軌道エレベーター派

伝統ある「軌道エレベーター」の名の復権を目指すサイト(記事、画像の転載は出典を明記してください)

軌道エレベーターから日食は見えるか その2

2012-05-26 23:47:07 | その他の雑記
 この1週間、キレそうなくらい忙しくて、更新できず申し訳ありませんでした。さて、皆さん金環日食ご覧になりましたか? 私はちゃんと見ることはできなかったのですが、それに絡んだ仕事をしていたのでまあ満喫できた方かも知れません。この現象を利用して、太陽の直径を測ったり気温の変化を調べたりと、学術的にも成果が多かったみたいです。
 今回のような「太陽をぎりぎり覆い隠さない」日食や皆既日食というのは、今の時代しか見られない現象だそうです。とは言っても人間生活の感覚とはスケールが異なりますが、月は地球との間で潮汐によって運動エネルギーをやり取りしていて、角運動量を少~しずつ奪い取っているんですよね。この結果、月はだんだん公転軌道を広げて地球から離れつつあり(正確には両方が共通重心から離れてる)、地球は地球で、わずかずつ自転速度が遅くなっています。うるう秒の調整が必要なのはこのためです。ですので、遠い未来(6億年くらい先らしい)、地球からの月の見かけの大きさは小さくなり、皆既日食や金環日食は見られなくなるんだとか。
 
 ちなみに、だいぶ前に「軌道エレベーターから日食は見えるか」なんてことを書いたのですが、日食というのは、黄道面と白道面の交点と太陽を結んだ直線の、延長線上にある地域を中心に見られるものです。この線に対し、基本的に赤道面に沿うか、それに近い公転面を描く軌道エレベーターが重なるのは、かなり頻度は低いかも知れませんね。
 しかし、運よく重なった時には、地上で金環や皆既日食が失われてしまった時代でも、軌道エレベーターに昇ればそれが見ることができるかも知れないなあ、とも考えました。もっとも個人的には、数千万年とか数億年も人類文明が存続しているとは思えないし、仮に生き残っていたとしても、もはや地球にはほとんどいなくなっているだろうと思うのですが。

 それにしても、全国的に話題となった今回の金環日食でしたが、事前の盛り上がりっぷりに「流行りもの臭」がプンプンしていて、内心ではちょっと引いてしまっていました。ほとんどの人が価値を置いているのは非日常の体験の共有であって、現象そのものに興味を持っていた人はどれほどいたんでしょうか。周りから浮くのを怖れる意識の裏返しのような気もするし、特に日本人はそんな傾向が強いように見えます(周りに合わせて安心したいだけなんじゃないのか?)。それでも、こういう体験を機に天文学に興味を持ったり、科学にハマる子供がほんのわずかでも出てくるなら、きっと無駄ではないのでしょう。
 日食観察用のグラスなどを買った方、まだ捨てないで置いたほうがいいですよ。6月6日には金星の太陽面通過の現象があります。目のいい人なら見えるかもしれないということです。ただし目を痛めないよう気をつけましょう。

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尾瀬の雪だるま

2012-05-13 21:48:08 | その他の雑記
 軌道派の同志諸君、オービタってるかい? と自分で言っておきながら、今回の更新はオービタりません、ごめんなさい(「オービタる」の意味は前回更新をご覧ください)。

 きょう尾瀬に行ってきました。尾瀬ヶ原はまだ雪に覆われてましたが、天気も良くて景色がきれいでした。で、何kmか歩きながら写真を撮り、ある程度まで行って引き返す際に、反対方向から来た女の人が木道の脇に何かチョコンとのっけてました(写真の赤いマルの中)。「何だ?」と思って近くで見てみたら小さな雪だるまで、細い枝らしきもので目と口を表現。

 和みますなァ ヽ(´∀`)ノ

 その女性に訊いてみたら、「ちょっと思いついて」だとか。どこの誰だか聞きませんでしたが、約束どおりアップしましたよお嬢さん。その後は所要を終えて下山したのですが、尾瀬ヶ原への往復で最も利用の多い入山口である鳩待峠は、最初に200mくらいを一気に下ります。当然これが帰り道では最後の難関になるんですね。木道がほとんど雪に覆われていたのでいつも以上に登るのが大変でした。ゼエゼエ言いつつ、休みながら登ってなんとか帰着。雪の照り返しのせいもあってきょう一日でけっこう日に焼けた。ちなみに下山後は日帰り温泉で汗を流しました。
 きょうはこれだけなんですが、まあたまには旅ブログみたいなのも一興かと。

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新語「オービタる」試験供用開始

2012-05-10 22:45:23 | その他の雑記
オービタる(おーびたる)
 研究、技術開発、広報、創作活動など、軌道エレベーターに関するあらゆる活動、行為を総じて表す動詞。活用は五段活用に準ずる。
(使用例)
 「彼いい歳して趣味がオービタることなのよ」
 「こう見えても父さんだって、若い頃は随分オービタってたもんだ」
 「営業の○○さん、上司とオービタってるんですって」などなど。


軌道エレベーターに関する新語をつくりました。
 我が軌道エレベーター派のやっていることは、軌道エレベーターの研究、資料集めや整理、構想の普及活動、原稿の執筆や編集などなど、けっこう色々あり、当然ブログの更新もその一つなのですが、これを簡潔に表現できなくて困ることが多々あります。事情を知っている仲間うちでさえ「軌道エレベーターに関する活動をしていること」というのは、「調べたり、原稿書いたり・・・」とどうしてもくどくなって面倒臭い。「ググる」みたいになんか簡単に表せる言葉がないかと思っていました。
 そこでひらめいたのが「オービタる」。当サイトURLの一部にもなっている、OrbitalElevator(軌道エレベーター) の「軌道」の部分から命名しました。とにかく軌道エレベーターにかかわるあらゆる活動、研究、技術開発、広報、記事の執筆、創作活動、デザイン、サブカルチャーなどなどを包括して使用します。妄想も含む。
 日常でこんな言葉を使ったらさぞかし引かれることでしょうが、意味不明のまま使ってしまっていいんです! 「えーと『軌道エレベーター』って知ってる? 僕は宇宙に興味があって・・・」などと順序だててくどくど言うより、むしろ「オービタる? 何それ」と相手に思わせる。そこで立て板に水のごとく解説すると、「イカガワシイことかと思ったら、なんて理知的なの!」とモテモテになること請け合い(保証はしません。自己責任でよろしく)。 それに、当面は説明を付け加える必要があるでしょうが、浸透すれば自然に「軌道」の名の普及にも役立つという、一石二鳥の野望なのですよ。
 「軌道」への愛がこもっていて、軌道エレベーター派の精神に合致する名案だと自画自賛しているのですが、いかがでしょう? どうだ、宇宙エレベーター派にはこんな用語つくれまい! しばらく試用期間とし、(私一人で)使ってみて継続できそうであれば、「軌道エレベーター派宣言」「定義書」に記載して定着させます(辛くなったら黒歴史にします)。

 軌道派の同志諸君、著作権フリーにするので
どんどん使ってくれたまえ!(  ̄▽ ̄)


 早速用語を交えて一筆。私が本腰を入れてオービタり(1回目)始めたのは、忘れもしない2004年の夏、『軌道エレベータ』(裳華房=当時)の金子隆一先生に取材を申し込んだ時でした。この時までは受け身というか、情報が入ったら記録しておく程度でした。というのも、過去にいったん諦めたことがあったんですよね。今の仕事に就いて間もない頃、「軌道エレベーターのことを書きたいな」という気持ちを強く持っていたのですが、無力な自分1人が「軌道エレベーターってすごいんだよ」と訴えても、誰にも理解してもらえないだろうと(実際、誰も真剣に取り合ってくれなかった)。「いつかきっと」なんて思ってました。
 それからだいぶ後、横浜の書店で金子先生監修の『まっすぐ天へ』(的場健、講談社)を見つけ、巻末解説を読んで「ここまで時代が変わったのか!」と、消極的だった自分が歯がゆくなったというか、いてもたってもいられない気持ちになり、出版社時代のツテをたどって連絡先を調べ、速攻でアポを取ったのでした。それをまとめた原稿は結局ボツになったのですが、この時には自分の中で何か変化が生じていて、それでも何度も原稿を書いたり、取材を重ねたりと、諦めることなくずっとオービタり(2回目!)続けました。たぶん「できるまでやろう」と考えるようになったのだと思います。
 その後も実りは少なかったのですが、ずっと続けてきたお陰で同志を見つけて、宇宙エレベーター協会を設立したし、情報も人脈も、体験も蓄積できた。いやホント、時代の方がついてきてくれたような気持ちがしています。いやあ、ずっとオービタって(3回目!!)きて良かった。

 そんなわけで、皆さんもオービタり続けていれば、きっといいことあります。軌道エレベーター派の新用語「オービタる」の普及にご協力を!

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神と科学に関する2冊の本

2012-05-03 22:27:59 | その他の雑記
 このサイトでは政治と並んで宗教の話題を持ち込むのはなるべく控えているのですが、きょうは科学的テーマとして少々。利己的な遺伝子で知られるリチャード・ドーキンスの『神は妄想である』(早川書房)と、ダーウィン主義の学者でエッセイストとしても人気を得たスティーヴン・J・グールドの『神と科学は共存できるか?』(日経BP社)の読み比べです。
 この2著において、両者が意見を闘わせているんです。乱暴に言いますと

 ドーキンス「神? んなもんいねえよ。宗教に媚びる必要なんてありゃせんわ」
 グールド「科学と宗教は商売が違うから、お互いのナワバリには手出さんとこ、な?」

──みたいな感じです。
 背景には欧米社会、とりわけ米国ではキリスト教のコミュニティが多大な影響力を持っていて、科学の分野にも介入するという事情があり、その辺を意識して読まないと、私たち日本人にはピンとこないかも知れません。米国南東部には信心深い層の人口密度が高い「バイブルベルト」などと呼ばれる地域がありますし、その大票田は大統領選を左右し、思想は司法制度にも影を落とします。
 そして科学や研究、教育の面では進化論を排除したり、排除はしなくても聖書にもとづく創造論やID(インテリジェントデザイン)理論を持ち込んだりといったことが知られています。最近では「宇宙の起源はビッグバンと天地創造のどちらか?」というアンケートに、後者と回答した割合が米国では6割を占め、先進国の中で突出しているのだとか。土地柄や宗派間などで違いはあるでしょうが、そんな中で無神論者をカミングアウトすることは大変なデメリットをこうむり、キリスト教的な教義を否定する研究は、我々の想像以上に攻撃の的になるらしい。ましてや2人とも進化論の大家ですから。前置きが長くなりましたが、今回の2冊はその事情に対し、科学者の拠るべき立ち位置を問うものです。

 読後の結論から言うと(読んだのは数年前なんですが)、説得力においてドーキンスに軍配が上がります。自分が神も仏も信じていないので、おのずと彼を支持してしまう傾向があるのは否めないんですが、例証の多様さと筆致からうかがえる自信、その結果生み出される説得力の強さで、グールドはドーキンスの足元にも及びません。
 ドーキンスは書中で、神がいたらという仮定も含めて、自論への反証をかなり丁寧に潰していきます。その上で神が存在しないことや、彼が宗教を害悪とみなす根拠を挙げ、「罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである」(452頁)と、嘘への耐性のない子供への教義の刷り込みを糾弾しています。
 一方、グールドは「私は信仰を持たない」(16頁)と述べつつも、「NOMA」(非重複教導権)という造語を用い、科学と宗教は扱う分野が違うので、お互いマナーを守って住み分けできると主張。究極的にはお互いのことに答えを出すことなどできないので、口出し無用という意味あいのことを述べます。グールドのいうNOMAは「科学と宗教のそれぞれの立場を大切にする」(233頁)とのこと。
 
 なるほど、私も人様の信仰には、迷惑でない限り口を出す気にはならない。こう書くと、他者を尊重するグールドの方が聡明に思えるかも知れませんが、結局宗教をハレモノ扱いして、「触らぬものに祟りなし」の態度にしか見えないんですよね。NOMAというのは、創造主義が幅を利かせる社会において、自分の研究を守るために苦心してひねり出した全方位外交なのでしょう(グールド本人はNOMAは外交手段じゃないと訴えてますが)。ドーキンスは宗教界と不可侵条約を結ぼうとするグールドを名指しで「(宗教に対し)犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとる」(86頁)と、それはもうボロクソにこき下ろしていて、鬼籍に入ったグールドが気の毒にも思えます。ドーキンスは先制攻撃、グールドは専守防衛といった立場でしょうか。代わりに、ドーキンスは書き方が少々過激に感じる部分もあるので(相当お怒りなのだろう)、グールドの方が大人の態度に見えなくもない。

 ですがそうした部分を差し引いても、「人間という生命および、より広く解釈された生命体の(略)道徳的な問題なのである。この種の疑問についての実り多い議論は、科学とは別のもう一つのマジステリウム(注・教導権)で進められるべきだ」(62頁)などとグールドが宗教に意義を認め、尊重して住み分けしようと懇切丁寧に説くご高説も、聖書の一節を基にしたアンケート(イスラエル人の子供を対象に、異教徒を虐殺したというヨシュア記のエピソードの是非を問うたら66%が「正しい」と回答したが、主語を中国人に置き換えて質問したら回答が真逆になった)などの例を挙げて「聖書は道徳の根拠や手本ではない」(354頁)、「宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである」(378頁)というドーキンスの前には無力にしか見えない。
 この説得力の差は何なのか? ドーキンスは仮説を立てて神の不在を論証する「科学」をして、根底から宗教の存在意義を否定しているのに対し、グールドは本質をスルーして、もっと浅いレベルで処世術を正当化する「政治」をやっているという違いなのでしょう。そのため、ドーキンスのテーゼは普遍化できる一方で、グールドの書くことは限定的な教条主義で、読者は学者の本分をまっとうしているのはドーキンスの方だと感じるでしょう。ほかならぬグールド自身が学者の領分を踏み出ている=NOMAをないがしろにしているように思え、「学者なんだから慣れないことおよしなさいな」となんだか痛々しく見えるんですよね。もっともドーキンスはドーキンスで、そのうち原理主義者に殺されちゃうんじゃないかと心配になりますが。

 ドーキンスは「文句あるなら神サマに罰してもらえばいいじゃん、そんなもんがいるならな」と言わんばかりです(はっきりそうは言ってないけど)。それができない以上、神という空論と世界を分かち合う余地などなく、それを説くのは害でしかないと。この論理にはなかなかツッコむ隙が見えせん。

 この2冊を読んで一番感じたのは、研究以外のことにこんなにも振り回され、余計な気を遣い、しなもくてもいいケンカに時間と体力を割くというのは、さぞや神経をすり減らされ、虚しいことだろうな、という点ですね。こんなことさえなければ、場外乱闘もなく、研究のみでしのぎを削り合って、もっと科学が発展したかも知れないのに。。。世界的に見れば、特定の信仰を持たなくても支障なく生活できる日本のような国の方が少ないわけで、そう考えると私たちは、非常に恵まれた社会に生きているんだろうなあ、とも感じます。

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