脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

가로수 그늘 아래 서면 Standing in the shades of trees

2018-07-11 | Weblog

だいぶ前に友達との飲みの席でその道のプロに冗談ぽく、頭の構造は高知能犯罪者だと言われて爆笑されたことがある。しかもほめことばなのかわからないが超がつくそうである。確かに育ってきた環境も違うし、そこそこIQも高いと思う。そういう私であるからこそわかる何かがあるのだが、特に犯罪者っぽい奴やアウトローくさい奴の考え方は手に取るようにわかる。少し前にホワイトクライムと言う高知能犯罪者が捜査の協力をして難事件を解決していくというドラマがあったが、私自身もクラブにわるい奴を入会させない、クラブに邪悪なものが入ってきて雰囲気をわるくしないようによくするために、そういう知恵をもって一般の社会人や女性が安心してトレーニングできるように運営している。

その私が人間の良しあしを見るときのものさしは、ただそいつがあいさつできるとか敬語もどきで年上の人間に服従できるということではない。そういうことは少々世間ずれしていたら誰でもできることだ。よく格闘技のクラブで彼は礼儀正しいとかいうけれども、しかし私にしてみたらあいさつができて敬語もどきのことを話して先輩を立てているだけで、あとは大したことはやっていない。そういう人間は往々にして肝心なところがかけている。私が言う肝心なところと言うのはうまく言えないが教育であったり、親やその人の人間関係で、この部分がかけていると健全性がうしなわれる。人として肝心な時に人を平気で裏切ったり、非常に自分勝手なことをする人間はこの部分がかけている場合が多い。あいさつができたり、うまく人と合わせて話すからと言ってそいつが正しい奴とは限らない。私がクラブに求めているのは健全性、だから見ているところが違う。そしてこの部分を大事にしていかないとそのコミュニティの健全性は失われる。

昔近所の〇韓〇〇の暴走族と口論になつて「お前らはくずじゃ」と言ったことがある。私がくずじゃと言ったのはきちんとした根拠がある。たいしたこともない奴がかたまっても何の生産性もない。生産性がなくてひとりで何もできないからかたまるからだ。そしてそういう奴らが認められたいと最終手段で選ぶのが格闘技の世界だが、しかし私から言わせてみたら中身がかわらないと意味がない。それは所詮ウジ虫がハエになった程度である。本当に中身をかえるためには教育や人間関係、すなわち付き合う相手を選ぶということ。そいつらレベルでの立派ではなくて世の中一般において常識があって話ができる人間とつきあうことだし、まともな人間と付き合うためには教養を積むことも大事なことだ。アウトローの集団はちょっとでもその人間がまじめに働いたりしたらすごくいいことをしたみたいに言われるが、しかし我々のようにある程度信用がある人間はちょっとでも何かあれば信用をうしなう。そういう世界で生きている。社会的信用と言うのはただ単にそれに甘んじてあぐらをかくのではなくて、信用されるにはそれなりの我慢や責任を負って生きること、そしてそういうことを学ぶことができるのは教育であったり、その人の親子関係、そして人間関係であると思っている。

私自身は差別される対象であったし、世の中にそれなりの怒りやうらみはあったことは確かである。でもしかし私はボクシングなんて言う安易な道には逃げなかった。自分が対峙しなくてはいけない運命に立ち向かい、自分がするべきことをやってきたので今の自分があると思っている。

今日あげた歌は가로수 그늘 아래 서면 Standing in the shades of trees。ユダヤのことわざに「からのツボほど大きな音がするというが、アウトロー臭い中身のない奴はでかいことをいいたがる。でもしかし見栄や勢いではなくて、自分の足りなさに気づいて一歩引いて自分を見たら自分のすべき大事なことが見えてくると思う。


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