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一神教は日本人には受け入れられない

2015-11-19 | Weblog

これは神学ではなくあくまで私の宗教学的な考察である。パリのテロ事件を聞いてあらためて宗教が間違った方向に向かうとこわいものだと実感した。宗教学科と言う学科は神を信じる人間と信じない人間がいて、結構みにくい論争に発展することもある。特にカルバン派の人間は教義的で頭がかたい。非常にひとりよがりなところがあってこの人たちにとっては正しいのだが、しかしそんな理屈は受け入れがたく議論しても平行線をたどる。彼ら彼女らとはよく論争になるのだが、面倒くさいのでふざけて「俺はヒュームの知覚の束的立場からそんなことは一切信じないと言ったら」「いや神様は全能のお方だからあなたの意志を越えてとらえてくださる」と言う。しかしそんなことは余計なお世話で、相手がそういうことが受け入れられないのに自分たちの正論を半ば強引に人に押し付けるのは勘違いも甚だしい。こういうキリスト教の感覚がハワイの文化や歴史をめちゃめちゃにしてきたところはある。人には信じない、信じたくない権利はあるのだからその権利を認めることも大事なことではないか。しかしそういう権利を無視して自分たちの正論を押しつけるのは傲慢である。一神教と言うのはたとえそれが愛だとかきれいごとを言っていてもこういう傾向がある。最近ではアサーションと言う考え方が各分野に入ってきたので、ここでいうところの信じたくない権利と言うものにも目を向けることが対話の仕方としては正しくなってきているのだが、しかし神学と言う学問は自画自賛の学問でただひたすら神の権威を主張する学問でそれが教義的になればなるほど頑固である。それでも最近ではローマンキャソックではアサーション的な対話やものの考え方が傾向として見られるが、しかしプロテスタントは教義的で信じない権利なんて認めることはできない、彼ら彼女らに言わせてみればそういう人間にも神のご意志は働いているらしいが、そういう神学と言う学問が国によってはかなりの権威を持っているのだから時代錯誤である。この前テレビの討論会でイスラエルとパレスティナの問題について討論していた、根本的にはあのあたりの領土問題は土地をどう分配するかが一番重要な課題だ、それができれば問題は解決に向かうとノー天気なことを言っていたが、しかし日本人は宗教のこわさを知らない。もともと領土問題は宗教問題でイスラエルにしてみれば彼らの土地はもともと聖書で神が彼らに与えた土地である。その神が与えた土地を政治的な事柄だけで解決できると思っているのだろうか。日本のような民主主義では政治の下に宗教があるが、しかしイスラム国のような国は宗教の下に政治がある。ここが根本的に日本人とは違う考え方でもともと一神教などと言う概念がない日本人にはイスラム教やキリスト教は言葉で理解できても感覚としては理解できないと思っている。これは私が学生時代に韓国人の友人からもらった本の話だ。少しうすら覚えで内容ははっきりとは覚えていないのだが、「たとえそうでなくても」と言う韓国人が書いた本である。その本は戦時中の韓国の話、キリスト教徒だった主人公は当時国家神道が強制されその現人神である天皇を奉ることを無理やり押しつけられるのだが、彼は最後まで抵抗し殺されてもその自分たちの神をすてなかったと言う話である。たぶん今の世代から見て日本が国家神道で現人神である天皇を奉っていたなんて信じられないが、しかしこの国家神道が根付かなかったどころか失敗におわったのはある意味日本人が宗教の本質と歴史をとらえてこなかったからだと思っているのだが、この場合はローマの皇帝崇拝によくにているので歴史から学ぶことができたら国家神道なんて考えなかったであろう。ただ日本の神道はアサーション的であると言ってもいい。日本が戦後半ばアメリカに占領されてもキリスト教が広がらなかったのは、それぞれが持っている柔軟な宗教観と言うものを土着の宗教いわゆる神道から譲り受けてきたからだろう。

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