脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

5分前につくられた世界の中で生きる

2020-11-01 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。ジムではガイドラインを参考に行動してください。また水分補給は十分におこなってください。 アルコールは70%から75%のものを使用しています。

ラッセルの「世界は5分前につくられた」と言う仮説がある。これはラッセルの "The Analysis of Mind" からの引用であるが、ラッセルによれば、過去は過ぎ去ったものだから、どこにも存在せず我々の記憶の中にある、しかし記憶は不確かなものである、例えば1964年に東京オリンピックが開催されたというのは私たちの記憶や数々ののこっている資料の妥当性によって導き出されたものである。そしてそれは私たちの記憶において存在するだけで、その記憶も誰かが5分前につくったのかも知れないし、そのことに気づくものもいないだろう、だから異なる時間に生じた出来事は、いかなる論理的必然的な結びつきもないということを言いたかったのが世界5分前仮説である。けれどもこの言葉はさほど重要ではない、さらにラッセルが”All that I am doing is to use its logical tenability as a help in the analysis of what occurs when we remember”(私がやろうとしているのは、記憶を思い返す時に起こることを分析する助けとしてその論理的妥当性を用いることである。)と言っているように、世の中にはこれが絶対だということはない、だから間違っているかもしれないということが理論的に検証できなくてはいけないということを問うことは大事なことだということの補足であるにすぎないのだが、しかしどういうわけか日本人の間では話題になっているようだ。
私は英語の過去形を説明する時、今はそうではないと教えている。例えばI was a teacherは今はそうではない、I went to schoolは今は行っていないという現在から切り離しての出来事である。さらに古典ギリシャ語の表現にはアオリストと言う時制があるのだが、これは過去に一度きりその行為を行ったという限定的な表現で日本語にはない表現である。ギリシャは西洋哲学のルーツとなる国であるが、古典的なギリシャ語で書かれた書物は過去と今をつなげるような記述ではなくどちらかというとアオリスト表現にもあるように限定的でその時に起きた出来事として記しているようだ。特にその言葉で書かれたバイブルはいろいろな人が書いてそれを編纂したことにもよるのだろうが、しかし基本的にはその時何があったかという出来事に限定して表現されているのだが、バイブルは物事のつながりよりもその出来事が起こったという事実を表現していて過去を問題にしていない、たとえそれが過去であっても今と言う時間の中でそれをとらえているように思える(そのせいか心理描写がない)。

少し難しい話をしたが、日本人は過去にとらわれる、おそらく因果応報と言う仏教思想が根底にあるからなのだろうが、日本人は自分の過去をひきずって後悔したり、あああの時はこうだったらと嘆く人が結構いる。
私の体験であるが、私が社会人になって2、3年ぐらいの時にたいした勉強もしてないのに心理学を勉強したとか言ってカウンセラーのようなふるまいをしていた人間がいたのだが、私の感想ではそういう人間はよく親との関係がとか親子関係を持ち出す、でも私はそういうことにこだわるカウンセラーは信用していない。なぜならそういうことはたいていの人間にはあてはまることであって、根本的な解決にはならないと思っているからだ。だから私はたいした勉強もしないで、そういうことに固執する人間はほぼ占い師のたぐいだと思っている。私があったことのある自称カウンセラーはまさにそうであったと思うが、過去にこだわるとへんな宗教や占いにたよったり、こういうたちのわるいエセカウンセラーの手玉に取られる。
専門分野以外のことでここまで言うのは恐縮なので感想として言うが、そういう日本のカウンセリングは過去と向き合いすぎる、なぜそこまで自分たちの過去にこだわって、それを無理に修復しようとするのだろうか理解できない。
特別な場合を除いては、むしろ過去を切り捨ててもっと今に目を向けることも大事だと私は思っている。だからそれを切り離す方法を考えることも大事なことだ、そしてそれを切り離すことができるからこそ今が見えて、先のことを考えることができるのだと思う。短絡的ではあるが、スポーツをしてたのしく汗を流したら気持ちいいし、そこで誰かと共感し、ひと時の楽しい時間を過ごす、そう喜びを感じることができるのは今であって過去ではない、過去のことは過ぎ去ってしまったことで、それを修復するために自分の時間をささげると言うのはしんどいことだし、おろかなことだと思っている。世界が5分前にできたというのならば、今を大事にしなくては我々の存在意義はない、だからそういう刹那的な生き方もいいのではないかと思う。



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