九度山町は、戦乱の世を生きた名将・真田幸村が嘗て隠棲し、再起を誓った場所です。
真田幸村は天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れ、九度山に父とともに隠れ住みました。
その後再起を果たし、大坂冬・夏の陣で活躍するも激戦の末、幸村は壮烈な最期を遂げます。
14年間に亘る九度山での暮らしは、波乱に満ちた生涯にあって、穏やかな日々だっただろう、と案内書には書かれています。
今日はその真田幸村に関する資料館や史跡がたくさんある中から「真田庵」をご紹介します。
「善名称院(真田庵)の門」
幸村の旗印である六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、他に類例のない形式の本堂や廟所跡、真田幸村の墓、真田宝物資料館、与謝蕪村の句などがあります。
「善名称院(真田庵)」
善名称院(ぜんみょうしょういん)は九度山町にある高野山真言宗の寺院で、真田昌幸・信繁の父子が閑居した屋敷跡に建つ寺院です。
和歌山県の史跡に指定されており、別称は真田庵(さなだあん)と言われています。
牡丹の名所としても知られ、城郭風の本堂の八棟造も有名だそうです。
善名称院の境内です。
大河ドラマ人気で、真田昌幸・幸村の赤い幟が林立しています。
「真田屋敷跡」
信州上田城主であった真田安房守(さなだあわのかみ)昌幸は、関ヶ原の合戦の時次男幸村と共に西軍に組して戦いました。
戦の後、徳川家康から高野山での謹慎を命じられ、慶長5年(1600年)に高野山に上り、間もなく親子共にこの九度山に閑居したのです。
父昌幸は同年16年(1611年)に死亡(享年65歳)したので、その屋敷跡に葬ったのがこの墓地です。
その後、幸村は同19年(1614年)大坂夏の陣に参戦し、その勇猛さはつとに知られているところです。
・真田昌幸公の墓碑です。
「雷封じの井戸」
慶長年間、幸村公が閑居中、真田屋敷に落ちた雷を取り押さえて井戸に封じ、里人の難を救ったといわれています。
今回の高野街道の終点、南海高野線、九度山駅です。
ここでも六文銭の幕が張られています。