らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「情けは人のためならず」

2014-07-11 | 雑学

「情けは人のためならず」という諺があります。
子供の頃、母親が間違った意味で教えてくれていたことから、35歳くらいまでそれに気付きませんでした。
読者のみなさんは正しい意味をご存知だと思いますが、若かりし頃の私の無知を恥ながら、改めて正しい意味をご紹介したいと思います。

今は亡き母が教えてくれた諺、「情けは人のためならず」の誤用とは、“情けをかけるとその人を甘やかすことになり、その人のためにならないから、無闇に情けをかけないように”というものでした。
母も誰かから教えられて、間違いとも知らずにそのまま記憶していたのだろうと思います。

私が30歳代半ばのある日、勤務先の支店長が数人を前にして突然「情けは人のためならずの意味を知っているか?」と尋ね、二人を指名しました。
私は指名されなかったので恥をかかなくて済みましたが、一人は間違った意味を、一人は正しい意味を答えていました。

「情けは人のためならず」の原義は、「情けは人のためではなく、いずれ巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」というもので、人に情けをかけておけば、いつかは巡り巡ってよいことがある。情けを受けた者は自然それを有り難く思って、情けをかけてくれた人に好意を持つようになるから、何かの折には報いがあるものだ。
と言うことです。

道歌(道徳・訓戒の意味を分かりやすく詠んだ短歌)にも、
「我が為になすは 我が身のためならず 人のためこそ 我が為と知れ」とあるように、他人のために尽くすことは自分のために尽くすことである、という教えですが、これも母が言っていたことをかすかに記憶しています。

近年、私が間違ったような「情けをかけることは、その人のためにならない」の意味で誤用する人が増えているそうですが、このような誤用が生じるのは、打ち消しの「ず」が「為(に)なる」にかかっていると解釈することによって、「ためにならない」という意味になるからではないかと言う専門家もおられます。
理由は兎も角、誤用しないように気をつけたいものです。


下馬評

2014-07-10 | 雑学

野球やサッカー、ゴルフなどのスポーツや選挙、或いは会社の人事などでもあるかもしれませんが、第三者の人たちが勝手に噂や批評することがあります。
このように、利害関係のない人、或いは責任のない第三者があれこれと興味本位に噂話や批評することを下馬評と言います。
では何故そのような噂を下馬評と言うのか、今日はその語源を調べました。

「下馬」とは、馬を下りることをいい、その場所を「下馬先(げばさき)」と呼んでいました。
江戸時代、お城まで行くと「下馬」と書かれた看板があって、そこから先は馬や駕籠(かご)を降りて殿様と数名のお供しか中に入れません。
下馬先では殿様が登城した後、主人の返りを待つお供の者が集まって、あれこれと無責任な噂話をして時間を費やしていました。
その当時の噂話は、お役人の異動とか、大名の国替えなど、いろいろと憶測をもって好き勝手に言っていたようです。
そこから、興味本位による無責任な世間の噂や評価を「下馬評」と呼ぶようになったということです。

・下馬の石碑です(ネットより)


似たような意味の言葉に「ゴシップ(興味本位の噂話)」があります。
ゴシップと下馬評の違いは、前者がセレブのプライバシーに関する噂話が主であるのに対して、「下馬評」は「批評」の「評」が付いているように、ある人物や物を評価し、ランキングする話題をいう場合が多いようです。


大岡裁き

2014-07-09 | 雑学

江戸時代中期の名奉行・大岡越前守忠相の「大岡裁き」は有名ですが、中国にも南北朝時代に「符融(ふゆう)の裁き」という有名な故事があるそうです。
今日は日中の名裁きをご紹介します。

「大岡裁き」
大岡越前の「子争い」という名裁きをご紹介します。
ある所に子供がいました。 この子供にはどういうわけか母親を名乗る女性が二人いました。
双方共に「私こそがこの子の母親だ」と、頑として引きません。
二人の争いは収まらず、ついに大岡越前の奉行所で白黒付ける事になりました。

大岡越前は二人にこう提案しました
『その子の腕を一本ずつ持ち、それを引っ張り合いなさい。 勝った方を母親と認めよう。』
その言葉に従い、二人の母親は子供を引っ張り合いました。

当然のことながら引っ張られた子供は痛がって泣いたので、一方の女が思わず手を放しました。
引っ張りきった方の母親は喜んで子供を連れて行こうとします。
ところが大岡越前は、『ちょっと待て! その子は手を離したこちらの母親のものだ』 と言いました。
引っ張りきった方の母親は納得できず、 「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」 とはげしく抗議しました。
しかし大岡越前は 言いました。
『私は「引き寄せた方が勝ち」などとは言っていない。それに、本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」
この裁きは、大岡越前が母の持つ愛情をしっかりと見極めた結果のお裁きです。

「符融の裁き」
一方、古代の中国でもこれと同じような裁きの故事があるのでご紹介します。
南北朝時代に、符融(ふゆう)という人物が、ある州の州知事をしていたある日のこと、どっぷり日が暮れて辺りが真っ暗となった路上でおばあさんが追いはぎに遭いました。
「助けて!誰か追いはぎを捕まえて!」と助けを求めていたところ、たまたまそこへ通りかかった男がおばあさんの叫び声を聞くや否や、さっと身をひるがえし、追いはぎを追いかけて、見事取り押さえました。

ところが、捕まった追いはぎは開き直り、追いかけてきた男に逆にさかネジを食わせて「捕まえたぞ! お前こそ追いはぎだ!」と言いました。
二人は駆けつけてきた警察によって捕まり、そろって裁判にかかることになりました。
裁判の席で、2人とも互いに相手が追いはぎだと言い張り、一歩も譲りません。
更に、真っ暗闇の中で起きた事件だったことから、おばあさんもどちらが犯人なのか分からず、裁判官はほとほと困ってしまいました。

これを聞いた符融は大声で笑ってから言いました。
「どちらが犯人かを見分けることなどいとも簡単です。」「二人に駆け比べをさせましょう。先に城門を出たほうは犯人ではありません」
皆は符融が何を言っているのかよく分かりませんでしたが、とりあえず2人を駆け比べさせてみました。

そして符融は、後から城門を出てきたほうに、「お前が追いはぎだ!人に罪を着せるなどもってのほか!50たたきの刑だ!」と言ったところ、追いはぎは神妙に罪を認めたのでした。

「駆け比べでどうして犯人が分かったのか?」裁判官たちは訳が分かりません。
すると符融、ニヤリとして、「泥棒というものはいつもおっかなびっくりしているものだ。被害者に叫ばれたら必死で逃げ出すだろう。もし、いまの追いはぎが足が速ければ、追いかけた男が必死で逃げる追いはぎに追いつくはずがない。しかし、あいつは追いつかれた。よって、駆け比べで遅いほうが犯人であるのは一目瞭然」
と言う故事です。

昔は日本も中国も同じような裁きをしていたようですね。


阿吽

2014-07-08 | 雑学

今日は「阿吽の呼吸」などと使われる言葉「阿吽(あうん)」について調べました。

阿吽とは、一般に吐く息と吸う息を表す言葉です。
語源は、梵語(サンスクリット語)の悉曇(しったん)の字母表「a-hum」の音写だそうです。
「阿」は口を開いて発音することから「吐く息」を、「吽」は口を閉じて発音することから「吸う息」という意味となり、ここから両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」というようになりました。

また、寺社の山門にある仁王像や狛犬の口は一体が口を開き、一体が口を閉じていることから、「阿吽」を表しており、密教では「万物の根源」と「一切が帰着する知徳」の象徴とされているそうです。

ではなぜ「阿吽」が寺院の山門などに安置されたのでしょうか?
古都奈良の仁王像のお話HPには次のように書かれていました。

当初、釈迦を守護する「執金剛神」が単独で祀られました。
執金剛神とは甲冑で武装して金剛杵を持っている神と言うことです。
古代、釈迦の象徴と言えば舎利塔が一般的でありましたので執金剛神は塔のガードマンということでしょう。
それが、門の左右に安置されるようになって執金剛神の分身が一対の仁王像となっていったのであります。 
門の左右に安置される2体一具ですので二王とも称されました。
口を開けたのが阿形、口を閉じたのが吽形となります。
左側(向かって右側・東側)には阿形像、右側(向かって左側・西側)には吽形像を安置するのが通例となっております。
しかし、古代には逆の配置もあったということです。

政権発足以来1年半余りに亘って高支持率を維持してきている安倍内閣。
そして、その影の立役者である女房役の菅官房長官と安倍総理。
TVを観ている限り、「阿吽の仲」という言葉がピッタリのお二人のように感じます。
第1次安倍内閣では、菅さんは総務大臣をしていましたが、当時はこれほどの器量があるとは感じませんでした。
政治家として随分成長されたように感じます。


備中高松城

2014-07-07 | 趣味

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」が佳境に入ってきました。
昨日の放送では、秀吉の中国攻めで備中高松城の水攻めの迫力あるシーンと明智光秀が本能寺の変を起こすに至るまでの信長との主従関係。そして、遂に、「敵は本能寺にあり」と全軍を鼓舞して京に向かうところまでが放映され、いよいよ来週は「本能寺の変」へと移っていきます。

一方、官兵衛は、備中高松城の城主、清水宗治の調略を図ったものの決別となり、いかに闘わずして城を落とすかを考え、後に「天下の奇策」と呼ばれることとなる“日本三大水攻め”の1つ、「高松城水攻め」を考案します。

なお、「日本三大水攻め」とは、 岡山県の備中高松城、和歌山県の太田城、埼玉県の忍城(おしじょう)の3つの城の水攻めを言うそうです。

「高松城水攻め」
難攻不落の高松城に秀吉は持久戦を強いられていましたが、軍師の黒田官兵衛は城を堰堤(えんてい)で囲み水没させることを進言します。
12日間の突貫工事で堤防が完成し、折からの梅雨時と近くの足守川の水とで堰堤内188ヘクタール(約188町歩)は水が溢れ、たちまちにしてお城は水没しました。
これが世に言う「高松城の水攻め」で、官兵衛の奇策によって戦わずして清水宗治を討ち落とすことに成功しました。 

・備中高松城水攻めの図です。(2008年に撮影、以下同じ)


・下の写真は水攻めの略史が書かれていますので参考にしてください。


「備中高松城跡」
備中高松城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていました。
城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していたそうです。
現在では、周りを田畑で囲まれており、これがかつて難攻不落を誇ったお城とは思えないものでした。

・本丸跡公園です。


・備中高松城の本丸跡です。


「清水宗治の首塚」
秀吉は安国寺恵瓊を仲介役とし、城兵の命と引き換えに和議を成立させ、清水宗治は切腹します。
宗治の切腹を確認した後、秀吉は本能寺の変で主君 織田信長を討った仇敵 明智光秀を倒すべく強攻策を取って京に引き返し、光秀を倒して天下人への道を歩むことになります。
これが有名な「中国の大返し」と言われている出来事です。

   清水宗治の辞世の句
   「浮世をば  今こそ渡れ 武士(もののふ)の  名を高松の  苔に残して」

・城跡公園には城主「清水宗治の首塚」の碑があって、その名残をとどめています。


事実は小説より奇なり

2014-07-06 | 雑学

昔、NHKの番組に、珍しい体験や才能を持った一般の人が次々に登場し、解答者たちがその"秘密"をあてる公開バラエティ『私の秘密』と言う番組がありました。
1956年(昭和31年)4月14日から1967年(昭和42年)3月27日まで放送されていたクイズ番組で、その 司会者である高橋圭三アナウンサーが番組のスタートに当たり「事実は小説より奇なりと申しまして、世の中にはいろいろと変わっためずらしい、貴重な経験をお持ちの方が多いものでございます」と、名調子で語っていたことを今でもよく記憶しています。

・当時のNHKテレビ番組「私の秘密」のタイトル画面です。


ことわざ辞典をめくっていて、懐かしく思い出したので、今日はその出典を調べました。

「事実は小説より奇なり」とは、現実の世界で実際に起こる出来事は、空想によって書かれた小説よりもかえって不思議であるという意味ですが、この諺はイギリスの詩人バイロンの作品である「ドン・ジュアン」の中の一節「Fact is stranger than fiction(事実は小説より奇なり)」から生まれた表現だそうです。
なお、これに関連してアメリカの作家マーク・トウェインも「Truth is stranger than fiction(真実は小説よりも奇なり)」という有名な言葉を残しているそうです。

ところで読者のみなさんは「事実は小説より奇なり」と思われるような体験や不思議な出来事に遭遇された事はありませんか?
残念ながら私はそのような体験がありません。
もしあればご紹介ください。


三十六計、逃げるにしかず

2014-07-05 | 雑学

子供の頃、「三十六計、逃げるが勝ち~」と言いながら、よく遊んだものです。
三十六計がどんな意味かも知らず、誰かから聞いた言葉を「逃げる」ところだけを一つ覚えのように繰り返していたものです。
勿論、、それが中国の兵法の一つらしいと言うことは後年になって知ったことですが、今日ブログにアップするに際し、改めて調べたところ、正しくは「三十六計、逃げるに如(し)かず」でした。
しかし、この故事自体は兵法三十六計とは関係がないことも分かりました。

兵法に言うところの三十六計の最後の計は、「走為上(そういじょう)」で、「三十六策、走(にぐ)るをこれ上計(じょうけい)とす」で、その意味は「逃げるのが最善の策である」というものです。

この故事は南北朝時代に活躍した壇道済(だんどうせい)という将軍の戦いぶりを評した言葉だそうで、出典は南斉書(なんせいじょ:中国南朝の斉について書かれた歴史書)です。
なお、三十六策(計)とは、兵法における戦術を六段階の三十六通りにまとめて分けた戦略戦術でのことです。

そのなかで、なぜ逃げるのが上計(もっとも上手な戦い方)とされるのか?
勝てる見込みもないのに、当たって砕けたのでは、元も子もありません。
勝てぬと判断したら、さっさと撤退して戦力を温存せよ。そうすれば、勝てるチャンスはまためぐってくる、という発想に他なりません。
中国人は昔からこういう戦い方を得意としてきたということのようです。

なお兵法「三十六計」をリンクしておきますので、参照ください。


天童と将棋駒

2014-07-04 | 雑学

今年1月7日に天童独持の飾り駒や根付け駒である「左馬」の由来についてご紹介しました。
今日は何故、天童で将棋駒が有名になったのか調べました。

現在、山形県天童市の将棋駒づくりは全国の生産量の大部分を占めていますが、その起源は藩士の内職からだそうです。
山形市の北側に隣接する人口6万3000人の天童市が、日本一の将棋駒産地となった歩みは次のように伝えられています。

「天童織田藩の駒づくり」
天童で駒作りが盛んになったのは天保2年(1831年)に織田信美が天童に城を移した際に、家臣たちに「将棋駒」作りを内職として奨励したのが始まりと言われています。
当時、天童藩の財政は非常に厳しく、下級武士は俸禄だけでは食べていけない状態であったことから、天童藩家老の吉田守隆は将棋駒作りを奨励したそうです。
しかし、内職することに抵抗を示す者も少なくなく、そこで、吉田は「将棋は兵法戦術にも通じるものであり、駒を作ることは武士の面目を傷つけるものではない」と下級武士たちを説得したと言われています。

駒づくりが本格的な産業となったのは明治時代に入ってからで、旧藩士が木地師と書き師に分かれて分業生産を始めたことで、天童は大阪などと並ぶ大量生産地となっていきました。
さらに大正期に入ると、いち早く駒木地の機械化を開発し、駒の書き手は、大人だけでなく子どもたちも担うなど、天童は町をあげての分業体制に入ったそうです。
「押し(スタンプ)駒」も導入した昭和初期には、大阪を退けて全国一に成長しました。

こうして、下級武士の内職として始まった天童の将棋の駒作りは特産品となり、平成8年(1996年)には通産省(現・経産省)から伝統的工芸品に指定され、日本を代表する芸術品にまで発展したということです。


円の由来

2014-07-03 | 雑学

今日は日本の貨幣の呼称が「円」になった由来を調べました。

お金の単位が「円」に切り替わったのは明治4年(1871年)のことです。
それまでは「文(もん)、朱(しゅ)、匁(もんめ)、分(ぶ)、疋(ひき)、両(りょう)」など、いくつもの単位が混在してとても複雑でした。
例えば、「1両は4分」、「1分は4朱」、「1貫は1000匁」「1匁は10分」「10文は1疋」などです。
これでは貿易にも支障が生じるということで「100銭を1円」という単位が採用されました。

「円」になった理由については次の3つの説があるようです。
1、大隈重信説
  「指で丸(円)を作ればお金のことと子供でも分かるからこれにすべし」と大隈重信が言ったという説。
2、貨幣の形説
  新しい貨幣の形が丸(円)だったことから、「円}と言うようになったとする説。
3、江戸時代起源説
  江戸時代にも1両のことを1円と呼ぶことがあったようで、この為「円」という単位を使うようになったとする説。

いずれも決定的な説ではないようですが、現在では(1)の大隈説が有力とのことです。

参考までにドルと言う名称はドイツで使われていた歴史的通貨のタ―ラ―からきているそうです。
ターラーは、16世紀にボヘミアのサンクト・ヨアヒムスタール(現在のチェコ)と言う銀の鉱山で鋳造されたヨアヒムスターラー銀貨の名前が短縮されてターラーと呼ばれるようになったそうですが、この銀貨は大型で品位も良く、フローリング金貨と等価として扱われたので、絶対量の不足していたフローリン金貨に代わって広く流通したそうです。
この品質の高さで知られた銀貨を指すターラーという言葉が良貨の含意で一般名詞化し、ヨーロッパ各国で通貨名として広まり、アメリカ合衆国他各地においても良貨の意味を込め、自国通貨をダラー(Dollar)と呼ぶようになったと言うことです。


降水確率

2014-07-02 | 雑学

昨日のブログで天気予報の三つの言葉の意味をご紹介しましたが、今日は同じく天気予報で必ず出てくる「降水確率」についてご紹介します。
皆さんは「降水確率」をどのように理解されているでしょうか?
例えば、降水確率10%、降水確率30%、降水確率50%、降水確率100%の場合はいかかでしょうか?
私は、降水確率10%なら、先ず雨は降らないだろう。30%なら小雨程度かな?50%なら本格的な雨になるかな?100%は必ず多量の雨が降るという意識でした。
ところがこの考え方はとんでもない間違いでした。

「降水確率」については、気象庁のHPには次のように解説しています。
例えば、降水確率予報で確率60%といった場合、そのような予報を100回発表すると約60回で対象時間内に1mm以上の降水があり、約40回で1mm以上の降水がないことを意味しています。

季節予報における確率表現でも事情は同じです。
「気温が「低い」となる確率60%」という予報を100回発表すると、そのうちの約60回で気温が「低い」となり、約40回で「低い」とならない(「平年並」か「高い」となる)ことを意味しています。

しかし、季節予報と降水確率予報には次のような違いもあります。
降水確率予報では1mm以上の雨が「降る」と「降らない」の2つの階級の内、「降る」に対する確率のみが発表されます。
「降らない」確率は自明ですからあえて表示しないわけです。
これに対して、季節予報における確率表現は「低い(少ない)」「平年並」「高い(多い)」の3つの階級に対するものなので、それぞれに対して確率を示す必要があります。

つまり、「降水確率」とは、特定の地域(予報区)で一定の時間内に1mm以上の雨または雪の降る確率の平均値のことをいい、0%から100%までの10%刻みで発表される予報なのです。
この降水確率の大小は、降水量の多い少ないとは全く関係がなく、従って、「100%」だからたくさん降る、「10%」だからちょっと降る、というわけではないと言うことでした。