半透明記録

もやもや日記

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しわす

2007年12月12日 | もやもや日記
いつごろから師走というのは忙しさの季節になったのでしょうか。


みなさま、おはようございます。
めっきり忙しくなりましたね。
私などは、ほんとうはそんなに忙しくもないくせに
世間の雰囲気にのまれて、気分だけはすっかり
忙しくてたまりません。
いそがしいよう~。


今朝はこれから健康診断です。
体重は増えていることでしょう。
夏にはもうダメダ…というくらいにやせ細っておりましたが、
いやー、肥えるものですね、ハハ。

それにしても、健康診断の日には朝ご飯を食べてはいけないのです。
腹減ったよー。
で、検診が終わったら、すぐ仕事。
えっ、じゃあ、飯はいつ食うんだ?
まさか、そんな、飯抜き!?
無茶な!
昼までなんて、到底持たねーぞっ!
(空腹のあまり気が立ってきた)

そうやって暴れていたら、
「じゃあ、終わったらこっそりチョコでも食えよ」
というありがたいような全然そうでもないような
アドバイスをしてくれた(K氏が。彼は先週健康診断だったらしい。終わったらすぐに昼飯の時間だったらしい…。朝の就業時間の短い奴め!)。

ぐっ。
チョコくらいでは足りないが、ここはやむを得まい…。


というわけで、行って参ります~。


2007版冬カードの完成

2007年12月09日 | 手作り日記
(つづりを微妙に間違えてた…orz)



この冬用のカードがようやく出来ました。
はー、疲れたー。年末に、どうにか間に合った。

それにしても、ちょっと装飾過剰でうんざりするところがありますね。
自分で描いておいてなんですが、途中から作業が辛かったです。
もうちょっとシンプルにしたほうが良かったかもしれません。
しかし、もう正しい方向が分かりません。
まあ、いいかこれで。

普通ハガキの大きさに二つの絵柄。
左側がメリークリスマスで、右側がハッピーニューイヤーです。
1枚で2度おいしい。(……のか?)
半分に折って、メッセージカードのようにしても楽しそう。


今年のリンゴドームの中は暖かそうです。




 *『不透明記録:層』のほうに、拡大詳細画像アリ。
  よろしければ、どうぞ…。

柔道をやってた!

2007年12月08日 | もやもや日記
テレビをつけたら、偶然にも柔道の試合を放送していました。なぬ、うっかりしてチェックしていませんでしたが、どうやら嘉納杯のようですね、やったー、ついてます。

で、例によって緊迫した試合に興奮して、ご飯を落ち着いて食べられませんでした。
上野姉妹、鬼強いですね~。特に妹の順恵さんの決勝戦での技は感動的な美しさでした。相手の谷本選手は完全に宙に浮いていました。これぞ技。素晴らしいなあ。柔道の技というのは、一本が本当に決まる瞬間は実に感動的です。もう、文句のつけようがないですからね。

泉選手の試合はいずれも刺激的でした。惜しくも2位でしたが、これからもがんばってほしいですね。

個人的には、小野選手も同じく2位という好成績ながら、試合内容をまったく放送されなかったのが残念です。(非常なハンサムということを置いても、私はけっこう好きなのに)

うっかりしていたので放送があるということを知らなかったら、今日のは大会2日目の模様だったそうです。
明日もある。
ふふふ。
見なくては。井上康生が出るのですよ。頑張ってほしいなあ。



冬のカードを製作中

2007年12月06日 | 手作り日記

今年の年賀状、もしくはクリスマスカードは、どういうのにしたらよいだろう…とかねてから悩んでおりました。

が。
本日、仕事中にぴかっとひらめきましたよ。忘れないうちにメモ! と思い、業務もそっちのけでとりあえず下書きをしておきました。ふー、これで安心だ。


帰宅してからさっそく作業に取りかかります。
(夕飯はどうするの?と心配になったあなた。ふふ、勤勉な私は昨夜のおでんを水増しして、お茶を濁すつもりです。だいたい、おでんというのは付け足して食べ続けるものですからね。ほんと偉大だなー、おでんって)


で、まあどうにかおおよそのデザインを起こしてみましたが、なんというか…このパターンは3年前のものに酷似している気が。なんだかなあ。面白くないなあ。もっとハイセンスなものにしたいのに、どうしていつもファンシー系になっちゃうのでしょう。不思議だわ。


まあ、とりあえずもうちょっと練りましょう。
そのうち良くなるはず。



ペンギン式おでん

2007年12月05日 | もやもや日記
まずは具について打合せる




寒いので、おでんを作りました。
ちょうど、実家から大量に大根が送られてきたこともあり、冬と言えばおでんですからね。

おでんと言えば、まずは大根ですが、ほかには何が入っていましたっけ……? えーと。えーと。あ、卵ね。ふむふむ、卵をゆでようじゃありませんか。あとは……?

ほかに何も思い出せなかったので、とりあえずコンニャクとごぼう天と、なにかもうひとつイワシ的な練り物を買ってきました。

ジャガイモを入れるとおいしいのですが、鍋が小さくて入らねえよ。

というところで、あとはひたすら、ぐつぐつ。


待っている間に、思い出す。
あー、ロールキャベツとかね、牛すじとかね、ありましたね、そう言えば。練り物にしたって、ハンペンという選択肢もありましたね、うっかりですね。

しかしペンギンとしては、魚が好物なので(というか主食)、きっと満足でしょう。まあ、私はペンギンじゃないですがね。


おいしかったです。



真冬並にさむい

2007年12月04日 | もやもや日記
今日は非常に寒いです。
革のコートを着ていけば良かったです。
(職場まで徒歩30秒の距離とは言え、寒いものは寒かったです)

12月には色々なことを思い出してしまいます。
思い出や、分岐点が多い、この12月という月なのでした。


そうやって過去のことを甲斐もなく思い出しているわりに、すっかり忘れてしまっていることがらも多いことにも驚かされます。

まず、南米文学。
私は南米文学好きを公言してはばかりませんが、ずっと前に読んだ短篇集の内容をまるっきり思い出すことができず(ずっと前に読んだトラウマになるほどに衝撃を受けた長篇小説の内容も結末以外はまるっきり思い出すことができず)、まるで初めて読むかのごとく新鮮な気持ちで読めてしまったという事実に驚愕しました。なんて忘れっぽいんだ。

さらに、海外ドラマの『名探偵ポワロ』。
テレビで放送していたのをDVDに完全保存してある私は、このドラマシリーズを「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ているのですが、不思議なことにいつも犯人が誰だったのかを思い出せない…。よって、毎回まるで初めて見るかのごとく新鮮な気持ちで見られるという事実にも驚きです。
同様に、海外ドラマの『名探偵シャーロック・ホームズ』もいつも結末を思い出しません。「いったい何回見る気だ!」というくらいに繰り返し繰り返し見ています。

もはやこの忘れっぽさは「経済的である」と言って慰める以外には慰めきれるものではないかもしれません。何度も楽しめるのは、お得なのでしょうか、どうなのでしょうか。



いつまでも覚えていることと、気が付くまで忘れてしまっていること(これは「気が付いた」時に思い出しはする)と、もう二度と思い出すことさえないことと、その振り分けはどうやってなされているのだろうか。

そしてまた、記憶のなかの過去は本当は変わりようがない事実であるはずなのに、おそらくはそれを取り出すたびに、少しずつ実際とは異なったものになっているに違いない。

こうやって私はこれからも多くのことを忘れ続け、保っているつもりの記憶さえ新しいものとして生み出し続けながら、歴史的事実から常に遠ざかる私に気が付くかもしれない。過去の私は、いまはもう私ではない。誰か、まったく別の誰かであったとしても不思議はないくらいに、記憶は、テレビドラマの一場面のように近いようでいて遠いものになっている。

そのようなものであると分かりながら何度も取り出そうとするのは、そのときの感触を甦らせたいからだろうか。なにか、さも価値あるもののように取り出してはみるけれど、その通りにその感触までもが甦っているだろうか。

本やテレビ番組のようにもはや内容を変えることのないものと違って、私の記憶はどんどんあやふやになっているというのに、何度も思い出していては、さらにあやふやさを倍加させるだけになりはしないだろうか。
悲しいことを、もっと悲しいこととして思い出す。
だけれども、もしも記憶が塗り替えていけるものならば、私は悲しいことを、それほど悲しくないように思い出すことだって、できるだろう。
楽しかったことを、もっと楽しかったこととして思い出すのはそのままに。
美しかったことを、もっと美しかったこととして思い出すのはそのままに。


着地点のない考えごと。
きっとこのこともすぐに忘れてしまいます。


『Z』

2007年12月02日 | 映像
監督:コスタ・ガブラス
脚本:ホルヘ・センブルン/コスタ・ガブラス
音楽:ミキス・テオドラキス
製作:ジャック・ペラン/ハメッド・ラシュディ
出演:イヴ・モンタン/イレーネ・パパス/ジャン=ルイ・トランティニャン
   ジャック・ペラン/レナート・サルバトーリ/フランソワ・ペルエ
   マガリ・ノエル

《あらすじ》
地中海に面した架空の国では、軍事政権に反対する勢力が日増しに大きくなっていた。反対党の指導者的存在であった大学教授・医学博士のZ氏が演説会場で、暴漢に襲われ変死する。しかし、警察と憲兵隊はこれを交通事故死と発表した。Z氏の死を悲しみ、若者たちは激昂し、暴徒と化す。予審判事と新聞記者が真相究明に乗り出し、政治的な計画的殺人容疑が浮かぶ。警察署長、憲兵隊長、将軍を共犯容疑で告訴するが、判事側の証人が次々と姿を消していく……
ギリシャで実際に起こった「ランブラキズ事件」をモデルに作られた、鬼才コスタ・ガブラスが贈る衝撃の問題作。

《この一言》
“ わたしは殴られた
 理由は?

 なぜ我々の思想を
 暴力で封じ込めるのか ”



衝撃の問題作でした。たしかに。

共産主義とは何か。
軍事政権とは何か。
独裁者とは。

こういうことに、私は興味と関心を持っているので、この映画もまた私には非常に興味深いものでありました。

私は長らく「共産主義=軍事政権=独裁者の存在」というように3つの項目を結び付けた認識が世間にはあるのではないか(といっても私に認識できる程度のごく狭い範囲にすぎませんが)と感じながらも、深く考えることもなくなんとなく過ごしてきました。ところが行き当たりばったりに、色々な時代の色々な国の人々の歴史的事実を述べようとした文章や映像などに触れるうちに、「なんでそんなふうに思っていたのだろうか?」という疑問が膨れ上がったわけです。
いい歳をした社会人がこんなふうに無知であることや、それを曝してしまうということは実に恥ずかしいのですが、恥ずかしがってはいられません。

共産主義、これは経済の話ですよね。
軍事政権、これは社会体制の話ですよね。
独裁者、これはいったい何者ですか。どういう基準で認定されるものなのか。その国の国民から圧倒的な支持を受け、投票によって民主的に選出された人物でさえも時として「独裁者」呼ばわりされるのは何故なのか。

それが知りたい。
いずれの言葉にもどういうわけかネガティブな印象がまとわりついている気がしてならないのですが、それはどうしてなのか知りたい。

そういうことを思いながら、この『Z』という作品を観ました。
それでどうだったかと言えば、少なくとも、共産主義と軍事政権は必ずしもイコールでは結べないという事実があるということですね。それはガルシア=マルケスの『戒厳令下 チリ潜入記』を読んだ時にも思ったのですが、どちらかと言うと「軍事政権の影には巨大な資本主義国家の存在が…」という構図が見えて仕方ない。少なくとも、そう見られても仕方のない状況はあったらしい。
しかし、経済と社会体制の問題は分けて考えるべきかもしれません。たとえ経済活動あってこその社会であるとしても、今のところの私の能力でもってひとくくりに判断をしてしまうのは浅薄かつ危険でしょうから、ひきつづきの課題としておきたいところです。

映画では、軍事政権の幹部たちによって謀殺される指導者の大学教授は平和を訴え(作品中では第三者によって何度か「彼は共産主義者ではない」と説明される場面があるが、軍部では「彼は共産主義者である」と認識されているらしい場面もたびたびある)、軍事政権に反対する集会を開こうとしますが、妨害に合い集会所をなかなか借りることができず、しかも彼の暗殺計画があるという噂までが囁かれます。そして結局それはその通りに実行されるのでした。
さらにその後の世間への発表のなかには「暗殺事件」などはなく、単に「交通事故」があっただけとされるのでした。

しかし事実は違っていたのではないかと気付いた予審判事(この人の格好良さについては、それだけでひとつの記事が書けそうなくらいです)と新聞記者(「国民には知る権利があるのです!」といってずかずかと部屋に入っては断りもなく写真を撮りまくる新聞記者の姿に、どの時代にも新聞記者とはこんなに鬱陶しいものだったのか…と一瞬憂鬱になりましたが、だかしかし絶対に必要な存在であることは否定できません)が、確固たる信念と情熱、そして知性を働かせて事件の真相に迫っていきます。そのあたりはとても素晴らしい。結果として、事実に到達した予審判事は、上司の脅しにも屈せず、実行犯およびそれを操作していた軍の幹部たちを起訴します。

ところが、その結果は………。


さあ、恐ろしいものは、憎むべきものは何か。

私はそれは、あらゆる「主義」そのものそれ自体ではなく、「私の主義と違うお前の主義」を認めることができず暴力でしか解決しようとしない態度であろうかと思います。暴力は手っ取り早くて簡単な方法かもしれませんが、それがつまり最良・最善の方法と言えるでしょうか。
ではどうすれば良いのか、暴力で訴えてくる相手の言うことを聞くために、されるがままになっても黙っていろというのかと問われれば、私には今のところ何も良い考えがないのでなんとも答えられません。でも暴力に対して暴力でこたえていたのでは、人間には滅びという未来しかないような気はします。最後のひとりになったら、それはたしかに平和だろうなとは思いますが。(それがエレンブルグの『トラストD・E』という物語だったかもしれません)

映画をみて、やりきれないと感じたところには、実行犯となった男たちを含む庶民の姿でしょうか。彼等は「生きるために、自分にとってより利用価値のある権力の側につく」わけであって、必ずしも「主義」を掲げているわけでもない。仕事や生活の安定のために便宜をはかってくれるなら、もしかしたら相手は誰でもいいのかもしれない。そこを、権力者たちに利用されている。

上に引用した言葉のほかにもうひとつ、印象に残った言葉。
棺職人は、暗殺計画を事前に聞いていたので、証人になろうと自ら名乗り出ます。が、役人の夫を持ち、仕事を得るために極右団体に所属したという妹からは「ロバのように頑固で、家族のことなど何も考えていない! 父が死んだあとも、妹である私のために何もしれくれなかった!」と罵られます。そこで、

「いいかい、よくお聞き。
 もし、お前が暗殺の話を聞いて
 本当に人が殺されたら
 黙ってるか?」

黙っていられない時に、無理矢理黙らされることのないような社会を、どのように作ったら良いのでしょう。私にはまったく見当も付かないですが、この映画の最後に込められたメッセージに、希望を見いだしたい。

“ Z。
 それは古代ギリシャ語での、
 その意味は

 「彼は生きている」        ”



けっこう最近まで軍事政権の国だったというギリシャについてはこちら。
Wikipedia : ギリシャ