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『寒い国から帰ってきたスパイ』

2008年10月08日 | 読書日記ー英米
ジョン・ル・カレ 宇野利泰訳(ハヤカワ文庫)


《あらすじ》
ベルリンの壁を境に展開される英独諜報部の熾烈な暗闘を息づまる筆致で描破! 作者自身情報部員ではないかと疑われたほどのリアルな描写と、結末の見事などんでん返しとによってグレアム・グリーンに絶賛され、英国推理作家協会賞、アメリカ探偵作家クラブ賞両賞を獲得したスパイ小説の金字塔!

《この一文》
“「なにが自分の希望か知らないで、どうして自分の行動が正しいと確信できるんだね?」 ”



たまにはスパイ小説が読みたいと思い、以前ある素敵な人が「面白いよ」と言っていたジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』を読むことにしました。

で、面白かったです!
かなり骨太、硬派なスピード感ある物語で、非常に面白かった。

スパイものと言えば、強大な悪の国家に潜入した一流のスパイが(たとえば007のような)最後はド派手に滅亡させてしまうという展開も娯楽としては面白いものですが、この『寒い国~』の面白さはそういう派手さとは無縁な、粛々と作戦を展開する地道でリアルな諜報活動について優れたバランス感覚でもって描いているところです。

読み進めると、スパイするほうもスパイされるほうも、どちらともが常に相手の裏をかこうとさまざまな罠をしかけ合います。もはや互いの掲げる主義や思想ましてや正義などはなんの関係もなく、謀略そのものを愉しむための謀略なのではないだろうか、この人たちいつまでもこんなことを続けてちょっと馬鹿なんじゃないだろうか、と疑わしくなってきます。こんなことに優れた知力と労力を惜し気もなく投入して、それでいったい何が得られるって言うんだろうか。馬鹿なんじゃないだろうか。空しくなってくるぜ。

悲しみが押し寄せる。私たちがあんまりにもみじめにこの馬鹿げた社会を通り過ぎなくてはならないことに。虚しくて泣けてくる。
そんなことを思って気持ちが沈んでくる私の胸に、主人公である中年のベテラン情報部員リーマスの一言が激しい振動をともなって響きました。

“「リズ! 信じてくれ。おれだけは信じてくれ。きみ同様、おれはそれがいやでたまらんのだ。憎んでいる。つくづくいやになっている。だが、それが現実であるのは否定できない。それがおれたちの社会なんだ。人類は気がくるっている。たしかにおれたちは、ただにちかいはした金で買える品物さ……だが、それはおれたちでなくてもおなじことだ。人間はみんな、たがいにだましあい、嘘をつきあう。平気で生命を奪い、射殺はする、牢へはほうりこむ。グループ、階級を問わず、人間の価値など考えたこともない。そして、リズ、きみの党は――そういった人間の上に築かれているんだぜ。きみはおれとちがって、人の死ぬところを見ていない。リズ……」”

……エレンブルグを読んでいるみたいだな、この感じ。まるでフレニト先生かエンス・ボートみたいじゃないか。ただのスパイ小説だと思ってたけど、これはもっと…普遍的な何かを訴えている。

こんな風に「みじめに使い捨てられる道具」としてのスパイを描くのは、実際斬新なアイディアだったのだろうと思います。そしてこのことは、スパイという立場に限らず社会に生き、道具として扱われる人間すべてに当てはめて考えられます。物語ではこのあたりにもちゃんと焦点を当てていて、この作者の冷静かつ鋭いまなざしを感じて、たいそう興味深いところでした。

面白かった。素敵なあの人が言った通りだった。もっとお話ししておきたかったなぁ。



『壜の中の手記』

2008年09月29日 | 読書日記ー英米
ジェラルド・カーシュ 西崎憲 他訳(角川文庫)


《あらすじ》
ビアスの失踪という米文学史上最大のミステリを題材に不気味なファンタジーを創造、エドガー賞に輝いた「壜の中の手記」、無人島で発見された奇怪な白骨に秘められた哀しくも恐ろしい愛の物語「豚の島の女王」など途方もない奇想とねじれたユーモアに満ちた語り/騙りの天才カーシュの異色短篇集。

《収録作品》
*豚の島の女王
*黄金の河
*ねじくれた骨
*凍れる美女
*骨のない人間
*壜の中の手記
*ブライトンの怪物
*破滅の種子
*壁のない部屋で
*時計収集家の王
*狂える花
*死こそわが同志

《この一文》
“「有りえない」と医師は言った。「科学の光に照らしあわせると結論はそうなる。しかし、科学の光というものはまだ案外に暗いものだ。我々は生と死に関して、それに魂と一般に呼んでいるものに関してほとんど何も知らない。眠りについてすら何も知らないのだ。…」
     ―――「凍れる美女」より”



ぐっとくるほど面白かったです。久しぶりに書店で引力を感じて手に取った1冊。買った後に、そう言えば、ブックガイドで面白そうに紹介してあったことを思い出しました。そうか、これだったのか。いやはや大当たりです。

とにかく、とてもうまいです。わりと淡々と語られる物語はどれもあまりにもよく練られていて、いちいち「あっ」と驚かされるうえに、ひとつひとつの物語がそれぞれに違った雰囲気と質感を持ち、ひとつの作品を読むだけでかなりの満足感があるので、次に進む前に少し休みたくなるような充実した短篇集でした。
面白いなー、実に面白い!

全体に共通して感じられるのは、どこか異常なもの、グロテスクなものを熱心に見詰めながらも冷たく言い放ってしまう語り口とでもいいましょうか、そういう雰囲気があります。なにかおかしな断絶というようなものがあって、それが私の胸をビリビリと刺激するようでした。ひとを驚かせて楽しむ底意地の悪さに満ちているようで、同時に実はなにか聞き逃すべきでない重要なことを語っているような、そんな感じ。うまく説明できませんが、妙な味わいでした。

特に面白かったのは、次の5篇。
「豚の島の女王」は、難破して無人島に漂着したサーカス団の面々が、生まれつき手足を持たない美女ラルエットを愛したがために滅びるまでを描いた哀しい物語。あまりにも痛ましく、やるせない気持ちにさせられます。

「骨のない人間」はSF風味のごく短い物語。ジャングルで行方不明となり、全滅した探検隊がそこで見たものとは――。私の思考が単純すぎるとはいえ、まさかの展開に思わず声をあげてしまいました。隊長であるヨーワード教授の態度が非常に恐ろしかった。人が人を拒絶するようになったその瞬間があまりに簡潔明瞭に描かれてあります。恐い。

「壜の中の手記」は、アンブローズ・ビアスの失踪をあつかった作品。フエンテスの『老いぼれグリンゴ』もまたビアスの失踪後の物語でしたが、これはどうも多くの作家を刺激するモチーフのようですね。カーシュのこの物語も、不気味に幻想的でとても面白かったです。

「時計収集家の王」は、時計収集が趣味のニコラス三世のために大時計を製作したスイスの時計職人ポメルのたどる数奇な運命の物語。異常に面白かったです。からくり時計とか蠟人形というのは、それだけですでに魅力的です。

「死こそわが同志」は、世界中に終わりのない戦争の火種をまき散らし巨万の富を得た武器商人を描くSF風味の物語。この狂気には震えました。グロテスク度合いから言っても、これが最高にグロテスクでした。ひどい。


どちらかと言うと気の滅入る物語ばかりでしたが、ちょっと癖になります。他のも是非とも読んでみたいところです。






『ラーオ博士のサーカス』

2008年08月25日 | 読書日記ー英米

C.G.フィニー 中西秀男訳(ちくま文庫)


《内容》
世界にこれほど風変りな小説はあるだろうか。ある訳者はいう、「この小説は滑稽で、ときにわいせつで、読者をかつぐようなところもあるが、要するに、われわれは想像力不足のため人生の現実と人類の過去とを知らずに生きているという事実へのコメントなのだ………」。蛇の髪のメデューサ、火を吹くキマイラ、両性具有のスフィンクスといった怪物とともにくりひろげられる、得体の知れない人物ラーオ博士のサーカス。毒性強烈なユーモアと暴力的な詩情を秘めて、読者をひき込まずにはおかないファンタジーの名作。


《この一文》
エティーオイン――だが君は檻の中だが、ぼくは自由に歩きまわれる。
 ウミヘビ――いいや、君もやはり檻の中にいるんだ。ときどき檻の金網をためしているじゃないか、ぼくみたいに。
 エティーオイン――君のいうこと、うすうすわかる気がするな。 ”



12年くらいまえ、私がまだ田舎に住んでいた頃からずっと読みたいと思いつつも本を買わず、そうこうするうちに絶版となり、古書店でも見かけないまま、気が付けばずいぶんと月日が流れてしまいましたが、このあいだようやく古書を入手し読むことができました。

読みたがっていたわりに、私はこの作品や作者についてなにも調べたりしなかったので、本を開いてみて作者がアメリカ人と知って驚きました。なんとなくヨーロッパの人だと思っていたのですけれども……なんとなく。ついでに、タイトルにもある「ラーオ博士」という人物もヨーロッパ系(東欧あたり?)と思い込んでいましたが、中国人でした。あー、なるほど。もしかしたら「老博士」ということでしょうか。ほんと間抜けだわ、私って。

というわけで、長い年月を経てようやく誤解が解けたわけですが、読んでみるとまずまず面白かったです。上に引用した出版社による内容紹介は、いささか大げさにも感じますが、たしかに奇想天外、グロテスクなファンタジーであることには違いありません。そして、ヨーロッパ怪奇小説のようにねっとりじっとりとは全然していなくて、アメリカらしくからっとさっぱりとした味わいです。そのあたりが私にはもうひとつもの足りませんでしたが、しかし十分に面白かったとは思います。


キマイラやウミヘビ、絶世の美女メディーサ、黄金のロバ。サーカスには伝説的な奇妙な生き物が集められ、そのひとつひとつに対してラーオ博士は観客たちに説明してゆくのでした。
このそれぞれの細かいエピソードが結構面白い。私は特に、ウミヘビと新聞社の校正員エティーオインとの対話の部分が面白かったです。なんというか、はっとさせられます。ウミヘビの話しっぷりにも愛嬌があってとても可愛い。ここの部分はすごく面白かった。
人魚のエピソードも良かったです。ウミヘビの部分とうまく繋げてあって感心しました。

全体的にもうちょっと分量があればもっと良かった、と私には思えましたが、本編のあとには「カタログ」というのが付属していて、作品中に登場する人物から動物から物からすべてについて「注釈」が付けられています。これを読むだけでも面白いかもしれません。

 “ イカ=思春期のタコ ”

とかって、もう訳が分かりません。こういうのはとても好きです。これだけでも笑える。


という訳で、あー、とりあえずようやく読めてほんとうに良かった。




『ONE』

2008年07月17日 | 読書日記ー英米

リチャード・バック 平尾圭吾訳(集英社文庫)




《あらすじ》
コックピットに琥珀色の閃光がピカッと走った――。その瞬間、いままで視界にひろがっていたロサンゼルスの街が消えて、飛行艇グロウリーに乗り込んだリチャードと、妻のレスリーとの不思議な愛の旅が始まった。同時に存在するもうひとつの人生、自分以外の自分をかいま見るふたり。
鬼才リチャード・バックが、《パラレル・ワールド=併行世界》へと読者をいざなう、味わい深いファンタジー。

《この一文》
“まばゆい海の上、まばゆい空を飛びながら、コックピットには絶望的な思いが暗く、重くよどんでいた。これだけの知性をもった人類が、どうして戦争にひきずりこまれていくのか。戦争というものを、はじめて知らされたような気分だった。わたしたちは日々の暮らしのなかで、戦争の可能性を受け入れている。陰鬱な顔はしながらも、だ。そんな甘さが、その狂気をあらためて目のあたりにすることで、粉々に打ち砕かれてしまった。 ”

”「なぜなんだ?」とわたしはどなった。「大量殺人のどこがそんなに素晴らしいんだ? 人類は問題が起こるたびに、すべての敵対者を抹殺するしか能がないのか? これだけの歴史がありながら、もっと賢い解決法が見出せないなんて! これが人類の知力の限界なのか! われわれはいまだにネアンデルタール人なみなのか! 『オイラこわい、オイラ殺す』、そんなレベルなのか! 人間が……人間が……そんなにあさはかだとは、まったく信じられん! だれひとりとして……」
 いい尽くせない思いに、のどがつまった。  ”

“「平々凡々な人生に、つい流されてしまう、そんなつもりでいる人間はだれもいないが、現実にはそうなってしまう。自分の行為について、なんであれ、よく考え、自分にできる最高の選択をつねにしていないかぎり、流されてしまうんだ、と」 ”





昨日、ふと書棚の方を振り返ると、この本の水色の背表紙と目が合いました。どうやら読まなくてはならないらしい。だもんで、素直にこれを読みはじめた私ですが、あらすじにもあるように、とにかくこの物語はところどころで「愛」「愛」「愛」と連発するので、正直辟易しました。また「愛」か。「愛」がどうしたって言うんだ。「愛」ごときに何ができるって言うんだ。と、どす黒いものが込み上げてきそうで、3分の1ほどのところで、いったん中断しました。しかし次に気がついた時には、読み終えていました。そしてこの人の言いたいところの「愛」とは何なのかを、どうして私がこの物語を読まねばならなかったのかを、理解したつもりになっている自分を発見しました。さざ波のような余韻が私をひたしているようです。

あまりに楽天的すぎるのではないか、とは言えません。この人は「愛」と呼ばれるものの持つマイナス面にも目を向けつつ、なおかつそれを正しいあり方で認めたいと考えているようなのです。ついつい納得させられそうです。思わず信じてしまいそうになります。愛を。
もっとも、私を暗黒から(愛を疑うことが仮に暗黒だとして)引き上げ切るまでには至りませんでしたが、この人が言いたいことは理解できましたし、共感もしました。もしも、いつか誰もがこんな風に自らとそれを取り巻く世界を、人々を見つめ直すことができたら、想像もできなかったような新しい世界が生まれてくるかもしれません。そんなことを真剣に願いたくなるような、そんな物語でありました。そして、「真剣に願う」ということそのものの重要性を強く訴えられる物語でもありました。

物語は、呆れるほど仲睦まじいリチャードとレスリーが飛行艇に乗ったまま、何千兆分の1の確率によってもたらされる異次元との境界を超える事態に見舞われるところから始まります。彼等はそこで若い頃の自分たちにそっくりな人物、不幸な、悲しみに満ちた、あるいは無益な争いを克服し新しい幸福な可能性のなかに生きる、いずれも「自分の分身」である人々と出会うのでした。目を背けたくなる自身の心の奥底に直面させられたりもします。何でも可能と思えるまばゆい夢のような、あるいは無力感に打ちひしがれるばかりの失望のような絶望のような、今も同時に存在するはずの世界。そして、これまでには考えもしなかった世界に出会うたびに、ふたりは何かを学んでいきます。ひとつきりだと考えていた自分の人生の、ほとんど無限とも思える可能性に、そしてその時々の選択の重要性に気が付いていきます。人生を、生を、出会いを、知識を、破滅を、幸福を、破壊を、暴力を、希望を、別離を、死を。そこから何が学べるのだろう。何を学ぶべきなのか。

物語を彩る色がとても美しい。アイディアは透明な水晶だ、とか。なんにせよ、美しかった。水晶みたいだった。




『すばらしい新世界』

2008年04月18日 | 読書日記ー英米
オルダス・ハックスリイ 松村達雄訳
(「世界SF文学全集10」早川書房)

《あらすじ》
「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」では、階級ごとに選別された胎児が安定的に大量生産されている。この文明世界においては人々は「共有、均等、安定」のなかにあり、人工孵化は人々を「単なる自然への奴隷的模倣」であった妊娠・出産に伴う家族関係から解放し、彼らはまた病も老いも死をも恐れることなく幸福に暮らしている。
そこへあるとき、不幸とも言える偶然によってこの文明社会に、上流階級の男女を「両親」に持つ青年が現れ――。


《この一文》
“しかし、一たん目的観的解釈を認め出せば――いや、その結果がどうなるか、しれたものでない。それは、上層階級の思想堅固ならざる連中の条件反射訓育をただちに台なしにするおそれのある思想である――彼らをして至高善としての幸福に対する信仰を失わせ、その代りに、目標はどこかはるか彼方に、現在の人間世界の外のどこかに存すると信じ込むようにさせ、人生の目的は幸福の維持ではなく、意識の何らかの強化と洗練であり、知識のある種の拡張だと信じさせるようになるかも知れない。多分その考えが正しいかも知れないのだが、と所長は思うのだった。しかし、現在の状況ではそれは認めるわけにはゆかぬ。 ”





絶句。

思考の混乱。

どう考えていいのだか、さっぱり分からない。ただ、暗いひとつの考えがあまりにはっきりと頭に浮かんでくる。ひょっとしたら人類は幸福というものには……。だめだ、うまく考えられない。私は深いところではたぶん、この恐ろしさの源を理解しているのだろうけれど、どうしてもそれを取り出してみる気になれない。きっと耐えられないような気がする。

読む前からある程度は分かっていたつもりだったけれど、なんという暗鬱な物語だろう。なにが暗鬱かと言うと、人類の幸福なんていうものは、どこにもないのじゃないだろうかということを考えずにはいられないのです。いや、どこにもないと言うよりはむしろどうにでもなるもの、それは単なる条件反射、刷り込み、いくらでも誰かの思うがままに操ることが可能なもの。しかも、思い込みだろうが洗脳だろうが、それで実際に幸福感を味わえるとしたら…。そんなのは間違っていると、偽物の幸福に過ぎないと、果たして言い切ることができる人間など本当にいるだろうか。

かりに造られた幸福感を偽りのものだと断ずるとして、「真の幸福」を得るために時々持ち出される「苦痛」や「煩わしさ」というものの必要性。だが、こういうものは何故必要なのだろうか。幸福と、いったいどんな関係があるのだろうか。「苦しみを乗り越えてこそ幸福な未来が得られる」というようなことが時々叫ばれるけれど、果たしてそうだろうか。それはそれで重度の思い込みではないだろうか。だって、どこにも根拠や関連を見いだすことができない。そもそも「未来」などという何の当てもない時点を持ち出すこと自体、壮大な誤魔化しの臭いがぷんぷんする。

幸福というのは何だろうか。私たちはなぜそれを求めなければならないのか。与えられることと、獲得することとにどんな違いがあるというのだろうか。「幸福感が感じられる」という結果が同じだとすれば。

分からない。

例えば、全ての人がいつまでも若々しく健康で、自らの置かれた環境に満足し、汲み尽くせないほどの喜びと快楽を保証された世界に暮らせるとする。人々はもはや誰かの「親」であったり「子」であることを止め、独立した個人として存在しつつ、社会全体の一部でありそのために自分に最も適した場所で働く。人口は安定的に維持・管理され、完全に階級分けされた人々はもはや無意味な競争にさらされることも他者を抑圧することもなく最大限の幸福の中に暮らすことができる。そして、そのことを誰一人疑問にも思わないで受け入れている。
率直に言って、私にはこれがうらやましいと思える。誰だって病気をしたくないし、できることなら老化や死の恐怖などを味わいたくないのじゃないだろうか。でもって、少ない椅子を取り合って、無いかも知れない能力があると信じて罵りあい、殴り合い、相手を引きずりおろそうとしないですむ世界。血縁という謎めいた関係性に縛り付けられては行動を制限され、謎めいた慣習や迷信に縛り付けられては活動を限定されることのない世界。これを幸福ではないと、どうやったら言い切れるだろう。

ところが、彼らがこの状況を受け入れているのはひとえに「徹底的な条件反射の植え付け」によるものだとする。とすると、「そんなのは嫌だし、非人道的だ!」という考えも出てくるだろう。幸福は人から一方的に与えられるものでも押し付けられるものでもない、洗脳によって得られる幸福感など偽物だ。そうかもしれない。苦痛や不安定というものがあってこそ、はじめて幸福の輝きが増すのである。血みどろの殺しあいを経てこそ、平和のありがたさが身にしみる。そうかもしれない。親子の愛情は何ものにも代えがたいものだ。子は親に育てられるのがもっとも幸せなのだ。そうかもしれない。
親子の愛情と言えば、こんな一文があった。

“ 総統は二十度パイプを突き刺した。するとちょびちょび出るけちくさい噴水が二十できた。
「わたしのベビーちゃん、わたしのベビーちゃん……!」
「母ちゃん!」かく狂気は伝染する。
「わが愛するものよ、たった一人の、大切な大切な………」
 母親、一夫一婦制、ローマンス。噴水は高く噴き上げる。ほとばしる水は猛烈な勢いで泡立つ。衝動はたった一つの吐け口しか持たない。”

“ 家族、一夫一婦制、ローマンス。至るところ排他主義、至るところ興味の集中、衝動と勢力を狭い通路に専ら流し込む。”

ともある。私はこれにぞっとしてはいけないと思いつつ、ゾっとなってしまった。ああ、だけどこんなふうに考えてはいけない。ここに「狂気」など見いだしてはいけない。だが、じゃあこれは何だ? 何故、血の繋がった自分の子を特別に愛することがこんなにも美徳とされるのか。何故、すべての子を同じように愛することができないのか。この排他主義というやつを無視することは私には難しい。こんなことを考えてはいけないのだろうか。いけないさ。何も間違ってはいないだろうから。
だが私は経験的に、すべての人が必ずしも自分の子だけを愛するわけではないと知っている。だからなおさら、この排他主義というやつを無視することが私には難しく思えるのかもしれない。

他人を押しのけなければ自らの存在意義を認めることが出来ず、戦争を体験しなければ人は平和に暮らすことは出来ず、また親に育てられなかった子は完全な幸福を得ることが出来ないのか?

本当にどうなのだろうか。一般的な感覚からみれば「当たり前」に思えるかもしれないが、結局はそれも人類が長いことかけてやってきた、最も効率的で効果的な教育という名の条件反射の植え付けではないだろうか。しかし、こういうことを考えてはいけないのだろうか。いけないかもしれない。不安になる。

こんな一文もあった。

“「不幸への過剰補償(ある欠点をかくそうとして、反対の特性を極度に誇張すること。精神分析学用語)と比べれば現実の幸福はかなり醜悪なものに必ず思えるものなんだから。そして、いうまでもなく、安定は不安定ほどには目ざましいものでもないから。それに、満足の状態というものは不幸との勇敢な戦いのような輝かしさも全然なく、誘惑との苦闘だとか、熱情や懐疑による致命的な敗北などのような華やかさも全然ない。幸福とはけっして壮麗なものではないのだ」 ”

停滞。
私はこれが恐ろしいのだろうか。そうかもしれない。だけど「何故それが恐ろしいのか」と問えば、何とも答えられない。何故。何が。


物語では、文明社会における人々の幸福観と、その社会の外からやってきた青年が持つ幸福観とが激しく衝突します。どちらが正しいのか。多分、どちらも……。要するに、幸福とは何かと言えばそれは「どのように教育され、何を教え込まれたのか」によって大きく左右されるものであり、正しいとか正しくないとかいう判断は下しようがない、ということだろうか。私はこの物語における文明社会の生活をうらやみつつも何か釈然としない気持ちを抱え、一方でその外からやってきた《野蛮人》である青年の主張するところの苦痛を克服してこその幸福、という考えにも納得できなかった。どちらも、何か、どこかがおかしい。けど、それが何なのかがどうしても分からない。


幸福とは何か、正しい社会とは、正しい人間とは、などということはどうだっていいと思いたいのに、私の気持ちはとめどなく沈みながら、もうこれ以上考えたくないのに考えるのを止めることができない。何故だろう。何が気に入らないのだろう。あまりの寄る辺なさに、ひどく不安を感じる。どうしてしまったことだろう。どうしたらよいのだろう。

ただひとつ言えることは、今の私にはまだ立ち向かえない。この物語に立ち向かい、そこから何か有用なものを得ることはできそうもない。私が今のところ得られたのはただ、重く沈む心と、青ざめた顔、冷たく震える手。それだけだ。





『1984年』

2008年03月25日 | 読書日記ー英米
ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳(「世界SF全集10」早川書房)


《あらすじ》
エアストリップ一号の首都ロンドンにある真理省に勤めるウィンストン・スミスは、普段どおり熱心に「現在に合わせて過去の文書を書き換える」仕事に励んでいた。しかし、ある日、ふと立ち寄った店で手に入れた手帳に、日記をしるそうと思い立つ。【偉大なる兄弟】への反逆の始まりだった――。


《この一文》
“ 思想犯罪は死を伴わない。思想犯罪は死そのものだ。  ”

“ふと気づいた点だけれど、近代生活における本当の特色は、その残酷さや不安定にあるのではなく、ただ単にその空しさやみすぼらしさ、冷たさにあるにすぎないのだ。自分の周辺を見渡せば、生活はテレスクリーンから流れ出る嘘とは似ていないばかりか、党が達成しようとする理想とも似ていないことが分るのである。”


最後の方は「ご飯が炊けるまでの間に読んでしまおう」と思って読んでしまいましたが、いつ炊きあがったのかに気が付かなかったばかりか、読み終えてみるととても飯など食う気にもなりません。飯を食うかわりに、なるだけ正確にこの衝撃を書き記しておきたいと思います。これはあんまりだ。恐ろしいこの物語がなぜこれほどまでに恐ろしいのかと言えば、それは物語に描かれたような悲惨を私があまりにも容易に想像できてしまうからにほかなりません。「あり得ないこと」とは到底思えない。あんまりな説得力。泣きたくなる。

ここにあるのは一体何だろうか。失望だろうか。絶望だろうか。憎悪だろうか。それとも恐怖だろうか。少なくとも私が感じるのは恐怖だ。恐怖、恐怖、恐怖。ひとりの、ある思想を持ってしまった人間がここまでぶちのめさなければならない理由がどこにあるのか。しかし、たしかに理由は「ある」。あまりにもたしかに「ある」。それが恐ろしい。その前ではどんな奇麗ごともまったく歯が立たない。わずかな希望にもとづく反抗など「最初からなかった」に等しい。

このような恐怖に直面したとして、このような恐怖に直面しているとして、たとえば私のような人間にできることはどんなことだろうか。それはどう考えていっても、無知と無関心に落ち着く。屈従こそ自由である、まさに。どこにも逃げ場がない。死を選ぶことすら、反逆的思想を持ったままでは許されない。英雄的な死さえもはや存在することのない完成された世界。虚偽と弾圧こそが正当な世界。
吐きそうだ。

読んでいる間中、しばしばこの作品と並べられることのある映画『未来世紀ブラジル』やザミャーチンの小説『われら』においても描かれていたのと同様のイメージが次々と駆け抜けていきました。どのようなイメージかと言えば、徹底的な管理社会に置かれた個人、正体のはっきりしない絶対的権力の存在、いわゆる人間的な友情・愛情関係と思想的自由の弾圧と抹殺。

同じようなイメージから受ける同じような恐怖心。私はなぜこれらを恐ろしいと感じるのか。恐怖にはそれなりの理由があるのだろう。わけもなく恐ろしいということはない。「わけもない」ということだって理由にはなる。私にはこれらを恐ろしいと考えるだけの理由が感じられているのだろう。今ここで直ちにはっきりと述べることはできないけれども。

私は、ただひとつのことを全員が「その通りだ」と述べることがあっても良いと思うし、そういうことは起こりうるとも思う。ただし同時に「そんなことはない」と述べようとする誰かの存在が正当に認められなければならないとも思っている。だが、どうやって? どうやったらいいのだろう。

意見の違いごときで、なぜ滅ぼしあわねばならないのか。私はそれを絶対に突き止めなければならない。恐れと悲しみでいっぱいになるけれども、もうしばらくは続けられるだろうと思う。いや、続けなければならない。きっといつまでも結論にはたどり着かないだろう。しかしそれは問題にはならないのだ。




あとがきにも書いてあったような気がしますが、どうもこの作品を単なる「反共小説」として読むことは不可能なようです。過去においてそのように名付けられたある思想とそれに反するある思想の対立というだけには留まらない気がします。
過去にそれがあったように、現在にもそれがあり、きっと未来にもあるだろうこの恐怖が、別人になるまで誰かを、私を、徹底的にぶちのめしてしまう前にもっと考えておかなくてはならないのでしょう。


同じ本に収録されたハクスリイの『すばらしい新世界』も読みます。そっちも読んだらきっと「何という気の滅入る組み合わせ!」と絶叫することでしょう。しかし読まねばなりません。どういうわけか気の滅入るこの道を避けて通ることは、私にはできないようなのでした。




『エミリーにバラを』

2007年11月03日 | 読書日記ー英米
ウィリアム・フォークナー 龍口直太郎訳(「ノーベル文学賞全集11」所収)

《あらすじ》《この一文》

“ミス・エミリー・グリアソンが死んだとき、わたしたちの町の人間は、みんなこぞって彼女の葬式に参列した。男たちは、いわば倒れた記念碑にたいする敬愛の情みたいなものから、女たちはたいてい、彼女の家の内部を見たいという好奇心から、そこへ出かけていった。彼女の家の内部は、すくなくとも過去十年間、庭師兼料理人の老僕をのぞけば、だれ一人見たものがいなかったのだ。   ”



とうとうフォークナーを読みました。
先日、幸運に恵まれた私は『ノーベル文学賞全集11』つまりラーゲルクヴィストの『刑吏』と『こびと』を収めた貴重なこの本を手に入れることができたのです。
それで嬉しさのあまり、それまでに何度となく図書館で借りたにもかかわらずまったく見ようとさえしなかったフォークナーを、つい読んでみようという気になりました。

この本には、フォークナーの『兵士の報酬』(長篇)、『エミリーにバラを』『あの夕陽』『乾燥の九月』(短篇)の4作品が収められています。

で、どうだったかと言うと、『エミリーにバラを』は面白かった。
『兵士の報酬』はまだ読んでいません。
『あの夕陽』、『乾燥の九月』は、どういう話だったのかさえまったく分かりませんでした。それはもう驚くほどに分かりません。今のところ、フォークナー氏は私に用がないようです。でも、今後はどうなるか分かりません。なぜなら、『エミリーにバラを』はちょっと面白かったから。

ごく短いこの『エミリーにバラを』という作品は、思わず《あらすじ》と《この一文》として一緒に引用した冒頭そのまま「そういう話」でした。

町の変わり者のエミリーが死んだ。
彼女は町の中でただひとり変わらない前時代の象徴のような存在であり、誰とも打ち解けず常に傲然と、町中の人間が彼女の暮らしぶりに興味をもつなかで、しかしそれについてほとんどいっさいを知られることなく生きて、死んだ。

こういう話でした。奇妙な物語ではありますが、それほど奇妙というわけでもなく、話の筋としては展開を容易に予測できる物語です。
ところが、これが、なんというか、妙な印象を残すようなのです。読み終えてすぐには別になんとも思わなかったのですが、一晩たってみると、なんだか妙な気持ちになりました。

この妙な静けさは何でしょうか。突き放したような冷たさと言うか。いや、それとはちょっと違うような、妙な感じ。
ひとつの作品を読んだだけでは、この人のことを知ることはできないかもしれません。このあとに続く短篇『あの夕陽』も『乾燥の九月』も何かちょっと『エミリー』とは違った感触に思えましたし。その2作品について、私はまったく理解できなかったという点では明らかに違う感触と言えましょう。

『エミリーにバラを』が面白かったと言って、どこがどのように面白かったのかをうまく説明することはできません。しかしひとつ確実なのは、この物語のこの場面の印象があまりに強かったので、当分のあいだ私から去ることはないだろうということです。


“いままで暗かった窓の一つが明るくなり、灯りを背にしたミス・エミリーのすわった姿が窓枠にくっきりとうかびあがり、彼女のそり身の胴体(トルソー)は偶像のそれのごとく不動にかまえていた。   ”


ただひとつの文章を、言葉を見出すためだけにでも、長いもの短いものにかかわらず目に入る限りの物語を読むことには、たしかに意味があるようです。おそらくこの印象がいつかふたたび私を別のフォークナー作品に導くだろう、という予感がする。


『アルハンゲリスクの亡霊』

2007年05月28日 | 読書日記ー英米
ロバート・ハリス 後藤安彦訳 (新潮文庫)

《あらすじ》
スターリンが遺した秘密文書がある。死の直前、個人用金庫の鍵を奪った側近のベリアが中身を持ち出し、ある場所に隠したのだ―――。モスクワ滞在中の英国人歴史学者ケルソーは、ベリアの警備員だったという老人ラパヴァの突然の訪問を受け、その話に強い興味を覚える。しかしラパヴァはすぐに姿を消してしまった。裏にはロシア情報機関の暗躍が………?
歴史の闇をえぐった長編サスペンス。




「君もたまには普通の本が読みたいんじゃない?」と言って、K氏がこの本を貸してくれました。

《普通の本》って……何だ? 私が普段読むのもいたって《普通の本》なのだが……。と困惑を隠せませんでしたが、言いたいことはうっすらと分かります。いいでしょう、読んでみようじゃないですか。

私はひとから勧められた本をあっさり読んでみるようなことは滅多にありません。ですが相手がK氏ならば、話は別です。
驚くべきことに、私とK氏の趣味の一致率は90パーセントにも達するでしょうか。彼の好むもののうちで私が絶対に受け入れられないのは、村上春樹のみ(もう、とにかくダメなのです。『ノルウェーの森』しか読んだことはないけれど、どうしてもそれ以上読む気がしません)。一方、私が熱列に情熱を注ぐもののなかで彼の守備範囲でないのは、おそらく南米文学。ふたりとも、ロシアが好きであり、ストルガツキイにハマり、エレンブルグの『トラストDE』に衝撃を受け、私が先日慟哭した『フリオ・フレニトの遍歴』も彼に貸してあるので、きっと彼も何かただならぬものをそこから感じ取ることでしょう。

要するに、ここには信頼関係があるのです。
K氏が「まあまあ面白かった」というなら、きっと「まあまあ面白い」だろうと思います。

そういうわけなので、とにかく読んでみることにしました。あらすじを読む限りでは、なかなか面白そうではないですか。スターリンね、秘密文書ね、いいね、興味深いですよ。私は読む暇がないから読まないだけで、サスペンスやミステリーは嫌いではありません。


さて、読んでみてどうだったかと言えば、「まあまあ面白かった」です。やっぱり。
まず《スターリンの秘密文書》という題材に興奮します。物語の展開もドラマチックであり、登場人物の設定もなかなか上手く、なんと言っても、ロシアの一時代の状況を感じさせてくれるリアルな描写や歴史的事実の挿入具合が良い感じです。
そして、読みやすい。上下巻に分かれており、そこそこの分量はありますが、あっさり読み終えることができます。私の普段の読書ならば、この量には3、4倍の時間がかかるだろうというページ数ですが、どうやら私は読むのが遅いわけではないようです。遅いのは理解するスピードでした。この本は、こういう読み物としては当然そうあるべきように、とても理解しやすいので、私にもすんなり読めたというわけです。
テレビドラマなんかにすると、結構面白くなるのではないかという感じでした。テレビをつけっぱなしにしていたら、そこでやってたドラマが結構面白かった……という読後感です(さり気なく、ひどい言い様です)。こういう読書は久しぶりです。


それにつけても、K氏があえて《普通の本》と言った理由が分かるというものです。このブログの、いったいどのカテゴリーにこれを分類してよいのやら、さっぱり見当もつきませんでした。【サスペンス】を新たに増設すべきだろうか……いや、一冊だけになる可能性が高いしな……。うーむ。とりあえず【英米】に入れておきましょうか……。ハリスさんは、だって英国人だし……。


この作者のほかの作品では、「もし第二次世界大戦にドイツが勝利していたら」を前提に大ナチ帝国を描いた『ファーザーランド』というのが面白そうなので、いつか読むかもしれません。つーか、こっちのほうが面白そうだったな……。まあ、お楽しみは、あとにとっておくものなのです。



『いのち半ばに』

2006年12月07日 | 読書日記ー英米
ビアス作 西川正身訳(岩波文庫)

《内容》
ジャーナリストとして辣腕をふるった時代、ビアス(1843-1914?)は
ニガヨモギと酸をインクの代りに用いると評された。名手の名をほし
いままにした短篇からもその皮肉と酷薄は見てとれる。ここに収める
7篇はいずれも死を前にした人間の演ずる悲喜劇を扱ったものだが、
ビアスにとっては死さえも人間の愚かさを示す一つの材料であるにす
ぎない。

《この一文》
”将軍は落ち着き払って、その顔に見入っていたが、相手の言葉を十分注意して聞いてはいないらしい。目は捕虜の見張りをしているが、心はほかのことに奪われているような様子だ。やがて長い吐息をつくと、恐ろしい悪夢からさめでもしたように、身震いをして、ほとんど聞きとれない声で言った。
「死は恐ろしい」--人殺し商売のこの男が。
            --「哲人パーカー・アダスン」より  ”



「酷薄」。なるほど、酷薄です。そして意外な結末。かなり皮肉はきいていますが、面白いです。いえ、面白いというよりも、むしろはっとさせられるというべきでしょうか。

特に印象的だったのは、「空とぶ騎手」と「哲人パーカー・アダスン」です。「空とぶ騎手」のほうは、タイトルのとおり、騎手が空をとぶのですが、その描写がすごい。鮮烈で美しい。スロー再生で見ているような詳細さ。物語の結末も「あっ!」というようなものでした。やられた。

「哲人パーカー・アダスン」のほうも、結末は意外です。とてもよくできた物語です。強烈な皮肉には妙に説得力があって、考えさせられました。うーむ、これは。

どれも短く、死を目前にした人々のほんの一瞬を切り取った物語ですが、短いなかにも人物の精神や状況を大きく展開させているのでかなり読みごたえがありました。たしかにビアスのインクにはニガヨモギが含有されているようです。読後の爽快感などはまったくありませんが、しかし癖になるような鋭さなのでした。

『海へ出るつもりじゃなかった』

2006年07月03日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 神宮輝夫訳(「アーサー・ランサム全集7」岩波書店)


《あらすじ》
中国から帰ってくるおとうさんをハリッジで迎えるために、ウォーカー家の子供たちとおかあさんはピン・ミルに滞在していた。港で鬼号という船に乗っている若者ジム・ブラディングと仲良くなった兄妹は、おとうさんが帰るまでの数日を、彼の船の中で暮すことになった。港の中を穏やかに帆走していた鬼号だが、二日目の朝、鬼号は濃い霧に包まれたーー。


《この一文》
”「アホイ! ジョン!」
 「おとうさん!」と、ジョンはあえぐようにいった。「アホイ! アホイ!」 ”


怒濤の七作目です。これまでで一番ハラハラしました。

今回、ツバメ号の乗組員を乗船させてくれるのは、鬼号のジム・ブラディングという若者です。これから大学生になるという彼は、体はとても大きくて立派ですが、ジョンよりも少し年上のお兄さんといった感じでしょうか。自分よりも年下の子供たちを船に乗せてあげたいと言って、おかあさんと交渉してくれる親切な若者です。結局、兄妹は、海へは出ないということを約束した上で、ジムとともに港の中を巡る鬼号での船上生活を始めます。
ツバメ号の面々は、最初の冒険から丸二年が経ち、それぞれに成長しています(丸二年と言うことは、前作の『ツバメ号の伝書バト』と同じ夏ということでしょうか。あれは夏休みの始めの話で、これは八月下旬の話のようです。忙しいんだな)。末っ子のブリジットがだいぶ大きくなって、今作ではしっかりと話せるまでになっていました。しかし彼女はまだ小さいので鬼号への密航の企てはあえなく失敗に終わります。がんばれ、ブリジー。

さて、ウォーカー家のおとうさんは、海軍にいるのでなかなか登場しなかったのですが、今回はいよいよその姿を見ることができそうです。おとうさんは子供たちをとても信頼していて、彼らが経験を積みながら成長してゆくことを誰よりも望んでいるらしいことは、これまでの電報の文面や、何か決断しなければならない時に子供たちやおかあさんがしばしば口にする「おとうさんなら、きっとこういう」という言葉などからもよく分かります。そのおとうさんがいよいよ帰ってくるのです。

兄妹の誰もがおとうさんにはやく会いたいと思っています。しかし、深い霧に包まれて、鬼号は思わぬ災難に見舞われます。そして、スーザンの堪忍袋はついに決壊し、ジョンとスーザンは珍しく喧嘩までする羽目に陥ります。事態がいかに深刻かがみてとれます。いつもだったら、ロジャがトラブルを持ち込みそうになるのですが、今回のロジャは一番まともでした。冷静。肝が据わってます。見直したよ、ロジャ。まあ、最年少だから責任がかからない気楽さもあるのでしょうけれども、やたらとびびったりしないところは立派。ピンチでも食欲を忘れないところも本当に偉いと思いました。生命力が強いんだなー。頼もしいぜ。

本当に怒濤の七作目です。私は読みながら、動悸が激しくなるのを止められませんでした。なるべくネタバレしないように注意して記事を書いてみたつもりですが、物語のタイトルからいくらか内容は推察できるかと思われます。たまにはスリルが欲しい、という方には是非ともおすすめいたします。

あと一言、途中から小さな子猫が登場するのですが、それがとても可愛いのでした。