脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Was kann ich wissen? Was soll ich tun? 私は何を知ることができるか、何をすることができるか?

2021-06-04 | Weblog
コロナウイルスの感染がひろがってきました。現在も多くの人がトレーニングに来てくれていますが、ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください。ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださいますようお願いします。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」これはカントの認識論であるが、一見何を言っているのかわからない、もっとわかりやすく言えと言う人もいるだろうが、カントは非常に理屈っぽいまじめな哲学者である。私は専門的にやったわけではないが、カントによれば人間はただ五感に入ってくるものを自動的に受け入れて、それを認識するのではなく、それがそれとしてあらわれるためにはその対象が人間と言うフィルターを通して理解され、はじめてそれがそこに現れる。例えば爆弾があるとする。この爆弾は視覚、聴覚、そして体験してきたことに基づいてこれが爆弾と認識し、そこに爆弾が存在する、すなわち人がこれが爆弾だと五感や経験で認識できるからこそ爆弾はそこに存在するわけで、人間がそこにそれがあると認識することで対象は唯一存在できると言うことだ。
そしてそれとは別に意志が存在する。意志はその認識した対象をどう扱うかということを問題にしている。例えば爆弾は五感で認識できる範囲としては共通の事柄だ、しかし爆弾は爆発させるために使うものだと考えて使うのと、爆弾は危ないものだから爆発させてなならないと考えるのでは大きな違いがあって、この世界を住みやすくするためにはそれをどう正しく扱うかと言う意思を持つのが我々の課題である。意志は条件に関係なく「~ならば~すべき」の仮言命法ではなく、誰にでも当てはまる定言命法「~すべき」に基づく意志によるものだ、そしてその正しい共通理解によって行動することで平和な世界を実現させていく、そしてその意志を育てるのは教育の問題である。

前に何々するなとか何々しろと言うルールをもうけるような集団はそれ以外ではモラルがひくいと言ったことがある。うちのクラブは体育会のようなルールはないし、そういう小学生でも理解できるルールで動く人間もいない、それでも秩序が整っているのは、みなさんがやっていいこととわるいことの基準を人に言われなくてもきちんと持っているからだ。ジムでありがちななまいきな人間をスパーリングでボコボコにしたり、カーッときて敵意むき出しでなぐりかかっていく、いいところを見せようとして自分よりも実力のない人間をいたぶるようなスパーリング、裸でトレーニングするのもそうだが、そういうことは絶対におこらない、なぜならこういうことは決してやってはいけない暴力であると言う認識が会員のひとひとりびとりの中にあるからだ。
何々しろとか何々するなあるいは自分よりも立場が上の人間の顔色を見て行動するような人間が集まるとでたらめなことがおこる、どういうでたらめなことかというのは想像におまかせするが、そういう人間が集まるとその集団がサル化するということである。

正直教育は大事だ、その集団が教育的であるのとないのでは大きな差がある。筋肉をつけて、威嚇したような恰好で、意味もない武勇伝をはいてアドバンテージをとろうとする。ユダヤに「からのツボほど大きな音がする」ということわざがあるが、いくら外見を強く見せても中身が空っぽではチンピラやDQNはついていけても一般の社会人はついていけない。
ウィトゲンシュタインによれば、言葉によって表現できる世界が我々の世界である。そして言葉の理解も人それぞれで、人間は言葉理解の共有できる範囲で群れをつくる、単純に言えば言葉がつたないと同じようなレベルの人間しか集まってこない、ジムのような公共の場に一般の人が来やすくするためには、言葉をまともに理解して話せと言うことである。
社会には言葉の格と言うものがある。これはその人のインテリジェンスや学歴などによって付随するものだが言葉はその人の格あるいは、品格をあらわすものである。インテリジェンスの高い人にボキャブラリーもひくい、言葉もつたない人間がまともに会話できるはずがない、管理者が言葉をしっかりと選んで使って群れを管理していくことは、一般の社会人たちにも来やすい、同じレベルで集まってくる特定な人間を集めない、平和で平等なコミュニティを形成する上では不可欠な事柄で、それは教育的な事柄でもあるだろう。
前も言ったがうちのクラブの人たちは学校生活をまじめに送ってきた人たちである、みなさんやっていいことととわるいことの基準がしっかりしているので群れを管理しやすいことは確かなことだ。マスク着用に関しても説明してお願いしたら全員がその通りにマスクを着用してトレーニングしてくれたのだが、こういった秩序は彼ら彼女らの学校生活とは無関係ではないだろう。
私の意見では学校生活を経験することは社会で生活していく上では大きなアドバンテージだ、学校がおもしろいとかおもしろくないとか、そういうことは抜きにしたら、学校は社会で生きていく上での訓練となる場であるとも言っていいであろう。うちのクラブはルールはない、すごく自由である。しかし自由だからと言って力の原理がはたらいて、試合に出るとか言う人間がリングを牛耳ったりしない、暴力的なことはおこらない、マスなども安心して見ていられる、でもそれができるのはひとりびとりにまともな善悪の判断があるからで、そういう意味ではうちのクラブは教育的であると言ってもいいだろう。

最後に私が好きなヴィトゲンシュタインの言葉を上げたい、少し本題とはずれるが非常に深い言葉だ。
「良心とは認識の生が保証する幸福のことだ。認識の生とは、世の中の苦しみにもかかわらず幸福であるような生のことだ。世の中の楽しみを断念しうる生のみが幸福なのだ。世の中の楽しみは、この生にとって、たかだか運命の恵みにすぎない。」

参考文献
カント「純粋理性批判」
Ludwig Wittgenstein " Logico-philosophicus"




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