脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

フラットな関係って

2019-09-20 | Weblog
少し前までアドラー心理学がブームであった。そして専門家というかそれらしい人間がそれに基づいた実戦心理学を語る。失礼だが最近そういう人たちがうさんくさく見えてきた。心理学と言うのは社会や精神構造をぬきにしては語れない、日本人には日本人の文化や思考がある、しかしそれを無視したように換骨奪胎的にその心理学を取り入れて実践させようとするのはいささか無理があると思う。特に私が疑問と言うか少し無理があると思っているのはアドラーが上下関係をこわして徹底したフラットな人間関係を求めることだ。

西洋と日本とでは少し文化が違う。アドラーはユダヤ人である。ユダヤではバルミツバーと言って13歳になれば大人となって共同体の一員となるのだが、それはそこから彼が大人としての責任をおわされるということである。一方日本は成人式があるように20歳まではまだまだ未熟もっと目上の大人から学ぶことが多く、日本のコミュニティはまさにそういうシステムではないかと思う。基本的にユダヤの共同体は契約によるものだ、だからそこでおわされる責任は大きく、ひとりびとりの自立が求められる、それがユダヤ社会で、アドラーは中学、高校とユダヤの伝統的な学校で学んできたのだから、その影響は大きいであろう。そういう両者の文化の違いを考えたら、日本人はフラットと言う人間関係が理解できない、そういう文化背景や精神構造を無視して理屈をつらねてフラットな関係を築けと言うのはいささか無理があると思う。私が外国のボクシング経験を通して日本人が素晴らしいと思ったのは、教えあうことができるというアドヴァンテージだ。外国だったら自分が苦労しておぼえた技をいとも簡単に他人に教えること言うことはないが、しかし日本人はそのコミュニティの中で教えあって成長していく、そしてそれはお互いの依存によるものかも知れないが、ポジティヴに考えれば助け合い、日本人はそういう感覚と言うかセンスを持った民族であると思う。アドラーは徹底して上下関係をこわそうとしているが、しかしそれには無理がある。なぜならアドラーの言う自己受容、他者への信頼、他者への貢献と言うのは日本人の場合はそういった上下関係から出てくるもので、私はあえてそれを否定することは必要ではないと思っている。
私は上下関係を否定しない。上下関係と言っても体育会のように親玉や先輩が威張ると言う関係ではなく、その上下関係を人間の成長のために考える。例えばあいさつは先輩からしてあげる。うちでは自然とそうなっているが、そうしたらあいさつしない子も自然とできるようになるが、これは他人から与えられることによって自己が受容でき、相手を受け入れ、他者に貢献できるようになる。まあ上下関係と言う言葉は語弊があるが、その上下関係を逆から考える上下関係と言ったらいいかも知れないが、目上を敬い、目上のものが大人としての責任をはたして、その子供や若者の成長の糧となる人間関係は日本人が持つ独特の美徳で、そのことを大事に考えて共同体を考えることも大事なことであると思う。




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You shall not give false testimony against your neighbors

2019-09-20 | Weblog
「排除されていないものは、包括されている」
 これは「社会学の諸形式の研究」の中で書かれたジンメルの言葉である。この言葉は差別の構造を表した言葉であるが、差別には差別する側と差別される側があるのだが、しかしそれを傍観しているものも、差別している側と同じであるというジンメルの立場を表した言葉である。
文学博士に森田洋司さんという人がいる。
この人がいじめの研究の中で、いじめの被害について言及しているが、いじめの被害の大きさは、いじめっこの数ではなく、傍観者の数に相関すると言っている。
 すなわち差別を傍観したり、無関心である人の存在は、そのいじめている人間に無言の指示を与え歯止めをきかなくさせているというのだ。
さらに私は宗教学が専門なのでユダヤ教の掟について言及したいが、ユダヤ教の教えにこういう教えがある。「You shall not give false testimony against your neighbors」これはモーセの十戒の掟で日本語訳では「隣人について偽証してはならない」となっていると思う。しかしこの言葉は、何々するなというただ否定するだけの消極的な言葉ではない。おそらくその当時現代社会のように、科学的な鑑識やそういったたぐいのものがなかったので、裁判においては人の証言と言うのが重要な証拠であり、その裁判で裁かれる人間を生かすも殺すも、まさにその人間の証言次第であったからで、もちろんそういう環境で偽証するなというのはあたりまえなわけだが、しかしこの言葉はもう一つ積極的な意味をもっている。それは知っていることはすべて証言しなさいと言う、積極的にあなたは真実をそこで語りなさい、そうでないと偽証していることと同じことなんですよと言う意味である。
こういうことを言えば、ジンメルの研究者に違うと指摘されるかも知れないが、私はジンメルの差別について考える時、ユダヤ教が彼の考え方に非常に密接にかかわっていると思う。実際彼はユダヤ人の共同体の学校に入学し、そこで教育を受けているし、彼自身もユダヤ人である。おそらくこのかれのこの言葉の背景には少なからずとも、そのユダヤ教の影響があるというのが私の見解であるが、差別を何も感じないで何も行動を起こさないのは、差別するのと同じだという「排除されないものは包括される」というのは、まさに偽証するなと同じことではなかろうかと思う。
現在でも事実いじめというのはあるようだが、この言葉は今のいじめをとりまく環境にいる私たちにとって考えさせられる言葉である。私がいじめについて考えるようになったのは、ここにそういう子供たちが来たり、親が相談にくることがあってそうなったわけだが、その中でいじめを問いなおした時に思ったことは、私もそうであったが、まわりが本当にこのいじめにたいして解決しようとしているのだろうか、ただ単純にいじめられなければいいということだけで、終わっていないかと言うことである。少し難しくなるので割愛するが、ジンメルのこの言葉は今のいじめをとりまく、私たちに提言している。いじめというのはいじめられる側といじめる側の問題だけではない、それを取り巻く全体の問題でもある。すなわち共同体でそれを解決していかなくてはならない問題でもある。少し前から欧米社会ではこのいじめに対して、まわりの人間がそれをどう考え対処していくかということが問題になっているが、問題になっているのはいじめをなくそうではなく、いじめをゆるすなである。たぶん日本はまだいじめが、そのいじめられている子といじめている子、そして教師や親という中でしか問題にしていないが、しかしこれはそれをとりまく全体の問題であって、もう少しまわりの人間にも、このジンメルの言葉のように責任をおわすことも必要であると思う。

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