脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ソウレソ マンナッソヨ 

2015-05-28 | Weblog

先日久しぶりにNYにいる友人からメールが、懐かしくなってメールをしてくれたのこと、彼とは学生時代からの付き合いであるが友達とはいいものだ、たとえはなれていても会ってもまた昨日会ったように話せる。彼とは社会問題などいろいろなことについて議論をしたが本当にいい思い出だ。最近はラインを既読してないとかそんなつまらないことを気にしながら付き合うようだが、そんなことにいちいち気をつかい合う中なんて本当に友達と言えるのだろうか?自分たちはかれこれ10年以上だ、10年間以上も何の音さたもない、しかし突然来たメールでお互いがその時の機能に戻ることができる。そういう関係を気づくことができたのはお互いが主張し合い議論することで交流を深めることができたからだと思っている。最近の若い人たちは親や教師などの迷惑をかけていいと思っている人間には迷惑をかけるが、しかし友達には気をつかっているから不思議だ。友達だからこそ自己主張し合ってぶつかり合う、そしてそのことで心も考え方も成長し大人になっていくのだ。ある社会学者はこう言っている「若者の主張することは間違っている。けれども主張することは正しいことだ」ラインが既読されていないとか返事を出さなくてはいけないとかそんな小さいことどうでもいいことだ、若いうちはお互いの意見をぶつけあって時には傷つくこともあるが、しかしそういうことも若さゆえに乗り越えていける。我々もこういう関係を気づくことができたのはお互いがそういう時代を過ごすことができたからで、こういう友達はいつになっても頼りになるものであり、一生の宝である。

韓国人の女性から手紙が突然来た。今ソウルのおばさんのところに半年ほど滞在することになったのだがいとど遊びにこないかと言う内容の手紙で会った。それで懐かしくなって会うことにしたのだが、飛行機で最初は「やあ久しぶり」にするか「lomg time no see」にするか「オレガンマンニエヨ ポゴシッポッソ」するか迷ったが空港で私を見つけるなり「やあ元気にしてた」と流ちょうな日本語、拍子抜けしてしまった。その後ソンギョンガンテハッキョのあるテハンノに行ってプッチンゲを食べたが彼女とは昨日会ったように話せたことをおぼえている。私の定義ではそばにいていつもなぐさめ合ったり、話したりすることだけが友達ではない。本当の友達とこうして何年離れていてもまたった時に昨日会ったように話すことができる、そういう存在を友達あるいはチングと言うのではないか。

 

 


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