軌道エレベーター派

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歌川国芳『東都三ツ股の図』の塔について

2018-12-22 15:02:05 | その他の雑記
 この軌道エレベーター派、過去に何度か、軌道エレベーターも好きだが浮世絵も好き、ということを書いてきました。軌道エレベーターにまったく関係ない話題で恐縮なのですが、今回は浮世絵について書きたいと思います。

はじめに
 歌川国芳の『東都三ツ股の図』は、東京スカイツリーが描かれているなどと、何かと世間をにぎわせます。10月22日付読売新聞に「浮世絵にスカイツリー? 正体は『井戸掘り櫓』か」という記事が掲載されており、この記事の情報を補完するような感じで、"塔" について考察してみたいと思います。



1. 話題のルーツ
 そもそもこの塔が話題になったのは、2011年3~4月に、川崎・砂子の里資料館(現在休館中で、来年秋に移転して再開予定だそうです)で開かれた『国芳没後150年展』の準備中、館長さんが似てることに気づいたことが発端とのこと。スカイツリーが翌年開業予定で注目を集めていたこともあって、多くのメディアが取り上げ、テレビ番組までつくられて全国的な話題になったのだとか。

 国芳には、作中の番傘に描きこまれている数字が、自身の西暦での没年と一致する「東都御厩川岸之図」という作品があり、「国芳は自分がいつ死ぬのか知っていた? 未来の予言者ではないか」なんて話題に成長していったということです。



 結論から言えば、スカイツリーも番傘の数字も偶然以上のものでありようはずもない。そんな迂遠な予言があってたまるか。ですが話題としてはとても興味深く、検証してみるのも面白い。この塔については、最初に話題になった直後に、多くの浮世絵ファンらのブログなどで検証されており、そうした先達の実績も踏まえつつ、検証してみることにします。

2.「三ツ股」について
 まずこの浮世絵は、国芳の画業の初期(1831年とも1834年とも言われる)の作品で、隅田川のほとりで、舟の底を焼いて貝などを除去する作業を描いていると言われています。舟のメンテですね。
 隅田川と小名(奈)木川、現在は埋め立てられて存在しない箱崎川が分かれる場所付近を「三ツ股(三又、三派などとも)」呼ばれていたとのこと。一説には現在の清洲橋付近だとか。国芳の絵はこの三ツ股にあった中州だと言われています。


 三ツ股は隅田川の西側にあったので、つまり背景の塔のある景色は、隅田川の東岸ということになります。

 なお『江戸名所 隅田川謎解き案内』(棚橋正博)などによると、明和~安永年間(1770年代)、三ツ股には「中州」と呼ばれた埋立地が存在し、遊郭などが集中して一時は柳橋を上回るにぎわいを見せたのですが、14年で掘り返されて再び川に戻ったそうです。
 国芳の絵でいう「中州」は、この繁華街の中州と混同されている情報が散見されますが、とにかくも隅田川の畔という理解でいいでしょう。
 
2. スカイツリーとの位置関係
 では塔はどの辺にあったか? 結論から言うと、スカイツリーの方角とはまるで違うということです。「この絵のドンピシャの位置にスカイツリーが建ってるんです」なんてまことしやかに語っているケースを見かけますが、あのね、それ嘘。すまんな (`・ω・´)

 絵の右に描かれた、隅田川にかかる大きな橋は永代橋。塔の右の方の小さな橋は、小名木川にかかる萬年橋だと言われています。確かに江戸時代の古地図を見ると、三ツ股から右手に見える、隅田川にかかる橋といえば永代橋以外にありません。
 一方萬年橋ですが、永代橋と萬年橋は800mくらい離れている上に、隅田川から奥まった場所にあり、国芳の絵の距離感とはだいぶかけ離れています。当時萬年橋は現在よりも隅田川に近い位置にあったのですが、それでも二つの橋を1枚の絵に収めるには無理を感じます。
 実際に足を運んでみると、江戸時代の三ツ股に近いとみられる付近、たとえば現代の清洲橋や隅田川大橋あたりからスカイツリーを見ると、永代橋はほぼ真後ろの方向。全然方角違うじゃん。当時の三ツ股付近にある「隅田川テラス」からパノラマ写真を撮ってみました。



 こんな感じで、隅田川岸に立つと、スカイツリーと永代橋はほとんど反対方向になります。絵の位置関係とはまるっきり違う。そして何よりも、スカイツリーが建っているのは萬年橋より向かって左側なんです。

3. 塔の位置
 では塔の位置はというと、ここで重要な役割を果たすのが、塔の隣にある半分くらいの高さの建物ですね。火の見櫓だと言われており、妙に細長いけれどもそれらしい形をしています。
 江戸時代、永代橋と小名木川との間には、下の地図のように隅田川につながる三つの水路(堀)があり、隅田川上流の方から「上之橋」「中之橋」「下之橋」という小さな橋がかかっていました。



 新聞記事にもあるように、「深川佐賀町惣絵図」(1850年)には、下之橋のすぐ北側(現在の隅田川大橋のすぐ脇)に火の見櫓があったことが記録されており、モロ隅田川沿いに建っています。この画像は都立図書館のデジタルアーカイブで見られます。
 この火の見櫓、鶴岡蘆水の「東都隅田川両岸一覧 東」(1781年)にも描かれています。



 そして「江戸名所図絵」(1836年頃)や、江戸時代にあったお菓子屋さんが発行したという「菓子話船橋」(1841年)などにも描かれていて、国芳が東都三ツ股の図を描いたとされる1831~1834年の間に、一貫してこの場所に火の見櫓が建っていたことがうかがえます。



 絵によっては異常に低いですが、高さは三丈二尺(9.6mくらい)とされ、上の画像のようにちゃんと高く描かれているものもあり、深川江戸資料館には、この火の見櫓を再現した展示があります。



4. 国芳が下之橋の火の見櫓を見ていないはずがない
 この火の見櫓が国芳の描いた櫓と同一という直接証拠はありませんが、三ツ股から見て、川岸に建っている火の見櫓が国芳の視界に入らないわけがない。それを描かなかったという方が不自然です。
 さらにこれまでの証拠から導き出される結論として、浮世絵で火の見櫓のすぐ左に見える橋は、一般に言われている萬年橋ではない。
 先述の通り萬年橋と永代橋は離れすぎており、画中の小さな橋は、この火の見櫓の向かって左側にある中之橋か、上之橋の可能性が高い。浮世絵には下之橋が描かれてないし、全体の橋の数が合わないなど、それはそれで疑問も残るんですが、少なくとも萬年橋よりは永代橋に近い。ちなみに1699年、中之橋は堀の幅が十間(約18m)に拡幅されたのに伴い、ほかの両橋とともに架け替えられています。

5. 対岸の景色は江東区である
 で、件の塔は火の見櫓の右側に描かれています。どのくらい奥に位置していたかはわかりませんが、ここで言えるのは、塔と火の見櫓があったのは現在の江東区だということです。この二つの建物は画中の小さな橋の右側に位置していますが、この橋が萬年橋、中之橋、上之橋のいずれであれ、萬年橋がかかる小名木川が現在の区境であり、スカイツリーのある墨田区は小名木川より北側=向かって左側なんですから。
 つまり絵と現実では、塔と橋の位置関係が異なるわけです。この位置関係を現代の地図でまとめると、以下のようになります。



 記事にもあるように、スカイツリーは三ツ股の対岸より4kmくらい北東にあります。以上のことから、「塔と同じ場所にスカイツリーが建っている」などという主張は、現実の距離感や見え方を調べていないか、永代橋とスカイツリーを一度に視界に入れることの困難をあえて無視した作り話だと考えます。

6. 塔は何か
 塔そのものについては、記事にも、多くの浮世絵ファンブログなどにもあるように、井戸掘りの櫓というのが定説となっているようです。井戸が掘れたら解体される、ほんの一時だけ出現する建物に過ぎないので、ほかの絵に描き残されていないのもうなづける。
 多くの検証記事で言われているのが、この辺りは埋立地なので、井戸水を得るためには櫓が高くなったのでは、ということです。ぼてふりで水売りもあったそうなので、井戸掘りが頻繁に行われていたのかは不明ですが。

 記事では国芳自身が描いた『子供遊金水之掘抜』が紹介されていますが、高さ10mくらいはありそうです。
 このほかにも、葛飾北斎の『冨嶽三十六景 東都浅草本願寺』には、雲の上にまで伸びているかのような高い櫓が描かれていますし、歌川広重『東都名所坂つくしの内 江戸見坂之図』や、渓斎英泉の『江戸日本橋ヨリ冨士ヲ見ル図』などでも、櫓がチョー高く描かれています。



 井戸掘り櫓に関して言うと、国芳よりほかの絵師の方がよっぽど高く描いてるじゃんか、と言いたい。井戸掘り櫓を誇張して描くのは特異なケースではないわけです。
 当時は江戸城より高い建物は禁止されていたそうです。ですがいずれにしても、塔の隣の火の見櫓も異常に長く誇張されている点から見て、塔も誇張というかお遊びで高く描いたのでしょう。
 下之橋脇の火の見櫓は約9mちょいですから、画中でその2倍くらいである塔も、実際は15m程度と考えれば無理もなさそうです。


 なお、富岡八幡宮で行われた相撲の開催を知らせる相撲櫓という見解もあるようですが、相撲櫓であれば、てっぺんに客寄せの太鼓や旗があるものだそうです。
 また、ちょうど国芳が描いた頃に勧進相撲は回向院に移転したそうで、時期的にも微妙そうです。回向院の相撲櫓は広重の「名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋」に描かれています。東都三ツ股の図の塔は、小さく描かれてるから詳細はよくわかりませんが、旗や垂幕は無いみたいで、ちょっと違って見えますね。

結び
 というわけで、塔の正体として帰着する答えは「現在の江東区のにあった、井戸掘りの櫓らしい」ということになります。この結論自体はとっくに唱えられているわけで、珍しくもないのですが、自分の好奇心から再検証した過程を紹介させていただきました。
 調べることそのものが楽しかったので、ブログ記事にしてみました。ここまで読んで下さり、誠にありがとうございました。
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