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『火星人第二の来襲―或る常識人の日記―』再読

2011年11月18日 | 読書日記ーストルガツキイ

ストルガーツキイ兄弟 橋本俊雄訳
(群像社『季刊ソヴェート文学』1987年No.98 所収)




先週末にK氏と討論をしていて、…いや正確に言うと討論にはならなくて、彼が世の中とその未来を悲観してあれやこれや言うのに対して私がいつものように「どうして? どうして?」を繰り返すと、「君はそうやって《どうして?》と訊くだけで実に楽ちんだね。質問するにしろもっと論理的に具体的にしろよ」と言われただけでした。それで今更ながらに気がついたのですが、私は論理的に物事を考えることもできなければ論理的に物事を考えたいとも思っていないということなのであった。そういうわけで、その場は「そうかい、悪かったね」で流そうとしたというわけです。しかし私の「どうして?」にも答えられないようでは、君のその論理もそれだけ脆いものだと思うのだが…と、喧嘩になるから止めとくか。実際は止めませんでしたが。


それはさておき、K氏のネガティブな発言を聞いていて、私の脳裡に電撃的に思い出された物語がありました。それは、ストルガツキー兄弟による『火星人第二の来襲』という中編小説で、K氏の話の内容とは直接的に関わるかどうかは分かりませんが、彼の発言の一部はこの小説の登場人物の発言とピタッと一致していました。私はこの小説の細部を忘れきっていましたが、深層の私はどうにかそれを記憶していたようで、読み返してみたら「これか!」という台詞に行き当たって安心しましたよ。


K氏は、この世界をよりよい方向へ導くべき思想が現在には存在していない、今を生きる思想家や芸術家、あるいは発言力・影響力のある誰かがそれを示すことができていないということを不満に思っているようでした。時間が経過しているので、彼の真に言いたかったことからだいぶ離れているだろうことを怖れてこれ以上は書きませんが、彼の本筋からは少し離れるものの、その一部では大体こんなことを言っていたようです。そして私はこれに反論して、彼を不愉快にさせた。なぜそんなに急ぐの? こんなに大勢存在している地球人類の中から、今後も誰一人として次なる思想を生み出す人間が生まれてこないというなら、それはなぜ? 人類がそうやって何も見出せずに終わるとしたら、それは結構なことではないだろうか。それが避けようのない道筋で起こることならば、どうして逆らうの? でも、人類にはまだ時間が残されていて、未来のことは誰にも分からないのに、自分とその近い周辺から探し出せないからといって、なぜそんなに失望しなきゃいけないわけ? と訊きまくれば、まあ普通は気分が悪いかもしれませんね。私なら怒るわな。うむ、きっと怒る。


ともかく、『火星人第二の来襲』にも、同じような発言があります。似ていると私は思ったけれど、ちょっと違いましたかね。けれどK氏とのやりとりをきっかけに、私はこの発言を思い出したのです。


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“「何も言うことはないよ」――両手を広げてわしは言った。「私もありません」――また陰気な顔つきにもどったカローンはそう答えた。「残念ながら私も言う言葉がありません。何か言わねばならないのですけど。何か言わなければ我々なんか一文の値打ちもないんですがね」 ”


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カローンは新聞社の編集長であり、火星人による支配下に入った地球人類を解放するためにテロ活動を起こしますが拘束されます。そして、あまりにも理知的かつ理性的な火星人から、彼の野蛮で拙い攻撃性を指摘されつつ、あくまでも人道的に解放された彼は、そんな火星人に対してすっかりなす術を失っている状態です。

何かを言わねばならないのに、何も言うことができない。人類の未来について考えるとき、現在がずいぶんと立派で充たされているように見えるなら、あるいはどこかで誰かが苦しんでいるかもしれないが当面自分自身の人生はどうにかなりそうだと確信できたなら、それ以上なにか考えることができるだろうか? 考えるべきなのだろうか? 自分の人生にさえ満足できれば、それで十分なのではないか? 未来、どこか遠い世界、見知らぬ人々の「自由」「幸福」。私に何ができるというのだ。もう既に「誰かが」保障してくれるというならば。


苦しみや障害が目の前にあったとしても、こういうことを考えたり、言うべき言葉を見つけ出すことは困難ですが、もしも世界が一見して充たされているように感じられでもしたら、それはますます困難を極めます。

物語では、地球人類はある日突然に火星人の支配下に置かれます。しかし火星人の支配が始まっても、皆が怖れていたようなことはとくに何も起こらず、ただ青い小麦を支給されたためにパンやお酒の色が青くなったり、納税の方法がお金から「胃液」徴収という不可解な形式(文字通り「胃液」です。消化に必要なアレ)に変わったりするだけです。しかも「献液」した胃液を現金に換えてくれたりもします。
火星人の与えてくれるシステムはとても整然として公平であり、むしろ「胃液」を現金に換えられることに人々は喜ぶようになるのです。青いパンも最初はその色にびっくりしたけれども食べてみたらなんだかとっても美味しいし、胃液の分泌が活発になったおかげでますます現金を手にすることができるようになった、安心して暮らしていけそうだ。言うことは何もない。

しかし。人類は支配されている。火星人によって管理されている。人類は自然の頂点であることを止めてしまった。たしかに人々の人生には初めて平安と安定がもたらされたけれども、それは我々が自力で得たものではなく外から与えられたものにすぎない。これについて何か言うべきなんだろうか。どうだろう。私もここしばらくずっと考えてみたのだけれども、どうしても反論することができない。安定を願う人間がそれを得たというのに、それについて「なぜ?」とたずねることは躊躇われます。でも何か考えなくてはならないような気がするんだけれど…何を?



「或る常識人の日記」というのは、『火星人第二の来襲』の語り手である元教師のアポローンの日記のことです。カローンは彼の娘婿であり、これから年金をもらえるかどうかの瀬戸際にあるアポローンは、カローンの活動の悪影響で彼の年金のランクが下がるのではないかと心配しています。そのアポローンの台詞。

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“「カローンよ」――わしはできるだけ声を和らげて言った。「なあ、ほんの僅かの間でいいから、雲の上から罪深い地上へと下りて来んかね。人間にとってこの世で何よりも必要なのは平安であり、明日への確信だと考えてみることは出来んかね。そうであっても、何か恐ろしいことが起こるわけじゃない。お前さっき、今じゃ人間は胃液製造工場になってしまったと言ったね。それは大袈裟な言い方ってもんだ。カローンよ。実際にはどうやら反対のことが起こったんだ。生存の新しい条件に直面した人間は、この世界での自分の位置を確固たるものとする手段として、その生理的財産を利用するという素晴らしい方法を見出したんだ。お前さんがたはそれを隷属と呼んでいるが、理性的な人間なら誰でも、それは互恵的な通常の商取り引きだと考えている。いったいどうしたら隷属なんてことになるのかね? 自分は欺かれているのではないかと理性的な人間が既に自問をしている、それでもし実際にだまされているのなら、その人間は結局のところは正しい結論に到達するはずだ、それはわしが保障するよ。おまえ、文化や文明の終末とか言っていたが、そんなこと全くの絵空事だよ! おまえが何のことを言ってるか理解できないくらいだ。新聞は毎日出ているし、本の新刊は出ている。新しいテレビ映画は作られているし、産業は活動している……カローンよ! ええ? 一体何が不足だっていうんだ? 今まであったものはみな残されている。言論の自由、自治制度、憲法。それだけじゃなく、ラーオメドン氏の悪の手からも救われたじゃないか! やっとのことで、いくら相場が変動しても全く影響を受けない安定した、信頼できる収入源が与えられたんじゃないか」 ”


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人間は自身の人生を安定させる以上のことを考えるべきなんだろうか。人間の幸福がその人生の安定であるとするならば、それを約束してくれる存在がたとえ何者であろうとも、その意図がまるで分からず我々はただ利用されるだけの存在になるかもしれないとしても、もしもそこに我々の望む安定と安心があるのなら、そこで私たちにはまだ何か発言したり考えたりする余地は残っているんだろうか。人類の到達点というのはどこにあるのだろう。人はどこへ向かおうとしているのだろう。どこかへ向かおうとしているんだろうか? だとしたら、どんなことを選んで、どこへ進むべきなのか。なんだか色んなことが分からない。私の手には負えない。そういった場合、私はやはり黙るべきだろうか。いや、もう黙っているじゃないか。何も言えないではないか。私には問題点も何も見つけられないではないか。はあ…

そんなわけで、何も分からないし何も言えないということでもやもやして過ごしています。物語と違って現実の方は考えるべき問題が山積みになっているのに、やっぱり何も考えられないことに私もまた失望しています。けれども、私には無理だとしてもいつか他の誰かにひらめきが訪れるかもしれない。私には少しの論理もないけれど、まるで信仰のような希望がある。もしも世界にとって人類にとって必要ならば、かならずそれは生まれてくる。既に存在していると言うならば、いつかは必ず見つかる。人々の心を満たすような、人々を安定へと導くような、それが真実だというような、なにか素晴らしい思想がいつかきっと見出されるでしょう。滅びるなら滅びるだろうし、滅びないというならそのための何かは必ず登場するはずだ。果たしてそれが成功するものかそうでないものか、人類がどこへ導かれることになるのかは分かりませんけれど。そしてそうなるとやはり人々は今度はまたその素晴らしい思想とやらに支配されざるを得ないのではないかという気がしなくもないですけれど。というのも、我々は支配されやすいから。今だって我々は自力で得たと思っている見かけの自由と幸福を約束してくれているかのようなこの世界の常識とやらに、すっかり囚われていやしないか。それがただの口約束で、悲しみも苦しみもまだ終わらないことを知りながら、こんなものだと、少なくとも自分の人生だけはそこそこ満足できるものだと、安心しながら諦めて目を閉じていやしないか。生活のための金を得ることばかりを安定だと、人生だと、それが人間の価値だと、そうやって人類はずっとこの世界で暮らしていくものだと、そう思い込んではいないだろうか。これが本当に安定か?(そうかもしれない) これが幸福か?(そうなのかもしれない)

目指すべきところはどこに? 私が知らないだけで、新しい場所へ向かっている人々は今もどこかにいるの? それはどこ? それは誰? そこは私の夢の王国に近いの? まさか、ここだと言うんじゃなかろうね。


…だめだ、終わらないや。
とりあえず、前にも書いている『火星人第二の来襲』の感想ですが、今回は前回よりも長くなりましたね。長くなっただけで、進みはしなかったけど。