先日、ひょうたん良先生への復縁祈祷を断られた人を金鳳先生に紹介しました。
おなかには、元彼の赤ちゃん。元彼と生まれてくる子供と3人で幸せになりたいという願いでした。
ひょうたん良先生は、ひとことで無理。
金鳳先生は、電話で朝まで、しゃべったとの事でしたが、祈祷引き受けを断ったとか。
そんな金鳳先生が、復縁祈祷希望者に送るメッセージを本日、送ってきました。
サイトにもアップすると同時に、当ブログにもアップします。
http://www.reinou.jp/kinpou.html
以下、金鳳先生から本日いただいたメッセージ。
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復縁祈祷の依頼・・・その前に!
復縁のご祈祷依頼を検討下さっている皆様、ご依頼をお受けすることは容易いことではありますが、その前に今一度、立ち止まって考えていただきたいことがあります。これまでに復縁祈祷のご依頼を受けてお話しさせていただいた経験や、他の祈祷師の方が受けられた復縁祈祷についての話をもとに、私も今一度その意義について考えてみましたので、そこで得た見解について、お伝えしなければならないと考えました。
少し厳しい言葉が続きますが、結論から申しますと、復縁祈祷の依頼というものは、祈祷が成立するかどうか以前に、依頼として根本的に成立していない、と感じることがほとんどである、ということです。平たく申せば、復縁祈祷を依頼するという性格、行動パターンというものが、実は別離の原因になっていると感じるのです。どういうことかと申しますと、復縁祈祷をご依頼の方というのは、自分を変革する必要性に気付いてらっしゃらないことがほとんどです。単純な復縁祈祷というのは、自分は変わらぬまま、相手だけ変えさせようという、身勝手な無理難題であることをご理解いただきたいと思います。ごく普通に「良き人」であれば、その人にはどんなに非がなく、可哀想としか言いようのない別離によって苦しもうとも、復縁祈祷などは依頼しないものです。
人の縁というものは、陶器のようなものです。大変割れやすい。世の中にはそれなりに、復縁の話があります。もちろん、祈祷などしていない状態での復縁です。それは、原因がちょっとした誤解であったり、どちらかが、あるいは双方が別離を機に、自らを省みて何らかの変革をとげた上での復縁であり、陶器で言えば、手が滑ってその場で大きく割ってしまったようなものです。陶芸の心得があれば繕って使うことも出来ます。しかし、復縁祈祷のご依頼の話を聞いていると、陶器で言えば手が滑って割れたのではなく、陶器に爆弾が置いてあって、それが爆発して木っ端微塵になった、その陶器を修復してくれ、と言われているように感じるのです。しかも、爆弾はそのままに。
別離というものを考えてみましょう。依頼者より相手の精神が上だったか下だったかは知りませんが、一つだけ確かなのは、何かが合わなかったということです。そして、依頼者に共通しているのは、そうした事情、原因をさておいて、元に戻してくれ、と依頼をしてこれる性格である、ということです。相手が目の前にいないのに、自分はこのままで、相手を変えてくれというのですから、原因・条件・結果の法則に基づく仏教の僧侶に依頼することとしては、あまりにも無理難題です。木っ端微塵になり、破片がどこへ飛んで行ったともしれない陶器を修復できるのは、ハリー・ポッターで登場する魔術だけでしょう。仏教の開祖である釈迦牟尼は魔術を明確に否定しています。魔術はその末弟子たる我々僧侶がすべきことではありません。
さて、生臭い話ではありますが、そのような依頼をしてこられる方に限って、祈祷料の用意は出来ていないという傾向があまりにも強いです。未練にばかりとらわれて、現実的な段取りが出来ていないのです。この現実感のなさ、狼狽するばかりで自分の状況を冷静に判断できない愚かさ、これが祈祷料の用意もなしに無理難題の依頼をするという行為に繋がっているのです。
繰り返しになりますが、復縁祈祷というのは、無理難題な祈祷です。陶器を割ってしまった時、新しい陶器(別の土をこねて作ったもの)を入手する方が、修復よりも簡単でしょう?つまり、まだ始まっていない、良縁祈願とか、片思いが両想いになる祈願をする方が、敬愛祈祷としては簡単なのですよ。実際、私は自身の復縁祈祷などしたことがありませんし、死ぬような思いの恋をした時にさえ、成就のための祈祷をしたことがありません。
さあ皆さん、ご自分を変革する覚悟はお持ちですか?祈祷料のご準備はお済みでしょうか?そこまでの用意が出来たら、どうぞご相談をお寄せ下さい。あなたが自己変革するためのお手伝いを致します。変革なしに、相手は魅力を感じてはくれないのですから。