東京軌道エレベーターガール
吉田正紀 中林ずん
(2019年 小学館)
あらすじ 人間ならだれでも一度は夢を見る宇宙への旅路。これは超巨大輸送機関と謎のエレベーターガールが贈る不思議な不思議な物語(サンデーうぇぶり紹介文より)
東京に建つ軌道エレベーターが舞台のコミック作品です。率直に言うと、本作には軌道エレベーターの理解普及を広げてほしいと願っていただけに、少々残念な内容でした。親しみやすい物語ではあるものの、物理的に間違った描写も含め、軌道エレベーターをあまり活かせてないと感じました。
リアリティを重視した作品ではないので、その辺は仕方ない部分もありますが、とにかくもまずは考察を。
1. 本作に登場する軌道エレベーター
本作の時代設定は現代ですが、私たちとは別の歴史をたどり、軌道エレベーターが完成している世界です。
タイトル通り、作中に登場する「東京軌道エレベーター」は、東京タワーを連想させるデザインの地上基部が東京にあります。多くの人がやって来てわくわくしながら展望台に昇るという、東京タワーやスカイツリーと同じような、訪れる人たちの期待感を物語のイメージとして重視しているのがうかがえます。
主な施設として静止軌道に「中軌道ステーション」、末端に「高軌道ステーション」が設けられており、このほかにも小規模な付帯施設が色々あるようです。厳密にいうと、静止軌道は「中軌道」には含まれませんが。
こうした施設がケーブルで結ばれ、この間を「ゴンドラ」が行き来しています。このゴンドラを操作するのが主人公、エレベーターガールの石刀伊奈(いわと・いな)。物語は伊奈を軸に、東京軌道エレベーターを訪れた人たちのふれあいなどを描いています。ちなみに搭乗料金は100万円くらいだそう。
少々ネタバレしますと、伊奈は人間ではなく、時空を超越した存在であり、特殊能力を有しています。東京軌道エレベーターは、伊那にもたらされたオーバーテクノロジーか、あるいは伊奈自身の能力に依存して維持されているらしく、「詳しいスペック何も公開されて無い」。彼女が人間ではないことを知るのは、国家元首など一部の人々に限られています。ちなみに伊奈さんゴンドラではずっと立ちっぱなしで仕事してます。
なお、作者の吉田正紀氏は2年前に宇宙エレベーター協会の座談会に出席されており、その時のお言葉によると、全長は4万7500kmくらいとのこと。また東京軌道エレベーター以外にも、少なくとも5基の軌道エレベーターが稼働しているほか、過去にテロで破壊されたこともあるそうです。
2. 軌道エレベーターに関する間違った描写
先に弁解しておくと、本作はあくまでキャラクターのドラマ重視であって、軌道エレベーターの科学的妥当性は二の次ということは理解しています。少年誌のコミック作品に理屈でツッコむのも無粋ですが、一応、作中に登場する軌道エレベーターを検証してみます。
なお本作には「雰囲気優先で、あえて間違った描写をしている」という点もあります。その一つが、日本に地上基部が造られていることで(まったく不可能という話ではないですが)、あえて東京に設定したという意味のことを、作者ご自身が述べておられます。
ほかの間違った描写も意図的な表現という可能性もあるので、ここでは
「意図や理由は不明だけど、軌道エレベーターの描写としては間違っている」という点を列挙します。
(1)ゴンドラが止まると無重量状態になる
中軌道ステーション=静止軌道以外の場所で、人工衛星接近などの緊急事態により「エレベーターを一時停止し、無重力状態に入ります」と伊奈がアナウンスし、乗客が動揺するシーンが複数あります。
言うまでもなく、静止軌道以外ではこのようなことにはなりません。静止軌道にある程度近ければ、ほぼ無重量状態にもなるでしょうが、高速で接近する物体との衝突可能性からしても静止軌道付近ではないと思われ、後述の理由からも理解に苦しむ描写であります。
(2) 以下の場面
一番首をかしげるのが、以下のいくつかの場面。
これら全部高軌道ステーション、つまり
静止軌道より上の位置での描写です。中央の絵はステーション内でお茶しながら地球を見下ろしている。左右はステーションの、いわば屋上に出て宇宙を見上げています。基本原理を理解している人ならおわかりでしょう。
重力が働く向きがあべこべなんです。
静止軌道から上は、地上とは重力が逆向きに働きます。ガンダムのスペースコロニーの中と同じ状態です。しかし本作では、本来なら頭上に地球が見えていなければいけないところを、こういう向きに人が立っている↓
基本原理に対し真逆の描写であり、さすがに「これで軌道エレベーターと言えるだろうか?」と思いました。伊奈は「上へまいります」というのが決め台詞&決めポーズなので、末端まで向きを「上」にしたかったのかも知れませんが。
むしろ「重力が逆に働くなんて不思議だね」なんて感じで、軌道エレベーターならではのネタにしてほしかった。こうした点に、軌道エレベーターというガジェットを活かし切れていないと感じて勿体ない気がします。
(3) 静止軌道以外で宇宙遊泳をしている
末端にある高軌道ステーションや、途中停止したゴンドラの周囲など、静止軌道以外の高度で宇宙遊泳したり、小型の宇宙船が軌道エレベーターの周りを自由に飛び回っている場面がいくつもある。
これも不可能な話で、本作の高軌道ステーションの場合で言えば、ステーションから手を放した瞬間、軌道エレベーター自体の角運動量の一部を受け継いで、第2宇宙速度で放り出されてしまいます。
(4) 高軌道ステーションが破壊されて地上に落ちると騒ぐ
第35話で、高軌道ステーションが破壊されるというニュースが飛び交います。破壊自体はデマと判明しますが、一時乗客がパニクります。これも言うまでもなく、壊れても地上に落ちることはありえません。
むしろ心配すべきは、高軌道ステーションより下の構造体の方で、カウンターマスを失った軌道エレベーターは、コリオリ力に伴い、地球に東向きに巻きつくように倒壊する可能性があります。
ほかにも中軌道ステーションにいるのに無重量状態になってないなど、ぶっちゃけ正しく描写している箇所の方が少ないようにも見えます。ちなみに軌道エレベーター以外でも、宇宙空間の軌道運動の描写はほとんど間違っています。
しかし。
しかし、です。
「重力制御」というキーワードが登場するんです。少なくともゴンドラにはその装置があり、伊奈自身も重力を操作できます。ということは上記に挙げた点は重力制御の結果なのかも知れません。しかしそれならそれで、新たな疑問が生じる。
上記(1)で「理解に苦しむ」と書いたのはこのことで、重力制御ができるなら(1)の状況で使えばいいじゃないかと思うし、実際、45話で途中停止したゴンドラで重力制御装置を使ってるんです(終盤に登場した新型ゴンドラの装備だが、なぜか下降時に重力制御しているというセリフが19話にあり、旧型にも装備されていると思われる)。
そもそも
重力をコントロールできるなら軌道エレベーターの意味ないだろ。重力制御について知っているのはわずかな人たちだけなのかも知れませんが、
そしたら静止軌道より上で、重力が逆向きに働くことをおおっぴらにできるとも思えない。
とにもかくにも、故意か単なる間違いかは不明ですが、軌道エレベーターについて正しくない描写が多く、本作は軌道エレベーターの理解に役立つ作品とは言い難いです。
色々あげつらいましたが、上記はあくまで理屈に沿った、いわば正誤判定です。作中にはデブリ回収や無重量状態でのチョコ作り体験、建造中のケーブル落下事故など、軌道エレベーターならではのネタもあり、特にゴンドラで宇宙まで上昇する動画を撮るなんてのは素晴らしいエピソードだと思いました。こうしたネタがもっとほしかったです。
そして何よりも、一般の人が地上からエレベーターで宇宙へ行ける、というのはやはり軌道エレベーターだからこその持ち味であり、これを漫画で描いてくれたのはとても喜ばしいです。
3. ストーリーについて
ストーリー展開でも、軌道エレベーターに関し残念な点があります。もともと、スレッカラシになってしまったオッサンには、本作のようなハートフルなストーリーの類は少々物足りないのですが、個人的な好みは抜きにしても、惜しまれる点があります。
一つは軌道エレベーターに関係ない話が多い。東京軌道エレベーターで昔の大切な人と再会したとか、将棋の棋士が宇宙空間を投影したゴンドラ内でリフレッシュするとか。重力のある所でやってるので、これ、プラネタリウムに行ったのと変わらないでしょ。
いま一つは、登場人物が宇宙から地球を見下ろした瞬間、憑きものが落ちたように柔和になって一件落着、というパターンが多い。2話連続で同じオチもある。
ただし、軌道エレベーターから明後日の方向に進んでしまうものの、本作は全編を通じて物語の構造はしっかりしており、キャラクターと動機づけ、メインテーマやメッセージ性、伏線とその回収などの要素が、一貫性のある展開にきちんと盛り込まれていて、漫画の王道を行っていると感じます。
またネタバレですが、本作では地球で人類が繁栄するこの宇宙が、実は消滅の危機に向かっており、この危機を回避するというストーリーが、東京軌道エレベーターを訪れた人々と伊奈とのかかわりを中心に描くエピソードの裏で、少しずつ進んでいきます。
私たちの宇宙のほかに、平行世界における別の宇宙で人類は別の歩みをたどっており、それぞれの宇宙で人類と接点を持つ「干渉者」がいます。伊奈はその1人です。なぜか全員女性です。
宇宙の消滅には、人類文明の進歩が関係しているらしく、伊奈は姉妹のようなほかの干渉者と共に、それぞれの宇宙がビッグクランチに向かわないようにする役割を担っており、文明にどの程度干渉すれば危機を回避できるか見定めるという、社会実験のようなことをやっています。
地球人にしか干渉しないところを見ると、地球以外に知的文明は存在しないということですかね?
伊奈は自分が受け持つ宇宙(たどった歴史は異なるが、一応私たちの世界に一番近い)に対し、ほとんど干渉せずに自由意思を尊重しています。ほかの干渉者と対照的に、主人公の人を信じる心や、それに応えようとする人類の思いを描くのも本作の主題と言えるでしょう。
そうした状況において、軌道エレベーターを含む人類の宇宙進出が何者かを刺激し、宇宙消滅の危機が高まっていきます。その末に迎えるラストは、読んで確かめてください。
個人的には、記憶を操作して人類に干渉する永遠子にまつわるエピソードが良かったです。ちなみに伊奈さん、昭和期(?)に百貨店にエレベーターガールとして勤務していた経歴があるのですが、給与所得があったんだからちゃんと納税してたんだろうな?
軌道エレベーターの理解には役立たないと書きましたが、漫画という手軽に読めるメディアで軌道エレベーターを取り上げた作品として、知るきっかけを与えてくれるという位置づけの作品になるととらえています。本作を機に、軌道エレベーターに興味を持ってくれる人が増えてくれることを願います。