“ 生まれ変わったら行動的な人間になりたいと思うが、
逃亡してきたこの人生を惜しくは思わない。文学を書い
た人に逃亡者が多く、この人たちを理解できた(と思う
が)のは共通の性質があったからであろう。しかも、私
の逃亡は目的地のないものではなかった。現況を断って
逃げた時でもいつも同じような安全地帯に戻り、そこに
閉じ籠って自分のやるべき仕事をやってきたと思う。ま
あ、自己弁解はよそう。振り返ってみて、もっと積極的
に生活した方がよかったと思う時期もあったと認めざる
を得ない。はにかみ屋であったことは全然プラスになら
なかった。自動車の運転を覚えるべきだったかも知れな
い。一度だけでもマリファナを吸った方が好かったかも
知れない。が、逃げながら私の気に入った逃亡先を見付
けたことは私の生涯で最大の喜びである。”
――「「逃亡」ともいえる生き方」
(ドナルド・キーン『日本語の美』中公文庫)より
『日本語の美』という文庫本を、私はまだ持っていただろうかと気になって本棚へ目をやると、ちゃんとそこに入っていた。それで何気なくパラパラとめくっているつもりが、つい最後まで読んでしまった。エッセイ集というのは細かい文章がたくさん収録されているものだから、途中で読むのをやめてもいいはずなのに、どういうわけかなかなか途中ではやめられない。長編小説の方がむしろ頻繁に中断してしまう私のこの性質はいったいなんなんだろうか?
ともかく、久しぶりに読み返した『日本語の美』でしたが、今回も面白く読めました。安部公房の天才ぶりの話や、中村紘子さんの多才ぶりの話は、何度読んでも楽しいなあ。それから、日本語をエジプトの象形文字のように色とりどりの色を付けて書いてみたら面白いんじゃないかというところも、何度読んでも「そうだなー」と思う。
このように、私はこれまでも面白いと思ってきた内容を確認するように再読したわけですが、上に引用した文章については、今回まるで初めて出会うように新鮮なものでした。前に読んだ時には、私はまだ「逃亡」ということについてあまり考えていなかったのですね。今になってはじめて、この文章が意味を持って私の前に現われた。これだから再読をやめることはできない。
キーン氏が現実からの逃亡先として「日本語」という世界を発見し、そこへ逃げ込みながらも自らの仕事をしてきたのと違って、私は現実からも、やるべき仕事からも、ありとあらゆることから逃げつづけているけれど、いつかそんな私にもこうやって逃げながら気に入った逃亡先をどこかに見付けられるといい。
いや、どうかな。どこにもそんな逃亡先が見つからなくてもいいかもしれない。私は目的地のない逃亡者となって、最後まで逃げ切りたい。「いったい何からそんなに逃げたいのか?」と問われると、しかし、それが、よくわからない。わからないから、余計に逃げたくなるのかもしれない。
一言に「逃亡」と言っても、それには思った以上の深さと奥行きがあるようだと気がつきました。私はきっとこれからも逃げ続けるけれど、できるなら、逃げながらその時々を楽しんだり喜んだりしたいものです。明確な目的地を持たなければ、この逃避行に終わり(終着点)もないんじゃないだろうか。「どこか」で終わらせたくないというのが、私の逃亡のもっとも根の深い動機のひとつなのかもしれません。
私はいまだ何者にもなれていませんが、もしも逃げ切れたら、逃亡者であったとは言えるようになるんじゃないかな。そんなのは駄目かな。駄目だろうな。ははは。