毎年この時期になると、世田谷一家惨殺事件の報道がなされている。毎年と言っても8年目である。警察官の知人が、事件発生報道を見たその時点で、これの解決は難しいと言っていたのが現実になっている。
9年前の正月の賑わいの中で、背筋も凍る怖ろしい事件の報道を聞いた記憶がのこっている。その報道の真ん中にいたのが、先頭に立っているのが若い警視庁のキャリアーであった。知人はこんなところに、経験が浅く権限だけを持った指揮官が来たのではたまったものでないと言ってのである。証拠が十分にあり状況と事件の大きさから見て、自らの経歴にこの事件を加えたいと思った将来の高級官僚となる人物の登場となったのだと思われる。
その後この事件は難航を極めている。我々が疑義に感じるのは、この次期になると毎年新しい情報が流されることである。今年は血液検査の結果、地中海方面の人物であったことや、職人専門の塗料が検出されたなどと、実にもっと早く解っていればと思われるものも少なくない。溜めておいたもののリークも多少はあるが、今ごろ解ったのかと誰しも思う。
現場を知らない官僚が、指導と称して権限をふるいまわされるとたまったものでない。経験に裏打ちされたことなど非科学的となるのであろう。一般の人たちの主張や都合が悪くて表に出さなかったことなど、彼らは全く関知しないからである。その一つの例として、家畜診療の現場がある。官僚はこれまでの報告書や前例への知識は、書面でしか知ることがない。多少の問題が起きると、官僚は現場に証拠の書類と報告書を山のように築かせる。家畜診療は全く手につかない状況で、診療に係わる書類の作成にいとまがない。可哀そうな獣医師たちである。
日本中のお役人に係わるあらゆる現場が、官僚支配のもとにある。官僚にモノ申さなければならない立場の連中は、小官僚として従順にふるまう。建て前と本音を巧みに使い分けるようになり階段を上るのである。
世田谷一家殺人事件は、警視庁の側からは解決されることはないだろう。何か外力が加わるか、豊富な証拠に何らかのところからひっかるかして解決されるしかないと思われる。日本の官僚は、現場に出てくるとロクなことがない格好の実例である。