らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

無法松の一生

2016-07-18 | ナツメロ

福岡県の北九州市小倉北区では7月の第3金曜から日曜日までの三日間「小倉祇園太鼓」が行われます。
今年も15日(金)~17日(日)まで行われ、昨日が最終日でした。
小倉祇園祭りは、博多の博多祇園山笠、京都の祇園祭と共に「全国三大祇園」に数えられる、約1400年の歴史を誇る伝統のお祭です。

このお祭は、関ヶ原の戦いの功により、40万石の大名に任ぜられた細川忠興公が、慶長7(1602)年に大規模な小倉城の築城を始め、無病息災を祈るとともに、城下町繁栄策のひとつとして、元和三年(1617年)に祇園神社(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭を小倉の地に取り入れたのが始まりと云われています。

この祭りのハイライトは太鼓の競演会だそうです。
この競演会では、揃い浴衣に身を包んだ大人組、少年組100チーム以上が参加して、伝統の太鼓の打法を競い合います。

最終日の夜に、“太鼓広場”で披露されるのは映画「無法松の一生」で知られる「あばれ打ち」や「みだれ打ち」で、感動と打ち手の熱気とともに祇園太鼓の音が町中に響きわたる勇壮なお祭りとなっています。

今日はその映画「無法松の一生」の主題歌を村田英雄の歌でお聴きいただきたいと思います。
なお、映画「無法松の一生」は1958年(昭和33年)ヴェネチア国際映画祭・サン・マルコ金獅子賞受賞作品です。

〽小倉生まれで 玄海育ち
  口も荒いが 気も荒い 
  無法一代 泪を捨てて
  度胸千両で 生きる身の
  男一代 無法松



(参考)
昭和33年(1958年)4月に公開された映画「無法松の一生」のあらすじ
人力車を曳く「車曳き」の富島松五郎(三船敏郎)は、彼の地元九州の小倉(北九州)では有名な暴れん坊で、近所の人々から「無法松」と呼ばれていました。
 ある日、怪我をした子供を助けたことから、その家の父親、吉岡陸軍大尉(芥川比呂志)に気に入られ、家族みんなと親しく付き合うようになります。
ところが、ある日、急病で吉岡大尉はこの世を去り、彼は残された妻、良子(高峰秀子)と息子の敏雄の父親代わりをすることになります。
そしていつしか彼は寡婦となった良子に密かに思いを寄せるようになっていました。
しかし、学校にも行ったこともなく字も読めない自分と良家の女性ではあまりに身分が違いすぎることを知っていた彼は、あくまで使用人の立場から出ず、家の仕事を手伝うことで家に出入りする生活を続けていきます。

時代は明治から大正へと移り変わり、敏雄は熊本の大学に入り、良子は一人暮らしをするようになります。
しかし、相変わらず彼は使用人として彼女の家に出入りするだけで、自分の思いを言い出すこともできず、彼女に似た女性が描かれたポスターを前に一人酒を飲む日々が続きました。

夏休みになり、敏雄は教授を連れて里帰りして来ました。先生に本物の祭り祇園太鼓を見せたいという敏雄のため、松五郎は自ら櫓に登り、バチを取りました。
離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ彼の太鼓の音は、聞く人々の心を打つ見事な祇園太鼓を演じてみせました。

数日後、松五郎は飄然(ひょうぜん:ふらりとやってくる)と吉岡家を訪れました。物言わぬ松五郎の目には涙があふれていました。
自分の想いに蓋をする事が出来なくなった時、『おれの心はきたない』の一言に、今迄閊えていた想いが体中から来る震えと共に吐き出されます。
それ以来、松五郎は夫人の前から姿を消してしまいました。

やがて松五郎は敏雄を連れて通った小学校の校庭に倒れていました。
そこには吉岡家からもらった祝儀の品々が手もつけられずにあり、敏雄と夫人宛の貯金通帳もありました。
良子夫人は冷い亡きがらに取りすがって泣きくずれるのでした。