社会に出て「ビジネスパーソン」としてデビューして以来、これまでの数々の就業経験を通じて、「さすがにこの人はコミュニケーション能力が高い!」と感じられる人に何人も出会ってきました。
彼等に共通して言えるのは「基本的に社交的で明るく、視野が広く、デリカシーがあり、コミュニケーション(交流)を通じて他者との信頼関係を構築することが上手である」という事。やはり、コミュニケーションが図りやすいと、こちらとしても安心して話せるので、信頼につながりやすいのです。さらに、彼等は「始めから」そのような能力に長けていた・・・と言うわけでもなく、それまでの様々な社会経験(実務経験)の中で培われてきたケースが多いようです。
まさに「社会の荒波の中で揉まれてきた」経験が活きてくるのです。決して「天性」の才能ではなく、試行錯誤を通じて、時に罵倒され、時に傷つき、それでも負けずに、必死に「もがきながらも」がむしゃらに身に着けてきたスキルなのです。だからこそ、私も「無意識の内に」彼等の影響を受け、次第に感化され、その立振舞いからも、何かを学んでいたように感じます。知らず知らずの内に「お手本」にしようとしていたのかも知れません。
十数年前、半導体のメーカーに新卒入社して間もない当時に、ある先輩社員から言われたはなむけの?言葉です。「いつまでも(学生時代のような)"ぬるま湯"に浸かっていては駄目、厳しい"修羅場"を経験して乗り越えないと"本物"とは言えないし、将来(先輩として)後進を指導することは出来ない」。様々な苦労を経験してきたからこその言葉の重みがあるのですね。ずっと後になって、この言葉の真意を理解できたように思います。
それでは、何をもって「コミュニケーション能力」と定義付ければよいのか、その「明確な答え」は未だ持ち合わせてはいませんが、少なくとも「コミュニケーション能力 ≒ 交流を通じて他者との信頼関係を構築し育む能力」と言う発想は、あながち間違いでは無いように思います。逆に考えると、安心してコミュニケーションを図る事が出来ない相手に対して信頼が芽生えてくることはありません(むしろ、距離を置こうとするのではないでしょうか = 君子危うきには近寄らず)。ここで、「信頼」と「安心」のどちらがより先なのかは・・・この際、置いときます。
別に「饒舌になれ」とか「話し上手になれ」と言っているわけではありません。むしろ、相手の目線や理解度、ペースに(臨機応変に)合わせて話す姿勢(ペーシングetc.)であったり、相手の潜在的なニーズや感情を読み取ろうとする姿勢(所謂・"空気を読む"、"察する")、さらに協調性や共感力(エンパシー)にも通じると思います。極端なことを言えば、表面的なテクニックの巧拙なんかどうでもいいのです(場数を踏めば上達するから)。相手に対する配慮があるかどうかなんです。
かく言う私も「人に教える」仕事に一部関わっていることもあり(=学習塾やセミナーの講師etc.)、やはりこの部分には非常に気を使います(換言すると「神経が細かい」または「感受性が豊か」とも言う)。そして、このような技術は、何も「教える仕事」に従事する人だけではなく、多くの社会人にとって共通の必要なスキルであると思います。正直に言って、私もあまり上手くできている自信はないのですが、常に意識はしています。
これからの時代、多くの仕事が機械にとってかわられることが予想されています。特に、他者とのコミュニケーションを必要としない、ただ地道に黙々とこなしていくような業務は「機械化」(または「アウトソーシング化」)がどんどん進んでいくでしょう。
また、知識や情報それ自体は様々な媒体上に氾濫しています。今では知識や情報をたくさん「知っている事」それ自体はそれほど重要ではなくなりました。むしろ入手した知識や情報を「即座に理解し、(状況に応じて)分かりやすく噛み砕いて説明したり、応用できる能力」の方が"遥かに重要"です。
その上でのコミュニケーションの積み重ねこそが、きっと相手との信頼関係の構築につながっていくのでしょう。これが、マン(人間)とマシン(機械)の最大の違いである、と思います。ここに、人間にできて機械には真似のできないことがあります。
彼等に共通して言えるのは「基本的に社交的で明るく、視野が広く、デリカシーがあり、コミュニケーション(交流)を通じて他者との信頼関係を構築することが上手である」という事。やはり、コミュニケーションが図りやすいと、こちらとしても安心して話せるので、信頼につながりやすいのです。さらに、彼等は「始めから」そのような能力に長けていた・・・と言うわけでもなく、それまでの様々な社会経験(実務経験)の中で培われてきたケースが多いようです。
まさに「社会の荒波の中で揉まれてきた」経験が活きてくるのです。決して「天性」の才能ではなく、試行錯誤を通じて、時に罵倒され、時に傷つき、それでも負けずに、必死に「もがきながらも」がむしゃらに身に着けてきたスキルなのです。だからこそ、私も「無意識の内に」彼等の影響を受け、次第に感化され、その立振舞いからも、何かを学んでいたように感じます。知らず知らずの内に「お手本」にしようとしていたのかも知れません。
十数年前、半導体のメーカーに新卒入社して間もない当時に、ある先輩社員から言われたはなむけの?言葉です。「いつまでも(学生時代のような)"ぬるま湯"に浸かっていては駄目、厳しい"修羅場"を経験して乗り越えないと"本物"とは言えないし、将来(先輩として)後進を指導することは出来ない」。様々な苦労を経験してきたからこその言葉の重みがあるのですね。ずっと後になって、この言葉の真意を理解できたように思います。
それでは、何をもって「コミュニケーション能力」と定義付ければよいのか、その「明確な答え」は未だ持ち合わせてはいませんが、少なくとも「コミュニケーション能力 ≒ 交流を通じて他者との信頼関係を構築し育む能力」と言う発想は、あながち間違いでは無いように思います。逆に考えると、安心してコミュニケーションを図る事が出来ない相手に対して信頼が芽生えてくることはありません(むしろ、距離を置こうとするのではないでしょうか = 君子危うきには近寄らず)。ここで、「信頼」と「安心」のどちらがより先なのかは・・・この際、置いときます。
別に「饒舌になれ」とか「話し上手になれ」と言っているわけではありません。むしろ、相手の目線や理解度、ペースに(臨機応変に)合わせて話す姿勢(ペーシングetc.)であったり、相手の潜在的なニーズや感情を読み取ろうとする姿勢(所謂・"空気を読む"、"察する")、さらに協調性や共感力(エンパシー)にも通じると思います。極端なことを言えば、表面的なテクニックの巧拙なんかどうでもいいのです(場数を踏めば上達するから)。相手に対する配慮があるかどうかなんです。
かく言う私も「人に教える」仕事に一部関わっていることもあり(=学習塾やセミナーの講師etc.)、やはりこの部分には非常に気を使います(換言すると「神経が細かい」または「感受性が豊か」とも言う)。そして、このような技術は、何も「教える仕事」に従事する人だけではなく、多くの社会人にとって共通の必要なスキルであると思います。正直に言って、私もあまり上手くできている自信はないのですが、常に意識はしています。
これからの時代、多くの仕事が機械にとってかわられることが予想されています。特に、他者とのコミュニケーションを必要としない、ただ地道に黙々とこなしていくような業務は「機械化」(または「アウトソーシング化」)がどんどん進んでいくでしょう。
また、知識や情報それ自体は様々な媒体上に氾濫しています。今では知識や情報をたくさん「知っている事」それ自体はそれほど重要ではなくなりました。むしろ入手した知識や情報を「即座に理解し、(状況に応じて)分かりやすく噛み砕いて説明したり、応用できる能力」の方が"遥かに重要"です。
その上でのコミュニケーションの積み重ねこそが、きっと相手との信頼関係の構築につながっていくのでしょう。これが、マン(人間)とマシン(機械)の最大の違いである、と思います。ここに、人間にできて機械には真似のできないことがあります。
人は「社会人」に生まれない。「社会人」になるのだ。
そして「社会人」はまた、「社交人」でもあるのだ。
そして「社会人」はまた、「社交人」でもあるのだ。