脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

アドラー心理学においてDQNお断り

2015-05-08 | Weblog

MOBの共同体を考える時アドラー心理学を参考にしている。アドラー心理がにおいて共同体感覚と言う言葉は彼の心理学のコアであると言っても過言ではないが、すごくあたりまえの言葉で言うと人は共同体につながることで成長し、共同体を意識することでよりよいライフスタイルを持つことができるという考え方である。MOBはどういう人がここに来ているかということを問題にしてる。DQNや乱暴そうな奴を入会させないというのはそういう人間が与える影響と言うのは大きいからで、そういう人間が来ると共同体の質がさがるからだ。それとは逆に社会で責任をもって働いている人たちが集まる集団は共同体にとって安心できる、そういう人たちが集まると群れの質が上がりいい影響を与えてくれる。ボクシングと言うスポーツは個人スポーツなのでどちらかと言うと目立ちたがり屋や恣意的な人間が多いと言うのが私の見解だ。俺は団体スポーツにむいていないからボクシングをしたなんていうのはまさにそれを裏付ける言葉であるが、成熟した人間と言うのは与えることができる人間だそして成熟できていない人間は与えることができない人間である。アドラーは共同体感覚を持つことが群れをよくし自分をよくする不可欠なものだとしたが、共同体感覚と言うのは「誰かのやくにたちたい」「言い世の中にしていこう」「すべての人が幸せになることを考えよう」「自分たちの未来をよくしよう」という価値観を持つことである。一方その感覚が欠如した人間は「自分のことで手がいっぱいだから人のことにてがまわらない」「自分の思うようにコントロールしたい」「自分だけが目立ちたい」「自分が損することはできるだけさけたい」と言う価値観を持っことで、DQNを入会させないというのはそういう輩はこういうタイプが多いと分析しているからである。MOBは比較的前者の考え方を持った人たちが多く、トレーナーや会員の人たちは自分が損をするとかそういうことは関係なく、人のために進んで何かを申し出てくれるのだが、基本的にはボクシングが上手だと言う人間よりもこういう共同体感覚を持った人間が入会してくれるほうがMOBにとってはありがたいし、群れが健全に保てる。DQNを入会させないようにしているのは群れの質を下げたくない、会員に安心してトレーニングしてもらいたいからである。さらにこの共同体感覚を持った人たちが集まれば自分のことをもっと考える。少なくともボクシングだけをやっていたらいいと言うような考えにはならない、むしろ言葉を知らなかったり教養がなければこれじゃいかんと刺激されるであろう。実際にある程度教養のある人間の中で話をしたら言葉を知らないとみじめな思いをすることは確かである。それをごまかして自分たちが通用する小さな世界で集まるか、これではいかんと本を読んだり語学を勉強するかは本人次第であるが、その原動力や刺激となるのがそこに集まっている共同体である。アドラーは劣等感が人間を進歩させる原動力だと言っているが、その劣等感も正しい共同体を通してよりよい目的を持つものとなる。例えば金銭的に恵まれない劣等感を持った人がしっかりとした共同体感覚を持っていれば社会で認められる人間いなり生産性の高い仕事につくであろう。そしてそれらの行動は社会にとって有益となる、がしかし共同体感覚がとぼしい人はなければものを盗んだり、だましたりして金品を奪えばいいんだと考える。単純であるが人間の行動のきっかけや目的を正しく導くのが共同体の役割であるというのがアドラー心理学の考え方である。そういう意味で自分はどういう共同体につながっているかということは非常に大事なことだ、ことわざで「類は友を呼ぶ」という言葉があるがこのアドラー心理学を応用させれば、その人間がどういう人間とつきあい、どういう仲間につながっているかということはその人間を見るうえで大きな手掛かりとあるであろう。よくこういうことを言うと偏見だとばかりにみんながみんなそうではないというようなことを言う人間がいるが、しかしこういう考え方は稚拙だ、はっきり言って私は共同体と言うものを正しく健全に保たなくてはならない、そのためのプロファイリングである。


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タシマンナソ ノムキッポヨ

2015-05-05 | Weblog

「オリニナル」

5月5日は子供の日であるが子供の日は韓国にもある。韓国では子供の日と言うのはオリニナルと言うがこのオリニナルと言うのは子供の人権を重視した言葉で、日本人の端午の節句とはことなった考え方の上に立っているのが韓国のオリニナルである。でオリニナルと言うのは文字通りオリニ(子供)とナル(日)で子供の日であるがオリニと言う言葉が人権思想をあらわした言葉だ。よく向こうのことを知っている人で人権思想と聞いて笑わせるじゃないかという人もいるだろう、しかしそういう女性や子供に人権がなかった国であるがゆえに出てきた思想でオリニナルの考え方の根本は子供の人権を守ることである。オリニと言う言葉は幼い人と言う言葉であるがこれは一般的に子供をあらわすアイと違って幼いけれども彼ら彼女らは同じ人間(イ)であるのだという考え方に基づくのだが、それほどまでに朝鮮王朝時代の朝鮮は女性や子供の地位がひくかったと言えるのだがオリニナルと言うのはまさにその人権のなかった国において子供の人権を啓発した日であるのだ。

私が子供のボクシングを反対しているのは人権的な視点からである。まだまだボクシングの世界と言うのは巷にはよく知られていないし、ボクシングは普通のスポーツとは違う、特に脳へのダメージと言うのは子供の将来性を考える上では非常に需要なことで、医学的にも危険で後遺症がのこるであろうというスポーツを医学的なことを無視して本人の希望などと言うようなことでごまかすのは間違っている。きちんとその危険性とおこる可能性がある後遺症的なことをはっきりと伝えるか、それができなければ疑わしいことは禁止するというかたちをとらなくてはダメだ。子供にはそういう判断力がないのだから大人がその将来性を考える意味でもきちんと考えなくてはいけないであろう。

「タシ マンナソ ノムキッポヨ」

GWは久しぶりに先輩とよべる人と会った。実はこの方とはもう一度会いたいという気持ちがあって、それが友人を通して実現できた。私は破天荒で型破りであるので人から勘違いされることも多いのだが、しかしこの方は私のことをこいつは絶対に何かできると信じて疑わず、時には冗談を言っておちょくられることもあったが、しかしこいつは特別だという目でいつもいてくれたことは確かで、できる人間は積極的に登用するという日本人らしからぬ懐の深さがあることは確かである。能力のない人間は人をおさえつけてコントロールすることで支配しようとするが、しかし本当に能力のある人間は教えようとしたり、おさえつけたりすることはできない、その能力を認めてやるということで才能が開花するのだと思っている。私自身も留学までして向こうでボクシングをするのだから、それはものすごいエネルギーである。そういうエネルギーを押さえつけて型にはめるのではなくむしろ自分が譲るというかたちで受け入れてやることで人は大きく成長する。私が今こうやってやっているのはまさにそういう先輩とか恩師と呼べる人たちのおかげであり、人間が成長するためにはこういった人たちの存在が不可欠であり、本当に私は人関係に恵まれたと思っている。人の才能と言うのはゴロゴロと転がっているが、しかしその才能を開花させるのは人次第、もしいい人間関係に恵まれればその才能はボクシングそれだけというかたちではなく、生きていく上でいろいろな形をもって現れることは確かである。

 

 


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my priority

2015-05-02 | Weblog

今日パッキャオとメイウエザーの対決があったらしい。しかし私は全く興味がないのでたぶんチケットをもらってもいかないと思う。もう昔のことだがまだパッキャオが有名ではなかった時フィリピンのシリマン大学と言う大学との交流会があった時にボクシングがフィリピンでは人気があるスポーツだと思わされたことがある。それは近所で道端でおっさんと子供がグローブをつけて打ち合いをする遊びがあると言っていたことだが、ボクシンググローブをつけて体重差など無視してヘッドギアもつけずに思い切り打ちあうそうだが向こうの子供は日本人が広場でサッカーや野球をやるように草ボクシングをする。韓国でも昼休みにサラリーマンがジムに来てスパーリングをがちでやるらしく、ある人はあばらが折れたとか言っていたが、こんなあぶないことをしかも仕事の昼休みにやるのだからえげつない話だ、こういうアバウトなことは日本では考えられない、おそらくパッキャオが多少体重差があっても問題なくファイトできるのはこの草ボクシングのおかげだと思っているのだが、うちの会員の人たちも子供にボクシングをコンタクトスポーツとしてさせていいかと言うことに対してはボクシングは特殊なスポーツだからダメだと言っていたが、こういう諸外国事情からもわかるように基本的にはボクシングは荒くて危険なスポーツである。ボクシングひとつにしてもそうだが、日本だけではなく外の世界を見渡せばいろいろなことが理解できて面白い。私の仕事はこのクラブを管理、運営していくことである。おそらくその群れの中心にいてそれらを見ていくと実際に見えないことが多いだろう。がしかし少し距離をおいてその群れを見ると目てくるものもたくさんある。特に自分がボクシング競技者ではないボクシングに興味がないという視点に立てばダイエットや健康維持で来ている人たちの立場に立ちやすい。ストレス発散に来ている人や単なるトレーニングとして来ている人たちが何を求めているか、どういう雰囲気が来やすいのか何を話していいかということが見えてくるので、ボクシングと言う小さい枠くからはなれて群れを見るということは必要なことである。私はMOBを単なるボクシング的集団とは見ていない。いろいろな立場の人が集まるボクシングクラブで、ここに来ることによってそのボクシングと言うスポーツを踏み台にして今ある自分の仕事や学校生活を豊かなものにしてほしいと考えているのだが、ここではボクシングと言うのは決して人生のプライオリティではない、無理をしない、ケガをしないで思いっきり楽しんでかえってもらえることがここでの目的である。ボクシングを好きになるよりも人間を好きになってもらいたい。特にここではべたべたした関係はもたないがしかしここに来たら安心できるような雰囲気をつくりたい、そのための組織づくりが大事なことだと思っている。しかしそのためには徹底して組織や人間を客観的に見ていくことが必要である。私は群れを見る時、宗教学、心理学、社会学そして教育学の順で物事を考察していく、最近よく見ているのはアドラーで、これは英語はもちろんのこと日本語でもかなりのドキュメントが得れる、おそらく日本はブームなのでかなりの調べやすいと思うのだが、本当にその群れを正しく導いていきたかったら自分の実績などを自慢してその群れの中心に居座ろうとするのではなく、その群れからはなれて客観的にその群れを見ていく、すなわち主役になろうとするのではなく黒子に徹するのが私の役目だ、そしてボクシングのことはトレーナにまかせていい組織づくりのために勉強することが私のプライオリティだと考えている。

 

 

 


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