今日7月13日から大相撲7月名古屋場所が始まります。
今場所は横綱白鵬の30回目の優勝がなるかどうかが注目されていますが、今回もまたモンゴルの3横綱を中心に展開する場所となりそうです。
稀勢の里や遠藤などの日本人力士には、モンゴルを始めとする外国人力士を圧倒するような力強い相撲をとって、場所を盛り上げて欲しいところです。
さて、相撲では力士が東西に分かれて土俵に上がりますが、何故、東西なのでしょうか?南北ではだめなのでしょうか?
今日はこの由来を調べました。
この由来には諸説あるようです。
・一つは出身地説です
現在のように力士を東西に分けたのは、江戸時代の中期以降と言われています。
当時は近江国(現在の滋賀県)以東を「東方力士」、以西を「西方力士」と決めていたそうです。
しかし、当時から力士の出身地には偏りがあったため出身地で分ける方式は次第にたち消えとなり、東西に番付を分ける習慣だけが残ったとする説です。
・他には、関ヶ原合戦説があります。
関ヶ原合戦では、徳川家康軍を東軍、石田光成軍を西軍とい言っていましたが、これを相撲に移入したのが始まりだという説です。
・更に、天覧相撲起源説があります。
天覧相撲の際、天皇は必ず北に背を向け、南を向いて座ることになっていました。
そのため天皇から見て左側から登場する力士が「東」、右側から登場する力士が「西」となり、その伝統が今日まで続いているという説です。
相撲の歴史はおよそ1300年になりますが、番付が現存している「宝暦(江戸中期:1751~1764)」のころから、ずっと今のような東西番付になっているそうです。
しかし、相撲の取組は今と違っており、昭和の始めころまでは「東西制」と言って、東軍と西軍の対抗試合のような形で行われ、東方同士、西方同士は対戦しませんでした。
番付作りも東西別で、それぞれが前場所の成績で上下を決め、混ざることはなかったようです。
もし、力の均衡が大きく崩れた場合などには、東→西、西→東、と移動させられる力士も時々いたと言うことです。
その後、「系統別総当り」→「東西制復活」→「系統別総当り」を経て、昭和40年1月場所から、現在のような「部屋別総当り」になっており、今では力士を東西に分けることに意味はなく、昔の名残で東方と西方に分かれているだけのようです。
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南北に分けると、朝鮮半島の北と南を連想しますからね・・・。
天皇が、南を向いて座るので、東西に分けて見やすくした説は、説得力があります。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/96e5a356fe304e6fd2e8bfc417eb6889
リンクしたとおり、ミスタードーナツでスシドを食べることができます。
天皇から見ての東西説、日本を東西に分けて出身地別の合戦形式、どちらも有り得る話ですね。
歌舞伎座の桟敷席も東西で表示されております。
他の劇場では聞かれない分け方ですが、こちらは単に方位から来ているのでしょうね。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/seat.html
歌舞伎座が新しくなってから一年を過ぎましたが、ほぼ毎月のように通っております。
十数回観に出掛けた事になりますが、いつも桟敷席を予約しており、一般席にはまだ座った事がございません。(自慢?笑)
今月は西桟敷、来月は東桟敷での観賞予定です。
東の方が役者が花道で立ち止まってのお芝居で、顔が見えるので良いとか言われますが、個人的には役者が真近に見られる西の花道側が好みです。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/2014/07/post_77.html
世界地図の東西南北では、東の外れの国である日本ですから、矢張り「東西」で表記した方が馴染みやすいですね。(笑)
と言うことは、舞台が北側にあると言うことなのでしょうか?
相撲の天覧相撲起源説と同じ考え方のようですね。
どちらも日本伝統の国技と芸能なので納得です。
それにしても、あQさんは歌舞伎がお好きなようですね。
年に数十回、しかも桟敷席で観劇されるとは、中々の通のご様子。
今月、来月もお楽しみください。