今日は、「熊野本宮大社」の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」の大鳥居と湯の峯温泉の「小栗判官蘇生の由来」などについてご紹介します。
「八咫烏(やたがらす)の由来」
八咫烏は日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の下に遣わされ、熊野国から大和国へ入る険路の先導をしたとされる3本足の大烏です。
3本足の八咫烏は一般に不吉の鳥といわれていますが、「熊野本宮大社」では主祭神の「家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)」の御神徳である、「智、仁、勇」或いは「天、地、人」を表しているといわれており、熊野では神の使者とされているようです。
現在では、日本サッカー協会のマークに使用されていることもあり、よく知られた存在となっています。
なお、咫(あた)とは、上代の長さの単位で、手のひらの下端から中指の先端までの長さを言います。
・上四社南にある拝殿です。左右に丸い八咫烏(本宮八咫烏)が並んでいます。
「日本第一大鳥居」
この大鳥居は、熊野本宮大社・熊野信仰の原点となる大斎原に建立された日本最大の第一大鳥居です。
高さ約34m、幅約42mで、鳥居の中央には八咫烏が掲げられています。
なお、神社の門の一種である「鳥居」の起源については諸説ありますが、確かなことは分かっていないようです。
一説には、天照大神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた常世の「長鳴鳥(鶏)」に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源とする説や、インド仏教など海外に起源を求める説などがあります。
文献では、古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としており、8世紀ごろには現在の形が確立されたそうです。
・旧社地「大斎原(おおゆのはら)」の日本第一大鳥居です。

・旧社地「大斎原(おおゆのはら)」に通じる参詣道です。
史上有名な「熊野御幸」はこの聖地で、宇多上皇(887年~897年)より亀山上皇(1259年~1274年)に至るまで、歴代上皇、法皇、女院の行幸は百数十度に及んだ
そうです。

熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」は、樫の枝に神々が3枚の月形となって降臨した地と伝えられています。
明治22年(1889年)の熊野川大洪水まで、熊野本宮大社はここに鎮座していました。
この大洪水では、八神殿は倒壊、主神の四神殿をここより上流700mの高台に遷座されています。(昨日ご紹介した場所です)
・熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」です。
「湯の峯温泉」湯の峯温泉は、第13代成務天皇の代に発見された日本最古の温泉として知られており、ここ、東光寺が最初の噴出地(湯元)といわれています。
この湯の峯温泉は、特に、頭痛にあらたかと言われているそうです。
「小栗判官蘇生の由来」
小栗判官とは、室町時代の常陸の国、小栗15代城主・小栗彦次郎平助重のことです。
1423年(応永30年)8月2日、小栗城は足利持氏の攻撃を受けて落城します。
一族を頼って落ち延びる途中、毒殺事件に巻き込まれますが、他阿太空上人(たあたいくうしょうにん)に助けられ、九死に一生を得ます。
その後も長い旅路を、多くの人に助けられながら、なんとか、ここ湯の峰温泉に辿りつきました。
そして、薬王山東光寺の薬師如来に平癒を祈願し、霊験あらたかな「つぼ湯」で療養した結果、湯の峯の功徳と熊野権現の大きな加護を得て、小栗彦次郎平助重は蘇生して本復を遂げたという伝説です。

・小栗彦次郎平助重が療養したと伝えられている「つぼ湯」です。

(参考)
判官とは、律令制の四等官の第3位で、次官(すけ)の下、主典(さかん)の上に位する地位です。
よく知られているところでは、源義経が九郎判官といわれていますね。