脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

バリアフリー

2009-02-05 | Weblog
5月から裁判員制度がはじまるが、今日の新聞記事によると、ここ高知県は手話通訳などの障害者をサポートするシステムが、十分でないらしい。
MOBは12月ごろから手話の会と言って、手話の勉強会をはじめているが、この勉強会は、ここの会員だけではなく、興味のある人は会員以外でも、無料で参加できる。
自分が会を発足させたのは、当たり前だが社会的パフォーマンスではない。
まず自分がボクシングクラブを設立した時に思ったことは、とにかくここをならずもの達の集団にしないということであった。
自分たちは社会人としてスポーツをしている。
このクラブが強豪とか強いと言われたいなんて思わない。ボクシングなんて個人スポーツであるから、強くなろうと思えばそれなりに努力すれば強くなれる。
ただそういうことではなく、ここにつながっているという誇りを、もつことができたらということを、自分は常日ごろから考えているのである。
これは自分の一つの感想であるが、格闘技の試合会場に行くと、あまり障害者の人たちのことを考えていないことに気づく。
特に車椅子に対する配慮もなく、手話などの通訳者もいないのであるが、こういう殴り合い、あるいは戦うスポーツをやってるからこそ、そういう配慮は必要ではないかと思う。
ボクシングをやろうとする人間にとって、指導者の影響は強い、人によってはその指導者はあこがれの対象であり、尊敬すべき人物である。
これは障害者の人たちだけに限ったことではないが、子供の虐待なんかもそうである。
そういう人たちを本当に配慮する動きを、自分たち指導者が示せば、多少なりともこういう問題について考え、とりあげてくれる人がふえるのではないだろうかと思っている。
「思いやり」というのは言葉ではない「行為」である。
少し前ヘブライ語で「言葉」はダーバールと言い、それは「行為」という意味もあると言ったが、まさにそうである。
よく格闘技の指導者は強いと言うことは「優しさ」見たいな事説くが、本当にそのクラブが人としての思いやりや優しさ、あるいは社会というものを意識するのであれば、もう少し格闘技会も、バリアフリーについて考えなければならないのではないだろうか。
おそらくその影響力は大きいとも思える。
自分のところで手話を始めたのは、ボクシングをはじめたい耳の不自由な人が通訳者を通して、ボクシングができるようにするためである。
いつかこの手話の会の中の誰かが、ボランティアでその通訳をやってくれることを望んでいる。





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