少し前までアドラー心理学がブームであった。そして専門家というかそれらしい人間がそれに基づいた実戦心理学を語る。失礼だが最近そういう人たちがうさんくさく見えてきた。心理学と言うのは社会や精神構造をぬきにしては語れない、日本人には日本人の文化や思考がある、しかしそれを無視したように換骨奪胎的にその心理学を取り入れて実践させようとするのはいささか無理があると思う。特に私が疑問と言うか少し無理があると思っているのはアドラーが上下関係をこわして徹底したフラットな人間関係を求めることだ。
西洋と日本とでは少し文化が違う。アドラーはユダヤ人である。ユダヤではバルミツバーと言って13歳になれば大人となって共同体の一員となるのだが、それはそこから彼が大人としての責任をおわされるということである。一方日本は成人式があるように20歳まではまだまだ未熟もっと目上の大人から学ぶことが多く、日本のコミュニティはまさにそういうシステムではないかと思う。基本的にユダヤの共同体は契約によるものだ、だからそこでおわされる責任は大きく、ひとりびとりの自立が求められる、それがユダヤ社会で、アドラーは中学、高校とユダヤの伝統的な学校で学んできたのだから、その影響は大きいであろう。そういう両者の文化の違いを考えたら、日本人はフラットと言う人間関係が理解できない、そういう文化背景や精神構造を無視して理屈をつらねてフラットな関係を築けと言うのはいささか無理があると思う。私が外国のボクシング経験を通して日本人が素晴らしいと思ったのは、教えあうことができるというアドヴァンテージだ。外国だったら自分が苦労しておぼえた技をいとも簡単に他人に教えること言うことはないが、しかし日本人はそのコミュニティの中で教えあって成長していく、そしてそれはお互いの依存によるものかも知れないが、ポジティヴに考えれば助け合い、日本人はそういう感覚と言うかセンスを持った民族であると思う。アドラーは徹底して上下関係をこわそうとしているが、しかしそれには無理がある。なぜならアドラーの言う自己受容、他者への信頼、他者への貢献と言うのは日本人の場合はそういった上下関係から出てくるもので、私はあえてそれを否定することは必要ではないと思っている。
私は上下関係を否定しない。上下関係と言っても体育会のように親玉や先輩が威張ると言う関係ではなく、その上下関係を人間の成長のために考える。例えばあいさつは先輩からしてあげる。うちでは自然とそうなっているが、そうしたらあいさつしない子も自然とできるようになるが、これは他人から与えられることによって自己が受容でき、相手を受け入れ、他者に貢献できるようになる。まあ上下関係と言う言葉は語弊があるが、その上下関係を逆から考える上下関係と言ったらいいかも知れないが、目上を敬い、目上のものが大人としての責任をはたして、その子供や若者の成長の糧となる人間関係は日本人が持つ独特の美徳で、そのことを大事に考えて共同体を考えることも大事なことであると思う。