脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

女性の権利

2009-11-11 | Weblog
最近というかもう十年ぐらい前から女性の自立と言われてきているが、もうこの言葉も古くなってきたように思える。
もともとそういうことが言われだしてきたのは、欧米のフェミニズムが台頭してきた頃だと思うのだが、しかしむこうではそういう女性の自立ということばをうたい文句にしてきたのであろうか。
おそらくそういう言葉は使われなかったであろう。
もしつかわれるとしたら「権利(Right)」と言う言葉ではないかと思う。
アメリカ人は特にこの言葉が好きである。裁判でもよくつかわれるが、この言葉はHuman rights(基本的人権)という言葉にもみられるように、強くはもともと生まれながらに持っている人間の権利、平等である。
向こうでは女性だからと言って自立できていないとは考えていない。
だからもしこの言葉を女性という枠でくくって、自立しろというならば、いささかそれは問題である。
人間として生まれてきたからには、生まれながらにもっている当然の権利がある。
その権利を歴史的にとらえなおし、正しい方向に導こうとしているのが、フェミニズムの動きではないかと思っている。
歴史的に女性がおかれてきた位置を、物語るのに、非常に興味深い文献がある。
レヴィーストロースの「悲しき熱帯」という文献で、これはのちに構造主義のはしりとなった文献である。
この文献は全体的には、西洋中心主義を批判した文献であるが、そこには「交換のシステム」について書かれている。
話が長くなるので割愛するが、交換のシステムとは、おおまかに言って、いにしえから変わらない世の中の原理(構造)のことで、お金を払って物を買うように、社会には、あるものを交換することによってなりたっているという構造がある。
その考えが「結婚」という考えに現れていて、「結婚」とはもともと家同士の交換で、そのことによってお互いの利益を確保しあうというのが、レヴィーストロースの考え方である。
昔は「嫁にやる」と言う言葉をつかったものだが、最近ではこんな言葉を使えばたいへんなことになる。
もう○○家という言葉が、結婚式に使われなくなった時代から考えると想像はつかないかもしれないが、一昔前は女性はものとしてあつかわれてきたそうだ、こんなことを言ったら失礼だが「男、女、猿」という差別的な言葉があったのだから、昔の女性差別と言うのは甚だしかったのであろう。
実は私はこういうことを考えるようになったのは、あるきっかけがある。
それは同じチームの女子学生とスパーリングをした時のことであるが、私は女性だと言うことでかなり手加減をした。
しかし終わって彼女は血相を変えて、私に詰め寄ってきた。「あなたどうして私に手加減(Easy on me)したのだと。」
最初「エッ」と思った。
「女だから手加減してやったのに何だ」と彼女の発言に、腹だしさをおぼえたことは確かである。
終わってGFにそのことを話したのだが、彼女が言うには「女だからこそ手加減してほしくなかった」らしい。
そういうことを言っても、もし本気でやったならば、実力差がかなりあるので、たいへんなことになるだろう。
しかし彼女が私にむけてきた感情は、本気でなぐらなかったからということではない、いくらなんでもそれぐらいのことは、わかるはずである。
たぶん彼女は、私のはじめから女だから遠慮してやろうという態度に、頭にきてその怒りをぶつけてきたのだと思う。
たぶんこういう思いをさせたのは、私だけではないだろう、その当時たくさんの人間から偏見をもたれ、その度唇をかみしめてがんばってきたのだろうと思う。
私はこの時以来、女性を下に見ることはなくなったと思う。
むしろ彼女たちを尊重できるようになったと思っているが、この経験は私にとって大きな出来事であった。




 





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