脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ひそひそ話は日本語で

2017-06-15 | Weblog

原人岩さんが中国語はやかましいけど何かあるのかと聞いて来た。私は中国語はできないが韓国語に関して言えば発音に問題がある。韓国語には激音と言う強く発音する子音がある。おそらく中国語もこれに似た音があると思うのだが、この発音が日本語のように平坦な言葉を話す民族から見たらうるさく聞こえる。英語、韓国語、日本語を話せる人間が二人いたらひそひそ話をするには日本語を使う。日本語はかならず母音でおわるので音が聞き取りやすい、だからひそひそ話は日本語が一番適していると思う。

それしかできない人間は人とかかわる時、人間関係を上か下かで見る。どういう基準かわからないがたぶんそいつらの基準はスポーツとか力的なことで、そのくせインテリにはコンプレックスを持っていて話すのをさけたり敵意を持って接してくる。我々のようにおとなしい人間には威嚇してくるので非常にうっとうしい。その親玉がひきいる軍団は試合会場などで非常にいばっているのだが、私はそれを見るたびに不快感を感じる。サルの惑星と言う映画がある。これは単純に言うとサルが人間を支配する物語だが、この映画を見て不快感を感じた。私はそれしかできないような集団がいかにも自分たちはと独特のオーラを出してかたまっているのを見るとどうしてもそのサルの惑星を思い出してしまう。人間をサルに例えてはいけないが、申し訳ないが親玉と言う曲芸師の指示でミットをたたいている姿は芸にしか見えないし、音楽に合わせてたたくよりも小太鼓のほうがリズムが合うんじゃないかとさえ思ってしまう。

私はいつも思うがこういう輩は日本ではいばっているくせに海外に行くとたちまちおとなしくなるから不思議だ。人に向かって「おいそこ」とか誰がちらかしたかさえわからない状況で「靴がそろっていない」とか頭ごなしに言っても従うからと注意する。時には親でも言えないようなことを平気で子飼いに言うのだが、しかしその威勢はどこにいったのかわからないが、相手や場所がかわるとたちまち何も言えなくなるのだ。これは明らかにコミニケーション能力のひくさを物語っている。いわゆる毎日毎日同じことしかできない、勉強しないと言う自分たちの小さな空間で生きていると大きな社会に出ると自分の立ち位置がわからなくなる。それでも親玉たちはずる賢さを持っているので、逆におとなしくなって、あたかもそれがスポーツマンシップのようにふるまい面目を保っているのだが、言葉がわからない、教養がないと当たり前だが世の中では通用しない。

個人的な意見で特に若い人にではあるが、自分の個を成長させコミュニケーション能力を養うためには語学が大きくその成長にかかわっていると思う。ここで英語学習を奨励するのも若い人の成長には必要だと思っているからだ。私は人の痛みがわかるがサイコ的傾向があり、コミニケーション能力がひくかった人間だ。今そう言うことを言えばみんな驚くだろうが、しかし事実そうであったと言わざるを得ない。ではなぜ成長できたかと言うのは日本語以外の言語を理解できたからである。えらそうに言うが日本語だけしか話せない人間の考え方は似たり寄ったりだ、そういう中で民族や文化考え方が違うとはじかれる。当たり前だが学校でも友達が少なく私は宇宙人のような扱いを受けていたことは事実であり、そしてそれは日本では当たり前のことだと思っている。でもしかし日本語だけではない他の言葉特に英語が話せるとたくさんの人と交流できるし、そこで得た体験は大きい。外国と言うのは広いもので話せば当然自分と同じような考え方の人がいるだろうし、全く違う人もいる。そこで自分が受け入れられ、時にははじかれそして受け入れていく体験が本当の自分のスタンスをつくり、そう言う経験が人にかかわっていくことの自信となる。

私は国語力のひくい人間が稚拙なルールで押さえつけて強制していくことで本当に人間は成長しないと思っているし、今そう言うことを正しいとすることは時代錯誤である。これからの集団はそういういろいろなものを受け入れていく能力のある群れが必要だ。私が責任者は知性を磨けと言うのはその群れの質をよくし、健全な相互関係においてかかわっていく群れを形成するためで、そういう中でこそ人間の個性が磨かれ成長するのだと思う。
                          
 
 

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