軌道エレベーター派

伝統ある「軌道エレベーター」の名の復権を目指すサイト(記事、画像の転載は出典を明記してください)

軌道エレベーターが登場するお話(17) 通天閣発掘&果しなき流れの果に・補足

2016-08-16 22:06:18 | 軌道エレベーターが登場するお話

通天閣発掘
(『小松左京ショートショート全集』などに収録、初出は1965年)
果しなき流れの果に
(最新版はハルキ文庫 初出は1965年)

 最近、「幻の通天閣」が出現して話題になっているそうです。あべのハルカスの展望台の、ある一点から一定の角度で夜景を見ると、反対側にあるはずの通天閣が見えるのだとか。反射や屈折の関係で窓ガラスに映るらしいですが、今回の更新のタイミングでこんな話題を耳にしたのも何かの縁かも知れません。『果しなき流れの果に』については以前詳説していますので、ここでは『通天閣発掘』を「本作」と呼び、中心に述べることとします。

『通天閣発掘』のあらすじ 36世紀、日本の「宇宙橋」について、立地が決まらないうちからある場所に建つという噂が流れる。その場所を発掘したところ、"通天閣" と呼ばれる塔の痕跡が見つかる。日本文学史上、軌道エレベーターを初めて描いたと思われる、亡き小松左京氏のショートショートの一篇。(『果しなき流れの果に』についてはこちらを参照)


1. 本作に登場する軌道エレベーター
 わずか3頁の作品ですが、本作では西暦3501年に日本で2番目の「スペース・ブリッジ(宇宙橋)」を造ることになったんだそうです。

 「宇宙橋」というのは、文字どおり、宇宙空間にむかってかけられた橋である。宇宙空間に「定点衛星」(略)をうちあげて、地上から衛星まで、超軽合金の橋をかける。たいへんな仕事のようだが、地上からうんとはなれれば、地球の引力が非常に小さくなってしまうから、工事はそれほどむずかしくない。

 宇宙空間との交通がますますふえてきたそのころでは、もうふつうの空港ではまにあわず、世界のあちこちに、宇宙への入口として、こういった宇宙橋ができていた。人工衛星までの三万キロあまりを電車で走り、そこからフェリーで月の宇宙港へわたるのである。


──という具合に、世界中で軌道エレベーターが何基も完成しており、宇宙へのアクセス機関の主役となっているようです。
 本作はその地上基部をどこに造るかという際、はるか昔(私たちにとっては現在)に存在した「通天閣」の話が出て「じゃそこに決めちまおう、ちゃんちゃん」という、それ以上でも以下でもないお話です。Wikipedia によると現存する通天閣は北緯34度なので、本来なら赤道上にあるべき軌道エレベーターの構造上の特性が働くか疑問ですが、36世紀には補う技術があるのかも知れませんし、ショートショートにツッコんでも仕方ないでしょう。軌道エレベーター自体の考察はここまでにします。



2. 小松左京氏の着想のルーツを探る
 本作での記述はわずかですが、やはり小松左京氏の著作で、軌道エレベーターが初めて登場した長編小説『果しなき流れの果に』と併せて見てみると、小松氏が軌道エレベーターの基本知識を正しく理解していたことがうかがえます。さすが小松左京先生です。
 本作や『果しなき流れの果に』の発表は、アーサー・C・クラーク卿の『楽園の泉』より10年以上も早く、ジョン・アイザックスの研究グループの発表の前年にあたります。冷静時代の当時、軌道エレベーターの発想は西側ではあまり知られておらず、クラーク卿も1975年のジェローム・ピアソン論文に触発されて『楽園の泉』を書いたと言われています。
 ということは、小松氏の着想の源流は西側世界の研究ではなく、やはりユーリ・アルツターノフによる1960年のエッセイにあるのでしょう。我が軌道エレベーター派の憶測ですが、1961年に早川書房の『SFマガジン』がその翻訳を載せているので、そこから着想したという流れが自然だと思われます。


3. 初出の謎
 ただし、軌道エレベーター派が確認した限り、本作の初出年月日に疑問が残りました。本作を収録した1979年発行の短編集『まぼろしの二十一世紀』(集英社)には、本作の初出を「昭和四〇・一・一一『毎日新聞』掲載」とあります。その後の『小松左京ショートショート全集①』(勁文社)などでも同じ初出が記されています。
 一方、『果しなき流れの果に』はSFマガジン1965年2月号から連載を開始しました。昭和40年=1965年。そして1月11日の新聞と2月号。近年は「2月号」って1月中に発売することが多いので、以前、このコーナーで『果しなき流れの果に』を扱った時から「初掲載はどちらが先だったのだろうか?」と疑問に思っていました。一般の人にはどうでもいいことでしょうが、軌道派的には重要な歴史なのです。
 普通に考えれば『通天閣発掘』の方が先なんです。『果しなき流れの果に』で軌道エレベーターが登場するのは三章からで、本格的に記述されているのは四章ですから、初回から出てくるわけない。しかし1次資料にあたって調べる姿勢は取材の基本。図書館で調べて参りました、はい。で、結論から言うと「わからない」。以下、詳細を説明します。

 まず『果しなき流れの果に』ですが、確かにSFマガジン1965年2月号から連載開始していました。そして三章は4月号。発行日付は「昭和四十年四月一日発行」となっているものの、一般的に発売日とは一致しないので無視しますが、とにかくも『果しなき流れの果に』における軌道エレベーターの記述が初めて世に出たのは、1965年3~4月となります。ちなみに5月号掲載分の扉には、軌道エレベーターとおぼしきイラストが描かれていました!

 問題は『通天閣発掘』の方。毎日新聞の縮刷版で1965年1月11日の紙面を調べてみたところ、載ってない (゚Д゚)!?この日は月曜日で、念のため前日も翌日も調べたみましたが見当たらない。1月1日から通しで探しても、同じ日付の朝日、読売、日経を見てもない。同じ短編集収録で「昭和四一・一一・二〇『毎日新聞』掲載」の『長い旅』は掲載されていたのですが、『通天閣発掘』は前後の年の1月11付紙面にもなく、ここで調査の手が止まってしまいました。

 現在のところ、『通天閣発掘』が1965年1月11日の毎日新聞に掲載されたという直接証拠は見つからないままです。そして申し添えると、K.E.ツィオルコフスキーは、1895年に出版した『空と大地の間、そしてヴェスタの上における夢想』で軌道エレベーターの原初的構想を紹介しており、これを「文学」としてみなせば、短編では『通天閣発掘』よりはるかに古い "軌道エレベーター文学"(神話や旧約聖書は文学とはみなさないとして)と言えるでしょう。
 これらを整理すると、軌道エレベーターが登場した文学作品は、長編では『果しなき流れの果に』が世界初の作品であるのは確かで、短編も含めた場合、「収録本の表記が正しければ」という注釈つきで、『通天閣発掘』が日本で最初である。これが我が軌道エレベーター派が確認した限りの結論です。今後、機会を見つけて調査は続けたいと思いますが、有力な情報をお持ちの方、ぜひお知らせください。軌道派の同志の諸君、情報求ム!
 何にしても、「日本は、恐らく軌道エレベーターという概念が世界でもっとも広く、一般的に行き渡った国ではないかと思われる」(『軌道エレベーター 宇宙へ架ける橋』より)とあるように、「軌道エレベーター」という名称が定まる遥か前から、日本は誇るべき軌道エレベーター文化史を持っていました。軌道派としては、この系譜を絶やさず続けていけるよう努力したいと思います。

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「軌道エレベーターの日」プレゼント当選者発表

2016-08-01 18:50:35 | その他の雑記
 さて皆様、「軌道エレベーターの日」記念プレゼント、当選者は以下の皆様です。

 Taki 様
 エゴム 様

 今年は2名様だけでした。(T▽T)
 Taki 様は例年ご応募下さる常連様です。最近軌道エレベーター関連のニュースが少ないという、厳しくもありがたいご意見もいただけました。多忙を言い訳に更新が滞っており反省するばかりです。お言葉に応えるよう頑張ります。エゴム様は身内であります。
 当選者の方には、追って連絡させていただきます。ご応募、ありがとうございました。今後とも軌道エレベーター派をよろしくお願いいたします。

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