脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Equallity

2013-10-03 | Weblog
スポーツは平等だ。競技することにあたっては何ら差別もなく、権限もない、よくスポーツを競技するにあたって頭髪であるとか髪のいろがどうだとか言うが、しかしそれに対して誰がそういうことを言う権利があるのだろうか?
確かにジム単位で素行のわるいような人間や、髪の色あるいは刺青などお断りと言うことができるし、そのことをもって排除しても問題がないと思う、実際にここでは素行のわるそうな人間などの入会はお断りしているが、しかしスポーツは平等である、その平等であるスポーツのもとではいかなる人間であっても自由に競技することができると思うし、そういう権利を我々は持っている。人として生まれてきたからには誰でもリングに上がって競技することができる、それがスポーツにおける平等性であり、スポーツだからこそ実現できることである。

私自身紆余曲折を経てではあるが、一通りのことはやってきて、比較的今は恵まれているほうである。
しかしこれでも悩みつつ生きてきたほうで、特に人種の問題ではいろいろといやな思いをしたものである。
今ネットなどで反日ならぬ反韓のコメントが目立つようになってきた、あまりにもひどいコメントに対して、もっと対話しろよ先入観が先走りしてるじゃないかと思うことも多々ある。
また芸能人を非難するときに、あいつの母親は朝鮮人だとかいうようなことを平気でネットで流す人間がいるらしいが、私はこういう話を聞くたびになぜそれが関係あるのかと思い、日本にもまだまだ人種差別する人間がいるのだといやな気持になるのだが、それは日本人に対する非難中傷を見たり聞いたりしても同じことが言える、人種間の問題と言うのは非常にデリケートである。

我々のような人間はどこに行ってもマイノリティーだ。
人に言ってもわかってもらえないし、どの国に行ってどの言葉を話そうが、かべがある、どちらかと言うとひっそりと自分の存在を隠して生きていかなくてはならない、そういう存在である。
しかし学生の時アメリカで競技した時、アメリカのボクシングはマイノリティーが多くて、そういう人種が堂々とボクシングを競技していた。
特にHIは混血でも他民族の血が入り交ざっていて、自分のルーツがどこかわからない、英語だけではなくいろいろな言葉が飛び交う中で、そういうあいまいなマイノリティーな人種が堂々としかも楽しく生き生きとしてボクシングを競技している、そういう姿を見て救われたことは確かなことであり、それはボクシングと言うスポーツが懐がふかく、どんな人間でもリングに立てば平等だという考え方があるからだと思う、よく何々は紳士のスポーツだというがボクシングは関係ない、まさにリングに立つ限りはボクシングと言う競技は平等で、身分や人種のかべなど存在しないOne of The greatest sportsである。
韓国人の女性が私のような一見何の問題もないような人間がやることに関して、なぜやる必要があるのか、あぶないからやる必要がないとよく言っていたが、たぶん私はそのボクシングの懐の深さに魅力を感じ、競技していたと思う。




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