今朝起きて、ブログの巡回を始めたら昨年の暮れから余命1ヶ月と宣告されたお母さんを兄弟を含むファミリー全体で支え、自宅療養生活を叶えてあげていた元の職場の同僚が、お母さんの最後を伝えていました。
そして本日1月24日は義父が亡くなった日でもあります。 その義父については去年の6月のブログ「人の死に際―1」の中で ”亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。” と記した。 丁度良い年忌の日でもあるから、 それを書いてみようと思う。
妻の父、つまり僕の義父は敗戦の時を千葉県あたりの高射砲陣地で迎え、戦後の混乱期には進駐軍の基地内ベーカリーに職を得て、パンやケーキを焼いていたそうだ。 だから英語だって僕の耳より格段に良く聞こえ、 喋るのだって流暢なようだった。 僕達が結婚して何年か経ってから子どもが生まれ、その子と育児休暇中の妻を実家に残して、義父と僕はそれぞれにとっての初めての海外旅行を共にした。 フランスに入国して、ドイツのフランクフルト空港から出国するその旅は、航空券と到着地と出国地での宿が確定してる以外はヨーロッパ各地の宿で使えるクーポン券を支給され、途中の行程や宿は「自分たちで鉄道等を使い、好き勝手に移動・観光して下さい」が売りの海外旅行だった。
パリを起点にスイス・グリンデルワルトやツェルマットの街を巡り、オーストリア国内を列車で移動する頃には2人が連れ立って旅を続ける必然性をお互いに感じなくなり始めていた。 それでオーストリア・インスブルックの駅に到着した時には「別れて旅を続けましょう」となりました(単純に言えば喧嘩別れです)。 義父はそこからハイデルベルクを経由して、最終地のフランクフルトへ向かうそうです。 ぼくはザルツブルクまで行って、映画サウンドオブミュージックのロケ地を訪れ、ミュンヘンからロマンチック街道をバスの旅をしながらフランクフルトへと戻ります。
そんな事のあった旅の最後の宿で義父と再会するときは、随分と気まずい想いをしなければならないかと覚悟していたのですが・・・ あにはからんや義父は上機嫌で「面白い飲み屋が有るぜ!」、「どうだい一緒に行くかい?」と僕を誘ってくれました。 日本で言えばチョット大きめの赤提灯と言った趣の店でした。 楽しさの理由も判りました。 そこに屯する、かっての同盟国ドイツの戦友とお近づきになっちまったって事のようです。
そんな義父との関係が始まって8・9年すぎた夏の日のこと、唐突に 「どうだい、俺を郵便局の簡易保険に入れてみないか?」、「今なら入れるし、 結構儲かると思うぜ・・・」 なんて言うのです。 その時は「金に困っている訳じゃないし、義父さんを保険に入れて金儲けするつもりも有りませんから」と返事しました。 そんな事のあった翌年の1月中旬に、義父は自分でホスピス的な看護が期待出来る病院を手配して、さっさと入院しました。 すでに10年ほど前に、癌の手術をして、お腹に袋をぶら下げる生活を続けていたのは僕も知っていました。 でも死期が近いほどの状態だなんてしりませんでした。
義母や妻を含む義父の3人の子供達は毎日の様に病院を見舞い、1月23日には「もう永くない」と全員が病院に詰めていました。 3つ程になっていた息子と僕は家に居たのですが、暗くなって妻から電話が入りました「今夜が峠だと言われたので、 すぐに来て下さい!」 と。
冷たい風が音をたてて吹いている夜でした。 息子を腕に抱えバス停に向かう途中、何かに脚を取られてすっ転ぶアクシデントがありましたが、何故か衣服に泥が付いただけで、息子も僕も無傷で済みました。 「ラッキー」としか言い様のない、その出来事も忘れられない、その日の想い出の一部となっています。
到着した病室には親類縁者が沢山集まっていました。 義父の意識はハッキリしていて、会話にも力があり、なんの問題も無さそうに感じてしまいます。 集まった人それぞれに別れの言葉を伝えています。 その様子はTVドラマの作り物の臨終シーンか?と感じさせてしまいます。
僕の番になりました。 僕は来る途中で用意した真っ白な日記帳を義父に手渡し「これに入院日記でも書いたら、暇つぶしになりませんか?」と言うと、「よせやい、 俺はもうおさらばだよ」 「初めて行ったヨーロッパ旅行、本当に楽しかったね、行けて良かった、有難う!!」 こんなやり取りを、 思い出しながら書いていると涙が出てきてしまいます。
そして、義父の息子の一人には、布団の下で見えない腹を触らせて 「凄く膨らんでいるだろう? 痛くてたまらねーんだよ」 「医者はね、腹水を急に抜くと死にますよ」と言うけどね、 「もうイイから、どんどん抜いて貰いたいよ」なんて言ってました。 ベッドの脇には抜きつつある腹水が溜まったビニール袋があり、単純な透明では無く、淡い赤みが加わった液体でした
その夜が義父の最後になるとの事だったけれど、夜の9時を過ぎ、 我が家も含めて妻の弟家族の所にも同じような年頃の小さな子ども達が来ていて、 彼らをベッドの側に居続けさせる事も出来ません、 それで。それぞれの連れ合いが、小さい子供たちを連れてタクシーに分乗して夜を過ごすために妻の実家へともどりました。 そして翌朝「お父さんが今朝(1月24日)に亡くなりました」 「家に連れて帰りますから、部屋を少し片付けて置いて下さい」の電話連絡がきたのです。
そして本日1月24日は義父が亡くなった日でもあります。 その義父については去年の6月のブログ「人の死に際―1」の中で ”亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。” と記した。 丁度良い年忌の日でもあるから、 それを書いてみようと思う。
妻の父、つまり僕の義父は敗戦の時を千葉県あたりの高射砲陣地で迎え、戦後の混乱期には進駐軍の基地内ベーカリーに職を得て、パンやケーキを焼いていたそうだ。 だから英語だって僕の耳より格段に良く聞こえ、 喋るのだって流暢なようだった。 僕達が結婚して何年か経ってから子どもが生まれ、その子と育児休暇中の妻を実家に残して、義父と僕はそれぞれにとっての初めての海外旅行を共にした。 フランスに入国して、ドイツのフランクフルト空港から出国するその旅は、航空券と到着地と出国地での宿が確定してる以外はヨーロッパ各地の宿で使えるクーポン券を支給され、途中の行程や宿は「自分たちで鉄道等を使い、好き勝手に移動・観光して下さい」が売りの海外旅行だった。
パリを起点にスイス・グリンデルワルトやツェルマットの街を巡り、オーストリア国内を列車で移動する頃には2人が連れ立って旅を続ける必然性をお互いに感じなくなり始めていた。 それでオーストリア・インスブルックの駅に到着した時には「別れて旅を続けましょう」となりました(単純に言えば喧嘩別れです)。 義父はそこからハイデルベルクを経由して、最終地のフランクフルトへ向かうそうです。 ぼくはザルツブルクまで行って、映画サウンドオブミュージックのロケ地を訪れ、ミュンヘンからロマンチック街道をバスの旅をしながらフランクフルトへと戻ります。
そんな事のあった旅の最後の宿で義父と再会するときは、随分と気まずい想いをしなければならないかと覚悟していたのですが・・・ あにはからんや義父は上機嫌で「面白い飲み屋が有るぜ!」、「どうだい一緒に行くかい?」と僕を誘ってくれました。 日本で言えばチョット大きめの赤提灯と言った趣の店でした。 楽しさの理由も判りました。 そこに屯する、かっての同盟国ドイツの戦友とお近づきになっちまったって事のようです。
そんな義父との関係が始まって8・9年すぎた夏の日のこと、唐突に 「どうだい、俺を郵便局の簡易保険に入れてみないか?」、「今なら入れるし、 結構儲かると思うぜ・・・」 なんて言うのです。 その時は「金に困っている訳じゃないし、義父さんを保険に入れて金儲けするつもりも有りませんから」と返事しました。 そんな事のあった翌年の1月中旬に、義父は自分でホスピス的な看護が期待出来る病院を手配して、さっさと入院しました。 すでに10年ほど前に、癌の手術をして、お腹に袋をぶら下げる生活を続けていたのは僕も知っていました。 でも死期が近いほどの状態だなんてしりませんでした。
義母や妻を含む義父の3人の子供達は毎日の様に病院を見舞い、1月23日には「もう永くない」と全員が病院に詰めていました。 3つ程になっていた息子と僕は家に居たのですが、暗くなって妻から電話が入りました「今夜が峠だと言われたので、 すぐに来て下さい!」 と。
冷たい風が音をたてて吹いている夜でした。 息子を腕に抱えバス停に向かう途中、何かに脚を取られてすっ転ぶアクシデントがありましたが、何故か衣服に泥が付いただけで、息子も僕も無傷で済みました。 「ラッキー」としか言い様のない、その出来事も忘れられない、その日の想い出の一部となっています。
到着した病室には親類縁者が沢山集まっていました。 義父の意識はハッキリしていて、会話にも力があり、なんの問題も無さそうに感じてしまいます。 集まった人それぞれに別れの言葉を伝えています。 その様子はTVドラマの作り物の臨終シーンか?と感じさせてしまいます。
僕の番になりました。 僕は来る途中で用意した真っ白な日記帳を義父に手渡し「これに入院日記でも書いたら、暇つぶしになりませんか?」と言うと、「よせやい、 俺はもうおさらばだよ」 「初めて行ったヨーロッパ旅行、本当に楽しかったね、行けて良かった、有難う!!」 こんなやり取りを、 思い出しながら書いていると涙が出てきてしまいます。
そして、義父の息子の一人には、布団の下で見えない腹を触らせて 「凄く膨らんでいるだろう? 痛くてたまらねーんだよ」 「医者はね、腹水を急に抜くと死にますよ」と言うけどね、 「もうイイから、どんどん抜いて貰いたいよ」なんて言ってました。 ベッドの脇には抜きつつある腹水が溜まったビニール袋があり、単純な透明では無く、淡い赤みが加わった液体でした
その夜が義父の最後になるとの事だったけれど、夜の9時を過ぎ、 我が家も含めて妻の弟家族の所にも同じような年頃の小さな子ども達が来ていて、 彼らをベッドの側に居続けさせる事も出来ません、 それで。それぞれの連れ合いが、小さい子供たちを連れてタクシーに分乗して夜を過ごすために妻の実家へともどりました。 そして翌朝「お父さんが今朝(1月24日)に亡くなりました」 「家に連れて帰りますから、部屋を少し片付けて置いて下さい」の電話連絡がきたのです。