ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



学校に行くと、なんだか悪霊の影響を受けてる人がたくさんいる気がする。電車に乗っても、職場に行っても、悪霊の影響を激しく受けてる人が、わざわざ近くに寄ってくる気がする。間違った心で生きてる人ばかりの気がする。そんなふうに感じる自分って、性格が悪くなったのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学で勉強している人も、おそらく普通の人よりもはるかに感受性が強くなっているだろうと思います。そのため、悪霊の波動などをずいぶん感じるようになっているでしょう。「どうしてこれほど、嫌なことがよく分かるのかな」と悩むことも、おそらくあるだろうと思います。
 しかし、そうした悩みのときに、あることを私は思いつきました。それは「腕が上がると、拙いもの、お粗末なものも、よく分かるようになってくる」ということなのです。
 絵でもそうです。自分が絵の勉強をして、だんだん上達していくと、初心者の絵を見れば、どこが悪いかがすぐ分かるのです。自分よりはるかに上手な人の絵は、どの程度うまいか分かりませんが、初心者のかいた絵であれば、配色のここが悪い、デッサンのここが悪いといったことが、すぐ分かるようになります。それと同じようなものです。
 絵の専門家ではない人ならば、素人がかいた絵を見ても、「まあ、きれいな絵」ということですみます。ところが、絵を専門に習った画家から見ると、「この絵はほんとうにバランスが悪い。この色が悪いし、光の当たり方もおかしい」などと、悪いところにすぐ気づくのです。
 そして、それをそのままボンボンと言ったならば、絵をかいた本人は顔をしかめて、「なんて嫌な人だろう」と思うでしょう。また、その素人絵をほめていた人も、「世の中には嫌な人がいるものだ。こんなに揚げ足ばかりとって」と言うでしょう。
 しかし、絵の欠点が目につくのは、その画家の性格が悪いわけではありません。その人に実力があるから、パッと見ただけで、その絵の悪いところがほんとうに分かってしまうのです。
 ただ、それをそのまま口にした場合に、その反応を見て、自分の性格がよほど悪くなったような気がするだけなのです。
 同じように、霊的な眼が開けると、悪霊がたくさん憑いている人の悪いところがよく見えるのです。普通の人が見えないものほど、見えたり感じたりします。そのため、霊的な眼が開けると、「自分はどうして、こんなに悪い性格になったのだろうか」と悩む時期が、だれにでもあるのです。(中略)
 したがって、みなさんが仏法真理を勉強して、心の段階が上がれば上がるほど、普通の人よりもはるかに、いろいろな人の心の間違いに気がつくようになります。
 また、心の統制がとれていない人と会うと、非常に不愉快な思いをしたりすることもあります。
 ただ、そのときに、迷ったり、自分をあまり疑ったりしてはいけません。「これはいま自分の実力が上がっているのだ」ということを知らなくてはいけないのです。
(112~117ページ)

心の修行が進むと、以前には気がつかなくて平気だったことが、敏感に感じとれるようになってきて、とても苦しい思いをすることがある。

でも、それは自分の修行が進み、心境が上がろうとしているからだと知らなくてはならない──。

そして、本当に心境が上がりきったときには、そんなことが気にならなくなって、大きな気持ちで受け止め、乗り越えることができる段階が来るのだろうと私は思っているのです。

『幸福への方法』

 大川隆法著


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「カルマ」って言葉を聞くことがあるんだけど、それって何なの? って疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「業」(カルマ)という言葉は、聞くことがよくあると思います。結局、人間として生まれて、生きて、死んでいくまでの間につくってきた傾向性を「業」と言うのです。それは傾向性であるがゆえに、いったんできあがってしまうと、それに基づいて、新たな念いや新たな行動というものが起きてくるのです。みずからが生み出した魂の傾向性ではあるが、いったんできた以上、それに基づいて自分の念いや行動まで左右されていくようになります。そのようなもののことを「業」と言うのです。
 実は、「業」のところをあれこれと分析して、人間としての本当のあり方、生き方とはどういうものかを教えているのが宗教なのです。そして、宗教が道徳にとどまらないところは、来世との関わりにおいて今世の生き方を教えているところなのです。来世と今世との関係を説明しながら、人間の生き方を追究する、そこに宗教としての本来の姿があるわけです。
 これは、哲学や道徳、あるいは医学などでは教えてくれないところです。本来、宗教とは、そのような総合学であって、総合的な人間学であり、天地万物すべてのなかを生き抜いていく人間の生き方を教える学問でもあったわけなのです。
 「十二因縁(じゅうにいんねん)」という考え方は、仏教を学ぶ方は、必ずどこかで目にしたことがあるでしょうし、聞いたことがあるでしょう。十二個もあるので、たいていは覚えきれなくて四苦八苦するというのが普通のようです。確かに、覚えられないものだろうと思います。その理由は、もともと釈迦がつくったものではないからです。後世の研究熱心な弟子たちが、「もっと分析できないか、もっと分解できないか」と十二個まで増やしていったというのが真相なのです。
(207~208ページ)

梵語(ぼんご、サンスクリット)の「カルマ」という言葉が、中国で「業(ごう)」と翻訳されて、仏教用語になってるんですよね。

でも、仏教の本とか読んでみると、「十二因縁」とかなんとか、複雑でややこしくて何がなんだか分からない。

大川隆法先生はこれを、「魂の傾向性」なのだって、スパッと教えて下さってます。転生を繰り返していくなかで、できていく魂の傾向性が、「カルマ」なんだ、と。

そうすると、過去に転生した人生がたくさんあって、いまこの世に生まれてきた自分がいる。この魂は、その転生のプロセスの積み重ねで、一定の傾向性、いい面と悪い面を持っている。

だから、いま現在与えられた環境のなかで最大限の努力をして、悪い面は修正をかけて、よい面を伸ばすように生きていくこと。

それこそが今世の幸福であるし、すなわちそれは来世の幸福にもつながっていくと教えていただいてるのだと私は思うのです。


『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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なんであんな人が上司なんだろ、やってられないよ。上司だからって、一方的に命令してくるなよな、言うこときけるはずないじゃん。・・・なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の革命』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分より上の人を尊敬することは、ビジネスにおける成功法の一つなのですが、世にあるビジネス書では、この点にあまりふれていません。
 しかし、上司を尊敬するタイプでなければどうなるかは、立場を変えてみれば分かります。自分が上司である場合には、やはり、自分を尊敬し、よく働いてくれる部下を欲するのです。
 「人によく使われる人が、人をよく使えるようになる」──これがビジネスマンに与えられた金言です。
 人に使われることを知らなかった人は、人を使うことはできません。
 いまの自分が人に使われる修行の段階にあると思うならば、よく使われること、よく仕えることが大事です。
 そうすることによって、上司の気持ちが分かってきます。
 また、「自分が上司となったときには、どのように部下と接すればよいか」ということも分かってきます。
 この考え方をはずしてはなりません。
 上の人に対する反発心が非常に強い人は、この点をよく省みることが必要です。
 自分の上にいる課長や部長、役員などに対する反発心を抱き、「あの人は能力もないのに、あそこまで出世した。能力的には自分のほうがずっと上なのに、あの人は上手にお世辞を言って上に取り入り、出世した」などと考えている人は、決して大成することはありません。
 そうした人が出世した場合には、「自分は自力で出世した」と思っていても、あとに続く人から必ず同じように見られます。
 人を裁く人は、自分も人から裁かれるようになります。
 したがって、人のなかにあるよきものを、努力して見つけていくことが大切なのです。
 しかし、上司だけでなくトップまで尊敬することができず、いまの待遇に甘んじることがどうしてもがまんできない場合には、「その組織を去るべきときがきた」ということです。
 その組織が、そのなかで働く多くの人に活躍の場を与えているのであれば、上の人に対してどうしても納得がいかないというのは、その組織が悪いというより、そこは自分のいるべき場ではないということなのです。
 その場合は、自分のほうが場を替えるべきです。
(90~93ページ)

仕事で成功したいのであれば、まず上司を尊敬すること。

上司に反発している場合、自分は上の人への反発心が強すぎるタイプではないかと、まず反省すること。

どんな上司にも反発してることに気づいた場合、それは自分を大成させる性格ではないことを知り、上司のよいところを努力して見つけるようにすること。

それでも、そういう上司を自分の上に置いているトップまで尊敬できないような場合には、その組織を去るべきなのだ──。

うーん、考えれば考えるほどですが、なんて深いお教えなんだろうと改めて私は感じているのです。

『幸福の革命』

大川隆法著


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「人生は一冊の問題集」って教えてもらったけど、こんなむずかしい問題集、自分だけで解けるわけないでしょ。「解法のヒント」みたいなの、ないの? なーんて考えてる受験に慣れた世代の人、いるんじゃないかなあ。

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 みずからに足りないものばかりを嘆かずに、みずからに与えられているものの素晴らしさを発見し、それを武器として立ち上がっていくべきです。
 目は見えなくても、口が達者な人がいる。足が不自由でも、手が充分に動く人がいる。頭がよくなくても、健康な人がいる。体が不健康でも、頭がしっかりしている人がいる。
 人とくらべて、自分の足りないところばかりを嘆いたり恨んだりする前に、自分に与えられているものは何かを考えて、その長所を徹底的に伸ばしていくべきではないでしょうか。そのなかに、みなさんの人生の問題集に与えられた一つのヒントがあるのです。
 一人ひとりの人生というものは、なぞであり問題集であるのですが、この問題集には必ずヒントがあります。自分自身を第三者の目で眺めたとき、他の人より優っているところがあるはずです。あるいは逆に、他の人より極端に劣っている面もあるはずです。
 このように、性格や才能、肉体的な問題を他の人とくらべて、異常に突出したり、あるいは異常に窪んだりしている部分があれば、それが取りも直さず、その人の人生の問題集を解くためのヒントになっているのです。
 そして、そうした課題がなぜ与えられているのかに対して、積極的に答えていこうとすることが大切です。そこには、今回の人生修行の目的の一つが明確に現われているからです。
 身体的ハンディ、精神的ハンディ、能力的ハンディなど、いろいろなものがあるでしょうが、そこに、その人の今世の人生における目的と使命が明らかにされているのです。
 こうしたことを自覚したときが、すなわち、「導きのとき」なのです。自分の運命を自覚し、それと勇ましく闘っていこうと思い立ったとき、勇気と力が湧いてきます。そのときには、あの世にいる高級諸霊が、あるいは本人の守護霊や指導霊が、大いなる力を投げかけてくれるのです。
 したがって、まず、みずからの問題集に潜んでいるヒントを見抜くことです。そのヒントによって問題を解こうとしたとき、必ずや大いなる高級霊たちの力を得ることができるはずです。
(107~109ページ)

たしかに、自分自身を客観的な眼でよくよく見てみると、他の人とくらべると優(まさ)っているところとか、極端に劣っているところとかがありますよね。

それこそが、自分の人生の問題集を解くためのヒントである。

そして、そのヒントをてこにして、自分の今世の目的や使命を考えていけばいい。

この真理を知って、勇ましく闘っていこうと思い立ったときに、勇気や力が沸いてきて、天上界の支援もあるのだ──。

今日は、人生を生き抜くための大いなる智慧をいただいたのだと私は思っているのです。

 

『永遠の法』

大川隆法著

 

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思い通りに自己実現できるって説いてる本、書店とか広告とかで目にすること、多いですよね。それはそれで、使える部分だけ使ってみればいいんじゃないの。何か注意しなきゃいけないことなんてあったりするの? なーんて疑問持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現代は、あちらこちらで、自己実現ばやりです。とくに欧米を中心として、自己実現の法則、成功の法則というものがさかんに唱えられ、それが日本にも広がってきているようです。
 自己実現の法則、成功の法則を、真理の立場からいうと、次に挙げる二つの面が考えられます。
 ひとつは、その正しい面です。自己実現の法則の中心は、願いを具体化、具象化して、視覚的なビジョンとして描き出し、日々、それを強く念じていると、まったく思いもかけないような方法で、みごとに実現されてゆく、というところにあります。
 確かに、法則としては、そのとおりです。実際、実在界では、念による自己実現、祈りによる自己実現は、日常茶飯事です。ですから、この実在界の法則を、ここ三次元世界で応用したのが、自己実現の法則であり、成功の法則であり、また、願望実現の法則であると言えます。
 しかし、問題は、法則は法則として正しいものであっても、それを用いる人の心が正しいかどうかです。ここが、いちばん重要な点なのです。間違った自己実現は、地獄行き特急列車の指定席を予約することと同じだということを、あなたがたは知らなければなりません。
 すなわち、行く先を間違えてはならないということです。自己実現の方向が、仏の方向、つまり、天国に向いているのか。それとも、悪魔の方向、地獄に向いているのか。その点を、よくよく自問しなければなりません。
(36~38ページ)

自己実現の法則は、真理の立場からも、確かにそのとおりではある。

しかし問題は、それを用いる人の心が正しいかであり、間違った自己実現はとても危険である。

自己実現の方向が、仏の方向か、それとも悪魔の方向か──。

やっぱり、実現したい願いの方向性については、しっかり注意しなくちゃいけないんですね。

では、どうすれば正しい心で自己実現を願えるか、については、一度ご紹介したことがありました。

心の問題を忘れないことの重要性について、今日は改めて確認できたような気が私はしているのです。

 

『黄金の法』

大川隆法著



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今日は、クリスマスイブ。恋人とデートしたり、おうちでクリスマス・ケーキを囲んだりと、特別な過ごし方をしてる人が多いと思うけど、そもそも何の日かって、知ってますよね?

イエス・キリストが生まれたとされるクリスマス(キリスト教の降誕祭)の前夜祭が、クリスマス・イブ。クリスチャン以外には関係なさそうなんだけど、でもやっぱり大切な日なんじゃないかな。

幸福の科学の大川隆法先生が、そのイエス・キリストの復活を私たちに見せてくださったのは、1990年12月23日の伝説的な大講演会「復活の時は今」のことでした。

『無限の愛とは何か』(幸福の科学出版)にその活字起こしがそのままおさめられていますが、たとえば、こんな内容でした。

私はあなた方に告げる。
私はあなた方に告げる。
今、我が声を聴く者は幸いである。
幸いなる者たちよ、選ばれたる者たちよ、
五十数億の人びとのなかで、
選ばれたる人びとよ。
我はあなた方に告げる。
あなた方は愛の使徒とならねばならない。
この我が言葉を、全世界に伝えねばならない。
キリスト来たりて、肉を持ちたる人間に宿り、
愛の教え説いているを、黙っていてはならない。(中略)

見よ。
神の国はアメリカにもなく、
イギリスにもなく、
イスラエルにもなく、
この日本にある。
この東京にある。
ここに、現代のエルサレムができようとしていることを
知っている者は幸いである。
あなた方は、今世最大の幸福を
今、知っているのだ。(中略)

イエスは教会には復活しなかった。
イエスはキリスト教国には復活しなかった。
イエスは牧師たちの前では法を説かなかった。
イエスの愛は、この日本の地を選んだ。
その地に集まりたる人びとを選んだ。
今、あなた方に語っているは
かつてあなた方の前に
ナザレのイエスとして姿を現わしたる
そのものの霊でもあるということを
忘れてはならぬ。

我は今、愛の復活をなさんとしている。
これは我が真なる復活。
我が魂としての復活。
我が愛としての復活。
愛としての再臨。
救世主としての降臨である。
(74~80ページ)

27年前のこの日、千葉県の幕張メッセの大講演会場の片すみで、この御講演を私は直接拝聴していました。

ふだんの大川隆法先生とはまったく異なる、ちょっと外人なまりの格調高い言魂。

どう考えても考えても、イエスご自身が語ったとしか思えない、その内容。

講演全体を覆い尽くした、ものすごい霊的なバイブレーション。

間違いなくイエス・キリストご自身が、大川隆法先生の肉体を借りてほんとうに復活し、ここで説法された──。

講演が終わったあともしばらく立ち上がれなかったことを、昨日のことのように思い出します。

イエス・キリストの言葉を、いま直接、私たちに伝えることができる偉大な方が、現代日本に降臨し、救世主として連綿と活動を続けておられる。

この驚くべき事実をもっともっと多くの方に知っていただかなくてはと、心新たにする聖夜なのであります。

 

『無限の愛とは何か』

 大川隆法著

 

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短い人生、後悔しないように生きるためには、時間を活かすことが大事だよね。でも、どうやったら時間を活かせるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 時間を活かすにあたっては、それを浪費しないというところに出発点があるのです。時間を砂金のごとき重要なものだと思って、自分の指のあいだからいたずらにこぼれ落ちるのを防ぐことが大事です。あるいは、その砂金の粒の一つひとつを、ほんとうにすばらしい金色に光らせていくことが大事なのです。
 さて、一日をふり返ったとき、いちばん無駄に使われているのは何の時間だと思いますか。睡眠という人もいるでしょう。食事という人もいるでしょう。入浴という人もいるでしょう。
 しかしながら、私があえてみなさんに申し上げるならば、食事や睡眠などの生活必要時間というものは、無駄なように見えて、意外にそうではないものなのです。それは生理的な欲求であって、それを無視しては、必ず手厳しい報復が待ちかまえているからです。
 そうではなくて、みなさんが無駄に使っているのは、むしろ、みなさんの仕事の時間、あるいは勉強の時間だと思います。これが、数十年にわたって考えつづけてきた私の結論です。
 人が時間をいちばん無駄に使うのは、無益なことにおいてではなく、自分が有益だと信じていることにおいてです。価値あること、値打ちあることをしていると自分では思っていることのなかに、いちばんの無駄があると思います。
 これは非常に逆説的に聞こえることでしょう。しかし、人生の大部分を過ぎて、人生のたそがれどきを迎えている人たちには、私の言葉がどれほど真実に満ちているか、お分かりのことと思います。
 みなさんが自分の人生を後悔するのは何のためでしょうか。多くの睡眠時間を伴ったからでしょうか。長々とした食事時間を伴ったからでしょうか。余暇にテニスをしたり、ゴルフをしたり、水泳をしたりしたからでしょうか。そうではないでしょう。
 みなさんの後悔の主たるものは、みなさんの人生の大部分を貫いている仕事にあるのではないでしょうか。あるいは、みなさんが数十年にわたって学んできた勉強そのもののなかにあるのではないでしょうか。仕事のなかに、あるいは勉強のなかに実りが少なかったということ、そこにいちばん多くの後悔があるのではないでしょうか。
(170~172ページ)

人が時間をいちばん無駄に使うのは、自分が有益だと信じていることにおいてである──。

よくよく考えてみると、本当の人生の達人による叡知の言葉ではないでしょうか。

まずは、この一点を知り、日々、意識しているだけでも、一日のすごしかたが根本的に変わってしまいそうな気が私はしているのです。

 

『仕事と愛』

大川隆法著


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幸福の科学って、幸福を目指す団体なんだって? でも、この「幸福」って、一体全体、何なのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 幸福の科学においては、目的としての「幸福」と、手段としての「科学」──この二つの追究、探究が、基本として考えられています。分かりやすく言うならば、「幸福になるためには、どのように努力していけばよいのか」を、一緒に探っていこうとしているのです。
 そして、私は「幸福の科学が目指す幸福には、私的幸福と公的幸福という二種類の幸福がある」と説いています。
 「私的幸福」とは何でしょうか。それは個人としての幸福です。もう一方の「公的幸福」とは、社会全体の幸福のことです。
 なぜ、この二種類の幸福が必要なのでしょうか。
 まず、私的幸福から話を始めたいと思います。個人としての幸福とは何なのでしょうか。それは個々人の満足のことをいうのでしょうか。それとも、個々人が声を出して笑うような状態をいうのでしょうか。あるいは、他人から尊敬されるようなことをいうのでしょうか。
 幸福には、「満足」の面を強調した静的な幸福、つまり、「足ることを知る」という意味での消極的な幸福もあれば、「進歩・向上」の面を強調した動的な幸福、つまり、「発展・成長を喜ぶ」という意味での積極的な幸福もあります。
 そして、この二つは、いわばブレーキとアクセルのように、人生という名の自動車の運転に影響を与えているのではないでしょうか。
 つまり、過熱気味な人、無我夢中の人生を生きている人に対しては、ブレーキとしての消極的幸福が勧められるべきであろうし、堂々巡りの人生を歩んでいる人、目標もなくその日暮らしをしている人に対しては、アクセルとしての積極的幸福が重要であろうと思うのです。
 個人としての幸福には二面性がありますが、集団の一員として人生行路を渡っていく人間にとって、ブレーキとアクセルは両方とも必要です。すなわち、集団としての人類のまとまりのためには、この両方が不可欠なのです。
 足の速すぎる人は、少し速度を落とす必要がありますし、休んでばかりいる人は、少しせきたてられる必要があります。個々人が自分の幸福を求めながら、同時に全体の調和というものを保っていかねばならないのです。
 個人個人は、それぞれにアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりして、私的幸福を味わっているのですが、社会全体としても、一つの大きなまとまり、大調和を形成しながら、進歩していくことが大切なのです。
 結局のところ、私的幸福は、やがて社会全体、人類全体を大調和させ、進化させていく方向へと奉仕し、公的幸福の実現のための力となっていかねばならないのです。
 かくして、各人の私的幸福をかなえながら、公的幸福をも形成していく方法論が必要となってきます。いろいろな時代に説かれた仏法真理、あるいはユートピア論は、つまるところ、私的幸福と公的幸福の大調和の実現に目的があったのです。
(11~14ページ)

今日は、幸福の科学ができて、最初期に説かれた幸福論のなかでも、もっとも典型的な部分をご紹介してみました。

話が抽象的で難しかったかなあ。

ひらたく言ってしまえば、「幸福」というのは、まずは自分自身が幸福にならなきゃいけない。

その幸福には静的なものも動的なものもあるんだけど、それだけじゃなく、自分以外のみんなが幸福にならなきゃいけないよ、ってこと。

こういう根本的な理念があって、幸福の科学の活動は、この30年あまり展開されていることを改めて確認できた気が私はしているのです。

『ユートピア創造論』

 大川隆法著


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どうして私の人生って、こんなに浮き沈みが激しいのかなあ。もっと平坦な人生を幸せに送ってる人もいると思うのに、私って、大きく成功しても、ちょっといい感じのところで必ず激しく落ち込むんだよねえ。なんで、こんな人生送ってるんだろ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の発見 説法自由自在①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 地上に出てくる前に、出誕の計画というのは程度の差こそあれ、ある程度はするのです。みなさん計画してきます。(中略)
 交通違反は持ち点制で、点数があって、違反すると何点というふうに点数を引かれて、持ち点がなくなると免許を取り上げられてしまいます。
 そういうことがありますが、過去幾転生してきて、みんな持ち点があって、その持ち点に応じた人生計画を立てるのですが、その持ち点に、もちろんプラスの持ち点とマイナスの持ち点の両方があって、たいていの方がプラスの持ち点は今世で増やしたいけれども、マイナスはできたら消したいというふうに思っているのです。
 たとえば百点満点とすると、プラスが五十、マイナスが五十、それでイコールですが、プラスが五十一以上にならないと地上には生まれてこれないようになっています。プラスのほうがやや多くならないと生まれられないことになっているのです。そのときに、たとえばプラスが六十、マイナスが四十の持ち点の人が、どういう計画を練るかというと、マイナスの持ち点がどこで発生しているかを全部点検されるわけです。こういうことが原因でこの人はマイナスの部分を出していると。
 そうすると、このマイナスの持ち点を消せる可能性がある環境は、こういう環境になるだろう。しかしそのマイナスの持ち点を消すためには、君は人生のなかで何度かこういう経験を通らないとだめですよ、たとえば大病を経験して、これをこういうふうに克服したら、このマイナスの持ち点が五点分消えますよ、というのがあるのです。離婚を経験したら三点だったり、失業すると六点だったり、いろいろあるわけです。その持ち点は一律ではなくて、その人の魂によって違うのです。罰金といっしょで、何をやったら何点というふうになっているのです。数量的にいえば、一点減点とか、二点加点というふうに。
 そういうことがあって、その人の魂に合った人生計画を立てるわけです。(中略)
 ただ、やはり博打(ばくち)を張ってくる人もいます。一挙に清算したいという人がいるのです。麻雀をやっていても振りこんでくる人がいると思いますが、自分のマイナス点は四十五点ある、今回で一気に四十点ぐらい消してしまいたいと言って、大きな博打を張る人がいます。そして、あの世の役人は無理するな、とりあえず五点ぐらい消せばいいと言うけれども、いやだ、一回でできるだけ多く消したいと言う。それでむちゃくちゃな人生計画を作るのです。一挙に今回の人生で全部清算してしまって、光の天使になってやると決める人がいるのです。そしてその計画を霊界の役所に提出すると、もちろんむこうですったもんだするけれども、あまりにも本人の意志が強い場合は通ってしまうことがあります。どうしてもやりたいと言うから、しかたがない、やってみろということでやってみると、マイナス四十点をいっぺんに消そうとしたのが、じつはマイナスが四十点も増えたりすることがあるわけです。その人の人生はちょっと計画が過重ぎみなのです。
 そういうふうな、浮き沈みの激しい人生がある場合があります。
(162~165ページ)

人は、地上に出てくる前に、程度の差こそあれ人生計画をしてくる。

たとえて言えば交通違反の持ち点制のように、人には過去幾転生でのプラスとマイナスの持ち点があって、プラスの持ち点を今世で増やしたいが、マイナスはできたら消したいと思って人生計画を立てることが多い。

そのときに、一挙にマイナス点を消したいと、無理のある人生計画を立てて通してしまった結果、浮き沈みの激しい人生になる場合もある──。

この交通違反の点数のたとえって、「カルマを刈り取るための人生計画」という話を理解するために、とっても分かりやすいですね。

そして、どんな計画を立ててくるかは、それぞれの魂の性格による、と。

自分やまわりの家族や友人たちのことを思い浮かべても、とっても納得できるお教えだなあと改めて私は思っているのです。

 

『人生の発見 説法自由自在①』

大川隆法著

 

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幸福の科学って、宗教なんだから、「修行」なんてあるんじゃないの。どんなことやってるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 そして、菩薩への道は、幸福の科学の出現によって、きわめて容易な道として開かれたのです。みなさんが別の時代に生まれたならば、どのように修行をすればよいか分からず、山のなかを歩きまわってみたり、滝行をしてみたり、経文の意味もよく分からないままに写経をしてみたりと、さまざまな修行をしていたかもしれません。
 このように、どうすれば悟れるのかが分からない時代が、千年も二千年も続いてきました。その間に、みなさんは何度も生まれ変わっているのですが、そうした時代においては、高い悟りを得て菩薩の世界に還ることが容易ではなかったのです。
 しかし現在は、仏法真理がふんだんに説かれ、悟りの道がはっきりと示されています。こうしたときだからこそ、みなさんには、他の時代の十倍も二十倍もの確率で、光の世界に還る可能性が開かれているのです。
 この事実を歴史的な目で見て、自分がいま立っている地点を知ったならば、それは喜び以外の何ものでもありません。他のものをすべて捨て去っても惜しくないほどの、きわめて得がたい機会であることが分かると思います。
 しかも、幸福の科学の修行たるや、難しいことは決して説いていません。「スーパーマンのようなことをしなさい」とは言っていません。「睡眠を削れ」「一日じゅう山のなかを歩け」「書物を丸ごと暗記せよ」などと言っているわけではないのです。
 幸福の科学では、「仏法真理を学習し、その内容を理解し、それによって自分の心をよく調(ととの)えるということを、日々実践していきなさい」と、極めて常識的な修行方法を説いているのですから、非常に簡単な道なのです。
 もっとも、方法は簡単ではありますが、それを持続することは難しいのです。
 一見、人目につくような難しい修行を申し渡されると、得意になり、他の人たちの目もあるため、その修行に五年十年と打ち込むことを決意する人がいます。また、それは実際にできないことではありません。
 ところが、きわめて常識的で日常的な修行方法であればあるほど、日常生活のなかで甘えが出て、みずからの堕落を招くようになるものなのです。また、容易な道であるからこそ、自分なりの甘えから、自分に都合のよい方向へ持っていこうとする人たちも出てきます。
 これは、修行が進んでいるかどうかということが、他の人びとの目によって厳しく監督されているわけではないからです。すべては自己管理に任されており、怠けるも自由、精進するも自由であって、だれも厳しいことを言ってはくれません。そうした環境のなかで、みずからが日々決意し、精進していかなければならないのです。
(82~85ページ)

いまは仏法真理がふんだんに説かれ、悟りの道がはっきりと示されているから、誰であっても他の時代の十倍も二十倍もの確率で、光の世界に還る可能性が開かれている。

幸福の科学では、「仏法真理を学習し、その内容を理解し、それによって自分の心をよく調(ととの)えるということを、日々実践していきなさい」という、極めて常識的な修行方法を説いている。

もっとも、その方法は簡単ではあるが、すべては自己管理に任されているから、みずからが日々決意し精進していかなければならず、それを持続することは難しい──。

大川隆法先生が説かれる「心の修行」は、書物だけを頼りに一人で進めようとしても、なかなか簡単に持続していくことはできないと思います。

だからこそ、各地に「支部」と呼ばれる施設や、「精舎」と呼ばれる施設が建立され、そこで修行の方法、持続のさせ方を教えてくれているのだと私は思うのです。
 

『ユートピア創造論』

大川隆法著


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好調な業界もあるみたいだけど、うちの業界はまだまだ苦しいし、ライバル会社もものすごく強くって、厳しい戦いだよね。オレはしっかり信仰持ってるのに、神仏は、なんでもっと楽させてくださらないのかね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『説法自由自在③ 真理の発見』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 業界のなかでも、円高であるとか、いろいろな環境変化があるとつぶれていく企業があります。その企業にとってはひじょうに厳しい試練です。しかし考えてみれば、試練のなかでしごかれることによって、ほんとうは会社の力はますます強くなっていくのです。順境のとき、すなわち、景気がいいときに商売を成功させるのはだれにでもできることです。しかし、そういうところだけをあてこんで会社組織を作り、仕事の流れを作っていたら、いざ不況が来たときに、いっぺんでつぶれてしまうことがあります。
 悪い環境のなかでも生き残っていけるような、そういう生命力、耐久力をつけるために、好況のときにもライバル会社というものと、しのぎをけずるわけです。そのライバル会社というのは、たいてい自分の会社よりも、製品の開発能力や、あるいは販売能力において上であることが多いでしょう。一人あたりの収穫が高いわけです。そういうところで競い合うことによって、好況期、みんなが楽に生きていけるときにおいても刺激を与えられて、会社の足腰が強くなっているのです。
 これがなければ、完全独占というものが起こり、(中略)企業の力は弱るし、仕事のレベルは落ちてくるし、いいことはあまりないのです。(中略)
 こういう事実を知ったときに、やはり結果として、より大いなる愛はどこにあるかというと、失敗するとつぶれるかもしれないけれども、厳しい競争相手に恵まれて生き残っていくなかに、ほんとうは全体にとってよりよい貢献ができることがあるということです。(19~21ページ)

環境変化のなかでしごかれることによって、会社は強くなっていく。

好況のときにもライバル会社としのぎをけずるのは、悪い環境でも生き残っていく耐久力をつけるためである。

大いなる愛の観点からは、失敗するとつぶれたとしても、厳しい競争相手と戦い、生き残っていく努力をすることで、全体に貢献しているのである──。

要は、個人も組織も同じことなんですね。

与えられた環境のなかで必要な修行をしているのだと見切ること。

それが本当にできたときに、大いなる仏神の愛が見えてくるってことだろうと私は思うのです。

 

『説法自由自在③ 真理の発見』

大川隆法著


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「涅槃(ねはん)」って言葉、ちょっと気になってるんだけど。「涅槃で待つ」なんて遺書を残して死んだ俳優が、昔いたんだよね。この「涅槃」って何なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 結局、「涅槃」とは、この世的なる肉体を中心とした迷いを吹き消した状態に到ることです。これは実に、阿羅漢(あらかん)の境地と同一であることがおわかりかと思います。修行者として阿羅漢の境地に到ることが、すなわち涅槃の境地を得るということなのです。
 そこで、涅槃の境地を比喩的に述べると、次のような感じになります。
 山のほとりに、静かできれいな湖があります。その湖は人ひとりいないし、音もしないような静寂な湖です。この湖は、透明度が非常に高いので、湖の底まで透き通って見えます。そこで、舟に乗って、その湖面から湖底を見下ろしてみると、白い貝殻や玉砂利などが透けて見えてきます──。
 この貝殻や石が、実はこの世の苦しみを表わしています。みなさんが人間として生きているときに、いろいろな苦しみを得て、たいていの方はその苦しみのまっただなかで、もがいているわけですが、涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻を、透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地なのです。
 この世で生きておりながら、苦しみと七転八倒して格闘するのではなく、透明な湖の底の貝殻を見るように、「ああ、私はこういうところで苦しんでいたのだな。これは肉体的なこういう迷いによって起きたことなのだな。これをいま離れなければいけない。霊的な見地から見たら、その苦しみとはこういうふうに見えるものだ」と、達観した感じで見下ろすのです。それが透き通って見えるのです。要するに、実在界の眼で、この世の自分のあり方、苦しみの在処を見ること、それが「涅槃寂静」の境地なのです。
 ですから、人生の途上で、さまざまな苦しみや悩みが出てきますが、生きながらにして涅槃の境地を得た人は、いま述べたように、実在界から見下ろすようなかたちで、自分の悩みや苦しみを見つめることができます。そして、それに囚われません。それを取り出してみることができます。阿羅漢になれば、このような境地に達することができるのです。
(103~105ページ)

この「涅槃」というのも悟りの言葉であるわけで、世にある仏教書をいくらひもといてみても、なんだかわけが分からない感じしか残りません。

でも、大川隆法先生のお教えは、さすが「再誕の仏陀」(お釈迦さまの生まれ変わった方)であればこそ。それこそ驚くほど端的で、スパッとわかる解説ではないでしょうか。

でも、「阿羅漢」ってのは、やっぱりそう簡単に到達できる境地なんかじゃないこと。

心の修行の世界は、ほんとに奥が深いんだなあと改めて私は感じているのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著


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子供が生まれたんだけど、幼稚園に入ったんだけど、小学校に入ったんだけど、そして、中学、高校…とだんだん育っていったとしても、子供の教育にとって真に必要なものはなんだろう? って真っ直ぐな悩みをもってる人、たくさんいるんじゃないでしょうか。

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

子弟の教育としていかなるものが必要であるか、
と問う方は多いであろう。
しかし、私は言っておく。
信仰なくばいかなる教育も不毛であると。
仏を信ずる心なくば、いかなる教育も不毛であると。
それは、何らの作物を実らせない。
何らの実も実らせない。
そうではなくて、世の中に害をまく人間を育てるだけになる。
まず、よき作物を得ようとするならば、土地を耕せ。
土地を耕すことが、大切である。
土地を耕し、そのなかによき種を植えよ。
よき種を植えたならば、また、よく肥料を与えよ。
そして、よく水を与えよ。
さすれば、その作物はすくすくと育ち、たわわに実をつけるであろう。

このように、およそ信仰においては、まずよき土壌が必要である。
よき土壌とは、調和された家庭のことである。
夫婦ともに信仰心に満ち、調和に満ちていることが大事だ。
そうした調和ある家庭において、はじめてよき種が実を結ぶ。
すなわち、素晴らしい子供が育ってゆくのだ。
この子供を育てる際において、
水をやり、肥料をやることを忘れてはならない。
水とは不可欠のもの、それは生きてゆく勇気だ。
肥料とは仏法真理の言葉、智慧だ。智慧の言葉だ。
仏法真理の言葉、智慧の言葉を教えてやり、
そして、生きてゆく勇気を与えてやること、
生きてゆく希望を与えてやること。
さすれば、子供はすくすくと育ち、
やがて社会有為の人物となってゆくであろう。
(332~334ページ)

信仰なくばいかなる教育も不毛である。

そして、調和された家庭が必要である。

そこで、仏法真理の智慧の言葉を教え、生きてゆく勇気を与えてやることである──。

仏は、ここで子育てを、畑で作物を育てることにたとえて教えておられます。

作物がすくすくと育つには、よき土壌を耕す努力に加えて、水も肥料も必要なわけです。

日々、とても手がかかる仕事だと思います。

でもそれは、神仏への信仰と大川隆法先生のお教えがあれば、必ずや誰もがなし遂げることができるものだとも私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

大川隆法著


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わたし、もちろん犯罪者じゃないし、先生には褒められるし、上司の受けもいい生き方してきたんだから、当然天国に行けるよね? でも、ほんとにそうなのかは学校じゃ教えてくれないし、ちょっと不安だな。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 天国に住む人たちの特徴をひと言で言えば、天真欄漫だということです。飾り気がなく、生地のままで美しい心、そうした天真欄漫な心を持っていることが、天国の住人の条件なのです。
 また、「他の人に対して優しくしよう」という気持ちがあります。そして、「自分自身に対しても、いつもよいことをしていこう」という気持ちがあるのです。こうした発想の原点には、「他人に迷惑をかけず、まわりに喜びを振りまきたい」という気持ちがあります。
 天国に住むための条件を簡単に言い換えるならば、「常に笑顔で生活できる人」ということになります。しかも、それは飾りの笑顔ではなく、本心から出る笑顔でなければなりません。これが天国に住む条件なのです。
 したがって、みずからを振り返っても、自分のどこが悪いのかが分からないという人は、「自分の肩書や地位、名声を取り去ったとき、素直な笑顔を持って生きていけるかどうか」ということを、心を裸にして考えてみるとよいのです。
 そして、もう一つの目安は、非常に簡単なことですが、「多くの人にきらわれて生きたような人は天国にはいない」ということです。天国には人に好かれるような人たちがいるのです。人に好かれるような人というのは、結局、多くの人を好いてきた人なのです。多くの人を好きな人は、やはり人に好かれます。そうした法則があるのです。
 したがって、自分は天国に還りたいと思うならば、笑顔を絶やさず、素直な心で生き、多くの人びとに好かれ、多くの人を愛することができる人物になればよいのです。ここまでいかなければ、天国の門は開かないと言ってよいでしょう。
 多くの人にきらわれながら、辣腕家として生きる自分に自己陶酔しているような人は、立ち止まって考えてみてください。あなたは、人にきらわれてばかりいるような人が、どのような世界に行くと思いますか。(中略)「その人がいると居心地が悪いと思われるような人は、天国には住めない」と言っているのです。(中略)
 天国の実態を別の角度から話すとすれば、ガラス張りの心、つまり、外から心の内をのぞかれても、まったく恥ずかしくない心で生活している人は、間違いなく天国に行くということです。逆に、心のなかに、臭いもの、汚いもの、悪いものを詰め込んでいる人は、その臭気が立つがゆえに、天国で生活することはできないのです。
 したがって、自分の考えていることを公然とさらされても、まったく恥ずかしくないかどうか、よく考えていただきたいのです。いろいろなところを隠さなければ生きていけないような人は、「天国は遠い」と思ってよいでしょう。
(211~215ページ)

こういうふうに教えていただくと、世間でいわゆる「大人になる」というのは、実はどんどん天国から遠ざかっていくことでもある、という真実が分かってきます。

いつも素直な笑顔で生きていけること。

まわりの人を愛し、好きになること。

そして自分自身も多くの人に好かれること。

そうすれば、天国の門は大きく開かれている、ということなんだと私は思うのです。

 

『釈迦の本心』

大川隆法著



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ほんとに大事な友だちだったのに、あんなに親しくって、徹夜していろんなこと話し合ったし、深く深く付き合ってたというのに、なんで突然、手のひらを返したみたいに冷たくなっちゃったの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人との付き合い方で、もう一つ難しいのは、相手の侵入をどこまで許すかということです。
 心の扉を開くと入ってくる。こちらが一歩さがると、もう一歩入ってくる。さらに一歩さがると、また一歩入ってくる。このように、どんどん入り込んでくる人がいるのです。このタイプの友達に困っている人はかなり多いと思います。
 これは、友達付き合いを始めたが最後、家のなかに上がり、お米の数まで数えてしまいそうなタイプです。一言でいうと厚かましいわけですが、こうしたタイプであるため、他の人から疎(うと)まれる人もいるのです。
 したがって、オール・オア・ナッシング、つまり、友人なら全部受け入れ、友人でなければまったく受け入れないという考え方をとるのではなく、距離のとり方を常に考えておく必要があります。
 「親しくとも、ここまで」という距離のとり方があるのです。一定の距離をとっておくと、長く付き合えるのですが、その距離が短すぎると、お互いに干渉し合って、長く付き合えなくなることがあるので、距離のとり方を大事にすることです。
 この辺を間違えると、相手にどんどん入ってこられて、いやになり、パシッと切ってしまうことになります。そうすると、相手は 「あれほど自分に好意的だったのに、てのひらを返すような反応をされた。納得がいかない」と考えます。
 こうしたタイプの人は、「自分が入りすぎた」ということがなかなか分からないので、最初から少し距離をとっておいてあげることです。(中略)相手によっては、空間的な距離だけではなく、心理的な距離をとることが必要なのです。心の部分においても、少し距離をとったほうがよいのです。
 また、ある程度、魂の修行を深めている人の場合は、そうでない人とは少し距離のあるほうがよいのです。心の修行を深めている人の場合、他の人と意見がピタッと一致することは少ないものなのです。
 魂修行の段階に差があると、意見がなかなか一致しないのですが、そうしたものだと思って、心の部分では少し距離をとっておくことです。それが多くの人と長く付き合っていく秘訣です。(中略)
 心理的な距離のとり方が上手だと、いろいろな人と付き合えるようになります。ところが、たいていの場合は、深く付き合いすぎるか、まったく付き合わないかのどちらかになって、相手から学ぶものが少なくなっているのです。
(131~134ページ)

長く付き合うためには、距離のとり方を常に考えておくこと。

心の修行をしている人の場合、魂修行には段階があって、他の人とそうはピタッと一致しない。

だからこそ、心の部分では少し距離をとっておくのが、人づきあいの秘訣である──。

なるほどなるほど、です。

心の問題で話ができる友だちを見つけたら、思わずベタベタに付き合いたくなりがちです。

でも、立場を逆にして考えてみればいいんだけど、要は、相手が受け入れてくれると思って、相手の迷惑に気がつかずに、無神経に入り込みすぎてたんじゃないかってことですね。

こんな教えは、人生のマスターに教えていただかないと、なかなか自分で発見できる話ではないと、本当に私は感じているのです。

 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著


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