脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヨルシミ コンブヘヨ

2014-02-26 | Weblog
「私の授業論」

前回のブログで偏差値がかなりひくいが、個性とか自由をうたう学校の教育はともすれば害になるということを書いたが、スポーツ校というのも少し違う。
何が違うかというと価値観だ、だいぶ前にそのスポーツ校の生徒がいたのだが、その生徒が自分の担任を言う時に何かは忘れたが何かの球技で「あの先生は全国制覇した人です」と言っていた。
その教員は体育の教員だと思われるが、子供にこういう言い方をさせるというのは笑える、おそらくスポーツ高ではスポーツをする人間のほうがえらく思われるところがあって、たぶんそういうことを日頃からこれみよがしに自慢してきたと思うのだが、それは日常の話を聞いてみても分かるのだが、こういうしょむない権威づけはスポーツの世界には未だ存在している。
たかだか玉遊びごときにそんなに権威づけをしてどうなるんだと思うが、しかしスポーツ校ではどれだけその教員がスポーツで活躍したかということが大問題で、そこではスポーツで活躍した人間のほうが尊敬されやすい、それがどれだけアホであってもだ。
そういうわけだからクラブに入れば勉強しなくても進級できる、あるクラブの奴は動物という言葉も漢字で書けなかったぐらいであるから、どれだけ勉強を無視して生きているかということがわかるだろう。
最近ではこういうスポーツ校も(に限って)イメージアップをはかるために、成績のいい子供をさそって、特進クラスなどというものをつくっているが(私の子供もさそわれたが)しかしこういうことをしても文武両道とは言えない、それは明らかに分離で、全体のバランスがよくなるとも思えない。
現に私が特進クラスの説明を聞きに行った時も、そのクラスは真面目にやって実績をあげていると言っていたが、しかし偏差値を見てみたら進学校よりも20以上も違うことにおどろいたのだが、、そこだけ真面目だとしても他の生徒は一体何をやっているのだろうか、おそらくこれがスポーツ校の限界だと思っている。

話は進学校の話だが、進学校だからと言っていい教師がいて適切な指導をしてくれるとは限らない、実際に進学校の子供たちを見てきているが、そういう学校の中にも杓子定規で能力のない教師もいることは確かである。
能力がないという言い方は失礼にあたるが、しかし話を聞いているともっと他にやり方があるんじゃないの、そういうことを頭ごなしに言ってもやる気なんかおこらない、少し杓子定規ではないかと思うこともよくある。
子供にやる気をおこさせるのは面白い授業をすること、あるいは子供にその自分の教えている科目が楽しいと感じさせることだ。
しかし楽しいといってもそれは決して子供に迎合することではない、私が言っているのは知的好奇心をおこさせる授業で、それは難しいが、子供を授業に引き込んでいき、子供に知的好奇心を持たせるような授業をすることが必要なことで、知的好奇心を持たせることが学力をのばし、勉強を続けさせるためには不可欠だと信じている。
特にIQの高い子の中には知的好奇心がわかないから、授業が面白くないという子供もいると思う。
私の知っている子供はその刺激が足りないので半ば無気力になりつつあるのだが、進学校というところはそれなりに教えなくてはいけないノルマがあるので余裕がないが、しかし中学ぐらいの時期はその知的好奇心をおこさせるために、研鑽し創意工夫をして勉強って、いや何かを知ることって楽しいと思わせるような授業をすることが大事なことで、おそらくこういう経験が学問を続けていく上での土台となるのだと思う。

「SPEAK ENGLISH!」

昨日テレビで中田がモウリーニョと対談をしていた。
英語で対談していたのだが、テロップには「中田すごい」とか「英語で対談できるなんて」とか対談の内容とはあまり関係ないようなコメントが出ていたが、世の中の人はこういうところを見ているんだなあと思った。
事実ここに来る人の中には、英語が話せる人が責任者なのでガラのわるい人はいないだろうということできた人も少なくはない。
よその会員の人たちに子供のボクシングのことを電話でいろいろと聞かれた時に、そちらのトレーナーは何と言っているのかと聞いたら、トレーナーにはそんな難しいことはわからないと言っていたが、一番だめなのはトレーナーや責任者が子供の親とまともに話ができないということで、おそらくこういうことは英語力や学力に関係していると思っている。、
端的に言うがこの時代にスポーツでバカだと思われたくなければ、英語を勉強することだ、うちの子供の友達の親は比較的裕福で教育熱心な人が多いが、そういう親にボクシングが何て言ってもso what、それよりも英語が話せるとか教養があるという方が信用される。
もう勉強ができないからせめてスポーツでもと言う時代ではない、中田のように語学ができてそこそこ教養のある人間がスポーツをする時代になってきているが、ボクシングなどの格闘技は特に昔のようなイメージがあるのだから、トレーナーや責任者にそういう能力がなくて、少々問題のある奴やうさんくさい奴を集めるとしたならばそれは害になる、いつも言うがそのボクシングという集団の中であいさつしたり、人に親切にできても、中身がしっかりしていなければ意味がない、中身がしっかりするということは前のブログでも書いているが、会話したり、理解するために必要な教養をみにつけることだ、韓国ではボクシングが完全にすたれてしまった理由はここにある、端的に言えばボクシングは知的なスポーツではないととらえられているからだが、それは韓国のバックボーンを考えても理解できることだ。
自分が一生その雰囲気の中で生きていくのならそれはそれでいいだろうが、しかしこれだけ学力が重視されてきている時代であるから、真面目にこういうことも考える必要はある。







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