脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

孤高のすすめ

2009-02-19 | Weblog
結局彼女が一体何者なのかはわからなかった。しかし自分も自分のすべてを語ったわけではない、そういう意味ではGet evenおあいこである。
社会派と呼ばれる熊井啓監督の映画で「サンダカン八番娼婦館」というのがある。
これは昭和初期異国の島で娼婦としてくらした、一人の女性の半生を描いた物語であるが、物語は、栗原小巻が演じる大学の教授であったか先生が、ある研究と運動のため、そこで働いていたという女性に、身分をかくして近づいていき、そこで老婆に気に入られ一緒に生活をし、そこで彼女から聞いた証言を回想していくことで映像は綴られる。
すっかりその老婆と仲良くなった彼女であったが、やがて彼女が帰らなくてはならない日が来る。
その前日の夜、栗原小巻は老婆に、自分がここに来た本当の目的、自分の身分、自分には家族があって、家族のために明日帰らなくてはならないことを告げる。
それは今まで、この老婆を半分だましたようなかたちでころがりこみ、それでも何も言わずに受け入れてくれたこの老婆に、懺悔と感謝の気持ちを涙ながらに述べるのであるが、その時老婆は栗原小巻にやさしく諭すように言った言葉が印象的であった。
「何もあやまることはない、今更お前さんに一体何者かと言うことを知りたくもない。ただ自分が何者かと言うことをいえる身分なら、もうとっくにそれを言っていたはずである。言いたくないから何も言わなかったんだろう、人にはそれぞれ事情というものがあるんだ」とそういうようなことを言っていたが、この言葉を劇的なすさまじい人生の中で生きた人間の言葉としてとらえた時、非常に印象深く自分の胸につきささったことを覚えている。
人間は誰でも人に言えないことや、誰も理解できない心の葛藤というのがある。
人それぞれ人によって重さは違うが、誰でもその重荷を負って生きているのである。
老婆のこの言葉はまさにそのことを含んでいる。
おそらく栗原小巻にしてみれば、逆に老婆のことを慮って、自分の素性を隠したのかもしれない、しかしそういったことも、次第に彼女の中で、罪悪感に変わっていった。だからこそ最後の日にあえて老婆に告白したのである。
しかし老婆は、それ以上彼女に何も聞くことをせず、黙ってうけとめる。
自分が激動の時代の中に身をおき苦労したからこそ、彼女の気持ちを十分理解できたのである。
人間の関係には距離と言うものがある。
40年以上生きてきて言えることは、ある程度苦労してきた人や、大人である人ほどこの距離感がしっかりしていることである。
これとは逆に未熟な人間はこの距離感がしっかりしていない、つきあいとかそういうことよりも、自分のことをわかってほしいということがまず頭にあるので、ろくな会話ができず、特定な人間しかよせつけようとはしない。
知恩が何も言わなかったのは、何かを言ってしまえば傷口のなめあいになるからだろう。
そういう悲惨な結果がいやで、彼女はあえて自分の本当の素性をあかさなかったような気がするのである。
自分は仲間意識で集まる集団に対して、かなり否定的である。
そういう集団は往々にして、自分のことをわかってほしいという甘えた気持ちが強く、お互いぶらさがりあうので、本当の意味での進歩はないと思っている。
人間はつきあっていく上でこの距離感と言うのが非常に大事だと思っている。
人間は誰でも自分をわかってほしいと言う気持ちは強い。
しかしそういうことを求めて仲間意識を求めるよりも、孤高に生きるほうがましだ、少なくともそれに流されることがなく、自分らしく生きれるのではないか。









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