。

今日は鏡開きです。
鏡餅は鏡開きの日に、宿っていた歳神様に感謝しながら、味わって食べましょう!

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枚岡神社のお笑い神事

2016-12-27 | 伝統行事

先日、関西地方の地域ニュースで知ったのですが、東大阪市の枚岡神社では「お笑い神事」と言うちょっと変わった神事があるようです。
一般に神事とは、神に関するまつりごと、儀式のことで、神前での祈りや神に伺いを立てることなどであり、神と結びついたものが多いのですが、枚岡神社では新しい年を迎えるにあたって、新しい注連縄を架けかえる「しめかけ神事」と共に、宮司の音頭に続いて参拝者全員が20分間笑い続ける「お笑い神事」が行われます。

この神事の由来は、神々が天照大神を誘い出すために大声で笑い続けたという神話に由来しているということです。
笑うことで雑念を笑い飛ばして新年の福を願う行事として行われている他に、その健康に与える効果として、細胞が甦る。免疫力が高まる。病気や癌になりにくい。認知症になりにくい、などの効果が指摘されていることから、年々参加者が増えているそうです。

当日は総代たちの手で注連縄が掛けかえられた後、宮司の「アッハッハッ」の音頭に続いて一同が「アッハッハッ」と、これを3度繰り返した後、全員で20分間自由に笑い続けます。

実際の神事の様子は下記の動画をご参照ください。


(参考)
なお、神事の由来となっている「天岩戸神話」については下記に略記しておきます。
「天岩戸神話」
天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神(おとみこ)、素戔嗚(すさのお)の尊(みこと)の再三にわたる悪業に怒った天照大神は、ついに天の岩戸を閉して隠れてしまった。
そのために、国中は常闇となり昼夜の境目もなくなってしまった。
そこで八十万神(やそよろずのかみ)たちが、天安河辺(あめのやすのかわら)に集まって、大御神のご機嫌をとりもつ相談をする。

まず、女神アメノウズメがしずしずとあらわれ、岩屋の前に置かれた伏せた桶の上で、ニワトリの声に合わせて踊りはじめました。
トントト・・・トントト・・・トトトン・・・! 手拍子、足拍子おもしろく、足をふみならしながら、腰をフリフリゆらゆら、何かにとりつかれたように踊ったものだから、着物はずれるわ、お乳は見えるわ、へそも見えるわで、見ていた神さまたちは大笑い。
「ワーッハッハッハ! アメノウズメの姿はどうじゃ!へそが見えるぞ! おっぱいも見えるぞ!ワーッハッハ!」
「私が隠れてしまってまっ暗になったはず。みんな心細いはず。なのにあの騒ぎは何じゃ」
外の騒ぎを不思議に思ったアマテラスは、岩屋の戸を少しだけ開いて、外の様子を窺いました。
すかさず、アメノウズメがアマテラスに「あなたさまよりも、もっと立派な神さまがここにおられます」と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラスの前にさっと鏡を差し出しました。
そこには、キラキラと光り輝く美しい神さまが映っていたものだから、アマテラスはいよいよ不思議に思い、その神さまをもっとよく見ようと身をのりだして鏡をのぞきこんだその時です。
「さあ! 今だ!」
岩屋の戸のわきに隠れていたタヂカラオがアマテラスの手を引っ張り、岩屋から連れ出しました。
あっという間に、高天原(たかまがはら)にはふたたび日の光があふれ、山も川もふたたび輝き始めました。
めでたし、めでたし。
ところでスサノオは、たくさんの神さまたちにこっぴどくこらしめられて、高天原を逃げるように去って行きました。

 

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「七五三」11月15日の由来

2016-11-15 | 伝統行事

今日は七五三です。
七五三のはお子様の成長を祝う行事ですが、何故11月15日になったのでしょうか?
そこで今日は七五三について調べることにしました。

「七五三の由来」
「七五三」はご存知のように7歳、5歳、3歳の子供の成長を願う行事で、その起源は室町時代といわれています。
現在では医療技術の向上で乳幼児の生存率が高くなっていますが、当時は3歳まで子供が生き延びるということはとても大変だったようです。
いわんや、5歳、7歳までとなると尚更のことでした。そこで、7歳までは子供は神様からの預かりものという認識を抱いていたようです。
このようなことから、7歳まで成長できた子供はお祝いをした後、氏神さまにお参りして氏子札をもらい、初めて人格として認められて地域社会の仲間入りを果たすことができたようです。
「七五三」を祝うという文化は、この神様から子供を預かっている7年間を、「よくぞここまで生きて成長してくれた」という喜びを持ってお祝いするようになったのが始まりといわれています。

「11月15日の由来」

では、何故11月15日に行われるのでしょうか?
調べてみると二つの説がありました。
①11月15日に祝うこととなったのは、この日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)にあたり、婚礼以外は何事の祝い事にも吉とされていたからだそうです。
  また、旧暦の11月は、秋の実りを神に感謝する月でしたので、その満月にあたる15日に、氏神に収穫の感謝とともに子供の成長を感謝したことからとする説。
②もうひとつは、江戸時代、「お犬様」で有名な徳川5代将軍綱吉の息子・徳松君の「袴着のお祝い」をこの日に行ったことから、徐々にこの日に定着したという説です。

「年齢ごとの祝いの由来」
・3歳は男女共に「髪置(かみおき)」のお祝いの名残です。 昔は3歳までは男女ともに髪の毛を伸ばさないで剃り続けたそうです。
 その理由は、頭髪から病気が入ると考えられていたので、子供が病気にならないようにとのことからです。 そして、3歳まで元気に成長したら、そこから髪の毛を伸ばす
 区切りとしていました。
・5歳は「袴着(はかまぎ)の祝」といって、5歳の男の子が初めて袴を着るお祝いのことであり、その名残といわれています。
・7歳は「帯解(おびとき)のお祝」といって、女の子がそれまでの紐で着ていた着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯を締めるという大人の装いをする行事の名残りといわ
 れています。
なお、年齢の数え方は、昔は「数え年」でお祝をしていましたが、現在では数え年、満年齢と、両方のお祝いがあるようです。

「千歳飴の由来」
千歳飴は、親が自らの子供に「7歳までよく育ってくれた。これからも長生きして欲しい」という願いを、細く長く伸ばした「1000歳(千歳)」という名前が入った飴に託したもので、江戸時代に浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされています。

今日は各地の神社では着飾ったお子様や喜びいっぱいの御両親たちで賑わうことでしょうね。

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四国遍路 「逆打ち」

2016-06-10 | 伝統行事

四国八十八か所巡礼の旅をしたことがありますか?
先月22日に高野街道を歩いた同僚の中には、四国の八十八か所巡りを何回もした人がいました。
定年を機に、自分を見つめ直したい人やこれからの生き方を考えたい人、心を癒したい人など、色々な目的で八十八か所巡りをしているようです。

お遍路では札所を巡る順番に決まりはありません。
1番札所(徳島県鳴門市の霊山寺)から四国を時計まわりに巡ることを「順打ち」、反時計まわりに巡ることを「逆打ち」といいます。
一般的には「順打ち」が基本とされていますが、「逆打ち」の方が功徳が大きいとされています。
何故なのでしょうか?
そこで調べてみました。

「逆打ちの由来」
四国八十八カ所の札所を1番から巡ることを「順打ち」、88番から巡ることを「逆打ち」といい、「閏年」に逆打ちすると「逆打ち」1回で「順打ち」4回の御利益・功徳があるとされています。
「逆打ち」の始まりは伊予の国の衛門三郎が弘法大師に会いたい一心で霊場を廻ったのが始まりとされています。


「逆打ちと衛門三郎」
四国を巡礼中の弘法大師がある日、愛媛県松山市郊外の大きな屋敷に托鉢に訪れ、そこの主人で強欲の衛門三郎は何度も訪れる乞食僧(大師)を追い払い、最後には、大師が持っていた鉄鉢を8つに割ってしまいました。
その後、乞食僧は来なくなったのですが、三郎の子供8人が次々と亡くなったのです。

三郎は托鉢に訪れた人が弘法大師と気づき、自分の今までの行動を悔い、大師を求めて遍路の旅に出ました。
しかし、簡単には会えず、二十数回「順打ち」でまわっても会えなかったため、逆に廻り始めました。
しかし、心身ともに疲れ果て十二番の焼山寺で倒れてしまいました。
意識が遠のいていくときに、大師が現れ、罪を許してもらったのです。
そして、最後の望みとして、「今度生まれ変わるときは、領主になりたい。」と願いました。
そこで、大師は衛門三郎と書いた石を衛門三郎に授け、それを握ったまま衛門三郎亡くなったのだそうです。

その後、伊予の領主に男の子が生まれました。
ところがその子の手は、しっかりと握られたまま開きません。
困り果て、安養寺(現在の石手寺)に連れて行き、祈念してもらったところ、その子の手が開き、そこから衛門三郎と書いた石が出てきました。
人々は衛門三郎が生まれ変わったと思ったということです。
この逸話から、衛門三郎が「逆打ち」で廻って弘法大師に会えた年が閏年だったので、閏年に「逆打ち」すると弘法大師に会えるという伝説が今に残っているそうです。

「逆打ちの方が功徳が大きいとされている理由」
1.弘法大師が順打ちで四国を巡っていることから、逆打ちのほうが大師に出会いやすいと言われていること。
2.遍路道が順打ちを基本として作られている為、逆打ちのほうが巡礼することが難しいとされている為です。
  実際に遍路道では案内板や道しるべが順打ちを基本に設置されている為、逆打ちは初心者の方には巡りにくいそうです。
なお、「打つ」の語源は、以前、お寺を参拝した際に巡礼者が柱や壁に木製・銅製の納札を打ち付けていたことに由来しています。

今年は閏年です。
今年お遍路するなら「逆打ち」の方がご利益・功徳がありそうですね。

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