レインコートに 雨の雫が落ちて
笑顔を浮かべた君のことが 好きさ
ラズベリーブルーの草原に出たら くちづけを交わす
あまりにも強い 風のなかで
「ダンデライオン」 -- Blankey Jet City
一年前のちょうど今頃に見たあの夢(『緑色の椅子』)のイメージがどこからきたのか、不意に分かった気がしました。
Blankey Jet City の「ダンデライオン」は、私が昔からとても好きな曲のひとつです。 春になったせいか、このところずっと頭の中を流れていました。いい加減な私はしかしこの歌が好きで暗唱はしているものの、詞にはそれほど注意していなかったのですが、少し前のある日突然につながりました。私が見た夢と。
私が見た夢は、それはそれは美しい夢だったのですが、そのイメージがもしもこの歌からもたらされたものだとしたら、それはあまりに面白い。私がうっかりしてやり過ごしている事柄を、夢の世界はさりげなく利用しているのだとしたら、面白いではないですか。私が適当に収納して、どこへやったか忘れてしまったような美しいものごとを、夢がときどき取り出して見せてくれているのだとしたら、私はもう忘れかけた、あるいはすっかり忘れ去った綺麗なものをまたふたたび「今まさにその場にいるように」夢のなかで体験できるということではないですか。
しかも、実体験での美しい出来事のみならず、美しい歌、美しい絵、美しい景色、美しい写真、美しい文章などなど、私が実際に体験していない美しい事柄までもが夢の世界へやってくるのだとしたら。私はそこで「まるでそれを私のことのように」体験できるのだとしたら。
すごい発見をしてしまったかもしれない…。
そう思うとドキドキして、今日はまったく仕事が手につきませんでした。
美しいものをたくさん集めたら、夢はもっと美しくなるだろうか。そうかもしれない。もしうっかりして忘れてしまっても、もう悲しまなくていいような気がする。とは言え実際には、忘れたという段階では悲しみをとっくに通り越しているから、悲しさなどもはや感じないだろうけれど。悲しいのは、忘れてしまいそうなときと、思い出したときだろうか。それを恐れなくてもよいのかもしれない。
過ぎ去ってゆくことを、夢の世界は忘れていないでちゃんと保管しているのかもしれないという仮定は、春の私を震えさす、強烈に美しい仮定だったのでありました。
美しい夢の春、私を忘れないでくれたまえ。
美しい思想を持つ
美しい友よ。
励まされるよ~!
さいきん美が遠ざかってしまったような気がして焦っていたのですが、焦るといっそうそれは遠ざかるのですよね; もっと落ち着こうっと。美しい夢が見たいのです。