脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

暴力とスポーツ

2021-08-12 | Weblog
野球選手が暴力で無期限停止処分、当たり前だが暴力は容認されるべきことではない。事実オリンピックでも結果を残せない監督は体罰は必要なことだと堂々と主張していた人たちであるが、暴力は対立を生み出すだけである、特に若い人たちは雰囲気を大事にしたがるが、その雰囲気づくりをよくするためには暴力は排除、そしてお互いをレスペクトできる、そういう環境をつくることは大事なことだ。

うちのジムは暴力を徹底的に排除している。よくある格闘技での教育と称してのかわいがりや、実力差があるのに相手をいためつけたり、カーッと来て敵意むき出しでなぐりかかっていくのも暴力とみなしているが、相手が明らかに威圧感を感じたり怖がったりするような行為も暴力。例えば武勇伝ややんちゃ話を立場を利用してベラベラと得意がって話したり、裸で汗をまき散らしてトレーニングするなんて言うのは言語道断、最近ではサルでも人前で芸をする時は服を着ているのだから、公共の場、しかもそこには女性もいるのだからある程度の配慮を持ってトレーニングする必要はあるだろう。武勇伝ややんちゃ自慢をアホが集まって自慢しあうと、ジムのシステムがおかしくなる。そこに力関係ができてジムの秩序がサル山のようになって力のあるものが優先になる。競技者が実戦練習もミットうちも優先で、女性や健康維持のおっさんたちは多少遠慮してトレーニングしなくてはならないというのはまさにそういう力関係が働いているのだろうが、暴力的なことを容認したらかならずそこには力関係が生れる。私が厄介だと思うのは暴力的な行為が容認されて、支配する側と支配される側の関係ができてしまうことである。これは特に先輩後輩の人間関係に見られるが、後輩たちが支配されることに心地よさを感じて、それが自分たちのクラブや仲間内での通過儀礼的のようなものだと思ってそれを容認するのだが、運動クラブ出身者は先輩にいじめられたことや顧問がいかに理不尽だったかと言うことを楽しそうに語っているが、そういう連鎖がそこだけの特定な世界を作り上げるのではないだろうか。私はスポーツの場において暴力的なことは容認してはならないと思うし、それを徹底して排除すると言う姿勢を持つことは大事なことであると思う。

著書「暴力の哲学」の中で酒井氏は「ただ暴力を拒み、いっぽう的に暴力反暴力という二元論でしか見れないうちは暴力はなくならない」と言っているが、さらに言うと暴力は個人と相手だけの問題ではない、それは社会をとりまく我々の問題でもあるということだ。例えばいじめも暴力であるが、経験者が講壇に立って自分の経験をかたって、そこでどう立ち直ったか回避したか、あるいはそれを共有して、いじめる人間にはそれなりの罰をあたえろという二元論的な考え方に至るだけでは根本的にいじめは解決できない、構造的に物事をとらえないと解決できない問題でもある。前にも言ったがホワイトフラジリティの著者である、ロビン・ディアンジェロは差別は自分がしないとか、自分は親から人には平等に接しろと言われて生きてきたと言う個人的な問題ではなく、アメリカ社会は白人が優遇されるようなシステムが既存していると言うことを知ること、すなわち構造的に差別を見ることが大事であると言っているが、スポーツにおける暴力も暴力事件が起こるたびにスポーツ選手や監督にありきたりのコメントを求めるのではなく、何がそれを暴力たらしめているのかということを構造的にとらえて考える必要はあるだろう。

私はクラブで起こる暴力や理不尽な指導の元凶となっているのは至上勝利主義と家父長制だと思っている。うちのクラブではみなさんが平等に楽しく生き生きとトレーニングできるようにそういうシステムを中に入れないようにしている。

参考文献
「ホワイトフラジリティ」 ロビン・ディアンジェロ 明石書店
「暴力の哲学」 酒井隆史 河出書房新社 
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