だいぶ前の話だが、幽霊はいるかいないかというテーマで大激論があった。
よくこの手の番組で、否定派という立場で出てくる芸能人がいて意見を述べているのだが、かなり稚拙な意見である。
なぜなら議論の内容を聞いていても、ただあれはおかしい、そんなものはないと言っているだけで、ひどい奴になると、じゃあ幽霊どこにいるんだ、見せて見ろというようなめちゃくちゃなことを言う奴もいて、その否定する根拠が明白ではないからである。
仮にも議論と言うのであれば、論拠が必要である、がしかしそんなものは見えないからないとか、思い込みだと言うのはいささか稚拙であり、まあ視聴率を狙っているので、感情的になって激論するほうがいいのだろうが、しかしこういう議論のやり方は一方的であって、言葉のリンチを招きかねないことさえある。
私は否定派でもなければ賛成派でもない。
ただすべてのことが、完全にそうだと言いきれるかというとそうではない、まだまだ人間には理解できないことが多いのではないかと思っている。
最近ディベーティングの論理の組み立て方が少しかわってきた。
昔ならばアリストテレスの三段論法という定義があって、学問の世界はその定義にそって論理が組み立ててこられたのだが、最近ではこの三段論法では限界と言うか、矛盾があると言う。
三段論法というのは「生物は死ぬ」「犬は生物である」「よって犬は生物なので死ぬ」というような論理を組み立てることによって真理を導き出す手法であるが、これが最近そうとは言えなくなってきた。なぜなら近年科学の発達によって、すべてのものが必ずしもそうとは言えないからである。
例えば生物は死ぬという定義がそうである。
生物によっては細胞分裂を繰り返し、永遠に生きる生物もあるので、生物は死ぬという定義はくずれてくるし、少しあらい意見であるが、もし不老不死の薬や、クローン人間などが開発されたら、人間も必ずしも死ぬとは言えない存在になるのである。
話は三段論法の話になったが、現代ではもはやこの三段論法というのは議論をする上では、
最近では、ツウールミンロジックと言う、絶対はないがより正しいものは何かと言う論理の組み立て方が主流であり、実際これは絶対成功すると言いきることができない、ビジネスの場ではこの論理的思考によって会議がすすめられているそうである。
しかしテレビでよくあるディベーティングは間違った三段論法の応酬であるが、この論理構造はある種の絶対化を生み出し危険であると思っている。
例えばさっきの幽霊はいるかいないかであるが、これも三段論法でいけば、科学では目に見えない物体は存在しない、幽霊は目には見えない、ゆえにそれは存在しないとなるが、そういう論理構造に感情が入れば、幽霊などの目に見えないものにたいして、それを見せてみろと言い、それができなければお前はうそつきだとさえ言うことにもなりかねない。
そうなれば、一方がペテン師扱いされて言葉のリンチ状態を生み出すのであるが、こういうことは日常的にもよくあることで、日本で中高生などが人と違った意見の言えないのは、こういうちょっとした場で、間違ったたたかれ方を見ているからではないだろうか。
言葉と言うのはこわい、そしてさらにもっとこわいのは、その言葉を語る時に用いられる論理的構造である。
日本人はこの論理的構造が欧米に比べて、まだまだ弱いところがある。
話すと長くなるので書かないが、差別や迫害と言うのも、この論理的解釈の違いからくるのであって、欧米人がより論理的であるというのは、あのヒトラーによるホロコーストと深くかかわっているのではないかと思っているのだが、彼の演説もナチスドイツの絶対化、すり替えの三段論法である。
さらに言えばよく私が言われるのが、特定の国の人間からお前は日本人だからわるいだ。
もっとダイレクトに言うと、お前は日本人の子だからわるい(なっぷん)だ。これも彼ら彼女らが日本人はわるいと決めつけているから、そう言えるわけで、三段論法が導き出すわるい結果である。
われわれはもっと論理的に話すために、言葉の構造や組み立て方について学ぶ必要があるだろう。我々は知らず知らずのうちに物事の絶対化を求め、あたかもその絶対的な事柄を基準にすればそれは正しいことだと勘違いするが、しかしこの世の中に絶対はあり得ない、そこが、議論する上で最も重要なことではないだろうか。
議論すると言うことは、自分が正しいと主張する場ではない、何が正しいのかということを導き出す場である。
よくこの手の番組で、否定派という立場で出てくる芸能人がいて意見を述べているのだが、かなり稚拙な意見である。
なぜなら議論の内容を聞いていても、ただあれはおかしい、そんなものはないと言っているだけで、ひどい奴になると、じゃあ幽霊どこにいるんだ、見せて見ろというようなめちゃくちゃなことを言う奴もいて、その否定する根拠が明白ではないからである。
仮にも議論と言うのであれば、論拠が必要である、がしかしそんなものは見えないからないとか、思い込みだと言うのはいささか稚拙であり、まあ視聴率を狙っているので、感情的になって激論するほうがいいのだろうが、しかしこういう議論のやり方は一方的であって、言葉のリンチを招きかねないことさえある。
私は否定派でもなければ賛成派でもない。
ただすべてのことが、完全にそうだと言いきれるかというとそうではない、まだまだ人間には理解できないことが多いのではないかと思っている。
最近ディベーティングの論理の組み立て方が少しかわってきた。
昔ならばアリストテレスの三段論法という定義があって、学問の世界はその定義にそって論理が組み立ててこられたのだが、最近ではこの三段論法では限界と言うか、矛盾があると言う。
三段論法というのは「生物は死ぬ」「犬は生物である」「よって犬は生物なので死ぬ」というような論理を組み立てることによって真理を導き出す手法であるが、これが最近そうとは言えなくなってきた。なぜなら近年科学の発達によって、すべてのものが必ずしもそうとは言えないからである。
例えば生物は死ぬという定義がそうである。
生物によっては細胞分裂を繰り返し、永遠に生きる生物もあるので、生物は死ぬという定義はくずれてくるし、少しあらい意見であるが、もし不老不死の薬や、クローン人間などが開発されたら、人間も必ずしも死ぬとは言えない存在になるのである。
話は三段論法の話になったが、現代ではもはやこの三段論法というのは議論をする上では、
最近では、ツウールミンロジックと言う、絶対はないがより正しいものは何かと言う論理の組み立て方が主流であり、実際これは絶対成功すると言いきることができない、ビジネスの場ではこの論理的思考によって会議がすすめられているそうである。
しかしテレビでよくあるディベーティングは間違った三段論法の応酬であるが、この論理構造はある種の絶対化を生み出し危険であると思っている。
例えばさっきの幽霊はいるかいないかであるが、これも三段論法でいけば、科学では目に見えない物体は存在しない、幽霊は目には見えない、ゆえにそれは存在しないとなるが、そういう論理構造に感情が入れば、幽霊などの目に見えないものにたいして、それを見せてみろと言い、それができなければお前はうそつきだとさえ言うことにもなりかねない。
そうなれば、一方がペテン師扱いされて言葉のリンチ状態を生み出すのであるが、こういうことは日常的にもよくあることで、日本で中高生などが人と違った意見の言えないのは、こういうちょっとした場で、間違ったたたかれ方を見ているからではないだろうか。
言葉と言うのはこわい、そしてさらにもっとこわいのは、その言葉を語る時に用いられる論理的構造である。
日本人はこの論理的構造が欧米に比べて、まだまだ弱いところがある。
話すと長くなるので書かないが、差別や迫害と言うのも、この論理的解釈の違いからくるのであって、欧米人がより論理的であるというのは、あのヒトラーによるホロコーストと深くかかわっているのではないかと思っているのだが、彼の演説もナチスドイツの絶対化、すり替えの三段論法である。
さらに言えばよく私が言われるのが、特定の国の人間からお前は日本人だからわるいだ。
もっとダイレクトに言うと、お前は日本人の子だからわるい(なっぷん)だ。これも彼ら彼女らが日本人はわるいと決めつけているから、そう言えるわけで、三段論法が導き出すわるい結果である。
われわれはもっと論理的に話すために、言葉の構造や組み立て方について学ぶ必要があるだろう。我々は知らず知らずのうちに物事の絶対化を求め、あたかもその絶対的な事柄を基準にすればそれは正しいことだと勘違いするが、しかしこの世の中に絶対はあり得ない、そこが、議論する上で最も重要なことではないだろうか。
議論すると言うことは、自分が正しいと主張する場ではない、何が正しいのかということを導き出す場である。