二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

序章 その3

2014-12-12 14:26:59 | 徒然に想う

特に、今回の選挙は気にいらない。実は昨日、雨の降る予報もあったので、期日前投票をしてきた。意外なことに、結構投票に来ている。関心が低く最低の投票率になるような話しは、作られたものか? はたまた流動層の足を重くさせるためのプロパガンダなのか? さらに、今回の解散が急だったのか解らないが、庵主の住む街では期日前投票所がこれまでの選挙では二か所あったのが一か所になっている。しかも、便利なところにあったところが老朽化を名目に閉鎖、不便なところのみになった。期日前投票の意欲をそぐことを意図している気がしてならない。

「さらに」は続く。12月12日(金)5時29分配信の朝日新聞デジタルの記事で、「選挙論戦、語られぬ原発 主要政党、地元でも論点にせず」との見出しに続き、こんな件が:

衆院選で「原発」が語られていない。安倍晋三首相は11日、来年に再稼働が見込まれる九州電力川内原発の地元で演説したが、「原発」という言葉は使わなかった。再稼働をめぐって党内で意見が割れる民主党の海江田万里代表も積極的に発言しておらず、選挙戦を通じて原発再稼働の議論が深まらない。

原発による既得権益者を考慮してのことだろうが、まるで腫れものに触れないかのよう。事故以降、この国でいかに大きなことだあったか。争点に出せないなんて、おかしすぎる。

香港での学生たちの占拠が排除された。「心が折れなければ…」という学生たちのコメントもあったが、どうなることだろう。おかしいと思っても、結局何か見えない力によってコントロールされ、警察や当局たちは動かざるを得ない。警察や当局たちは圧力という糸で操られたマペットと同じでしかない。学生たちの嘆きが痛ましかった。一国一制度でなければならない人たちがいる。

誰が既得権益者なのか…。彼らのエゴに振り回され、結局どうなっていくのだろう。将来の為に制度に関することが歪曲されたり、孫の孫の代たちの為に選挙で議論され選べないんだったら、持続可能な世界は絵に描いたモチになってしまう。

 

 

今日の一枚:神社の展望台にて、6時半前。

 


偶然の出会い

2014-12-11 11:31:33 | 徒然に想う

日曜から月曜の夜、ふたご座流星群が極大になる。先月のW流星群のときは一つも見れなかったから、リベンジといきたいところ。が、不思議なもので、見たいと思えば思うほど見れない。ふと見上げたときほど、流れる。

太陽のかぶる傘や虹、それらだけでなく自然の演出した風景を眺めていたい。エッ、そんなのあり!! と驚かされるのは、やはり、ふと見た時。結局、身tるぞという思いが強ければ強いほど、自然は答えてくれない。

歩くとき、太陽が輝くから空を見上げる。月が輝くから夜空を見上げる。昼間は太陽、夜は月があまねく、母なる地さえも照らしてる。見上げれば、彼らの目を通し、それがまだどこにあるかわからなくても眺められる。 

探している場所も見つけると思うから、見つからないんだろうか。あちこち足を運んじゃ、ふと立ち止まらなければならない、か…。

 

 


今日の一枚:畑の傍で、12時過ぎ。携帯で撮ったのだが、結構気に入っている。


季節を食べる?

2014-12-09 17:26:52 | 徒然に想う
冬至も過ぎてないのに春の話しをしたら、鬼も呆れるだろうか。菜の花のおひたし、昨日の晩、を辛子醤油で食した。畑のコマツナが塔立ちし菜の花が咲いている。まだつぼみのを見つけ、収穫。さすがに季節を先取りし過ぎて、美味いには美味いのだが、なんとも。やはり、季節にあった食べ物が一番。

ズイキというかイモガラというか、サトイモを収穫したとき、茎を少し取って置き、乾燥。それを先日甘辛く佃煮のように炊いてみた。実に、美味い。アクが多少あって、唇に苦さが残る。それがまたいい。酒のあてにも、弁当のおかずにもなる。来秋にはもっと乾燥させよう。あぁ、これは鬼が笑うに違いない。

最近の昼は弁当と出来立ての汁物。EPIとコッヘルを持ち込んで、汁物は作る。具材は目の前にある、白ネギ、カブ、ミズナなど。想像して見てほしい、その美味しさ! 弁当箱のご飯が冷たくとも、世界一のランチだ。目の前の季節を十二分に楽しむ。





今日の一枚:出来上がったおひたし、台所にて。昨日の18時半過ぎ。

徒然三題

2014-12-08 12:17:01 | 徒然に想う

昨日は二十四節季の大雪。雪が激しく降り始めるころ。昔の人は「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明している。徳島での大雪は大変なことになっている。四国の山間地でもあれだけの雪が降るとは、雪が降ることは聞いていても、驚いてしまった。大変なことと言えば、フィリピンの台風ルビー(比名)もどうなることだろう。昔の同僚たちがいるから、こちらも心配だ。

自然の大変さは侮れない。一方、いうまでもないことだが、被害をもたらさないことでも侮れない。最近、大豆の脱粒を終えたのだが、その作業中のこと。豆がまだ入っているサヤを天日に干していると、豆が爆ぜる。その音の澄んだ美しさというのは、言いようがなかった。昼の弁当を頬払いながら、その音と時折吹く風に草木の弦楽器のような音のコラボレーションに魅せられてしまった。一期一会のコンサートを開いてくれる。

三升漬、あの大豆入りバージョンだが、日に日に発酵が進んでいく。当初は醤油が容器の底に留まっていたのが、最近は全体に行き渡っている。まだ、香りはバラバラ、イーストのようないい香りにはなってない。こう寒いから、もう少し時間がかかるだろう。

先日、畑仲間と飲んでいた時のこと。豊かって何かということで議論をした。100万の給料で朝から晩まで机に向かっているのと、50万で17時で切り上げそれ以降自分の時間を楽しめる。どちらが豊かなのか。結局50万で落ち着くのだが、自然とかかわるということに全く異議がないことは言うまでもない。彼も大豆の爆ぜる音を聞いて心地よいと思うらしい。こんな仲間との酒は美味い。

 

《冬ざれた 川滔々と 空を写す》

《小春日に マメさや爆ぜし 耳澄ます》

《冬ざれた 野山に仏 追い求め》

 

 

今日の1枚:今朝の6時頃、神社の展望台から。

 

追伸:徳島の大雪で痛ましいことが起きている。心から、ご冥福をお祈りします。


歩きながらの数遊び

2014-12-05 19:25:33 | 徒然に想う

畑に向かう道すがら、ナンバープレートの4つの数字で遊ぶことがある。例えば、その数字を一回だけ使い四則演算のみで10にしてみるとか、素因数分解をしてみるのだ。今朝は11‐88というのを見かけ、早速、素因数分解、開始。1188を素因数分解し始める。まず11×108。うん? 108か、煩悩の数じゃないか。ここで今日はあらぬ方向に。108の素因数分解を途中で止めると、4×9×3と表せる。これを無理やり、煩悩は死と三個の苦で構成されると読んでしまった。死にまつわることから煩悩が生まれる。三つの苦?…とは何だろうか…。ポンポンと持続性の苦、略奪の苦と出てきた。もう一つが出てこない。考えているうちに畑に着いた。

ついに、蜘蛛が飛ぶのをみることが出来た。畑で食休みしてた時のこと。何かが腹の上に落ちてきた。何だと目を凝らせば、2ミリも満たない淡い緑色の蜘蛛。潰してしまうと指に乗っけると、高い方に行きたがる。人差し指を立て様子を見てたら、指先にたどり着くやいなや糸を出し、体を風に任せた。オッと思った瞬間、糸を切って虚空に消えていった。

帰り道、残りの一つの苦について考える。食事をとることで他の命を奪う、略奪の苦。遺伝子を残す、持続性の苦。あと一つ、何だ。ヒトの根源に必ずあるもの…。競争? 競争は例えば、早い・遅い、力がある・ない。…比較か。比較は行動の引き金になる。もっと豊かになりたい。もっと有名になりたい。しかし、豊かとか、有名はあたかも泡沫のよう、それを手にしたところでどんなものだろう。時を無駄にするかもしれない。比較の苦、か。なるほど、これなら煩悩を説明しにいける。死、持続性の苦、略奪の苦、比較の苦。…なんて、ね。歩きながらのお遊びでした。





今日の一枚:のらぼう菜の葉の水滴、10時半過ぎ。


ジャガイモのニョッキ

2014-12-04 16:34:14 | 徒然に想う

雨の予報を見ると、最近軟弱なのか、すぐ“雨読”に走る。先日の「氷塊す」で書いた庵主の疑問に答えを示してくれた先生が書かれた本を読む。話だけでなく、事例やデータなどでより確固とした理解につながってきた。ただ、効果は3年から5年位かからぬと出てこない。安心感はあっても、やはり、実証したくなる。焦る気はないが、早くどうにかしたいと、つい思ってしまう。この焦り、どう抑えたものか…。

本を読んでいるだけでも、お腹が減る。脳を使えばそれだけエネルギーがいる、って実証だ。目を上げると、あと30分もすればお昼だった。そこで、今度は「調理実習」に移行。ジャガイモの食べ方のバリエーションを増やしたい。それにトマトソースを使いたい、乾燥野菜を使いたい。これが本日のテーマ。ナスのトマトソースに、ジャガイモのニョッキに挑戦することに。

精神の幼稚性、脆弱性。高齢者の暴走のことを読むと、そんなことばを目にする。ただ、自分にも潜む問題。ぶれたり迷惑をかけたくないが、いろいろなことから追認してばかりいる。こんなにも幼稚だったのかと落ち込むことがしばしばだ。言い訳なぞ、なんにもならないが、マザーランド探しに手こずっているのが余計輪をかけるのだろうと思う。なかなかうまくいかない(ため息)。

ジャガイモ(アンデス・レッド)を串がスッと通るくらい(50グラムほどのジャガイモ三つで25分)茹でる。レシピには皮を取れとあったが、せっかくの赤い皮、もったいない。彩りにと一緒に潰す。ポテト・マッシャー、フォークの背と出来るだけ潰した。そこにジャガイモの3分の1量の小麦を混ぜ捏ねる。塩を少々振って捏ねる、捏ねる。一つの丸にまとめて、少し休ませる(参考にしたレシピには1時間と書いてあった)。その間、トマトソースに移る。乾燥野菜はナスとオクラ。ここで問題発覚。オクラが戻らない、しかも繊維が固くって食べられたものじゃない。取り出して、ごめんなさい…。適当な大きさに丸めて潰して(500円玉を一回り大きくした感じ)

沸騰した水を中火にし高温を保ちながら、沈めていく。面白いもんで、茹であがるとフワーっと浮き上がってくる。それを見逃さず、取っちゃ笊に上げる(中火、浮き上がった瞬間というのは参考にしたレシピから得た)。

茹でたてを口に放り込む。「へへへ、やったね」と、いかない。粉っぽい。いや、レシピ通り、ジャガイモの三分の一量だから、そんなこと…。休ませる時間が短い、のか。かと言って、オクラのようにもうごめんなさい(こういったようなことでも、標榜していることと実行していることの間に筋が通らない。どこか脆弱性があることがおわかりになりますでしょ)は出来ない。茹であがったニョッキにトマトソースをかけ、やれやれと思いながら食べ始めた。すると、すると、なんと「!!」。 茹でたてよりもニョッキが美味い。塩を控えめにしたトマトソースだから、パルメザンをふって、タバスコを少々。で、あっという間に完食。自分は天才じゃと満足感に浸りながら、食器を洗ったのでした。

 

 

今日の一枚:完成したニョッキ。小麦を入れ過ぎたかもしれない。レシピ通りで、これだけ白くなってしまい、アンデスレッドのカレー粉風の色味が消えてしまった。トマトソース、湯剥きなどしないから、皮が針のような形に残っている。ちなみに、チーズとタバスコ以外は小川町産。12時45分頃撮影。 


給食の牛乳

2014-12-03 04:44:47 | 徒然に想う
小学生や中学生の時、給食と言えば、必ず牛乳が出た。例え、ご飯がでても合わせて取る、これが給食だった。子供心に、数少ないご飯食の時さえ牛乳を飲まなくてはならないのかと思ったものだ。どう考えても、牛乳とご飯の組み合わせはない。

三条市、2008年から給食の全食パンを止めご飯にしていたところ、親の意見もあり、やっと牛乳を止めることにしたらしい。給食は家庭での栄養管理を保管する目的で、不足勝ちなカルシウムの摂取を牛乳でと決めている。だから、三条市の取り組みは試験的で、代わりに小魚などを増やし牛乳から摂取出来る以上にしたとか。

日本食が文化遺産になっていろんな食にかかわることが伝わる。食べものの合わせ方なども、伝わればいい。その役割は勿論家庭での食育が担うと共に、給食がそれを担って欲しいと思う。

これは現実的だと、その記事を読み進めいくと、溜め息をついてしまうコメントに出くわしてしまった。牛乳を試験的にせよ止めることに反対している。栄養学的に牛乳を上回ったカルシウム量でも、何がなくても牛乳でなければと言う方々がいるのだ。合理性もないし、牛乳とご飯の組み合わせがどんなものか思いも寄らないのだろう。つまり、牛乳からの既得権益をないがしろにされた。子供たちを栄養学の対象としか見ていない。そんなとこだ。子供たちは日本の文化の担い手。自分の立場に固執するのでなく、子供たちの将来を中心に考えられないかと思う。なにしろ給食の思い出は強烈だ。





《空気冴え 富士山半分 白くなり》


今日の一枚:昨日の5時42分のこと、神社の展望台から。

三升漬 その後のその後

2014-12-01 17:16:25 | 徒然に想う

昨日のこと、遅まきながら、大豆の二度目の脱粒。日曜日の雨までで相当爆ぜたり、鞘・豆もまた湿って手こずるだろうとビクビクものだった。意外に爆ぜてはいなかったが、一回目の時よりも少ないのにもかかわらず時間がかかる(しかも、まだ枝や葉などを取りきれない)。それはいたしかたない、想定内のこと。が、問題が一つ…。

それは、結構島が崩れていたこと。これは予想だにしていなかったので、ショック。一回目の島立ての際、風が吹いても壊れたりしなかったので、同じ感覚で二度目もやった。だから、安心していた。でも、結果は一目瞭然。慢心、ということだろう。崩れた島を起こしては、豆打ちにと広げたブルーシートへと、ショックを癒やしながら運ぶ。もちろん、爆ぜて落ちた豆、一つ一つ落ち穂拾いのように集め…。見捨てられるものか。

ところで、9月に仕込んだ三升漬のことを覚えていられるだろうか。それがまことにいい晩酌のあてで、ちびりちびりとやってきた。ところがいよいよ底が見えてきた。二度目を仕込まねばならない。雨の予報の明日(今日のこと)、“雨読”として調理実習にして、仕込むとしよう。ところが、何をどう思ったか、昨晩、拾い集めた豆、洗い水に浸してしまった。大豆使わなけりゃ…、三升漬は? 余計なことをやってしまったものだ。どうするか…。実は一回目の三升漬、後から昆布を足している。レシピを探してもそんな三升漬ない。ヴァリエーションは無限にありそう。そこで思い付いたのが、麹を使って仕込むという点。味噌だ、大豆と麹とで出来上がる。三升漬に大豆を入れたらどうなるんだろう、どうせ庵主の酒のあてなんだから…。

やってみました。大豆、試食して枝豆のような食感になっていたので、20分ほどで炊き上げるのをやめ、そのまま冷えるまで放置。この時間、24時間水に浸しても40分くらいは煮るものらしいから、相当早い。ただ、麹と混ぜるから、それでも構わないだろうと判断。三升漬の基本レシピ(麹:醤油:唐辛子=1:1:1)に、冷めた大豆を2培量(麹:醤油:唐辛子:大豆=1:1:1:2、この2倍量の内、1を半殺し、残りは丸のまま)。ちなみに2倍量にしたのは、この大豆、小川町の在来種、がとにかく美味い。ゆでてそのまま食べても実にうまい。美味いものは多く、という意地汚さからだ。さて、さて、この二畳庵版三升漬、どうなることでしょう。同時に満たしたのが吉とでるといいんですが…。

 

 

今日の一枚:仕込んだ直後の様子、今日の14時過ぎ台所にて。 

追伸:煮汁、捨てたりしない。そんな勿体ないこと出来ない。塩をパラパラ入れるだけでも十分美味しい汁ものができる。今日は、味噌を溶いて饂飩の汁にして昼飯に頂いた。大根、ニンジン、長ネギ、サトイモが入っている。急に思いついたので、サトイモ以外は相方が購入していたもの。ちゃんと予定してれば、饂飩と味噌以外、小川町産でまとめられたのに…。味? そりゃもう、最高でした。