ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「因果の理法」って、このブログでもときどき出てくる気がするんだけど、どういうことなの。〝親の因果が子に報い…″って、あれのことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 次に「因果の理法」について語っていきましょう。これも仏教のなかに色濃くある教えです。
 たとえば、「今世で夫婦になったのは、過去世で縁があったからだ」という考え方があります。この考え方を一般的に展開すると、「ある原因行為があると、それがなんらかの結果を生むことになる。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という法則になります。
 これは人生における最も基本的な法則の一つであり、仏教が哲学としても成功したのは、因果の理法について深い洞察がなされているからです。
 親子や兄弟、夫婦の緑が、今世のみならず過去世からもきている理由は何でしょうか。過去世において、親子や兄弟、夫婦であって、「お互いに幸福だった」という思いがあるからこそ、今世においても、親子や兄弟、夫婦の縁となって表われてきているのです。
 このように考えると、「人間は日々に因果の種をまいて生きている」と言えます。日々に種まき作業を行ない、その結果、まいた種がどのように発芽し、どのように成長していくか──そこに成果が見られるようになります。
 したがって、因果の理法は仏教における成功哲学であり、また、幸福哲学でもあります。仏教は人生の苦しみばかりを説き、苦悩ばかりを見つめたように語られがちですが、実はそうではありません。多くの偉大な哲学者がそうであったように、釈迦もまた幸福哲学を説いていたのです。そして、仏教の幸福哲学は何に集約されるかと言うと、それが「因果の理法」という言葉なのです。
 すなわち、幸福という結果を手に入れるためには、幸福という果実が実るだけの種をまき、水や肥料をやり、日ざしをあてて、成長させる必要があります。これが成功哲学の一法則なのです。
 これはあらゆるところに見受けられる法則です。「一生懸命に努力すれば、その努力は必ずなんらかのかたちで実る」というのは、人間の経験則にもあてはまることです。
 なかには、一生懸命に勉強したけれども、大学受験に合格しなかったということもあるでしょう。しかし、一生懸命に努力したことは、本人の将来のどこかで必ずよい影響を与えるものです。また、「悪事、千里を走る」といいますが、悪いことをしていると、やがてどこかで必ず露見し、破滅を生むことになるのです。
 このように、人生を一つの法則、運動のダイナミズムとしてとらえるならば、「人生は原因・結果の連鎖によってできている」と言えます。まいた種は、今世では必ずしも実らないかもしれませんが、少なくとも朝顔の種をまかねば、朝顔の花は咲かないことも事実なのです。(中略)
 したがって、「因果の理法は、時間の流れのなかにおける一種の幸福論である」ということに気づかされるのです。
(186~189ページ)

「ある原因行為があると、それがなんらかの結果を生む。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という、原因・結果の法則が、「因果の理法」。

そしてそれは、よくよく考えてみると、一生懸命、努力すれば、将来の幸福を自分の力で生み出すことができることを意味する。

その意味で、これは仏教における成功哲学であり、幸福哲学であった──。

つまりは、〝親の因果が子に報い…″なんてのは、その一部を取り出して誇張しただけの香具師(やし)の口上にすぎない。

この「因果の理法」こそが、仏教の中心的な教えの一つであるのだと私は理解しているのです。

 

『釈迦の本心』

  大川隆法著

 

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友だちに、自閉症の子を持った人がいてさ、とっても大変なんだ。自閉症って、なんでそんなふうに生まれてきたりするんだろう。仏さまの眼から見たら、どうなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心と体のほんとうの関係。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中には、研究対象を、いろいろと分類し、分析している研究者がたくさんいます。そういう研究者がいること自体はよいことですし、その姿勢自体は、科学的な態度であり、かまわないと思います。
 ただ、何であれ、色眼鏡でもって見ると、そのように見えてしまい、それが真実だと思い込んでしまう点が、どうしてもあるのです。
 たとえば、医者から「自閉症だ」と言われたら、そのような気がして、もう、それ以外には見えなくなることがあります。(中略)
 自閉症は、「障害であって病気ではない。障害は病気ではないのだ」と言われてはいますが、同時に、「人間としての機能に何か問題がある。脳の一部に何か問題があるのだ」と言われてもいます。しかし、これは想像にすぎません。
 医者は、ほんとうのことを何も分かってはいません。(中略)
 「変な行動や奇怪な行動をするので、とにかく手がかかり、親や教師を困らせる」という状態の子供を、医者は自閉症と呼んでいるようですが、この定義はあまりにも広すぎます。
 「こういう子供が管理社会で生き残るのは、きついでしょう。将来、サラリーマンになるのは難しいですよ」と考えるのは、そのとおりかもしれません。なかなか難しい場合もあるでしょう。
 ところが、よく見ると、大人になって活躍している人たちは、実際には、みな〝変な人″です。管理しやすいタイプの人は、部下として使うにはよいでしょうが、世の中で、新しいことを始めるような人は、変な人ばかりです。『えらい人はみな変わってはる』という本を出した人もいるぐらいです。エジソンだって変わっているし、坂本龍馬だって変わっているし、私だって変わっています。
 一定の枠のなかに当てはめられたら大変なことですから、医者の話をそのままでは受け入れられないのです。
 特に、日本の社会には、他の人と比べて変わっている人、強い個性を持っている人を弾く傾向があります。他の人と同じでなければ駄目なのですね。
 しかし、強い個性を持っている人間が、実は世の中を変えていくのです。現状を打ち破って変化させるのは、強い個性を持った人間なのです。
 医者から自閉症児と言われた子の親は、それで悩むのではなく、「うちの子は強い個性を持っているのだ」と信じてあげてください。そうすれば、よいほうに出てきます。(中略)
 その変な子たちのなかに、世の中を変えていく力を持っている人がたくさんいるのです。単に他の人と比べて変わっているだけなのに、それを悪いことのように言う価値観は改めるべきです。(中略)
 世の中には、いろいろな人がいるのです。
 人間は「信仰心の力」で変わってくるものなのですから、どうか、その子の魂に力を与えてあげてください。
(136~143ページ)

医者から自閉症児と言われるような子は、強い個性を持っているが、現状を打ち破って変化させ、世の中を変えていくのは、強い個性を持った人間である。

そういう人は、現代の管理社会において、普通のサラリーマンとしては生きにくいかもしれないが、もちろん病気でもなんでもないし、脳に問題があるわけでもない。

親が「うちの子は強い個性を持っているのだ」と信じてあげれば、子の個性はよいほうに伸びていくから、その子の魂に力を与えてほしい──。

ほんとうに暖かいお言葉だと思います。

この地球には、いろんな肌の色をしたいろんな人種の人たちが、さまざまの文明を作り、文化をもって生きています。

それだけでなく、地球上には、人間の肉体をもって生活している宇宙人さえいる、とも明かされています。

そう思いを巡らしてみたとき、「いろんな人種があっていい。いろんな個性があっていい。地球という星は、そのすべてを育み、慈しんでいく魂の修行場である」と、大川隆法先生は考えておられるんじゃないでしょうか。

そのさまざまな個性のぶつかり合いによって、地球の未来は作られていく。

医者から自閉症児と言われるような子も、その中にあって、人類の未来を創造していく力強い個性をもって生まれてきた、大事な大事な仏子のひとりなんだと私は信じているのです。

『心と体のほんとうの関係。』

 大川隆法著

 


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2500前のお釈迦さまの悟りって、一体どんなものだったんだろう。菩提樹の下で坐禅をして、深い深い瞑想に入っていって、一つの悟りを開かれたと聞いてるんだけど、お釈迦さまは、そこで何を知ったんだろう。何を見たんだろう? なーんてちょっと高度な疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈尊が、坐禅をして、心の垢を取り除き、深い深い瞑想の内に入っていったときに見たものは、いったい何だったのでしょうか。
 実は、釈尊は、「この地球上に、個々人が、小さな豆粒のような存在として生きている」というものではない世界を見たのです。「自分の内に、広大無辺な宇宙につながるものがある。その自分の内なる宇宙は、身長一メートル数十センチ、体重数十キロの、一個の体のなかに閉じこもっているものではない。それは無限に広がっていて、自分の目に見える、この三次元の宇宙をも包むほどの、大きな宇宙につながっているのだ」ということを知ったのです。
 大宇宙の根本仏(根本神)がつくったと思われるような、無限の多次元空間の神秘。そのなかには、自己の魂というものも当然あるけれども、それを突き抜けて、さらに霊界世界があり、霊界世界のなかに、「魂の兄弟」(拙著『太陽の法』第2章参照)や、それ以外のさまざまな光の存在がある。また、天国・地獄といわれる世界があり、その世界のなかに、幸福に暮らしている魂たちも、不幸に暮らしている魂たちもいる。そうした広大無辺な霊的宇宙が、自分の内とつながっている。こういうことを発見したのです。
 これは、「自分というものは、自分であって自分ではない。自分という存在がないわけではなく、それはあるが、その自分は、独立した一つの存在、切り離された存在ではないのだ。近代の哲学や文学が追究しているような、実存的な自分ではないのだ」ということです。
 自分の内には、大宇宙そのものとつながっているものがあるのです。その大宇宙は、三次元の星の世界ではありません。さらにそれを包み込んだ大いなる宇宙とつながっている世界が、自分の内にあるのです。マゼランの航海を待たずとも、自分の心の内を見れば、はるかなる世界まで、自由自在に行き来することができたのです。(中略)
 そして、釈尊は、「第一次的な霊眼によれば、自分と他人は別個の存在のようにも見えるが、もっと深い目で見たときには、自他は別のようであって別ではない。自他は別個に非ず、一体なり」ということを悟りました。「自分と他人、自分の魂と他人の魂は、別のようにも見えるけれども、そうではない」ということです。
 これは、もちろん、魂的に近接な「魂の兄弟」とのつながりということでもありますが、それだけではありません。魂の兄弟たち以外にも、広大無辺な霊界に生きているものたちがいます。人間の魂もあれば、人間ではないもの、動植物の魂に相当するものも数多くいます。これらが、ばらばらに住んでいながら、実は同時に、協力し合い、あるいは依存し合って生きているのです。そうした世界であるということを、釈尊は悟ったわけです。
 ちょうど、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が、全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生物たち、生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でているのです。そうした世界がそこにあるのだということを、釈尊は知ったわけです。
(192~196ページ)

釈尊(お釈迦さま)が菩提樹下で悟ったのは、第一に、自分の心の内が、三次元の宇宙はもちろん、天国・地獄といわれる世界をも包み込む、無限に大きな多次元空間の霊的宇宙につながっていること。

第二に、自他の魂は別のようであって別ではなく、実は一体であること。

たとえて言えば、オーケストラのそれぞれの楽器の奏でる音楽が全体として一つの曲をつくっているように、大宇宙のなかで、いろいろな生命たちが、根本仏(根本神)の構想した曲を奏でていることを知ったこと──。

うーん、今回も深遠な悟りの世界の話なので、これ以上やさしくまとめることは、私にはとうていできそうにありません。

言葉としてはわかるように思っても、これを実感として分かっているのかというと、それが分かったときが、まさに悟りを開いたということであって…。

いずれにしても、このような凄い教えを説くことができる大川隆法先生は、いったい何者であるのか。

まさに「現成の仏陀」(この世に下生された仏陀)その人である、という以外にないのだと私は理解しているのです。
 

『大悟の法』

 大川隆法著

 

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私って、みんなと普通に付き合うのがむずかしんだよね。いつもなんだか、浮いちゃうし、すぐ仲間はずれにされちゃうんだ。どうすればいいの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 そうした人たちを観察してみると、ある事実が浮かんできます。それは「自分のからだや性格、能力のなかで、どこか特定の部分に大きなコンプレックスを持っていることが多い」ということです。そして、そのコンプレックスを人に知られまいとする気持ちが、必ずと言ってよいほど働いています。(中略)
 私は、そうした人たちにアドバイスをしておきたいと思います。
 人間というものは、他の人の訛りや方言だけをとらえて笑いものにするほど悪くはないのです。もちろん、それに気がつく人はいるかもしれませんが、そうした言葉づかいの違いだけをとらえて、いつまでも笑いものにすることはありません。
 また、「他の人にばかだと思われるのが心配なため、人前で話せない」という人に対しては、「ほんとうに何も話せないのならば、ばかだと思われてもしかたがない面がある」と私は言っておきたいのです。なぜなら、そこには努力がないからです。
 それは、ある意味での自己保存であり、自分をよく見せたいがゆえに人前で話ができないということにはかなりません。
 このような人への私からのアドバイスは、「話題をもっと見つけなさい」ということです。
 結局、なぜ人前で話ができないのかといえば、他の人の話題についていけないことが多く、「まったく的外れなことを言って、笑われはしないだろうか」という気持ちがあるからです。(中略)これは努力によって解決できる問題です。(中略)
 もっとも、人びとの話題自体にまったくついていけない人もいるかもしれません。特に、まじめな人にはそうした人が多いようです。(中略)
 そうした人に私が言っておきたいのは、(中略)あなたは他の人に対してあまり関心を持っていないはずです。関心を持っていないだけではなく、他の人を見下げ、その反動によって自分を高くし、澄んだ川に棲む高級魚のような気持ちになっているのではないでしょうか。そして、「世界観が合わない。人生観が合わない」と言って、人の輪から外れているのではないでしょうか。
 しかし、それは、逆の見方をすれば、「他の人から変わり者だと言われたくない」という自己保身が働いているのです。あるいは、認識力の不足によって、他の人のなかにある素晴らしいものを見いだせずにいるのです。(中略)
 高い認識力を備え、高い教養を持っている人ほど、それぞれの人の境涯や機根に合わせた話ができるものなのです。
 したがって、自分と似たようなタイプの人に対しては話ができても、違うタイプの人には話ができないならば、それは、自分の心の修行がそれだけ後れていることを意味しているのです。
 このような人は、もっと人間というものを知る必要があります。また、ほんとうの意味で自分に自信を持ち、自分自身の心の幅を広げることも大事です。心のなかに大きな内的空間を持つことが、多くの人びとと話を合わせるための秘訣なのです。
(93~99ページ)

訛りや方言にコンプレックスを持っている人は、人間は、他の人の訛りや方言だけをとらえて笑いものにするほど悪くはないと信じよ。

他の人にばかだと思われるのが心配であれば、もっと話題を見つける努力をすることで解決できる。

他の人の話題にまったくついていけない人は、他の人に対してあまり関心を持っていないのではないか、また、他の人を見下げることで自分を高くしているのではないかを反省せよ。

それは、心の修行がそれだけ遅れていて、認識力の不足で他の人の素晴らしいところが見えないということである。もっと人間というものを知り、ほんとうの意味で自分に自信を持ち、心の幅を広げることも大事である。

心のなかに大きな内的空間を持つことが、多くの人びとと話を合わせるための秘訣である──。

幅広い角度からの厳しくも暖かいアドバイス。なにも言うことはありません。まさに人生の達人の教えだと私は深く思っているのです。 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著

 

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インターネットを見てると、幸福の科学に関するおかしな情報って、目につくよね。元会員とか信者だったとかなんとか言って、幸福の科学の悪口を書きたい放題のサイトがあるんだよね。あれって、どう考えたらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

人びとよ、
次にもまた愚かなる人がいる。
この愚かなる人びとは、
他の人びとを動揺と混乱に陥れることをもって悦びとしている。
他の人びとの心に毒をまき、
他の人びとの心に焦りを生じさせ、
他の人びとを誘惑の淵に導き、
他の人びとに妄言(ぼうげん)し、ささやき、そして、
道に精進しようとする者を迷わす者もいる。
このような者も愚かなる人びとである。
我が教えを学ぶ者のなかにも、このような者が出てくることがある。
自分の悟りが進まないがために、
自分が重用(ちょうよう)されないがために、
同行の士を巻き添えにしようとする者が跡を絶たない。
同じく修行の道を歩もうとする他の人の、
その堅実な心を揺さぶろうとし、そして自分の仲間を増やそうとする。
自分と同じく、不平不満を持つ者を増やそうとする者がある。

人びとよ、知れ。
このような心は、このような思いは、このような行動は、
すべて地獄に通じるものであるということを。
地獄には、数多くの亡者たちが生きている。
地獄の亡者たちは、自ら自身が助かろうとはしない。
自らが助かろうとするのではなく、仲間を増やそうとする。
仲間をつくろうとする。
他の人びとにも同じような苦しみを味わわせ、
他の人びとにも同じような迷いを与え、
他の人びとも同じような欲望の淵に落とすことによって、
自らの苦しみを和(やわ)らげようとするのだ。
しかし言っておくが、このような行為を続けて、
ほんとうに心が安らぐということは決してない。
そのようなことであってはならない。
自らの苦しみを薄めるのに、他の人を用いようとするな。
他の人を仲間にしようとするな。
他の人に愚痴を言おうとするな。
自らの苦しみは、自ら一人にて足れり。
自らの苦しみは、自ら一人にて対決せよ。
自ら一人にて、自ら自身の問題と対決せよ。
それを、他の人と徒党を組み、
共に自己の正当化や合理化に走ってはならない。
ゆめゆめ、そのようなことは、してはならない。
およそ、教えにつき、法を学ぶ者であるならば、
自らの正当性のために、教えを曲げたり、
歪曲したり、間違って伝えたり、
あるいは、人びとを誘惑するようなことをしてはならない。
このようなことは、すべて地獄に通じるものであるということを知れ。
(116~120ページ〔携帯版120~124ページ〕)

せっかく仏陀のもとに集ったというのに、その後、仏に歯向かう側に転落してしまうような人というのは、残念なことに、2500年前の釈尊の時代の有名な仏敵・提婆達多(ダイバダッタ)の例をあげるまでもなく、絶えることはありません。

彼らは、妄言し、他の人びとの心に毒をまきちらし迷わすことで、他の人びとを不幸にすることに悦びを感じているようです。

仏は、それを、仲間を増やして自らの苦しみを和らげようとする、堕地獄の業であることを看破されたうえで、自ら自身の問題には自ら一人で対決すべきことを、慈悲のまなざしで説かれています。

彼らの行動を見、その言い分を聞いたとき、それで一体全体、誰が幸せになっているんだろうと、やはり私にも思えてなりません。

3000回をはるかに超えるこのブログで地道にお伝えしてきたとおり、大川隆法先生の教えは、光と叡知に満ち満ちています。

誰もがわかる現代日本語で、救済の道が、悟りへの道が、幸福への道が、これほど明晰な教えとして、尽きることなく説き続けられているのは、客観的事実として誰も否定できないことではないでしょうか。

いずれにしても、闇を増やし、人びとを不幸にしようとする間違った活動を行なう者がいるのであれば、それ以上の情熱をもって、この地上に光を広げる活動を続けていくだけだと私は強く思っているのです。
 

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

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ものすごい借金なんだ。毎月のローンは増える一方なのに、給料は減らされてるし、会社の業績も厳しくって、リストラにあいそうだしさ。もう、どうすりゃいいの? なーんて深刻な悩み抱えている人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず、単純に、自分の家の収入と支出を表にして、一枚の紙に書いてみればよいのです。
 一方には、現在の収入や、今後の収入の予定を書きます。(中略)
 もう一方には、現在の支出や、今後の支出の予定を書きます。家賃なり、ローンなり、子供の学資なり、その他、子供の結婚資金だ何だと、いろいろあるでしょう。それらが、どの程度あるのかを書いてみるのです。
 そして、どこかに無理がないかどうかを見て、もし無理があるのであれば、まずは支出をできるだけ減らすことです。無駄なものを削らなくてはなりません。
 たとえば、外車を持っていたら、それを売り払います。外車だと、ガソリン代も、もったいないので、まず、それを売り払います。
 次に、「授業料の高い学校に子供を通わせる」という妙な見栄は捨て、歩いて通える公立の学校にします。
 奥さんは、高価なアクセサリーを身につけることはやめ、ダイヤモンドの指輪などは売って、非常に質素な身なりにします。
 それから、付き合いのために外で飲み食いし、カラオケで歌ったりする生活はやめます。「酒を飲むとアレルギー症状が起きるので、酒は飲めない」「いまは声が出ないので、歌は歌えない」などということにします。こうして、無駄な、見栄の付き合いはやめます。
 ゴルフは、お金がかかるので、ぎっくり腰になったことにして、やめます。
 こうすれば、月に十万円以上の節約ができるかもしれません。
 このようにして、切れるものを、できるだけ切っていくのです。他の人たちから、「あいつ、ケチだな」と言われようと、「嫌な奴だな」と思われようと、自分の家の〝コストカッター″と化さなくてはなりません。(中略)
 収入のほうは、会社で昇進でもしなければ、増えることはあまりないかもしれません。また、クビになったりすれば、収入はなくなります。
 そこで、収入について、今後、増えるめどがあるかどうかを、沈着冷静に考えてみる必要があります。
 たとえば、「自分は、生涯、管理職にはなれないこともありうる」と思ったならば、その場合の収入構造を先々まで考えてみるのです。また、自分の健康状態を見て、どこまで働けるかを考えます。
 その上で、奥さんと冷静に話し合うのです。「たぶん、おれは一生ビラだと思う。課長になるには平均以上の実力が必要だが、おれの実力では、まあ、無理だろう」と話し、「この収入で、このあと暮らせるだろうか」ということを相談します。
 そして、暮らせないとなったならば、「悪いが、おまえも、ちょっとパートに出てくれないか。近所のどこかに募集広告が出ていたよ」と言って、パートに出てもらいます。
 そのような方法によって収入を増やし、一方では支出を減らすのです。
(24~28ページ)

借金が返せそうにないというのは、収入と支出のバランスがとれていないのだから、まず単純に、収入と支出を一枚の紙に、表にして書いてみる。

そして、どこかに無理がないかを見て、無理があるのであれば、無駄なものを削って、まずは支出をできるだけ減らす努力をすること。そういう場合に限って、収入に見合ってない支出の生活をしていることが多い。たとえば外車とか、子供の私立学校、奥さんの高価なアクセサリー、付き合いと称する飲食やゴルフなど。

収入については、今後、増えるめどがあるかを冷静に考え、むずかしければ、奥さんにも働いてもらうようにするなど、建て直しを図る──。

幸福の科学は宗教ですけれども、大川隆法先生は、〝だから仏さまにすがりなさい″とか、〝お祈りしなさい″などとは説かれません。

まずは、この世的な智慧(ちえ)として、収入と支出のバランスをとる努力をする。

その際にもっとも邪魔になるのが、たとえば見栄や、これまでの虚栄の生活にしがみつく「我」の心なのでしょう。

大川隆法先生は、ちょっとユーモラスに説いて下さってますけど、でも実は、その大半には、自分が自分の努力の範囲内で、打ち勝つことができるってこと。

もちろん、もう自分だけではぜんぜん対応できないほど事態が悪化している場合には、弁護士などの専門家に相談したりする必要があるかもしれません。

また、自分でできる最善の努力をした上で、仏神への祈願をお願いするような段階があるかもしれない。

でも、そういう場合があることを当然の前提として、今日のお教えは、最初期の段階に関して説かれているのだと私は理解しているのです。

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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仏とか神って、この地上の出来事について、人間とは違う見方をしておられるのかなあ。もちろん、すぐに理解できるとは思わないけど、でも、気になるなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 さらに、宗教的な境地を進めていくと、不思議なところが見えてきます。すなわち、「差別観」(仏教的には「差別(しゃべつ)観」という)と「平等観」、この二つが非常に発達してくるのです。
 修行が進めば進むほど、「人間の違いや能力の違いというものは、これほどあるのか」ということが、はっきり分かってくるようになります。人間の能力の違い、生まれつきの違い、人間存在としての違い、仏性の芽生え方の違い、こういうものに、それぞれの人によって、どれほど段階の差があるかということが、非常によく分かってくるようになるのです。これが差別観です。
 それと同時に、もう一つ、平等観というものがわいてきます。これだけ違う存在がたくさんありながら、それが不思議な観点から統合され、平等の存在であることが見えてきます。それぞれの人間が、これほど違うにもかかわらず、平等の生命価値を持っていることが見えてくるのです。
 また、「人間以外の生き物たち、動物や植物たちも、輝く命を持っていて、人間と同じように修行をしているのだ」ということが分かってきます。何とも言えない不思議さがあります。動植物の心が分かってくるのです。
 彼らも、みんな修行をしており、社会生活を営んでいます。
 動物たちも、家族をつくったり、食料を得るために苦労したりしています。あるいは、困難なことをするものと、それを補助するものとに役割を分けたりして、努力しています。
 そういう、さまざまなことが分かってきて、生命の平等観が見えてくるのです。
 差別観と平等観という二つの矛盾したものが、統合したかたちで見えてくるようになると、これが、いわゆる仏の眼、「仏眼」といわれるものになってきます。仏の眼には、その両方が見えているのです。
 慈悲のことを、「大悲」という言い方をすることもありますが、この大きな眼で眺めると、生きとし生けるもの、一切の衆生の、苦しんでいる姿、苦労している姿、そして、苦しみながらも、けなげに生きている姿が見えてきます。小さな生き物から、高度に発達した人間まで、それぞれ苦しみや悲しみを背負いながら、共に、この地球で光り輝いている姿が見えてくるのです。
 その姿は、とても悲しいものであると同時に、とても温かいものに見えます。悲しみを背負っているように見えながら、同時に、とても希望に満ちた、明るいもののように見えます。
 このような矛盾した二つの視点を持てるようにならなければ、実は、悟りの世界に入っているとは言えないのです。
 この悟りの世界に入るまでの過程で、差別観と平等観のどちらかを非常に強く磨くことがありますが、それを磨きつつ、また超えていかなければならないところがあります。
 矛盾したものを統合するという立体的な営みのなかに、実は悟りへの階梯があり、そこに、「この世が、この世だけで完結せず、実在界とつながっている」ということの理由があるのです。
(50~53ページ)

宗教的な境地を進めていくと、「差別観」と「平等観」の二つが発達してくる。

この二つの矛盾したものが、統合したかたちで見えてくるようになったとき、「仏眼」になる。

この矛盾したものを統合するという立体的な営みのなかに、悟りへの階梯があり、そこに、この世が実在界とつながっていることの理由がある──。

うーん、悟りの世界の話だからだと思いますが、これ以上やさしくまとめることは、私にはできそうにありません。

特に、最後の一節はむずかしいです。

でも、こういった視点やお考えがあるとなんとなく理解できてきたときに、たしかに見えてくるものがあるような気がします。

たとえば「格差社会」という問題について、なぜ大川隆法先生が、結果の平等を求めるのは間違っている、チャンスの平等であるべきだと説かれるのか。

その理解するためのヒントが、このあたりにあるのではと私は感じているのです。 

『幸福の法』

 大川隆法著

 

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最近、大川隆法先生の講演会が開催されたって話を、けっこう見聞きするんだけど、これって、要は伝道集会でしょ。幸福の科学って、なんでそう伝道を急いでるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

多くの人々は、
飽食の時代のなかにあって、
しかもまだ飢えているのだ。
この世には、さまざまな食物があふれているというのに、
しかし、この時代にこそ、
人々は飢え、苦しんでいるのだ。
飢えているのは、心が飢えているのだ。
心が、魂が、
糧を求めているのだ。
魂の糧を探しているのだ。
あそこにも、ここにも、
飢え死にしてゆく人たちが跡を絶たない。
魂の糧は、まだまだ足りないのだ。
心の糧は、まだ、
全地球に供給するほどはないと言ってよいであろう。
さすれば、仏弟子であるおまえたちは、
日夜、この魂の糧を、心の糧を、
生み出し、届けることに、専念せねばなるまい。
この仕事に終わりということはない。

しかし、仏この地上にある時に、
この仕事に邁進できる者たちは、幸いである。
それは、真昼のなかを歩く旅人にも似て、
その道を過(あやま)つことがないからだ。
真昼のなかを歩く者たちは、
間違いなく目的地に到達するであろう。
しかし、闇のなかを歩む者は、
やがて足を滑らせて、
その道より谷に落ちることになるであろう。
光ある時に、
真実の生き方に目覚め、
真実の人として生きてゆくことを、
誇りに思わなくてはならない。
その時にこそ、
仏弟子としての本懐が
とげられるというものであるのだ。
(102~105ページ)

飽食の時代というのに、人びとはまだ飢えています。

仏(仏陀)がこの地上にあるというのに、魂の糧を探して、飢え死にしてゆく人たちが跡を絶たない、そんな現実があります。

これだけの魂の糧が、まさに釈尊の「八万四千の法門」を超える勢いで供給され、一般書籍として書店で誰もが気軽に手に入れられるようにされているというのに。

それを知らないまま、魂の糧を探し続けている数多くの人びとに、なんとかこの素晴らしい魂の糧の数々の一片たりとも届けたい。

今は、インターネットが発達して、いながらにしてその説法に触れることができる、ありがたい時代でもあります。

まだ日が高きうちに、光ある時に、仏陀がこの地上で法を説いておられるときに、一人でも多くの方に、その説法に直接ふれてほしいと、心から私は思っているのです。

『永遠の仏陀』

  大川隆法著

 

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あーあ、挫折だよね。まいったなあ。人生にやる気なくしちゃったよ。もう、どうすればいいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『成功の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 こういう人たちが、失意の底から這い上がり、より素晴らしい世界へと出るためには、いったい、どうすればよいのでしょうか。
 このような人たちに対して、私は、まず、「目標の設定をしなさい」と言いたいのです。
 それは、ちょうど、穴のなかに落ちた人が穴の外に出るための方法と同じです。目標の設定とは、「石なり他のものなりにロープを巻きつけて、外に投げ出す」ということと同じです。できるならば、ピッケルなどにロープを結びつけて、外に投げてみたいものです。そうすれば、それが木の根か何かに引っかかって、ロープはピンと掛り、やがて穴のなかから出ることができるでしょう。
 それと同じように、いま、自分が失意の底にあって、そこから外に出たいと思うのならば、まず、「どうすれば外に出られるか」という目標を設定することです。
 そのために、私はみなさんに言っておきたいことがあります。それは、「自分が、やる気が出ず、失敗のさなか、また、悲しみのさなかにあるときには、さあ、新たな人生設計をしてみようではないか」ということです。
 一枚の白い紙に、人生の目標を設定してみようではありませんか。そこに、大目標、中目標、小目標を書いてみようではありませんか。また、別の計画表には、いますぐできること、近い将来にできること、ずっと将来に目指すべきこと、こういう目標を設定してみようではありませんか。
 この二種類の目標設定が大事だと思います。穴のなかから違い出していくためには、どうしても目標の設定が必要なのです。大目標、中日標、小目標を書いてみることです。また、身近な目標、少し将来の目標、かなり先のほうの目標をつくってみることです。
 そして、まずやるべきことは小目標の実践です。また、時間的に見て、手近に始められるものから実践することです。どうやってロープをよじ登るかを、具体的に考えてみることです。
 この場合に、二つの道があると思います。一つは、「まったく新たな道を開拓する」ということです。「いままで思いも寄らなかったような、新たな道を歩んでみる」という方法があります。もう一つの方法は、「またゼロからやり直してみる」という方法です。
 しかし、私がここで言っておきたいことは、「いま、あなたがたの心のなかにある苦しさや失敗感が、人間関係によって生じているものならば、それは必ずや変更が可能であり、改善が可能である」ということです。
 人間には天変地異を起こすほどの力はありませんが、「人間関係で苦しんでいる人が、その人間関係を、時間の流れのなかで改善していく」ということは、充分に可能なことです。
(69~72ページ)

「目標設定」は、いわば、穴のなかに落ちた人が、穴の外に出るための方策である。

大目標、中日標、小目標を書いてみる。また、身近な目標、少し将来の目標、かなり先のほうの目標を書いてみる。

そして、小目標の実践。また、身近な目標の実践。そのためになすべきことを具体的に考えてみること。その場合に、一つには、まったく新たな道を開拓する方法、もう一つは、またゼロからやり直してみる方法がある。

その際、現在の挫折感の原因が、人間関係によって生じているものならば、それは必ずや時間の流れのなかで改善することは可能である──。

なんと具体的で救済力に満ちた教えなんだろうと、改めて思います。

この教えを、まずは受け入れ、そして実践することで、必ずまた、人生のやる気は復活していくのだと私は確信しているのです。
 

『成功の法』

 大川隆法著



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21世紀に入って、もうかなりたつよね。なんだか不況だけに振り回されてる気がするんだけど、これからはどういう時代なんだろう。その見通しをどうたてて、どう、これからの人生を考えていけばいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1996年に刊行された『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 情報が高度化・複雑化することは避けられない流れですが、同じように避けられない流れがもう一つあると思います。
 それは「情報のリストラ(再構築)」です。「あふれる情報のなかで、無駄なものを看破して捨てる」という仕事が出てくると思います。(中略)
 結局、個人にとっても社会にとっても、役に立たない情報とは何なのかを見分け、これを捨て去る作業が必要になってきます。これには、かなり大きなニーズ(需要)があります。
 そこで、情報のリストラは何によってなされるべきか、ということを考えなければならないわけです。
 私は、情報選択の基礎は、「新文明の精神がどこにあるか。二十一世紀以降の新文明は、いかなる精神的基盤を持つべきか」ということにかかっていると思います。
 幸福の科学は、「宗教の時代が来る」ということを、いち早く宣言していますし、それは現実になると思います。そこで、氾濫する情報のなかにあって、「情報のリストラに関して、宗教的価値判断はいかに働くべきか」という問題が出てきます。
 私には、「そのときに中世還りはしたくない」という気持ちがあります。中世還りをして、一定のものをタブー(禁忌)とし、タブーに反する情報が出せないようなかたちにはしたくありません。
 日本のように、無神論・唯物論が長く続いてきた国家においては、情報のリストラに際して、タブーや禁止条項を設けるよりは、むしろ、情報の基礎にある道徳的なメンタリティー(精神性)の部分、つまり精神的土壌の面を、宗教的精神によって耕す必要があると思います。
 まず、精神的土壌を耕したうえで、いろいろなものが思想の自由として出るほうがよいでしょう。情報を一つひとつ選定するよりは、土壌そのものに、きわめて道徳的で高度なもの、思想的に価値のあるものをつくる必要があると思います。これが、私たちの大きな大きな仕事だと思うのです。
 土壌の部分、精神風土の部分をつくったならば、いま述べたような情報のリストラが、自然に働いてくるだろうと思います。すなわち、その土壌に種を播くと、よく育つものと、そうでないものが自然に出てきます。
 しかし、どのような種を播くかは自由です。そのなかから、よく育つものとあまり育たないものが、誰の目にも明らかになってくると思うのです。
 これをつくることが、私たちの持っている大きな使命ですし、私たちがやらねばならないことなのです。
(61~64ページ)

21世紀には、情報が高度化・複雑化し、これにともなって、あふれる情報のなかで無駄なものを看破して捨てる仕事、つまり「情報のリストラ(再構築)」に、かなり大きなニーズ(需要)が出てくる。

そのためには、タブーや禁止条項を設けて情報を制限するのではなく、情報の基礎にある精神的土壌の面を、宗教的精神によって耕すことで、いろいろ出てくるなかから、よく育つものとあまり育たないものが自然に明らかになるという形で、情報のリストラが行なわれていく。

世の中の人びとの精神的土壌を、宗教的精神によって耕すこの仕事は、幸福の科学の大きな使命の一つである──。

もう23年も前、まだ20世紀だった時代に発表された教えですが、21世紀の今、さらに輝きを増している教えでもあると、強く感じます。

そして、幸福の科学が何をめざしているのか、その理想とするユートピア社会とはいかなるものか、その一端がここに見てとれるのだと私は強く確信しているのです。 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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あの幸福実現党の党首の釈量子さんって、とっても美人だと思うけど、ほんとはどんな人なんだろうね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、2013年に発刊された『釈量子の守護霊霊言』(幸福実現党)のあとがきで、こう説いておられます。

 読者は驚かれたかもしれない。この美女の守護霊が男の中の男で、その発言たるや、「本当に宣伝になるのかな」と皆が心配するほどの大胆さであることを。しかし、本人は、日本の大黒柱として、確固とした決意を持っている。
 さて、「鉄の女」マーガレット・サッチャーを超える「ダイヤモンドの女」は、過去世の実績を超えられるか。
 日本人のナアナア体質を根本からくつがえす、その「歴史的瞬間」が近づいていると思う。
 日本初の女性総理を目指して、今、釈量子の戦いが始まった。マスコミの経営陣は、応援するか、さもなくば、「首を洗って黙って待っておれ」とのことである。釈の活躍により、外国人の日本人観や、日本女性に対する見方が百八十度変わるにちがいないと思う。
(224~225ページ)

釈量子党首の守護霊によるあまりに大胆な発言の数々には、もう「驚き」の一字しかありません。

さすが、あの日本史上の偉人…、なんだろうと思います。

いずれにしても、満を持して登場してからはや6年。

参院選の投票日も迫ってきました。

釈量子党首のさらなる大活躍と幸福実現党の大躍進を、心より私は期待しているのです。

 

『釈量子の守護霊霊言』

大川隆法著

 

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オレってまだ若いからさ、これからの長い人生の基礎を作っていかなきゃって思うんだ。でもさ、どうすればいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不動心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の基礎づくりという観点は、海原に浮かぶ氷山の姿に置き換えることもできるでしょう。
 氷山というものは、水面上に出ている部分は全体の一割か二割にすぎなくて、その下には非常に大きな氷のかたまりがあります。水面上だけを見れば小さな氷のかたまりに見えても、その下の部分は意外に大きいのです。
 氷山のような自然現象であっても、水面に安定して浮かぶために、達磨のような安定感のある姿をとっているわけです。
 みなさんは、こうした氷山の姿に学び、それをまねていく必要があるのではないでしょうか。
 それでは、氷山の姿に何を学ぶのかといえば、その安定感を学ぶのです。
 氷山は全体を水面上に出すのではなく、必ず水面下の部分を持っています。水面下の部分が水を押しのけているのと同等の力が氷山に働き、それが浮力となって氷山を支えているのです。
 同じように、人生においても、水面下の部分が大きければ大きいほど、押しのけた水の量に見合った浮力が働くのです。
 この水面下の部分というのは、世間の人びとからは見えない部分のことです。どの人も、他人から見える自分と、他人からは見えない自分とを持っています。そして、通常、他人からは見えない自分のほうが、見える自分よりもはるかに大きな人のことを、「人物ができている」と言うのです。
 だれが見ても裏が透けて見えるような人物は、大人物とは言われません。いぶし銀のような光を放ち、内面に奥深いものがある──それが偉大な人物の姿なのです。
 結局、人間としてどれだけできているかは、水面下の部分、基礎の部分がどれだけあるかにかかっているのです。水面上には一部しか出ていなくても、水面下に大いなるものがある人には、安定感があります。
 人生の基礎をつくるにあたっては、「氷山の姿にまねよ」という言葉を記憶する必要があるのです。
(16~18ページ)

人生においても、氷山のように、水面下の部分が大きければ大きいほど、押しのけた水の量に見合った浮力が働き、安定してくる。

つまり、水面下の基礎の部分が大きい人ほど、安定感があって、人物ができている。

私たちは、人生の基礎をつくるにあたっては、氷山の姿をまねなくてはならない──。

今日は大きな意味で、人生の指針になるような一節をご紹介してみました。

自分が勉強してきたことが端的に評価されないと、自分が生かせてないと短絡的に考えて、すぐに転職してしまうような若い人がいると聞きます。

でも、若いうちに大事なのは、今すぐには外から見えなくても、すぐには評価されなくても、どれだけの大きな蓄積を自分の内に作っていっているかだってことなんだと私は理解しているのです。
 

『不動心』

大川隆法著

 

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幸福実現党って、原発推進なんでしょ。なんでなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の誇りを取り戻す』―国師・大川隆法 街頭演説集2012(幸福実現党刊)で、こう説いておられます。

 わが国の国防を、三年半前から一貫して訴えているのは、幸福実現党ただ一つです。
 今、「脱原発」とか、「反原発」とか、「卒原発」とか言っているところは、みな腰抜けです。
 「日本から原子力発電がなくなったら、それで老人や子供が安全になる」と思ったら、大間違いです。
 外国から、核ミサイルだって飛んでくるんですよ!
 勝手に実験をされて、何にも言えないようでどうするんですか!
 あんな小さな国になめられて、これでも国家ですか!
 経済産業省! 何をやっているか!
 原発を推進しなさい!
 「原発推進」の垂れ幕をかけなさい!
 政治家の言うことなんか、聞いては駄目だ!
 彼らは、票が欲しいだけです。
 国民の生命を守るのは官僚です。
 官僚こそ、いかなる圧力がかかっても、やるべきことをやり抜きなさい!
 それが仕事ですよ。
 また、近くにある国税庁、財務省、さっさと予算を付けなさい!(中略)
 安倍自民党総裁以下の自民党も、原発については、うやむやなことを言っておりますし、国防軍のことについて触れて批判を受けたら、腰抜けで、すぐグラグラする。
 家に帰って、早く私の本を読みなさい!
 やるべきことは全部書いてあります。
 だから、会議などする必要はありません。私の本を読んだらいいのです。答えは全部書いてあります。そのとおりやりなさい。
 もう、会議なんか要らないから、帰って本を読んで、そのとおり、明日からでも明後日からでもやってくれればいいんですよ!
 特に、私が、今、申し上げたいのは、「『反原発』とか『脱原発』とか言っている人たちが、即時に電気料金が値上がりしていることに対して、何一つ責任を取ろうとしていない」ということです。
 あれだって税金の一つですよ。
 企業の電気料金は二十パーセント近く上がりました。一般家庭は十一、二パーセント上がっています。これが税金でなくて何ですか。(中略)
 それに、また消費税をかけるのですか。国民生活を冷え込ませて、いったい何をやっているのか。
 それでも政治か!
 恥を知れ! 恥を!
 日本国民の意地を見せろ!
(10~14ページ)

本書は、2012年12月の衆議院総選挙において、大川隆法先生が街頭演説された内容が、DVD映像がついて書籍化されたものです。

今日、ご紹介したのは、東京・霞が関の経済産業省前の演説。当時、裁判で追い出されようとしていた“脱原発テント”のすぐ横で行なわれたものだったと思いますので、とても厳しいトーンなのは、そのあたりの事情が反映しているのかもしれません。

参議院選挙のまっただなかですが、7年近くが経過した今現在の演説としてみても、その内容が微動だにしないことに、改めて驚かされます。

今回こそは、幸福実現党の躍進を心から私は期待しているのです。
 

『日本の誇りを取り戻す』

大川隆法著

 

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「スピリチュアリズム」(心霊主義)について、前回、一度お話しました。今日は、その続きは? という疑問にお応えする第二弾です。

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 第一段階が一通り終わったあたりで、次に、第二段階として、二十世紀の初頭ぐらいから、自動書記や霊言現象というかたちで霊界思想の普及を始めました。「天上界の高級諸霊から通信を降ろし、自動書記のかたちで書いたり、霊能者に語らせて記録したりしたものを、本にして出す」ということをやりはじめたのです。
 イギリスでは、古代インディアンの名で、『シルバー・バーチの霊訓』というものを出しました。また、十九世紀の後半に、ラテン系では、アラン・カーデックの『霊の書』という霊言も出しました。これらの淵源は同じものなのです。
 そのほかにも、洋の東西を問わず、霊界通信ものをかなりたくさん出しました。
 第二段階として、書かれたもののかたちで、霊界の様子や高級霊の考えなどを伝えたわけです。
 ちょうど、そのころは、第一次世界大戦と第二次世界大戦という、二つの大きな戦争が起きる時期だったので、「霊界思想の普及」の使命感に燃えていたのです。(中略)
 その後の流れのなかで、二十世紀には、科学主義が進み、医学もかなり進歩してきました。これが、宗教や霊界をなかなか信じてくれない一つの牙城のようになってきたので、「これも何とかしなければいけない」という問題も出てきました。(中略)
 マルクス、それからダーウィンと来て、完全な唯物論が大きく流れてきたわけです。さらには、科学や医学の進歩、進化というものが、その後、ずっと続いてきたのです。
 心霊主義の第一段階では、霊媒等を使って、いろいろな物理現象を起こし、第二段階では、霊界通信を行いましたが、第三段階では、「霊界の力を使って病気を治す。この世では不治と言われた病を心霊治療などで治す」ということが、あちこちで起きるようになりました。
 第二次大戦後は、それが特に多くなってきました。「医者が見放して、『もうだめです』と言う病気を、心霊治療で治す」という試みが始まりました。これは唯物主義の医学との戦いなのです。(中略)
 こういう大きな三段階の文明実験を行いました。二十世紀の後半になって、真理の普及運動がいよいよ本格化するまでに、いろいろと、下ならし、地ならしを、百年ぐらい行ったのです。
 これには当初から私も関係しています。この計画を進めることを決めた十九世紀の半ばぐらいから、実在界にいたときに関係しています。
(175~179ページ)

天上界の計画は、第一段階が一通り終わった20世紀の初頭ぐらいから、第二段階として、天上界の高級諸霊から通信を降ろし、自動書記のかたちで書いたり、霊能者に語らせて記録したりしたものを、本にして出すことで、霊界思想の普及を始めた。

その後、唯物論の流れのなかで、科学主義が進み、医学も進歩したことで、第三段階では、この世では不治と言われた病を、心霊治療などで治す試みが始まった。

これらは、20世紀後半に真理の普及運動が本格化するまでに行なわれた、地ならしであった──。

さて、この天上界の計画は、当初、唯物論運動に対するものとして始められたわけですが、その意図は、それだけだったのでしょうか?

興味は尽きませんが、それはまた次の機会にご紹介したいと思います!  


『神秘の法』

 大川隆法著

 

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参院選の真っ最中だけど、憲法改正の議論なんて、ぜんぜん盛り上がってないよね。この憲法改正問題、どう考えればいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『憲法改正への異次元発想――憲法学者NOW・芦部信喜元東大教授の霊言』(幸福実現党刊)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 憲法改正論議がいよいよ現実味を帯びてきた。しかし、憲法記念日(五月三日)あたりを境にして護憲派の巻き返しも激しく、昨夏の「脱原発」騒動ふうの左翼系運動の揺り返しも熱を帯びてきた。「憲法改正」問題になると、「竹島問題」も「尖閣問題」も「北朝鮮の核ミサイル問題」も頭から蒸発してしまい、「パブロフの犬」のように条件反射してしまう人が多すぎる。日本人が伝統的に持っていた「和を愛する心」が、「憲法九条で平和を護れ!」に転換されてしまっているのだろう。
 私は表向きは宗教家かもしれないが、やっている仕事は、新文明の創造である。その意味で、政治や法律、経済・経営、外交、歴史、マスコミ論、地球上の紛争解決から、教育改革まで仕事のターゲットに入っている。政治や法律、経済、外交に関して、歴代総理より詳しい宗教家がいてもいいではないか。実際に、政治も法律も、国際経済も、経営も勉強してきた。平凡な言い方ではあるが、向学心と好奇心とを持ち続けて、半世紀以上「亀の如く」勉強を続けてきた。この国の未来への一条の光となることを心より願っている。

あとがき
 とにかく、この国を一歩前進させなくてはなるまい。憲法に規定されてないことを法律だけでなし崩しにやってよいわけではあるまい。自衛隊を国防軍に変えてもよいが、そのもとにある憲法九条を、正直に変更すべきだ。憲法九十六条改正から入るのも一つの手ではあるが、政権交代のたびに憲法改正がなされて、左や右に極端にブレるのは望ましくないだろう。元首制、環境権、プライバシー権、道州制など、議論をつくしてないものも多く、選挙のたびにブレるのは困る。
 信教の自由だって私有財産権だって、今でも十分に護られてはいない。安倍政権が次第にポピュリズム化し、「村山談話」を丸ごと認めてしまったのには驚いた。こんな腰くだけ政権で憲法改正ができるのか。公明党のコウモリ体質といつまで連立できるのか。マスコミはまだ破壊のみに力を注ぐのか。私たちも今がふんばりどころだろう。
(1~2、148~149ページ)

やっている仕事は、新文明の創造であり、政治や法律、経済・経営、外交、歴史、マスコミ論、地球上の紛争解決から、教育改革までターゲットに入っている。

憲法96条改正から入るのも一つの手ではあるが、憲法9条を正直に変更すべきだ。

安倍政権のような腰くだけでは憲法改正はできない。私たち幸福実現党も、今がふんばりどころである──。

2013年に刊行された本書は、安倍首相が国会で聞かれて、その名前を知らなかったことで話題になった大憲法学者の霊言です。

法律学を少しでも学んでいれば、知らない方がいないほど高名だという、芦部信喜(あしべのぶよし)元東大教授が、憲法問題に関する具体的な質問に縦横に回答された、いわば講義録になっています。

全編を通して、とても高い視点から説かれる明晰な憲法論の数々。

そして、憲法9条は改正すべきであるという、ど真ん中の結論の凄味。

本書を抜きにしては今の「憲法改正問題」を語ることはできない、まさに必読文献だと思います。

そして、本書を受けて、いま幸福実現党は、真正面から憲法改正をも政策に掲げて、この選挙戦を戦っています。

一人でも多くの方が、その本気で掲げられた政策に賛同し、投票して下さることを、心より私は願っているのです。

 

『憲法改正への異次元発想―憲法学者NOW
   芦部信喜元東大教授の霊言』

大川隆法著

 

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