退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「意外であること」について

2014-03-02 01:20:49 | Weblog
くもりのち雨。濡れて帰る。

上司の計らいで仕事が早く終わったので
ここぞとばかりにクインビーに行く。

久方ぶりに土曜の夜にゆっくり飲む。
案外盛況でよしよし。

常連になりたいという若い女子もいてグッド。
この「灯」を消さないよう全国のソウル愛好家にお願い。

ルジャンドル「ドグマ人類学総説 西洋のドグマ的諸問題」をちょいと読む。

とりあえずスイスイと読めるのがいつもと違う感覚。
あらためてあれこれ考える上での「前提」について考える模様。

「無意識の前提」に人は鈍感でありがち。
その「前提」がどういうものかについてはきちんとチェックした方がよさそう。

「禁止」がなぜ禁止されるのか。
それをのたまう「父」は「正しい」のか。

「聖典」があるとあとはその「正しい解釈」を競うことになるのは自明。
やはりここでもいたずらな「正しさ」を求めるとややこしいことになる。

否応なく「すでにある言葉の世界」に生まれた以上
その場で認められなければどうしようもなく。

それこそが「現実」。

さて。

「何か」のせいにすることは少なくとも「現実」ではない。
「悪玉」を見つけたカタルシスに溺れるのは虚しい。

本気で「解釈」を考えるなら「目からウロコ」であれ。
そのためには数多くの「視点」があることが大切。

「世界」の複雑さをそのままに。
「特効薬」がないのだから「知恵」の絞りがあるというもの。

そのあたりにむしろ「やりがい」はあるはず。
フェリーニに倣えば「そして船は行く」。
コメント
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