ら族の歳時記

「道が分かれていても人は幸せになる道を選ぶ能力がある。」
能力を信じ、心の安らぎの場を求めて、一歩一歩。

償い

2007-10-07 23:23:09 | Weblog
今日は座談会だった。
テーマはなくフリートーク。
日常で疑問に思っていることを
ご住職が答えるという形式だった。

ある人が、福岡の飲酒運転により兄弟3人が死んだ事故と
光市の母子殺人事件をあげて、
「片方は一周忌前なのに、もう次の命が宿っている。
もう片方は今もひとりでがんばっている。
どちらの道が正しいか」と聞いた。

福岡の件は、夫婦であれば夜の営みがある。
しかし、「一周忌前だから」と避妊するのは
不自然で自然になりゆきにまかせたんだろう。
だから、不謹慎なことではない。
光市の件については、きっと被告が死刑になるまで
ずっとこのような気持ちで戦っていくだろう。
死刑になれば、気が抜けてしまうか、
出家して家族のともらいをするようになるだろう。
あるべき姿は、自分で判断するのでなく
仏にまかせるべきなのだ。

という。
ならば、元少年は宗教的にはどうするべきかと。

やはり罪を認めることが大切である。
罪を認めないで刑に服してもなんにもならない。
お釈迦様の弟子で100人殺すことが修行と
暗示をかけられた人がいた。
99人殺して、100人目を殺そうとしたら
お釈迦さまでお釈迦さまが暗示を説かれた。
当然、弟子は罪を感じた。
政府は罪人を渡せというけれど
お釈迦様は渡さずに弟子を托鉢に出した。
托鉢に行けば、被害者の家に当たることもある。
反感を持っている人のところに行くこともある。
当然、ぼこぼこに殴られるし、托鉢しても
食べ物をもらえないこともある。
弟子は暗示がかけられていたとはいえ、
罪びとであることを自覚して耐えた。
死刑になることよりもつらい道だった。
たべものももらえず、がりがりにやせていった。

そんな耐える姿をみて食べ物を分けてくれる人、
なぐっても家族がもどってこない、
虚しいことをしていると気づく人。
そうやって人々に受けいられていって
罪を償ったという。

だから、光市の被告もできることなら
罪を認めてほしい。
司法の判断はどうであれ、
塀の中でなく、
まず被害者の家族にぼこぼこに殴られ、
冷たい世間にもまれて罪を償ってほしいという。


塀の中は隔離されている。。
確かに世間に出されれば本当につらい。
死刑になった方が楽かもしれないと
思うかもしれない。

仏教って奥が深いなと思った。
コメント
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