もう20年以上前になりますが、カナダ人のルームメイトと1年半くらい共同生活していたことがあります。たまたま、その人と神様の話になって「私は神を信じてない」と言ったら、「工工エエエェェェ(゚Д゚)ェェェエエエ工工 なんで!?」と目を丸くして驚かれました。
神も仏も、死後の世界も、生まれ変わりも信じていない私としては、信じる理由ならともかく、信じない理由を問われるなどとは思わなかったので「だって見たことも会ったこともないし」と答えました。ちなみに相手は「神がいなきゃ私達は存在してないじゃない」なんて言っていたと記憶しています。
その後、以前紹介したリチャード・ドーキンスの
「神は妄想である」を読み、神を信じない理由を「証拠がないから」と述べているくだりがあり、「簡潔明瞭にして完璧。そう、あの時私が言いたかったのはこれだ」と膝を打ったものです。ちなみにこれはバートランド・ラッセルの弁で、ドーキンスはこれほど説得力のある説明はないと賞賛し、紹介しています。
そのドーキンスの新刊「さらば、神よ 科学こそが道を作る」(早川書房)が7月に発売されました。なかなか時間がとれなくて、読了にえらく時間がかかってしまいましたが、「神は妄想である」(以下「前作」)に続いて感想を。
本書ではまず、多様な宗教の歴史をひもといた上で、道徳の教科書としての教典を否定します。さらに、いわゆるインテリジェント・デザインを否定します。生物の持つ奇跡的な生態は、たとえ神がデザインしたとしか思えなくても進化論で説明でき、そこに誰かの知性は働いていないことを解説。読者に盲信から脱却し、科学を選択する意志を持つことを訴えています。
タイトルからして随分扇情的だな、と思ってたんですが、中身も、
「二つの可能性があるなら、つねに奇跡度が低いほうを選ぼう」
「私たちの理解のどこに空白があるにしても、人はその空白を神でふさごうとする。(中略)
残っている空白も科学がやがて埋めると期待する勇気を、私たちはもたなくてはならない」
などと、神の不在や宗教の害を「論証」していた前作に比べて「呼びかけ」が多い。
全体として前作より少々浅いな、と感じていたら、訳者あとがきによると、本書は若い年齢層向けに書かれた「『神を卒業する』ためのビギナーズガイド」とのこと。納得がいきました。
しかしドーキンスの挑発的な筆致は健在で、
「論理に神を取り入れることでは問題は解決しない。ただ一段押し戻すだけである」
「歴史を振り返り、けっして科学の負けに賭けるな」
「あらゆる神に見切りをつけるべきだと思う」
といったバッサリ調は、論理に感情を乗せすぎだとは思うものの、やはり説得力があります。特にコロナ禍にある現状にあっては。
当サイトはいかなる宗教にも与するものではありませんが、いま全世界で、貧富も善悪も問わず、そして信仰も関係なく、あらゆる人が等しく新型コロナウイルスの脅威に見舞われているわけです。どっかの神様や仏様の救済もなければ、救世主の出現もまったくないというのに、多くの人が信仰を持ち続けていて、信仰の持つ生命力に驚くばかりです。
宗教施設やその関係者が感染対策をしているという時点で、ご加護もご利益もないってことなのに、矛盾を感じないのでしょうか? マスクして「全能の神」とか言われても、ハゲ頭で育毛剤を売りつけられてるようなもんだろう。
やはり、ドーキンスがどれだけ言っても、大半の人は信じたいものを信じるのでしょう。だからこそ、頭の固い大人よりも、まだ感受性に富む若年層に訴えかけることで、科学的・客観的思考を持つ次世代の裾野を広げようという戦略なのかも知れません。
本書の内容に戻りますが、進化論についてはかなりのページを割いて、自然淘汰のメカニズムを非常に丁寧に例証しています。
生物の進化に関して、特殊な機能を持つ発達した器官などを「~のために進化した」と表現することがまかり通っていますが、比喩で言っているのでなければ、これは間違い。ドーキンスが目の敵にしていたスティーヴン・グールドも言っていたように、進化に目的や方向性はない。
このことを、本書は説得力をもってわかりやすく説明しています。本書は生物学に興味のある若い人が入り込みやすい進化論入門としても役立つと思います。主題はあくまで宗教の否定ですが。
読み終えてみると、本書は「神は妄想である」の入門編という意図の通りだと感じました。本書を読んで気に入ったら、前作を読む、という順番でおおすすめします。それにしても、学問より啓蒙活動への力の入れっぷりがハンパなくて、ドーキンス自身も一種の伝道師のようだと感じる時もあります。