ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



大川隆法先生って、お釈迦さまが生まれ変わった方なんでしょ。じゃあ、仏教学者って、「幸福の科学」とか大川隆法先生を、どう見てるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏教学から観た「幸福の科学」分析』――東大名誉教授・中村元と仏教学者・渡辺照宏のパースペクティブ(視角)から(幸福の科学出版)で、『新釈尊伝』などの著作で有名な宗教学者である渡辺照宏氏の霊の言葉を、次のように紹介しておられます。

 これは、「仏陀とエル・カンターレの比較思想学」みたいなものになるかもしれないけども、いやあ、それは、明らかに、エル・カンターレの視野のほうが広いわねえ。
 うーん、明らかに広いし、「霊的な部分の確信」というのは、すごい持っていて、それを明確に説いている。まあ、仏陀も、いちおう、成長はあったんだと思う。四十何年間やってる間に、成長はあったんだと思うけども、やはり、これは、日本的に言えば、「大神様が出た」という感じに近いと思うね。
 でも、私には、今、まさしく、「奈良の大仏」そのものを出してこようとしているように見えるよ。全人類救済のために、あれを顕現させようとしているように見えてしょうがない。
 だから、君らが、(大川隆法が)生きているうちに仏像をつくりたくなるのは、自然の情だよな。そうでなきゃいけないと思う。
 ただ、ちょっと早いけどね。一般には、死んでからあとにつくることが多いから、そのへんが、誤解されるところでもあり、嫉妬されるところでもあるけども、まあ、年齢がかなりよくなってきたので、そろそろ、何て言うか、「世間に通用する」というか、世間の人々が納得する時代がやってきたかとは思う。
 今は、大統領だとか、国連事務総長だとか、首相だとか、いろんな偉い人たちに対しても、間違いを指摘する立場に立っているんでしょう? そういう権威は、仏陀にはありますよ。なければいけないものです。これは、「この世のすべてのことについて見識を持っている」という、「世間解」という立場だね。
 だから、王様たちに対しても意見を言う。戦争と平和についても意見を言う。この世とあの世についても意見を言う。修行の仕方についても意見を言う。他宗教についても、分析をし、意見を言う。それは当然のことですよね。やるべきことをやっていると思います。これは正しい立場だと、私は思いますね。
(255~257ページ)

仏陀とエル・カンターレを比較すれば、明らかにエル・カンターレの視野のほうが広いし、霊的な部分に確信を持ち、それを明確に説いている。

今まさしく、全人類救済のために、奈良の大仏そのものを顕現させようとしているように見える。

仏陀には、いろんな偉い人たちに対しても間違いを指摘する権威があるのであって、さまざまなものに対して意見を言うのは当然のことであり、やるべきことをやっていると思うし、これは正しい立場だと思う──。

一口に「宗教学者」と言っても、天上界には還れなかった方や、とっても困った方ことをする方などなど、いろんな方が実際にはいるものだと思ってはいました。

本書の前半で、あの高名な仏教学者・中村元東大名誉教授のとても残念な霊言を、延々と読まされたあと、後半で登場した渡辺照宏氏は、天上界の高い視点から、幸福の科学と大川隆法先生を正当に評価しておられます。

そして、霊的世界の実在と「再誕の仏陀」の真なる意味を、きちんと仏教学者として検証し評価しておられるわけで、もうただ者ではないと言うほかありません。

幸福の科学の信仰を持っていない客観的な立場の宗教学者が語る、前半の中村元東大名誉教授とはあまりに対照的な、高い評価の言葉の数々。

本書は、幸福の科学と大川隆法先生に興味関心を持った方であれば一読の価値があるのは間違いない重要な書物の一つであると、改めて私は思っているのです。
 

『仏教学から観た「幸福の科学」分析』

 大川隆法著


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健さんって亡くなってだいぶたつけど、幸福の科学で「霊言」、やってないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『高倉健 男のケジメ』――死後17日目、胸中を語る(幸福の科学出版)で、まさにその高倉健さんの「霊言」を収録して、その肉声を次のように紹介しておられます。

 君ら、もし、私が嘘つきでないと思うなら、私の言うことを信じてくれよ。
 私は十一月十日に死んだらしいけども、今日は、二十七日で、十七日後に、宗教法人の幸福の科学っていうところに出てきて、「高倉健の霊言」っていう感じのメッセージ、「高倉健 男のケジメ」っていうのは、これは俺が付けた題だけども、それを話しています。これについては事実です。
 だから、君たちが、霊を信じなかったり、あの世を信じなかったり、まあ、神様や仏さんを信じないっていうのは自由かもしらんけども、「事実は事実としてある」ということは言っておるし、幸福の科学や大川隆法先生が嘘をついているっていうことは、まったくない。
 だから、週刊誌とかで、高倉健の追悼集をいっぱいやっていると思うけども、こういうところも、あなたがた(幸福の科学)に対しては意地悪なところもたくさんあるとは思うんだけどね。
 「霊言なんていろいろやって、有名人の名前を騙って、本を売って金儲けしてる」っていう、まあ、本を売ることへの嫉妬もあるんだろうとは思うけども、これは事実だから。「事実だからしょうがないよ」っていうの、「事実だから、これしかたないよ」っていうのは、やっぱり認めるしかないよ。
 認めないほうが間違いで、認めるのが正しいんだから、これについては私は言っておくから。
 だから、私の特集をやったら、「大川隆法総裁のところで、亡くなった方がいろいろ霊言なさってるっていうのが本当だったら、高倉健の霊言ぐらい出してみろ」って言いたくはなるだろう。
 まあ、あまり縁がない、重なるところがない人間同士ではあるけども、なんかつながりができたら出られないわけじゃないんだ、と。
(150~152ページ)

いやあ、健さんの写真が印象的な表紙の本書は、2014年に発刊されたものです。

直後にさっそく一読して、とにかく驚きました。

あの健さんその人が、一冊まるごと、死後17日の時点で感じ、考えていることを、訥々と語っていたのです。

大川隆法先生の「霊言」を、信じられる人にはもちろん、信じていなかった人も、健さんファンであるならば、まずは絶対に手にとってみるべき「霊言集」なのは掛け値なしに太鼓判。

本当に、強く強くお勧めしたい一冊であると、改めて私は思っているのです。
 

『高倉健 男のケジメ』

 大川隆法著


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外国語の勉強、もうできないってくらいやってるのに、ダメなんだよね。限界突破法みたいなの、ないのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『外国語学習限界突破法』(幸福の科学出版)のまえがきで、以下のように説いておられます。

 「底なしつるべで水を汲む」という話が仏教ではある。底がなければ井戸につるべを落としてロープで引き上げても、何滴かの水しか得られない。それでも一日中やっておれば、バケツ一杯分ぐらいの水をためることはできる。
 長年、語学学習をやっておれば、似たような経験をした方は多いだろう。また何回もチャレンジしても語学の資格試験の壁を破れないということもあるだろう。その時に、「自分は才能がないんだ。バカなんだ。」とあきらめてしまわないことである。語学はやれば確実に力が伸び、何年かサボれば間違いなく学力の落ちるフェアな学問である。多言語をマスターしようとすれば、何本かの竹ざおの上で皿廻しをやっているような感じになるだろう。
 自分を励ましつつ、努力を続け、最後は勇気をもって谷を飛ぶことだ。「恥の文化」といわれる日本文化を超えることだ。
 自分より優れた人を嫉妬せず、自分の生まれ、育ち、環境のせいにせず、ひたすら一ページでも一分でも攻め込んでいくことだ。チャンスは必ず巡ってくるものだ。
(1~2ページ)

語学とは、やれば確実に力が伸び、サボれば間違いなく学力の落ちるフェアな学問である。

自分を励ましつつ努力を続け、最後は勇気をもって谷を飛ぶことである。

優れた人を嫉妬せず、生まれ、育ち、環境のせいにせず、ひたすら1ページでも1分でも攻め込んでいけば、チャンスは必ず巡ってくる――。

学生のみなさんだけでなく、社会人のみなさんであっても、英語やその他の言語の習得を志している方はたくさんおられると思います。

そんな方に、本書は大きな朗報ではないでしょうか。

このまえがきの大川隆法先生のお言葉を読んだだけで、なんだか力が湧いてくる気がします。

でも、まえがきだけでなく、ぜひ本書を手にとって本文も読んでみられますように。

今感じておられう学習の限界を突破できる秘策が、必ず手に入ると私は思っているのです。
 

『外国語学習限界突破法』

 大川隆法著


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私って、キャリアウーマンとして成功したいんだよね。どうやっていくのがいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『北条政子の幸福論―嫉妬・愛・女性の帝王学―』(幸福の科学出版)で、日本史上もっとも有名な女性の一人である北条政子の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 ですから、キャリアウーマン型の方には、気をつけないと、敵が二種類出てくるわけですよね。「男性がライバルになり、同時に女性もライバルになる」ということです。
 二種類のライバルが出てきて、場合によっては、二種類のライバルから、足を引っ張られることもあるし、さらに、それに加えて、両親やきょうだい等、家族や親族から、いろいろと、“あるべき道”について意見を言われることが多いと思うんですね。
 高学歴女性には、特に、「自分の自己実現と周りの人の考え方とが合わない」ということは、よくあるだろうと思うので、とても難しいのですが、その人が持っている才能や能力を全部隠すことは、やっぱり無理だと思うのです。
 どうですかね。私の考えですと、やはり、隠すことは無理なんだけれども、女性のたしなみとして、絹のベール一枚でもいいから、少しだけ、心持ち、「尖った才能をオブラートに包む生き方」を心掛けるべきでしょう。(中略)
 また、例えば、男性と同等の能力があるとしても、世の中は、どちらかというと、やはり男性社会ではありますので、できれば、男性を立てようとする傾向性といいますか、そういう言葉遣いや態度等を出していくことが、一つの処世の道になるんじゃないかと思います。
 「自分のほうが、できるんだ、できるんだ」というようなことを、あまりにもPRしすぎる女性だと、敵の数のほうが増えてきて、この世的には、本来はやれるところまで仕事ができないで終わってしまうことが多いかと思います。
 したがって、将棋で言うと、「駒落ち将棋」になってしまうけれども、「歩」を一枚落としたり、「槍(香車)」を落としたりしなくてはなりません。ハンディ戦にはなるのですが、駒を一つ抜いて戦うつもりでいかないと、女性としての成功は、なかなか成り立たないのです。
 女性は、男性と同じだけの成果をあげようと思えば、本当に、男性よりも、一枚、実力が上でなければならず、そうでないと、同じだけの成果はあげられないものだと思います。
 「同じぐらいの能力だから」ということで、同じだけの成果を要求しても、敵のほうが多すぎて、たぶん、それは実現できないでしょう。
 そういう意味で、「一歩を引く心構え」が大事です。(中略)
 それと同時に、もう一つ大事なことがあります。
 「積極的に徳を積む」という意味においては、「才能のある人、能力のある人、よいところのある人に光を当ててあげ、そういう人たちを立ててあげる。持ち上げてあげる。みんなに知らせてあげる」というような努力も積んでいくことが、一種の徳を積む行為になり、自分のキャリアをつくっていく上で、間接的な援助者というか、賛同者を増やしていくことになるんじゃないかと思いますね。
(37~40ページ)

キャリアウーマン型の女性は、気をつけないと男性も女性もライバルになるので、たしなみとして、尖った才能を少しだけオブラートに包む生き方を心掛け、男性を立てる言葉遣いや態度等を出していくことが、一つの処世の道になる。

女性は、男性と同じだけの成果をあげようと思えば、男性よりも一枚、実力が上でないと、敵のほうが多すぎて、同じ成果はあげられないので、その意味で、一歩を引く心構えが大事である。

同時に、才能のある人、能力のある人、よいところのある人に光を当てる努力をしていくことが、一種の徳を積む行為になり、キャリアをつくっていく上での援助者や賛同者を増やしていくことになる――。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室であり、頼朝なきあとには幕府の実権を握って、尼将軍とまで称された女性のアドバイスの言葉には、とても重みがあります。

よくよく味わってみると、まだ完全に男女平等とは言えない日本のビジネス社会の現実を背景にして、できる女性が才能だけで突っ走ってしまうことで生じる弊害は、よく分かる気がします。

また、徳を積む行為、つまり「与える愛」の実践でもあると思いますが、これがよい意味で必ず自分にも返ってくることになるというのは、仏法真理にかなった考え方だと思います。

本書は、鎌倉時代に興味がある歴史ファンにとってはもちろんのこと、デキる女性必読の霊言集ではないかと、改めて私は思っているのです。
 

『北条政子の幸福論―嫉妬・愛・女性の帝王学―』

 大川隆法著


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マイケル・ジャクソンって、亡くなってだいぶたったけど、あんなすごいエンターテイナーだったんだから、天国にいるのかな。でも「スリラー」なんて映像、地獄の亡者みたいなのがたくさん出てきてたし、もしかして地獄にいたりして? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)で、こう紹介しておられます。

 この人は、いちおう大丈夫のようです。「スリラー」などの映像を見ると、やや怪しい感じもありますが、やはり、人々に喜びを与えた面のほうが大きかったようです。
 また、本人は自分が黒人であることに劣等感を持っていたようですが、「黒人出身で世界的なスターになった」ということで、黒人の世界の「光」になった部分はあったようです。
 そのため、彼は、現在、音楽や芸術家系統の神様の世界に入っていく道の途中にいます。どのくらいの所まで辿りついているかというと、もう八合目ぐらいまでは還っている感じです。
 霊界には、音楽家、アーティストたちの世界があり、レベルはいろいろありますが、彼はかなり上のほうだと思います。現代の音楽なので、昔の音楽と単純に比較するわけにはいきませんが、どのレベルに相当するかというと……。
 (約十秒間の沈黙)
 けっこうトップクラスに近いあたりだと思います。
 『黄金の法』に名前の出ている人や、霊言集(『大川隆法霊言全集』〔宗教法人幸福の科学刊〕)に霊言が収録されている人で言えば、ピカソやベートーベン、モーツァルトなどがいるような世界に還るようです。
 彼の場合は、音楽以外に、もう一つ、「黒人たちの光になった」という意味での功績があったことも理由でしょう。(中略)
 光の世界に還っています。あれだけの有名人になったので、晩年には、周りからの嫉妬が渦巻いたり、事件に巻き込まれたりしたこともありますが、「プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった」ということでしょう。(中略)
 マイケル自身は、光の世界に還っていて、レベル的には、芸術家系の魂としてはトップクラスの人の一人です。
[注]ピカソは菩薩界上々段階の梵天界、モーツァルトは菩薩界、ベートーベンは菩薩界下段階に還っている。『黄金の法』第1章参照。
(84~90ページ)

マイケル・ジャクソンは、光の世界に還っている。

プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった。

還ったのは、菩薩界や梵天界と呼ばれる高級霊の世界であり、芸術家系の魂としてはトップクラスの一人である──。

いやあ、考えてみたら当たり前の話ですけれど、音楽家の光の天使というのは、クラシック音楽の領域だけじゃなくって、現代のPop Musicの世界にもいたんですね。

最近また、インターネットの動画で、マイケルの曲に合わせて見事な振り付けで踊ってる人の映像を、よく見かける気がします。

改めて、今日のお教えに触発されて、マイケルが残してくれた素晴らしい楽曲の数々を、少し聴き直してみたいと私は思っているのです。

『エクソシスト入門』

 大川隆法著


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ねえ、「神秘学」なんて学問が、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘学要論』――「唯物論」の呪縛を超えて
(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 いわゆる「神秘学」には、様々な心霊現象、オカルトの歴史、魔法や超能力、呪術や各種宗教の秘儀にあたるものが含まれるので、要点を概説するのはそんなに簡単ではない。
 本書は幸福の科学の活動に併行して現れて来た心霊現象の要点部分を、宗教としての幸福の科学の核心に迫るための一つのアプローチとして捉えたものである。教祖学や教義学の一助となれば幸いである。
 最近は、利益追求を目的とする株式会社の発行する週刊誌などが、表現・言論・出版の自由を濫用している。単なる心霊現象の一端と、教祖としての神霊能力の区別がつかない報道が多いようだ。「嫉妬心」が集まれば「正義」になると短絡的に考える悪しきマスコミ論理や売文商法がそこにはある。憲法にいう信教の自由とは、基本的人権とも密接不可分であると同時に、真理探究の手段でもあるのだ。
(1~2ページ)

ものすごく数多くの霊言集を、大川隆法先生は出し続けておられるわけですが、「霊言」とはいったいなんなのかを、理解できていない方も多いと思います。

大川隆法先生の霊言能力は、ちまたのイタコなどによる“心霊現象”とはまったく違って、「教祖としての神霊能力」です。

だからこそ、有史以来あらわれたことがないほどの質と量で、毎年毎年、数えきれないほどの霊言集が、刊行され続けているわけです。

そのほんとうの意味が、「幸福の科学の活動に併行して現れて来た心霊現象の要点部分」がとりまとめられた本書を一読することで、興味深くおもしろく、しかもあっという間に理解できると、私は思っているのです。
 

『神秘学要論』――「唯物論」の呪縛を超えて

 大川隆法著


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若いのがいいね。年をとるって、いやなことだよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の年齢が上がることには、ありがたい面があります。若いころには難しいのですが、年を取ると、自分より優秀な年下の人を使えるようになるのです。
 自分と同年代であれば、才能が拮抗したり、お互いにライバル関係になったりして、一緒に仕事ができないことがあるのですが、そういう人についても、自分と年が離れてくると、だんだん、部下として使えるようになります。やはり、世の社長族がたいてい年を取っているだけのことはあります。
 確かに、自分が五十代、六十代、七十代になってくると、「この人は、三十歳のころの自分よりも十倍ぐらい仕事ができる」と思うような人でも使えるようになります。
 例えば、現在六十歳の社長が三十年ほど前に会社を起こしたときには、その会社は“おんぼろ会社”で、ろくな人材がいなかったとしても、それから三十年ぐらいたって会社が大きくなると、優秀な人がたくさん入ってきます。そして、六十歳ぐらいの年齢になると、たとえ自分より優秀な人が入ってきたとしても、そういう人を使えるようになるのです。
 そのように、「年齢が上がる」というのはありがたいことであり、それには、「優秀な人と競争をしなくても済むようになる」というメリットがあるわけです。
 つまり、「若いころに同年代であれば、この人は自分のライバルになっただろう」と思われるような人であっても、自分が年を取って年齢に差ができると気にならなくなります。その結果、自分より能力の高い年下の人を使えるようになってくるのです。
 ただ、年齢が離れていても嫉妬する人はいるので難しいのですが、自分より若い人に嫉妬をするタイプの人がリーダーであれば、その組織は先細りしていくでしょう。
 「会社や組織を、もっともっと発展させよう」と思うならば、若い人のなかから優秀な人がどんどん出てきて、次々と上の立場に上がり、力を発揮できるようにしなければいけません。
 今、会社や組織でリーダー的な立場にある人には、若いころ、自分が頭角を現し、成功軌道に乗ろうとしたときに、同輩や先輩、上司など、いろいろな人から嫉妬され、潰されそうになった経験があるはずです。
 そういう人が、年上となり、後進の者を導く立場になったときには、今度は、「自分自身が、若くて優秀な人に嫉妬しないようにする」ということを一つの修行課題としなければなりません。若くて能力のある人、覇気のある人、やる気のある人、素質のある人を、潰さずに引き立て、育てていくことです。
 若い人が、多少、失敗をしても、それを受け止めて、「自分が責任を取るから、思い切ってやれ」と言ってあげたり、「若いときの失敗は決定的なものではない」ということを教えたりして、上司が自分の器の大きさを見せることが大事になってきます。
(74~77ページ)

年齢が上がることには、ありがたい面があって、優秀な人と競争をしなくても済むようになって、自分より優秀な年下の人を使えるようになる。

会社や組織を、もっと発展させようと思うならば、若い人のなかから優秀な人がどんどん出てきて、次々と上の立場に上がり、力を発揮できるようにしなければいけない。

年上となり、後進を導く立場になったときには、自分自身が若くて優秀な人に嫉妬しないようにすることを一つの修行課題とし、若い人が、多少、失敗をしても、それを受け止めて、器の大きさを見せることが大事になってくる──。

年齢が進んでいくことのありがたさ。

そして、年齢があがったベテランの修行課題とふるまいかた。

大川隆法先生のお教えは、それこそ、老いも若きも学び続ける価値に満ちているのだと、改めて私は思っているのです。
 

『未来の法』

  大川隆法著


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ちょっと哲学的かもだけど、 愛の対極にあるものって、何なんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『真実への目覚め』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 愛の対極にあるものは何でしょうか。
 通常、「愛の対極にあるものは憎しみだ」と言われることが多いでしょう。
 しかしながら、私は、「愛の対極にあるものは、実は、憎しみではなくて嫉妬である」と感じています。
 例えば、家庭が崩壊する場合を見ても、憎しみによって崩壊するのではなく、嫉妬によって崩壊することが数多くあります。また、人間関係が壊れる場合を見ても、憎しみによって壊れるのではなく、嫉妬によって壊れていくことが数多くあります。(中略)
 愛の対極にあるものは嫉妬です。(中略)
 人間は誰に対しても嫉妬をするわけではありません。そうではなくて、自分が最も強い関心を持っている方面で優秀な人に嫉妬心を持つのです。
 例えば、みなさんが「サッカーの選手になりたい」と強く願っていれば、自分よりサッカーの上手な人を見ると、嫉妬を感じます。しかしながら、「サッカーの選手になりたい」と思っている人が、柔道の選手を見て嫉妬することは、あまりないのです。
 同じように、「お金が欲しい」と強く願っていると、お金持ちは嫉妬の対象になるでしょうし、「異性から愛されたい」と強く願っていると、異性から愛されている人に対して嫉妬の心が湧いてくると思います。
 そのように、第一段階として、「愛の対極にある嫉妬は、本当は、自分がなりたい理想像、自分が『あのようになりたい』と願う理想像を打ち壊そうとする、心の作用である」ということを知らなければなりません。
 本当は、表面意識下では実現を願っているにもかかわらず、目標になるべき方向にいる人に嫉妬することによって、みなさんは、その方向に進むことができなくなるのです。なぜならば、みなさんには、嫉妬をしている対象に対して、必ず、批判をし、悪口を言い、その人の欠点を指摘するようになる傾向があるからです。
 ここは大事なところです。みなさんが心に感じる嫉妬が、「本当は、この人のようになりたい」と思う人に対するものであることを、素直に認めることができたならば、嫉妬の心を抑えて、逆に祝福の心を持っていただきたいのです。
 祝福の心は「肯定の心」です。「かくありたい」と願う心です。祝福の心は、「他の人の幸福を願う心」なのです。
 その心を持っていれば、みなさんは、自分が祝福している人の方向に向かって、人生を歩んでいくようになるのです。
(114~118ページ)

愛の対極にあるものは、実は、憎しみではなくて嫉妬である。

人は自分が最も強い関心を持っている方面で優秀な人に嫉妬心を持つものであって、嫉妬とは、自分がなりたい理想像を打ち壊そうとする心の作用と知らなければならない。

逆に、祝福の心は「肯定の心」であり、「他の人の幸福を願う心」であるから、この心を持っていれば、自分が祝福している人の方向に向かって人生を歩んでいくようになる――。

今日は、幸せな人生を送りたいのであれば、自然に出てきがちな嫉妬の心を抑えて、祝福の心を持つこと、と教えていただきました。

要は、うらやましいなあという感情がわいてきたら、とにかくその人に対して、にっこり笑って「おめでとう!」と言ってしまうことです。

このお教えを素直に守ることは、少しの努力で誰でもできるもののように思えます。

そして、実際にこの努力でよい方向に進んで行けることを、間違いなく保障できると改めて私は思っているのです。
 

『真実への目覚め』

 大川隆法著


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なんだかものすごい劣等感で、生きてるのがつらいんだよね。どうしたらいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 劣等感は「他人との比較」から生まれてくるものです。(中略)
 この世では大勢の人が一緒に暮らしていかなければなりませんが、どのような人にも、「ある部分は優れているが、ある部分は劣っている」という“でこぼこ”はあるものです。そんなものです。
 すべての人が同じ“人造人間”のようなものであってよいはずがありません。
 「まったく同じサイズで、同じ性能と機能を持ち、寿命も同じ、馬力も同じ」ということであれば、それはロボットと同じです。人間が、そんなものであるはずはありません。
 人間には、いろいろな違いがあるから、楽しいし、可能性があるし、面白いのです。
 そして、一人の人間だけでも面白いのですが、「人と人との組み合わせ」ということも面白いのです。違うタイプの人同士の組み合わせによって、いろいろなことができるところが、また素晴らしいのです。
 「劣等感や嫉妬心のもとにあるものは、他人との比較」であると述べましたが、人間は他の人と違っていて当たり前なのです。バラエティーに富んでいるからこそ、世の中は面白いのではないでしょうか。

 誰もが同じだったら、生まれてくる意味などないのです。
 違う人がたくさんいるから面白いのです。
 他の人たちから刺激を受け、切磋琢磨しながら生きていくことができるわけです。
 あるときは先生になり、あるときは弟子になり、お互いに教えたり教わったりしながら生きていくから、人生は楽しいのです。(中略)

 「私は劣等感を持っています。劣等感のかたまりで、ここも、あそこも……」と挙げていっても、解決はつきません。(中略)
 他の人にあれこれと訴えかけて、慰めてもらったところで、どうなるものでもないのです。(中略)
 やるべきことは、自分で精進をし、小さな成功を積み重ねて、自信をつけていくことです。
 自信をつけていくことによって、劣等感は薄まってきます。小さな成功が積み重なっていくと、だんだん、劣等感を持っていた自分のことを考えなくなってくるのです。

 劣等感でいっぱいの人は、やはり不幸でしょう。一日中、自分の劣等感について考えている人は、不幸だと思うのです。
 しかし、劣等感のことを考える時間がしだいに少なくなってきたときには、どうでしょうか。(中略)劣等感のことを忘れている期間が長くなってきたときには、あなたは幸福になってきたのでしょうし、成功してきているのです。
(154~160ページ)

劣等感は、他人との比較から生まれてくるが、人間には違いがあるから楽しいし、可能性があるし、面白い。

他の人と違っているからこそ、他の人から刺激を受け、切磋琢磨しながら生きていけるのであって、誰もが同じだったら、生まれてくる意味などない。

自分で精進をし、小さな成功を積み重ね、自信をつけていけば、だんだん劣等感を持っていた自分のことを考えなくなってくる――。

うーん、今日はとっても力強い、元気が出るアドバイスをいただいたのではないでしょうか。

明日からまた、気を取り直して頑張れるような気が、私はしてきているのです。
 

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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成功するためには、やっぱし、人に頼るんじゃなくって、自分の才能がすべてでしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『百戦百勝の法則──韓信流・勝てる政治家の条件』で、「項羽と劉邦」の劉邦側の大将軍として有名な韓信の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 私どもの時代でも、先ほど話が出た劉邦は、そんなに戦が強い人ではなかったんだけど、人気はあったんですよね。とにかく人気があって、まあ、今流に言えば、人気の出る感じの政治家でしょうか。
 要するに、緻密に損得計算だけをする小役人のような頭ではなくて、何というか、気前よくお酒を振る舞うような、そういう「くれっぷり」がいい感じですね。
 もちろん、その下で汗を流した人もたくさんいるわけでしょうけども、彼は、そういう肚の大きい人であったので、その包容力の大きさに多くの人がついていったし、「多様な人材を使えた」という点が、やはり項羽よりも上だったのだろうと思うんですね。
 項羽には、個人の才能に頼っていたところがそうとうありますけども、結局は、「個人の才能よりも、多くの人を使える人物というか、そうした肚があり、包容力のある人間が、やはり勝つ」ということですね。
 劉邦は、個人としては、項羽と戦ったら負けるし、項羽の前に出たら、ぶるぶる震えるぐらい怖かったようですが、「個人としては勝てなくても、多くの人を使えば勝てる」という戦い方があるわけですね。(中略)
 これには、現代の経営に通じるものもあるだろうと思います。
 経営者なども、零細企業は社長一人から始まるのですが、だんだん中小企業から大企業になるにつれて、結局、器の問題になってくるんですよね。「どれだけ人が使えるか」という器の問題になってくる。
 もちろん、自分で仕事ができるからこそ、会社を起こせるわけですし、もともと、研究者であったり、技術者であったり、開発者であったり、営業の人であったり、アイデアマンであったりするわけですけれども、それを、どこかの段階で、組織を使って大きくしていく術に切り替えていけなければ、自分で起こした会社を大企業にすることはできなくなるんですね。その過程で、才能のある人を使わなければいけなくなってくるんですよ。
 ただ、自分自身に才能がある人は、どうしても才能のある人とぶつかります。「相手の才能が分かるため、それに対して嫉妬心や競争心を感じてしまい、その人を使えない」ということがあるわけですね。
 しかし、現実に会社を大きくするためには、そういう才能のある人が使えなければ勝てないわけです。
 政治も同じです。「国民からの目線で人気があり、有能な人材、有用な人材を配置して、国全体をうまく回していき、国力を高めてくれるような人」のほうが、個人的才能はともかく、最終的には、大国の指導者としての条件を満たしてくるようになるわけなんですね。
 最初に、自分一人が勝つためには、才能がなければいけないし、才能を持っている人に対して嫉妬心や競争心もあるだろうけども、「最終的には、やはり、才能を超えた『徳』の世界に入らなければいけない」ということですね。
(35~38ページ)

個人の才能に頼っていた項羽と異なり、劉邦は、そんなに戦が強くなかったが、その肚(はら)の大きさに多くの人がついていき、多様な人材を使えたため、最後は勝った。

経営者も、零細企業は社長一人から始まるが、中小企業から大企業になるにつれて、どれだけ才能ある人を使えるかという、器の問題になってくる。

自分自身に才能がある人は、才能のある人に対して嫉妬心や競争心を感じてしまい、その人を使えないことがあるが、最終的には、才能を超えた『徳』の世界に入らなければいけない――。

昨日、大川隆法先生が『未来の法』で説かれた、「多くの人の力を結集するには」というお教えがありましたが、今日の韓信将軍は、まさにその具体例を示して語ったのではないかと私は思うのです。

『百戦百勝の法則』

 大川隆法著


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ね、幸福の科学から「繁栄思考」って、教えてるんでしょ。それって、なんなの?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄思考』(幸福の科学出版)のまえがきで、こう教えておられます。

 この世の中には、成功し、富を築く人たちを罪人視する風潮が蔓延している。いわゆる、バケツから逃げ出そうとするカニがいると、下のカニがハサミで引きずりおろす、例の傾向だ。バケツからの脱出に成功したカニが、その脱出成功法を他のカニに伝授し、次々と仲間を引き上げる文化を創り出したらどうなるか。次から次へと成功者が数珠つなぎで出てくることだろう。
 私は、『チャンスの平等』には賛成である。そこには自由からの繁栄がある。しかし、嫉妬心の合理化である『結果の平等』には必ずしも賛成しない。汗を流し、智恵を絞って成功した者が呪われ、なまけ者が得をする世の中を創ることは、著しく社会のモラルを引き下げる。
 『格差是正』の美名のもとにマルクスの亡霊を復活させるのはやめよう。『良い格差』は他の人々を勇気づけ、社会にやる気と活力を与える。『繁栄』を肯定するところから繁栄は始まるのだ。
(1~2ページ)

『繁栄』を肯定するところから繁栄は始まるのだ──。

なんと確信に満ちた、真理の言葉でしょうか。

本書籍を、この日本の新たな繁栄を期待するすべての人に、強くお勧めしたいと改めて私は思っているのです。

繁栄思考―無限の富を引き寄せる法則 (OR books)

『繁栄思考』

  大川隆法著


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なんだかいつも、怖いんだよね。そんなことってない? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔改装版〕』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、いつも、目に見えない恐怖心によって、さいなまれてはいないでしょうか。恐怖心のもとにあるものは暗闇です。暗闇のなかにあるとき、みなさんは恐怖心を感じるでしょう。おそらく、「怖い」という思いがするでしょう。
 実は、みなさんの魂の奥には、過去、地獄に堕ち、暗闇のなかで地獄の悪魔たちにさいなまれたときの記憶が残っているのです。そのため、光は怖くないが、闇になると怖いのです。(中略)
 そうした恐怖心から自己保存欲が生じ、また、自己保存欲から恐怖心が生じます。そして、結局、お互いに自分を守りたいがために、戦争を起こすようなことになります。(中略)
 では、いかにして恐怖心を去るべきでしょうか。いちばん大切なのは、仏を信ずる心を持つことです。
 そこに信仰の柱が立ちます。この地上から霊天上界に突き抜けていく、信仰の柱が立つのです。その信仰によって、みなさんと仏とは一体です。その信仰が、みなさんを、あらゆる恐怖心から守るのです。
 また、その信仰があればこそ、「自分を害そうとしている他の人たち、いや、そのように妄想される、空想される他の人たちも、自分と同じく、幸せを求めて生きている人たちである。彼らも仏の子である」ということを、信ずることができるようになるのです。
 そのように、信仰心によって、縦の柱が立ち、お互いに仏の子であることを信じ合うことによって、横のつながりができます。この縦と横が交わってできる十字は、キリスト教の象徴でもありますが、また、愛なるものの本質を表す姿でもあります。
 真なる愛には、仏へと向かっていく縦の愛と、「汝ら、互いに愛し合え」という意味での横の愛があります。縦なるものと横なるものがクロス(交差)することによって、そこに十字架が現れます。そこに、信仰の証が、愛の本質が、明らかにされるのです。
 このように、真実の愛とは、垂直と水平の両者の光を含み、十字架を本質とするものです。
 したがって、「縦の光と横の光、この両者が交差してできる十字架の中心点に、今、自分は立っている。自分を中心として、十字架が立っているのだ」と思うことが、信仰者としての正しいあり方なのです。
 そのとき、みなさんは、劣等感からも逃れることができます。嫉妬心からも逃れることができます。また、恐怖心からも逃れることができます。仏と一体となり、そして、地に満てるすべての仏の子と一体となるとき、恐れるべきものは何一つないのです。
 「すべては同質。すべては同一。すべては一つ」――そう思うとき、みなさんは心の底から安らぎを感じることでしょう。それによって、「すべてが許されており、すべてが許されるべき存在としてある」ということに気がつくでしょう。
(89~94ページ)

恐怖心のもとにあるものは暗闇であるが、それは魂の奥に、過去、地獄に堕ち、暗闇のなかで地獄の悪魔たちにさいなまれたときの記憶が残っているからである。

この恐怖心を去るためにいちばん大切なのは、仏を信ずる心を持つことである。信仰あればこそ、他の人たちも自分と同じく幸せを求めて生きているのであり、仏の子であると信ずることができるようになる。

信仰者の正しいあり方としての真なる愛を持ったとき、仏と一体となり、地に満てるすべての仏の子と一体となって、人は劣等感からも、嫉妬心からも、また、恐怖心からも逃れることができる――。

感性に訴える今日のような御法話について、こんなふうに要約してまとめてしまうと、お教えのニュアンスが飛んでしまって大事な部分をつかみそこなっていないかと、いつも反省しつつご紹介しています。

それはそれとして、大切なのは、「恐怖心への対策は、本物の信仰を持つことである」という今日のお教えの一節を知ることではないでしょうか。

ただそれだけで、数えきれないほど多くの人が救われるのではないかと、改めて私は思っているのです。
 

愛、無限―偉大なる信仰の力 (OR books)

『愛、無限〔改装版〕』

 大川隆法著


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嫉妬がどうこう言ったって、人間なんだから、しょうがないでしょ。健全な嫉妬ってのも、あるんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 嫉妬を感じている状態は、「幸福ではない状態」です。
 今、幸福な人は、あまり他人に嫉妬をしないものです。
 あなたの幸福の程度が上がれば上がるほど、人に対して嫉妬をしなくなります。
 ところが、あなたの不幸感覚が強ければ強いほど、人に対する嫉妬心が強くなります。 そのような関係があるわけです。

 このように、成功していくと、嫉妬心は薄くなってきます。
 反対に、失敗が多かったり、えぐれている部分があったりすると、嫉妬深くなるのです。

 もし、自分の嫉妬深さを正当化したら、どうなるでしょうか。
 それは、かつて一世を風靡した「マルクス主義」のようになります。
 マルクス主義の人たちは、成功した人をうらやむ気持ちが強く、「経営者などのお金持ちは、貧乏人からお金を巻き上げ、自分は楽をしているのだ」というようなことを言っていました。
 そのような言い方をして、自分たちの嫉妬心を正当化するわけです。
 しかし、貧しさのほうを肯定したら、結局、上にいる人をみな引きずり下ろして、全員が貧しくなるしかなくなります。
 共産主義国では、ほとんど、そのようになりました。みなが貧しくなり、その結果、「誰も成功しない世界」ができてきたのです。

 やはり、嫉妬心を肯定するわけにはいきません。
 もし認められるとしたら、それは「健全な競争心」でしょう。
 「あの人は頑張っているから、私も頑張るぞ」といった健全な競争心ならば、あってもよいと思います。
 ただ、その競争心が嫉妬心のレベルまで行き、それを肯定するようになると、「人生に成功した」とは言えなくなるのです。
(166~169ページ)

嫉妬を感じている状態は、幸福ではないことを意味している。幸福な人は、あまり他人に嫉妬をしないものである。

もし自分の嫉妬深さを正当化したら、かつて一世を風靡した「マルクス主義」のように、成功した人をうらやみ、貧しさのほうを肯定することで、結局、全員が貧しくなり、誰も成功しない世界ができることとなる。

「健全な競争心」は認められるが、競争心が嫉妬心のレベルまで行き、それを肯定するようになると、人生に成功したとは言えなくなる──。

うーん、なるほど、なるほど。

今日は、嫉妬心の怖さについて、かなり納得できた気がします。

お教えいただいたとおりに、健全な競争心で人生に成功し、ほんとうの幸福をつかみたいものだと心から私は思っているのです。
 

ハウ・アバウト・ユー?-幸せを呼ぶ愛のかたち (OR books)

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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富を持つことって、いけないことだっていう宗教、多いでしょ。でも、ほんとうにそうなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄思考』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。

 基本的な問題として、「弱者に優しい」ということ自体は構わないのです。弱者に対して優しい気持ちを持つことは結構です。
 しかし、誰もが貧しくなり、弱くなっていく方向で社会をつくったら、結果的に全体が下がっていきます。そうなると、弱者が救えなくなります。社会に弱者を救うだけの力がなくなってくるのです。
 「勤勉に働いたり、創意工夫をしたりして、大きな富をつくる人たちや、会社を経営して成功する人たちを、憎んだり、嫉妬したりする」というカルチャーをつくると、人々は、ほかの人から嫉妬されたり憎まれたりすることを嫌がり、富や成功を手に入れないようにしようとし始めます。「ほかの人と同じだったら、そう思われないで済む」と考えて、経済活動のレベルを下げるのです。
 その結果、その社会は、低いレベルで、平準化、標準化してきます。「上」が努力をやめてレベルを下げてくると、「下」も下がったままなので、弱者を救う人がいなくなってしまうわけです。
 国家の財政赤字は、こういう理由で起きてきます。税金を集めても、その使い方が悪いために、国を豊かにすることができません。国を豊かにする使い方ができないので、実は財政赤字になっているのです。
 会社の場合も同じです。赤字は社長一人でもつくれます。
 結局、勤勉で、富の創造を肯定する思想を持っていなければ、やはり、豊かにはなれないものなのです。これを間違わないようにしてください。
 旧い宗教には、富について、悪のような言い方をしているものも多く、仏教も例外ではありません。仏教にもキリスト教にも、そういうことを言っているものが多いのです。
 しかし、教祖が生きていた時代には、貨幣経済がそれほど発達していませんでしたし、原始教団は貧しかったことが多いので、当時の教えは、そのままでは現代の資本主義の世の中に当てはまりません。
 そのため、旧い宗教には、「富は悪だ」というような言葉を、その言い訳に使っていることが多いのです。それを知らなければいけません。
(76~78ページ)

富が悪のような言い方をしている旧い宗教も多いが、教祖が生きていた時代には貨幣経済がそれほど発達していなかったし、原始教団は貧しかったことが多いことによる。

大きな富をつくる人たちや成功する人たちを、憎んだり嫉妬するカルチャーをつくると、人々は富や成功を手に入れないようにし始める結果、社会は低いレベルで平準化していき、弱者を救う人がいなくなってしまう。

勤勉で富の創造を肯定する思想を持っていなければ、やはり豊かにはなれない──。

大川隆法先生は、神仏の目から見て正しい思想を、この現代日本で、現代人にわかる言葉で、しかも現代にあった形で説いておられます。

その教えは、日本人だけに向けて説かれているわけではなく、世界の人々に向けて語られています。

大川隆法先生が海外で英語説法をされると、集まった聴衆にはその内容がきちんと伝わり、その場で幸福の科学に入会する人が続出しているのは、その証拠だと思います。

勤勉に働き、創意工夫などで大きな富をつくり、成功していくことを積極的に奨励する宗教が登場したことは、この日本だけでなく世界にとっても、大きな福音だと改めて私は思っているのです。

繁栄思考―無限の富を引き寄せる法則 (OR books)

『繁栄思考』

  大川隆法著


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嫉妬しちゃうじゃない。なんだかわかんないけど、どうにもならないのよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、書籍『ハウ・アバウト・ユー?』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「他の人と比較して、あらゆる面で絶対に負けない」ということはありえません。何かが優れていても、何かは劣っているものです。
 人間が嫉妬心を感じる相手とは、基本的に、自分が関心のある領域の人、要するに、「自分のライバルになるようなタイプの人」であり、それ以外の人には感じないのです。
 例えば、私が毎日、運動をしていても、それは、健康のためにする程度のものであって、「スポーツ選手になろう」と思って運動をしているわけではありません。私が「オリンピック選手に嫉妬する」ということは、まずないのです。なろうとも思いません。
 「ヤワラちゃん」の愛称で親しまれている谷亮子選手が、柔道で金メダルを取ろうが取るまいが、何の嫉妬心を感じることもありません。

 ところが、かなり高いレベルの実力を持っていた元スポーツ選手だったら、どうでしょう。
 現役を引退し、結婚して、今はママさんになっている人が、「ヤワラちゃんは、ママになってもメダルを取ろうとしている」という姿を見たら、嫉妬心が出てくるのではないでしょうか。
 「私は完全に引退しているのに、彼女はまだ現役でやっているのか」と思い、嫉妬心を感じるでしょう。

 「嫉妬を感じる」というのは、やはり、自分が関心を持ち、「そのようになりたい」と思う領域の人に対してなのです。そういう人に対しては嫉妬を感じますが、それ以外の人には感じないのです。
 嫉妬心は、自分にとって関心がある領域の人に感じるものなのです。
 この嫉妬心についても、頑張って心の持ち方を変えなければ、幸福にはなれません。

 みなさんは、嫉妬心でギラギラしている人を見て、それが幸福な姿に見えますか? 「あの人は嫉妬心が強いな」と感じたとき、その人のようになりたいと思うでしょうか。
 なりたいとは思わないでしょう。
(162~165ページ)

人間が嫉妬心を感じる相手とは、自分が関心を持ち、「そのようになりたい」と思う領域の人に対してであり、それ以外の人には感じない。

嫉妬心でギラギラしている人を見たとき、その人のようになりたいとは思わないものである。

嫉妬心については、頑張って心の持ち方を変えなければ、幸福にはなれない──。

誰かに嫉妬してしまって悩んでいる人は、けっこう多いのではないでしょうか。

でも、嫉妬心の原因を、こんなふうにクリアに教えていただくことで、自分の心の対策もたちやすくなる気が私はしているのです。

ハウ・アバウト・ユー?-幸せを呼ぶ愛のかたち (OR books)

『ハウ・アバウト・ユー?』

 大川隆法著


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