らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

心頭滅却すれば火もまた涼し

2014-07-21 | 雑学

「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言う言葉をお聞きになったことがあると思います。
この言葉は中国の詩の中にある一部分ですが、今日はこの言葉について調べました。

この言葉は、杜荀鶴(とじゅんかく)の詩『夏日悟空上人の院に題す』の一部ですが、数週間前のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の中に、その言葉を発したシーンがありましたね。

1582年、恵林寺(えりんじ)の住僧・快川紹喜(かいせんじょうき)は、信長に敵対した六角義弼(ろっかくよしはる)らを恵林寺(甲府市塩山)にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから、その後に焼討ちにあって一山の諸僧と共に火中に没しました。

このとき快川紹喜は『安禅(あんぜん)必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し』の偈(げ)を発して焼死しました。
この言葉の意味は、「安らかに座禅をくむには、必ずしも山水を必要とするわけではない。心の中から雑念を取りされば火さえも涼しく感じるものだ」というものです。
この言葉は禅家の公案、即ち、禅宗で修行者が悟りを開くため、研究課題として与えられる問題とされているそうです。

さて、昨日の大河ドラマでは、信長が明智光秀によって本能寺で討たれた事を知った官兵衛は急遽、智略をもって毛利との和睦を結び、中国大返しを実現させて、いよいよ光秀討伐から天下取りを掴む展開へと入って行きます。

信長によって寺を焼き打ちされた快川紹喜は『心頭滅却すれば火も亦た涼し』の偈(げ)を発して焼死したのに対し、光秀によって燃え盛る本能寺で自刃した信長は、幸若舞(こうわかまい)の演目の一つ「敦盛」の『人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか』と舞って49年の生涯を閉じました。

これまでに数々の寺院を焼き打ちしてきた信長ですが、その信長自信が、燃え盛る本能寺の火の中で生涯を閉じると言う皮肉な結末が待っていようとは、正に因果応報、歴史は実に面白いものです。


二千円札

2014-07-20 | 時事

読者のみなさんは二千円札をご存知ですよね。
二千円札は沖縄サミットと西暦2000年をきっかけとして、1999年(平成11年)に当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案で、2000年(平成12年)7月19日に森内閣のもとで発行された紙幣です。

二千円札は、「1」と「5」以外の単位の通貨としては戦後初めてであることや、公表された表面のデザインが人物でないこと、更にそれまでになかった最新の偽造防止技術が多数採用されていることなどにより、発行前から注目を浴びていました。

発行後には、新券の珍しさもあって銀行の窓口に両替依頼が殺到したものの、一時的な流行を過ぎると、流通・使用は低調になり、2000年(平成12年)秋以降には、異例ながら日本銀行本支店の窓口で二千円紙幣への両替を受け付けたり(翌年12月まで)、大蔵省(現・財務省)や日本銀行の職員に現金で給与を支給する際には二千円紙幣を含めるなど、二千円紙幣の流通量を増やすための努力も始められましたが、それでも浸透するに至りませんでした。
そして、現在は流通枚数も全紙幣の1%以下に落ち込んでいるそうです。

・二千円紙幣です。(ネットより)


では、二千円札は何故流通しないのでしょうか?そして、何処へ行ったのでしょうか?

「はやらない理由は」
1.ヨーロッパでは「二十進法」を採用している関係でしょうか、20米ドル札、20ユーロ札、20英ポンド札が最もよく流通しているそうですが、日本は「十進法」である
  ため、「2」のつく紙幣はなじみにくいのではないか。
2.現金自動預払機(ATM)や自動販売機などでほぼ使えないという使い勝手の悪さ。
3.ATMでを改造すると利便性が悪くなったり、コストが余計かかったりするという使用者側の事情があること。
4.以上のようなことから、メーカーは「ニーズがないからつくらない」となり、インフラの不対応が消費者の足を遠のかせ、さらに需要を押し下げるジレンマに陥って
  いるということ、のようです。

「消えた理由」
1.世の中の需要がないから日銀が二千円の新規発行をしない。
2.二千円の流通枚数はピーク時の2004年8月末には、実は約5億1000万枚と五千円札をしのぐ規模だったそうですが、それが2013年10月末時点で1億枚を
  割り込み、大量の在庫が日銀の金庫で眠っているそうです。

そう言えば私も二千円札は殆ど使用したことがありません。
記念紙幣の感覚で1~2枚タンスに眠っていると思います。


十六ササゲ

2014-07-19 | 家庭菜園

今春、菜園仲間 K氏から十六ササゲの種を頂きました。
このササゲの名前は知っていましたが栽培するのは初めてです。
そこで今日はジュウロクササゲをご紹介します。

ジュウロクササゲ(十六大角豆)はマメ科、ササゲ属の一年草で、ササゲの一亜種(変種)だそうです。
ササゲはつる性の種類とつるなしの種類とがありますが、十六ささげは、つる性の種類で、地域によっては「長ささげ」「三尺ささげ」「ふろう豆」とも呼ばれているようです。

・ジュウロクササゲの支柱です。


原産地はアフリカ北部と言われており、日本には平安時代には既に渡来していたそうです。
インゲン豆に似ていますが蔓性で茎の長さは2~3mになり、莢の長さは30㎝から長いものでは80センチくらいになります。



十六ささげの名前は、莢(さや)に16個の豆が入っていることからと言われています。
高温に強い豆で、莢の長さは一日で10センチ以上伸びることもあるようです。

・右側にぶら下がっているのは40㎝ほどになったジュウロクササゲです。


十六ササゲはインゲンと同じように、莢がまだ柔らかい状態で収穫して莢ごと食べます。
食べ方はたくさんありますが、この時期の食べ方の一つは、お浸しにしてビールのつまみにします。
作り方は、
1.塩を入れた湯で長いまま茹でます。
2.冷めるのを待って4㎝ほどの長さに切ります。
3.ゴマと麺つゆをかけて出来上がりです。

・畑で収穫した長さ約45㎝の十六ササゲ(大角豆)です。左は13㎝ほどのインゲンマメです。



後の祭り

2014-07-18 | 伝統行事

昨日17日は京都祇園祭の山鉾巡行が繰り広げられました。
祇園祭は八坂神社の祭礼で、大阪の天神祭・東京の神田祭とともに、日本三大祭のひとつに挙げられており、その歴史の長いこと、またその豪華さ、祭事が1ヶ月にわたる大規模なものであることで広く知られています。
およそ1100年前、神泉苑に日本全国の国の数の鉾66本を立て、祇園の神を祀り災厄の除去を祈る祇園御霊会を行ったのが始まりと伝えられています。

・祇園祭の山鉾巡行です。(ネットより)


一昨日、山本<ワイワイファーム>さんから、「後の祭り」と言う言葉は祇園祭と関係があるのかどうか、知っていたら教えて欲しいというコメントを頂きました。
そこで今日は「後の祭り」の語源について調べることにしました。

まず、後の祭りとは、時期を逸して後悔の念を表す言葉で、手遅れの意味で使われます。
その語源については諸説あるようです。
1.京都八坂神社の祇園祭説
  京都八坂神社の祇園祭は7月1日から約1ヶ月間行われますが、その内、山鉾と呼ばれる豪華な山車がたくさん繰り出される7月17日の山鉾巡行を
  「前祭り(さきまつり)」 と 言い、7月24日の神様たちが神輿や山車に乗ってひっそりと厳かに帰ってくる神事を「後祭り(あとまつり)」と言います。
  後祭りは山鉾も出ず、賑やかさがなく、見物に行っても意味がないことから手遅れの意味になったとする説です。
2.似た説では、祭りが終わった後の山車は役に立たないことから「後の祭り」と言うようになったとする説。
3.祭りの終わった翌日では見物に行っても意味がないことから「後の祭り」と言うようになったとする説。
4.葬式や法事など、故人の霊を祭ることで「亡くなった後に盛大な儀式をしても仕方ないことから後悔の念や手遅れの意味で使われるようになったとする説。

などがありますが、一般的には(1)の京都八坂神社の祇園祭説が有力のようです。
但し、今年は49年振りに24日の後祭りが復活し、当日は更に、150年振りに復活する大船鉾を始め山鉾10基が巡行するそうです。
今年は後祭りも豪華な山鉾巡行が見られるそうです。

そうすると、「後祭り」は、『山鉾も出ず、賑やかさがなく、見物に行っても意味がないことから手遅れの意味になった』とする祇園祭説はどうなるのでしょうね。


フーテン

2014-07-17 | 趣味

「男はつらいよ」という映画がありました。
ご存知、渥美清さん主演で、1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、そして1997年(平成9年)に特別編1本が製作された映画です。

わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します』という寅さんの仁義は皆さんよくご存知だと思いますが、今日は寅さんの肩書となっているフーテンについて調べました。

・フーテンの寅さんです。(ネットより)


フーテンとは、寅さんから想像して、「風」に吹かれて転々とする「風転」と思われている方はおられませんか?
フーテンを広辞苑で調べてみました。
フウテンとは、①精神状態が正常ではないこと。また、そう言う人。
         ②定まった仕事を持たず、ぶらぶらしている人。
と説明しており、漢字では「瘋癲」と書き、二文字とも病垂(やまいだれ)が使われているところから、元々の意味は①なのかもしれません。

フーテンは、1967年の夏、新宿東口に集まる長髪に妙なデザインのラッパズボン、サングラスといった格好をし、定職にも就かず、ブラブラしている無気力な若者集団をフーテン族と呼ぶようになり、アメリカのヒッピーに近いイメージで使われたそうです。

1968年(昭和43年)にはフジテレビのドラマ「男はつらいよ」で「フーテンの寅さん」が登場し、翌1969年(昭和44年)8月には松竹によって映画「男はつらいよ」の第1作が上映されました。

映画やドラマでは、寅さんはフーテンの肩書が付けられていますが、フーテンの寅さんこと、車寅次郎には的屋という定職があり、さらに正月・盆の稼ぎ時をむかえ、的屋業に戻るため、旅立つシーンで毎回映画は終わっていることから、寅さんはフーテンと呼ばれるような無職でもなければ、ぶらぶらしてばかりの無気力な人でもありません。

なのに、寅さんの肩書フーテンは広辞苑の②に近いことからフーテンと自称しているのではないでしょうか?
本当のことは原作・脚本を担当した 山田洋次監督に聞く以外確かめようがありませんが・・・。


DVD送り付け商法

2014-07-16 | 消費者問題

またまた新しい手口の悪質商法です。
昨日のニュースによれば、アダルトDVDの送りつけによる被害が増えているそうです。

ニュースによると、注文していないアダルトDVDが突然、自宅に送られてきたうえ、代金を請求されたというトラブルの相談がことし5月以降、増えているとして、国民生活センターが注意を呼びかけているそうです。

一方、全国の消費生活センターにも、ことし5月以降、注文していないアダルトDVDが突然、自宅に送られてきたうえ、代金を請求されたという相談が寄せられるようになり、その件数は合わせて20件程度に上っているということです。
相談者は30代から60代の男性で、すべてのケースでおよそ60万円の代金を請求されていたということです。

こうしたトラブルについて、国民生活センターは、注文していないのであれば代金を支払う必要はなく、個人情報を知られるおそれがあるので、業者に対してみずから連絡を取らないよう注意を呼びかけているということです。

国民生活センターでは、「かつては健康食品をお年寄りに送りつける手法が目立ったが、最近はアダルトDVDの送りつけが増えている。身に覚えのない商品が届いたら、消費生活センターに 相談してほしい」と話しているそうです。

また読売新聞の記事では、
埼玉県の50歳代男性宅に5月、「VIP会員の契約を賜り、お礼申し上げます」などと書かれた書面とともにDVDが5枚届いた。
ラベルは無地で、再生するとモザイク処理されていないアダルトDVDだった。後日、約60万円の請求書が送られてきたということです。
国民生活センターによれば、一方的に送りつけられた物を受け取っただけでは契約は成立せず、開封しても支払い義務はない。
また、こうした事情で違法DVDを所持しても罪に問われることはないということです。

読者の皆さんのご家庭に、もし、このような身に覚えのない品物が送られてきても絶対に送り主に連絡しないでください。
送り付け商法で個人情報が知られると、脅迫まがいの電話や文書がひっきりなしにかかったり届いたりします。
落ち着いてお住まいの消費生活センターか国民生活センター、あるいは警察にご相談ください。

お知り合いの方にも、十分注意するよう教えてあげてください。


小人閑居して不善を為す

2014-07-15 | 時事

「小人閑居して不善を為す」と言う諺があります。
意味は、小人物が暇を持て余すと、とかく悪事に走りやすいと言うことですが、その恰好の事例が兵庫県の県議会議員にありました。
既に、マスコミ報道でご存知のことですが、今や日本の、いや世界の笑い者になったこの騒ぎを、この諺と絡めてご紹介します。

「小人閑居して不善を為す」の「小人」とは、「君子」に対する語であり、教養や人徳のない人のこと。
「閑居」とは、暇を持て余し何もせず日々を過ごすことです。

出典は四書の一つ、『大学』にある有名な言葉の一部です。
原文は、「故君子必慎其独也、小人閑居為不善」、読みは「故に君子は必ずその独りを慎むなり、小人間居(かんきょ)して不善を為す」です。
語訳は「そのため、君子は必ず自分ひとりしか知らないこと(他人に見られていない言動)を慎むのである。 徳のない小人は暇を持て余して家にこもると、人目を憚らないので不善を行ってしまう。」となります。
なお、四書とは、儒教の基本思想を示した経典で、「論語」「孟子」「大学」「中庸」を言い、この内「大学」は儒者の自己修養と政治思想を説いたものだそうです。

さて、兵庫県議会議員の不祥事について、報道によれば、兵庫県西宮市の野々村竜太郎議員(47)は、去年4月からの1年間に陳情などの名目で、東京都や兵庫県の城崎温泉などを日帰りで195回訪問し、政務活動費から約300万円を支出したとして、使用用途が不明瞭であるとして問題となりました。

野々村議員は記者会見で「領収書を取得できない場合という認識で、支払証明書をもって支出できるという認識で報告した」と言っていますが、 しかし具体的な訪問先は明かさず、電車の経路や金額については「無頓着なので覚えていない」と繰り返しました。
会見中には号泣しながら「世の中を変えたいその一心で、やっと議員になったんです」と醜態をさらけ出しながら芝居じみた答弁を繰り返していました。
結局、説明責任を果たさないまま、7月11日に辞表を提出し、受理された事から議員辞職となりました。

野々村議員は西宮市の多くの市民から信託を得て議員となった人です。
その彼が議員の目的を達することなく、諺の「小人」がするような、人目を憚らないで、自分の懐を肥やすことのみに奔走する不善を為し、自ら辞職の道を選ばざるを得なくなったことは余りにも浅はかであり、正に、「小人閑居して不善を為す」を地で行っているようなものです。

世界の笑い者になった「野々村議員号泣会見」はこちらからご覧ください。


風が吹けば桶屋が儲かる

2014-07-14 | 雑学

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があります。
なぜ、風が吹いて桶屋が儲かるのでしょか?
ご存知の方が多いと思いますが、ご紹介します。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺の意味は、ある事象の発生は、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えです。
また、当てにならないことを期待する例えとしても使われています。

この諺の注釈は、
1.大風が吹くと土埃が舞い上がります。
2.土埃が目に入ると目を病んで盲人が増えます。
3.目の不自由な人たちの多くは三味線を弾いて生活するので、三味線に使う猫の皮がたくさん必要になり、猫が殺されて少なくなります。
4.猫が減ればネズミが増えます。
5.ネズミは桶をかじるので桶の需要が増え、桶屋が儲かります。

なお、この諺の由来は、江戸時代の浮世草子『世間学者気質(かたぎ)』巻三(明和五年、1768年)のようです。
但し、ここでは「桶」の代わりに「箱」となっており、「風が吹けば箱屋が儲かる」の成句では書かれていません。

ウィキペディアによると『世間学者気質(かたぎ)』については、次のように書かれています。
 『今日の大風で土ほこりが立ちて、人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。 そこで三味線がよふうれる。
  そうすると猫の皮がたんといるによって、世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。
  爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず。』

これが桶屋が儲かる因果関係を言った、この諺の出典と言われているものです。


大相撲の東と西

2014-07-13 | 雑学

今日7月13日から大相撲7月名古屋場所が始まります。
今場所は横綱白鵬の30回目の優勝がなるかどうかが注目されていますが、今回もまたモンゴルの3横綱を中心に展開する場所となりそうです。
稀勢の里や遠藤などの日本人力士には、モンゴルを始めとする外国人力士を圧倒するような力強い相撲をとって、場所を盛り上げて欲しいところです。

さて、相撲では力士が東西に分かれて土俵に上がりますが、何故、東西なのでしょうか?南北ではだめなのでしょうか?
今日はこの由来を調べました。

この由来には諸説あるようです。
・一つは出身地説です
 現在のように力士を東西に分けたのは、江戸時代の中期以降と言われています。
 当時は近江国(現在の滋賀県)以東を「東方力士」、以西を「西方力士」と決めていたそうです。
 しかし、当時から力士の出身地には偏りがあったため出身地で分ける方式は次第にたち消えとなり、東西に番付を分ける習慣だけが残ったとする説です。

・他には、関ヶ原合戦説があります。
 関ヶ原合戦では、徳川家康軍を東軍、石田光成軍を西軍とい言っていましたが、これを相撲に移入したのが始まりだという説です。

・更に、天覧相撲起源説があります。
 天覧相撲の際、天皇は必ず北に背を向け、南を向いて座ることになっていました。
 そのため天皇から見て左側から登場する力士が「東」、右側から登場する力士が「西」となり、その伝統が今日まで続いているという説です。

相撲の歴史はおよそ1300年になりますが、番付が現存している「宝暦(江戸中期:1751~1764)」のころから、ずっと今のような東西番付になっているそうです。
しかし、相撲の取組は今と違っており、昭和の始めころまでは「東西制」と言って、東軍と西軍の対抗試合のような形で行われ、東方同士、西方同士は対戦しませんでした。

番付作りも東西別で、それぞれが前場所の成績で上下を決め、混ざることはなかったようです。
もし、力の均衡が大きく崩れた場合などには、東→西、西→東、と移動させられる力士も時々いたと言うことです。
その後、「系統別総当り」→「東西制復活」→「系統別総当り」を経て、昭和40年1月場所から、現在のような「部屋別総当り」になっており、今では力士を東西に分けることに意味はなく、昔の名残で東方と西方に分かれているだけのようです。


知らぬ顔の半兵衛

2014-07-12 | 雑学

「知らぬ顔の半兵衛」という言葉があります。
意味は、真相を見抜きながら、あえて知らぬ顔を装い、決定的なところで相手を出し抜く様子を例えた故事です。
今日はこの由来を調べました。

「知らぬ顔の半兵衛」の半兵衛とは、竹中半兵衛がモデルと言われています。
竹中半兵衛は戦国時代、美濃国主・斎藤義龍に出仕し、永禄4年(1561年)、義龍が死去した後は、後を継いだ息子の龍興に仕えた軍略家です。
その半兵衛が”知らぬ顔”をしたと言われている故事については次のように伝えられています。

戦国時代、美濃は織田信長に何度も攻め込まれるという不安な状況が続いていましたが、居城の稲葉山城が堅城だったことと軍師・竹中半兵衛の巧みな戦術で信長の侵攻を退けていました。

信長はまともなやり方では、半兵衛にしてやられると考え、配下の前田利家を竹中の娘・千里に近づけ、千里を通して敵方の情報を入手し、戦いを有利に展開させようとしました。

ところが、そんな信長の作戦など、半兵衛は百も承知しており、”知らぬ顔”で信長の手にのったふりをして、利家を泳がせ、逆に信長側の情報を入手し、結果として、斉藤側を勝利に導いたのでした。
ここから「知らぬ顔の半兵衛」という故事から生まれたそうです。

竹中半兵衛が隠棲した後の永禄10年(1567年)、信長の侵攻により美濃の斎藤氏が滅亡すると、信長は浪人していた半兵衛を家臣にしたいと考え、羽柴秀吉(後の豊臣)に勧誘を命じました。
秀吉は「三顧の礼」を持って半兵衛を誘い、半兵衛はこれを受け入れて秀吉の家臣となり軍師となりました。

秀吉の軍師として仕えた頃の半兵衛は、主君の秀吉が命令した撤退に耳を貸さず、秀吉の許しもなく独断で自身の手勢1000を戦陣に残したこともありました。
この時、敵の謀略を知っていた半兵衛はこの手勢の働きで逆に秀吉を救ったといいます。
これらの出来事も「知らぬ顔の半兵衛」という故事の一つと言われています。

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では谷原章介さんが竹中半兵衛の役を演じて、「知らぬ顔の半兵衛」の演技が随所に見られましたが、読者のみなさんはお気づきだったでしょうか?