脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

コミュニケーション的理性

2018-07-02 | Weblog

うちのクラブはおっさんと女性が楽しそうにトレーニングしている。それは童心に帰って遊んでいるかの如く楽しそうにやっているが、しかしそういう童心に帰って楽しくできるのはそのコミュニティ次第である。特に社会での立場の大きい人はそのコミュニティの質によってはそこに入っていくことはむずかしいだろうし、常識の度合いなんかも違うのでどこでも安心してというわけにはいかないであろう。

ハーバーマスと言う政治哲学の論理にコミュニケーション的理性と言う言葉がある。これは対話において相手を説得しようと試みる理性は相手を目的達成の手段にしている道具的理性に対して、相手を尊重しともに合意を目指そうとする理性のことである。コミュニケーションと言うのは一方通行ではいけない。うちのクラブにおいて大事なことは人の話に耳を傾けると言うことだ。しかし耳を傾けると言ってもただ聞いているだけではだめだ、まず相手が話しても安心できて信用できるキャパをつくらなければ意味がない。そういう意味で勉強してものの見方を広げ考え方を深めることは非常に大事なことだが、そういう対話や人間の存在において人間、特に若い人たちは心や精神が鍛えられ成長し、そしてそういう環境において建設的なコミュニティであるということが可能になるのではないかと思う。うちのクラブの立場はコミュニタリアンであると言っているが、コミュニタリアンとは全体にとって何が正しいかどうかということを話し合って、議論しあって決めていくコミュニティのことであるが、いくら個人が独立していても相互関係において人間は存在するのだから、何をもってこのコミュニティをよくしていくかというのは話し合って決めることであり、互いがコミュニケーション的理性を持つということは大事なことである。

少し話はかわるが、私はコミュニティにおいてどうしても注意しなくてはいけないような人間を注意する時、決して言わないことがある。それは「お前のために注意しているんだ」と言う押し売り的な言葉だ。世の中と言うのはそいつ中心にまわっているのではない。注意するというのはその人間がまわりの人間に迷惑をかけているからで、私的に言えばそこまでしてそいつに合わせて注意しなくてはならないか不思議である。私は注意する時はその人間を納得させるよりもむしろまわりの人間が注意した理由を聞いたら納得できるようにして注意しているが、それは自分の感情や私的なことで注意しているのではないということである。そのまわりが聞いて正しいと思わせるためにもコミュニティにおいて何が正しいのかと言う共通善や常識をおぼろげながらにも模索していくことは必要なことだ。我々のような社会人が多いコミュニティではむしろそういう基準を持たないとコミュニティの質がわるくなる。そのためにはハーバーマスが言うようなコミュニケーション的理性が通用するようなレベルでコミュニティを考えていける群れである必要があると思う。

前にインテリが自分のことをかしこいと思っていない、ただ人のことを揶揄する。それに対してバカは自分のことをかしこいと思っている。と言ったが、バカはろくすつぽ勉強もしていないのに自分が基準で、何か言うと俺はこう思うとか俺はこうとか一人称でまくしたてる。特に格闘技バカと言うのは自分勝手な考え方を持つことや人に逆らって生きることがかっこいいと思っているのでたちがわるいのだが、まさにこういう奴らが群れの中心になると自分の意見が正しいかどうかのレベルで、そういうレベルだからあいさつしろとか子供じみたルールが必要なのだろうと思う。うちのクラブではアウトロー臭い奴に対して一定の基準がある。さらにそれにたいしてみんながみんなそうじゃないという灰色的な考え方を持っていない、常識的な基準でこういうことはだめだという認識があるので気持ちよくトレーニングできるのがうちのクラブである。

 

 

 


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