昨日友人の日記をちらりと読んだ。
で、よく考えてからコメントしようと思ったら、消えていた。
だからここでその考えを書いてみる。
端的にいってしまえば、「生きる価値・意味がない人間がいるのか。」というもので、
友人は、障がい者を不要なものと切り捨てる者たちに対しかなり憤っていた。
そして、そのものたちの言い分は、「社会的に生産性のないものは、不要な存在だ。」
という類のものだったと思う。
でもそこには、そういう存在を大切に思い、その存在を心の糧に生きている、
そういったもうひとつの存在を完全に忘れている。
というか、気づいていない。
誰かが存在すべき価値が、誰かのために必要となるものであるとするならば、
それは単純に、生産性や社会への貢献などだけではなく、
誰かが愛し、必要とし、ただそこに「存在してくれればよい。」という一点でも十分価値がある。
これを認めない人間は、今後の生活において、
飲食では必要な栄養素のみを口にし、味わいや、風味、などという楽しみを捨て、
日常生活では、娯楽などは認めず、仕事と休息運動以外はしない。
そうした生活をよしとすべきです。
生産性のみを突き詰めるというのは、そういうことです。
ちなみに、やらしい話ですが、障がい者の人たちも、今ではその存在の規模から、
ある一定の大きな市場カテゴリーを形成する核となっています。
その意味においても、生産性、社会貢献性がないなどとはいえるはずもない。
そう考えれば、世の中に無駄な存在などほとんど皆無になってくるはず。
たとえ、天涯孤独で、だれからも必要とされていなくとも、
自分自身が生きたいと思えば、それだけで十分生きる価値があるはず。
でないと、それを否定すれば、人類そのもの、
ひいては生き物全体の存在理由を否定することになるから。
だって、人間なんか自分たちの都合だけで地球上の生き物や資源を好き勝手にいじりまくってるから、
その進歩や社会貢献なんか、他の生き物からしたら全く意味がなく無価値。
人類自身が必要思っているからこそ、必要であって、
人類自身からすれば、人類が存在することそれだけで十分意味がある。
これを、規模を縮小すれば先ほどの話しになるはず。
つまり、自己の存在を自己が認めないのならば、
逆説的に、すべての世界をも否定することとなるはずです。
だから、軽々しく他者や、自己が無価値などと言うべきではない。
それは、その者や、自分自身にかかわりのあるものすべての思いを
一方的に否定するものだから。
そんなこと、していいはずがないし、できるはずもない!
結局のところ、当事者の存在意義なんて、第三者が指摘することではなく、
第三者が指摘できるのは、その第三者にとっての利用価値でしかないのです。
そう思うと、一番最初に障がい者を槍玉に挙げている連中は、
自分以外のすべての存在を、自分が利用できる・利用するためだけの存在だと宣言しているに他なりません。
なんとまあ、思いあがった、しかも頭の悪い・・・
そういう連中に言いたい。
「そういうあなたは私にとってどれだけ利用価値がありますか?」
ないのならぜひ消えて欲しい。
ややこしい話&長文でごめん!
なお、文中の「障がい者」、「人間」を、「犬猫」「家畜」「ペット」「虫その他」と置き換えてもらって、
そしてもう一度読み返してもらいたいとも思います。
で、よく考えてからコメントしようと思ったら、消えていた。
だからここでその考えを書いてみる。
端的にいってしまえば、「生きる価値・意味がない人間がいるのか。」というもので、
友人は、障がい者を不要なものと切り捨てる者たちに対しかなり憤っていた。
そして、そのものたちの言い分は、「社会的に生産性のないものは、不要な存在だ。」
という類のものだったと思う。
でもそこには、そういう存在を大切に思い、その存在を心の糧に生きている、
そういったもうひとつの存在を完全に忘れている。
というか、気づいていない。
誰かが存在すべき価値が、誰かのために必要となるものであるとするならば、
それは単純に、生産性や社会への貢献などだけではなく、
誰かが愛し、必要とし、ただそこに「存在してくれればよい。」という一点でも十分価値がある。
これを認めない人間は、今後の生活において、
飲食では必要な栄養素のみを口にし、味わいや、風味、などという楽しみを捨て、
日常生活では、娯楽などは認めず、仕事と休息運動以外はしない。
そうした生活をよしとすべきです。
生産性のみを突き詰めるというのは、そういうことです。
ちなみに、やらしい話ですが、障がい者の人たちも、今ではその存在の規模から、
ある一定の大きな市場カテゴリーを形成する核となっています。
その意味においても、生産性、社会貢献性がないなどとはいえるはずもない。
そう考えれば、世の中に無駄な存在などほとんど皆無になってくるはず。
たとえ、天涯孤独で、だれからも必要とされていなくとも、
自分自身が生きたいと思えば、それだけで十分生きる価値があるはず。
でないと、それを否定すれば、人類そのもの、
ひいては生き物全体の存在理由を否定することになるから。
だって、人間なんか自分たちの都合だけで地球上の生き物や資源を好き勝手にいじりまくってるから、
その進歩や社会貢献なんか、他の生き物からしたら全く意味がなく無価値。
人類自身が必要思っているからこそ、必要であって、
人類自身からすれば、人類が存在することそれだけで十分意味がある。
これを、規模を縮小すれば先ほどの話しになるはず。
つまり、自己の存在を自己が認めないのならば、
逆説的に、すべての世界をも否定することとなるはずです。
だから、軽々しく他者や、自己が無価値などと言うべきではない。
それは、その者や、自分自身にかかわりのあるものすべての思いを
一方的に否定するものだから。
そんなこと、していいはずがないし、できるはずもない!
結局のところ、当事者の存在意義なんて、第三者が指摘することではなく、
第三者が指摘できるのは、その第三者にとっての利用価値でしかないのです。
そう思うと、一番最初に障がい者を槍玉に挙げている連中は、
自分以外のすべての存在を、自分が利用できる・利用するためだけの存在だと宣言しているに他なりません。
なんとまあ、思いあがった、しかも頭の悪い・・・
そういう連中に言いたい。
「そういうあなたは私にとってどれだけ利用価値がありますか?」
ないのならぜひ消えて欲しい。
ややこしい話&長文でごめん!
なお、文中の「障がい者」、「人間」を、「犬猫」「家畜」「ペット」「虫その他」と置き換えてもらって、
そしてもう一度読み返してもらいたいとも思います。
バタバタしていて訪問できませんでした(涙)
ボチボチ落ち着いてきたので また遊びにきました~
私は生きる価値のない人は存在しないと思っています
例えひどい意地悪をする人でも 許せないような犯罪を犯した人でさえ。。。。汗
人でも動物でも草花でも それが存在する限り 意味があって 何かしらに影響を与えているのだと思います
だから 生きている意味がない とか 生きる価値がないっていうのを聞いたりすると 悲しい気持ちになります
なんか。。。。
よく分からない内容のコメですんません(**)
文章にしようとすると 伝えたいことって 難しいですね
という。。。言い訳 笑
恐竜おめでとうございます。(*^人^*)
いや間違った!
バタバタ生活おめでとうございます。
さて、
モッピーさんはお優しい方ですね。
私は中には許せない人がたくさんいたりしますもん。
でも、それでも、やはりその人に罪がない以上、
その生きる価値をうんうんはいえないと思います。
そこでいるだけで、その人がいるだけで、
その本人が生きたいと思うだけで、
それだけで十分意味があるんですから。
その意味がわからないひとは、
他者とのかかわりを否定する閉じた世界に生きる人。
それは、多分とても怖くて寂しい生き方。
人は一人で生きていけないから、だれもが、他者に寄りかかって生かされているのにね。
いつもありがとうございます。
(*^人^*)
正直申しまして、今迄も今でも大変です。
自分を責めたこともありました。
自分が健常者として生んであげることができなかったことに物凄く罪悪感に苛まれたのです。
私がちゃんと生んであげていたら、この子はもっと幸せに暮せたはず、生きていくことができたはずと何度も自分を責めてしまいました。
でもそれだけでは生きてはいけないと心を奮い立たせることの連続でした。
無邪気な息子の姿や、周りの同じ障害を抱えた親御さんたちと励まし合いながらやってきました。
時には、悲しく、ときには嬉しく、ときには感動しながら、ときには息子の幼い発想に笑わせられたりしながらの日々です。
生きることは、健常者が生きることを当たり前だと思ったときから過ちの始まりではなかろうかと思います。
生きることを許されているから自分はここにいると思うと、本当に心の在り方が変わるように思います。
生産性がないからと、切り捨てるのは、自分が切り捨てられることはないと思い込みの世界からの言葉ではないでしょうか。。。
私もいつかは老いが来て、何の役にも立たない日が来ることは免れません。
そのときに、心しか残ってはいないように思えます。
老いて死が来ても、私の魂を誰に見てもらおうなどと、そんなことは考えず、心の在り方、心の美学が老いた自分を表現しているように思います。
障害者は、障害者として生まれてきた苦労もありながら、健常者にはわからない心の美しさも知ることができると思います。
今の息子にも苦労は付きものですが、私達を喜ばせてくれていることも沢山あります。
そのことが私の励みにもなっていることもあります。
直接の生産性がなくとも、間接的に生産性を生んでいることもあるということは間違いありません。
心の在り方で、真の幸福は訪れるものだと思いました。
もっともっと心の豊かな人で溢れる日が来ることを望んでやみません。
本当におっしゃるとおり、幸福か否かなんて心の持ち方しだいですね。
どのような、だれもがうらやむような状態で暮らせていても、
心のあり方が不満ばかりをあげつらうような状態ならば、
それは本人にとっては、すごく不幸せな状態なんでしょう。
だから、おのおのの心の持ち方を知らずして、
他人がその生活の幸福度を判断するなどおこがましいにもほどがありますね。
そしてまた、そういう風に判断したがる人は、えてして心の持ち方に偏りがあり、
幅広く、様々な心のあり方を理解できないために、
自分自身の幸福の幅を狭め、深みを浅くしているような気がしてなりません。
実は、いわゆる福祉に携わっている人々でもそのような人が多くいたりして、
そういう人達はは、つい高みから相手を見下ろし、
「かわいそうなあなたためにしてあげている。」
という感じなのが見てとれますので、一般の人たちにおいてはもっとひどいと思います。
ですので、LadyRoseさんへのように、実際にさまざまなご苦労をなさると、
罪悪感に苛まれるのも当然で、私でも必ず同じように考えてしまうと思います。
でもだからこそ、その中で見出すことのできる喜びというものの大きさと、
その素晴らしい輝きを、だれよりも大きく感じて受け止めることができるんだと思います。
言い換えるならば、他の人よりも多くの幸せを感じ取れる心の持ち方のできる人。
多くの人がそうあれば、きっともっと今より住みよく優しい世の中になれるでしょうね。
>ツイーット
ありがとうございます。(*^人^*)
、