9日から11日は休みで大阪にいた。
今回こそはラッキーにいきたかったのだが、しかし仕事の急用が入ってしまい、いけなかったのだが、もうかれこれ1年はいっていないと思う。
以前うちの会員がこういうことを言っていた、実際うちのクラブは、そのオーナーにうちのレヴェルのあった大会をすすめてもらって、それに出場しているのだが、彼曰く現役をとっくにしりぞいた自分たちが、大会にでれるのはそのオーナーのおかげだ。おそらくそういう大会に出場していなければ、自分たちは試合には出場していなかったと思うのだが、そういう試合を勧めてくれたオーナーにはたいへん感謝しているらしい。
おそらくこういうことに配慮できるということは、ジムの会員の育成の仕方にも偏りがなく、おっさんであっても健康維持であってもダイエットであっても、こういう配慮が行き届いた指導をしているということがわかるのであるが、彼のジムの運営は一言で言えば平等である。
しかしこの平等と言う言葉は非常に難しい言葉である。
なぜなら平等と言う言葉は、非常にコモンセンスの問われる言葉であり、この平等と言うことを知るためには、公共性と言うものを深く考えなくては、平等と言う言葉が独り歩きし、恣意的になってしまうからである。
今回大阪に滞在中にホテルでハーバード白熱教室という番組を見ていた。
ちょうどその時は1回から6回ぐらいのを連続でやっていたのだが、この哲学講義ははっきり言って難しい。
特にディスカッションでは、正義や幸福などを語る時に、ミルやベンサムなどの古典を参考にするのだが、古典をよく知らなければこの話には十分についてはいけないからである。
正直彼のレクチャーはすべて数字や言葉で表そうとする、大陸の合理主義的なところがあるので日本的な発想をどこかですてなくては、理解しにくいと思うのだが、しかし自分たちは何が正しいのかということを問う意味では、非常に勉強になるレクチャーである。
しかしその番組がやっている頃は、すでに12時をまわっていたので、疲れていた私は見ながら眠ってしまったのであるが、講義は途中までだがおもしろかったし、たぶん彼の最近出た本は、好評なので日本語と英語版の2つ購入するつもりだ。
話は平等と言う言葉にもどるが、この平等と言う言葉もある種の正義というものは含んでいる(その講義では本当の正義は、ベンサムの言う絶対多数の最大幸福なのか、はたしてまたそれは違うところにあるのかということをディスカッションしていたが)。
なぜなら求められる正義と言うのは、不変のものであり、一方においてそれが有益であっても、もう一方においてそれが有益ではなく、むしろ害になることがあってはならないからである。
難しくなってはいけないので話を戻すが、平等と言うのはおそらく、ふってわいてくるものではないし、仲良くやっていればそういうものが保たれるというものでもないだろう。
特にこういうジムやクラブのような共同体では、いろいろな人間が集まってくるのだから、そういう中で平等性を問うということは、たいへんむずかしいことで、それは経営者が深く考え学ぶところから、形成していくものであり、またその集団は公共性を持って秩序が保たれなければならない。
私が日ごろからこのクラブは中高生の集まりではないと言うところは、実にこの点である。
ここは大人や社会人んが集まっているのだから、指導者や経営者が平等性や公共性について十分学ぶことは不可欠であり、その公共性を持って、その集団に何がいいことなのか、あるいは有益であるのかと言うことを考える必要がある。
そのため指導者には哲学が求められるのである。
今やもう指導者は哲学を持たなくては、グローバルゼーション化され、多様性の時代では平等や公共性を語ることは難しいことである。
もうほとんどの人間が大学や専門学校に言っているのだから、漫画や道徳レヴェルの話では通用しない。
時々どこで見たのかわからないが、漫画のセリフや名言集みたいなことをいいことだと思って言う奴もいるが、しかしそういう言葉が通用するのは、同じ世界で生きる、同じレヴェルの人間で、社会人などの一般の会員もいる多様化された時代では、しっかりとした哲学を持たなければ、集まる人間もそれなりで、そういう人間が集まれば集まるほど、仲良し軍団化するのは目に見えている。
勢いやのり、そして自分たちはこんなに仲がいいんだと言う、特定な雰囲気をかもしだす集団には公共性なんてありえない。単に仲間を意識させて集めるだけの集団であるならば、そこには精神的な進歩はないであろう。
人間をよりよく導いていくためには、よりよい言葉は不可欠である。
決して情や仲間意識でつながる集団には公共性や精神的な進歩はないと思っている。
そういう意味で、難しい本を読むと言うことは言葉を蓄えることであり、指導者や運営する責任者はそういう言葉を蓄えなくてはならないだろう。
今回こそはラッキーにいきたかったのだが、しかし仕事の急用が入ってしまい、いけなかったのだが、もうかれこれ1年はいっていないと思う。
以前うちの会員がこういうことを言っていた、実際うちのクラブは、そのオーナーにうちのレヴェルのあった大会をすすめてもらって、それに出場しているのだが、彼曰く現役をとっくにしりぞいた自分たちが、大会にでれるのはそのオーナーのおかげだ。おそらくそういう大会に出場していなければ、自分たちは試合には出場していなかったと思うのだが、そういう試合を勧めてくれたオーナーにはたいへん感謝しているらしい。
おそらくこういうことに配慮できるということは、ジムの会員の育成の仕方にも偏りがなく、おっさんであっても健康維持であってもダイエットであっても、こういう配慮が行き届いた指導をしているということがわかるのであるが、彼のジムの運営は一言で言えば平等である。
しかしこの平等と言う言葉は非常に難しい言葉である。
なぜなら平等と言う言葉は、非常にコモンセンスの問われる言葉であり、この平等と言うことを知るためには、公共性と言うものを深く考えなくては、平等と言う言葉が独り歩きし、恣意的になってしまうからである。
今回大阪に滞在中にホテルでハーバード白熱教室という番組を見ていた。
ちょうどその時は1回から6回ぐらいのを連続でやっていたのだが、この哲学講義ははっきり言って難しい。
特にディスカッションでは、正義や幸福などを語る時に、ミルやベンサムなどの古典を参考にするのだが、古典をよく知らなければこの話には十分についてはいけないからである。
正直彼のレクチャーはすべて数字や言葉で表そうとする、大陸の合理主義的なところがあるので日本的な発想をどこかですてなくては、理解しにくいと思うのだが、しかし自分たちは何が正しいのかということを問う意味では、非常に勉強になるレクチャーである。
しかしその番組がやっている頃は、すでに12時をまわっていたので、疲れていた私は見ながら眠ってしまったのであるが、講義は途中までだがおもしろかったし、たぶん彼の最近出た本は、好評なので日本語と英語版の2つ購入するつもりだ。
話は平等と言う言葉にもどるが、この平等と言う言葉もある種の正義というものは含んでいる(その講義では本当の正義は、ベンサムの言う絶対多数の最大幸福なのか、はたしてまたそれは違うところにあるのかということをディスカッションしていたが)。
なぜなら求められる正義と言うのは、不変のものであり、一方においてそれが有益であっても、もう一方においてそれが有益ではなく、むしろ害になることがあってはならないからである。
難しくなってはいけないので話を戻すが、平等と言うのはおそらく、ふってわいてくるものではないし、仲良くやっていればそういうものが保たれるというものでもないだろう。
特にこういうジムやクラブのような共同体では、いろいろな人間が集まってくるのだから、そういう中で平等性を問うということは、たいへんむずかしいことで、それは経営者が深く考え学ぶところから、形成していくものであり、またその集団は公共性を持って秩序が保たれなければならない。
私が日ごろからこのクラブは中高生の集まりではないと言うところは、実にこの点である。
ここは大人や社会人んが集まっているのだから、指導者や経営者が平等性や公共性について十分学ぶことは不可欠であり、その公共性を持って、その集団に何がいいことなのか、あるいは有益であるのかと言うことを考える必要がある。
そのため指導者には哲学が求められるのである。
今やもう指導者は哲学を持たなくては、グローバルゼーション化され、多様性の時代では平等や公共性を語ることは難しいことである。
もうほとんどの人間が大学や専門学校に言っているのだから、漫画や道徳レヴェルの話では通用しない。
時々どこで見たのかわからないが、漫画のセリフや名言集みたいなことをいいことだと思って言う奴もいるが、しかしそういう言葉が通用するのは、同じ世界で生きる、同じレヴェルの人間で、社会人などの一般の会員もいる多様化された時代では、しっかりとした哲学を持たなければ、集まる人間もそれなりで、そういう人間が集まれば集まるほど、仲良し軍団化するのは目に見えている。
勢いやのり、そして自分たちはこんなに仲がいいんだと言う、特定な雰囲気をかもしだす集団には公共性なんてありえない。単に仲間を意識させて集めるだけの集団であるならば、そこには精神的な進歩はないであろう。
人間をよりよく導いていくためには、よりよい言葉は不可欠である。
決して情や仲間意識でつながる集団には公共性や精神的な進歩はないと思っている。
そういう意味で、難しい本を読むと言うことは言葉を蓄えることであり、指導者や運営する責任者はそういう言葉を蓄えなくてはならないだろう。