ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



私って、ぜんぜんダメなんだよねー。人の2~3倍はがんばらないと、追いつけないって分かってるんだけど、そんなのムリだし、どうしようもないよね。目標って言ったって、どうすりゃいいの? なーんて深刻な悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ある出来事に対して、それを悲観的に考えるのではなく、「光明的に考えられないか。もっと成功する考え方ができないか」と考えてみることです。そうすると、道は必ず開けてくるのです。
 このときに気をつけなければいけないのは、あまりにも倣慢や尊大になったり、自分自身を拡大しすぎて、現実との不適応を起こすほどになったりしてはいけないということです。やはり、ある程度の堅実さも必要です。
 八割ぐらい積極思考を持ちながら、チェックのために、二割ぐらいは、堅実さや慎重さを常に持っているぐらいがちょうどいいと思います。個人としては、積極思想を持ちながら、堅実さや慎重さも二割程度は持って、足元を固めながら進んでいくことです。
 そして、常に「一割増し」ぐらいをねらっていれば、間違いはありません。現在の自分より一割ぐらいグレードアップした自分を常に目指していく。そして、一割増しの自分を達成できたならば、さらに一割増しの自分をねらう。このように考えていれば、それほど大きな間違いはないのです。
 突然、十倍や百倍の自分を考えると、少し苦しいものがあります。最終的には、そうした自己イメージもけっこうだとは思うのですが、まずは現実の自分より一割増しの自分を考えることです。
 これは、すべてにおいてそうです。たとえば収入でも、すぐに十倍百倍にならないかと考えるよりは、まず一割増しを考えてみるのです。
 あるいは、もっと行動的になりたいのならば、まず一割、行動力を増してみようと思うことです。自分は外に出て行動するのが苦手だと思うならば、まず現在よりは一割多く出てみようと思うことです。
 「人と話をするのが苦手だから、人とうまく話ができるようになりたい」と思っても、いままで人とまったく話したことがないのに、突如として、毎日、話してばかりいるということは、そう簡単にはできません。
 このように、まず、それまでの自分より一割増しぐらい、人と話ができるようにがんばってみよう、あるいは、外に一割ぐらい余分に出てみようということです。
 読書でもそうです。本が嫌いで活字をあまり読めなかった人が、急に「あしたから千冊読もう」と思っても、そう簡単にはいきません。(中略)
 それよりも、先月、一カ月に五冊しか読まなかったのであれば、今月はそれよりも一冊でも二冊でも多く読めばいい、という程度で考えておくことです。まずは先月比で一割増しぐらいを目標にして、読みすすめてみることです。先月、十冊読んだ人であれば、今月は十一冊読んでみようということです。また、昨年、年間で五十冊読んだならば、今年は五十五冊ぐらい読んでみようということです。
 このぐらいで考えておけば、それほど無茶なことではないと思います。
(81~85ページ)

悲観的に考えるのではなく、光明的に考えられないか、もっと成功する考え方ができないかと考えてみることで、道は必ず開けてくる。

そのときに、ある程度の堅実さも必要であって、8割ぐらいの積極思考で、2割ぐらいは堅実さや慎重さを持っているぐらいがちょうどいい。

そして、まずは1割増しをねらうこと──。

「光明思想」で、積極的・発展的に考えるのは、とても大切なことだけれど、この世の現実を見据えた冷静な視点も忘れないこと、ということだと思います。

具体例も合わせて説かれる大川隆法先生のお教えは、やっぱり、人生の達人が説かれる「人生論の叡知」であると私は強く感じているのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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霊能者って、テレビに出てきたり、町にもいたりするけど、怪しい人、多いよねー。どんな霊能者だったら信用できるのかは、どんなふうに考えたらいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 正しい修行者の態度としては、昔から戒律と言いますが、戒めを自らに課していることが大事です。常にストイックに生きること、また、自分を節制し、よく欲望をコントロールしているかどうか、これを見なければいけません。この欲望のコントロールのところをしっかりして、ストイックな面がなければ、やはり本物ではないと思います。
 常にそういう防波堤を築いておかないと、間違ったものが入ってくるようになるわけであり、それに気をつけなければならないのです。
 ですから、霊現象を起こす主体となるべき霊能者というのは、常に戒めを課して、節制のある生活をすることが大事です。これが一つです。
 この基礎にあるのは何かというと、一つは健康面、肉体面での管理です。健康生活を送ることです。規則正しい生活をし、毎日、定期的な運動をして、身体を使うことです。これも大事です。疲労がたまってくると、どうしても悪霊の波動を受けやすくなりますから、これを抜くために肉体のコントロールが大事です。
 それともう一つは、龍神だとか、何とか権現だとかいうようなものの霊言を真に受けないためにも、しっかりとした勉強をしておく必要があるわけです。かなりの教養、知識を身につけておく必要があるわけです。かつては坊さんであったり、修行者であった人がかかってきますと、ある程度の宗教用語を使いますから、それに騙されないように、やはり日頃から研鑽(けんさん)を積んでおくことが大事です。
 ただ、あまり知識を詰めますと、霊的なバイブレーションを受けにくくなる傾向もあることはあります。しかし、それはそれでリスク管理だと思って、やはり割り切るしかないと思います。(中略)
 霊現象を起こしやすいタイプの方は、だいたい感性的です。芸術的な魂、あるいは非常に感情豊かな方が多いのです。そういう方の場合は、勉強し過ぎますと、その感性が鈍ることがあるわけですが、自分自身の大切なものを守るためには、あえて知識をきっちりと学んでおく必要があると思います。
 しかし、増上慢の傾向がある方、自分は偉いんだと思う傾向、とにかく人を見下す傾向のある方は、いくら知識を勉強しても、最終的にはこの魔界のものの霊指導を見破れないことがあります。ですから、謙虚な心が大事です。自惚れていると絶対にわかりません。まったく見抜くことができません。(中略)
 したがって、常に平静で、謙虚な心を持って、節制に努めて、自己をよくコントロールしなければいけません。それから、他人に対しても、やはり厳しすぎず、そして堕落させるようなことはさせないという愛の心、また人を導きたい、善導したいという慈悲の心をきっちりと持っていることが大事だろうと思うのです。(中略)
 もちろん、正しい霊道現象、チャネリング現象もあります。ただ、パーセンテージ的にはかなり少ないというのが私の実感です。
(176~179ページ)

霊能者が本物である条件は、第一に、戒めを自らに課し、常にストイックに節制して、欲望をよくコントロールしていること。

第二に、そのために、毎日、定期的な運動をして、規則正しい健康生活を送っていること。

第三に、悪しき霊に惑わされないように、しっかり勉強してかなりの教養を身につけていること。

第四に、常に平静で謙虚な心を持っていること。

第五に、人に厳しすぎない愛の心、人を善導したいという慈悲の心を持っていること──。

いやあ、どれもかなり厳しい条件のように感じます。

でも、これを教えておられる方ご自身は、まさにこの条件を満たしていることを大川隆法先生は暗黙のうちに示しておられるのだと私は思っているのです。
 

『宗教の挑戦』

大川隆法著

 

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どうしてこんなに、挫折したり失敗したり、何にもいいことないのかな。こんなんじゃ、成功するなんて夢の夢だよね?・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 病人もそうですが、挫折や失敗のさなかにある人も同じでしょう。「自分ひとりだけが、どうしてこんな目に遭(あ)っているのか」という感じになりやすいのです。
 そうしたときには、どうか目を開いて、もっと心を開いて、多くの人びとを見ていただきたいのです。どのような人がいるかを見れば、決して順調な人ばかりが成功しているわけではないことがわかるはずです。何らかの失敗や逆境をバネにして、それ以上にがんばっている方が必ずいるはずなのです。(中略)
 こうした方がたは、そうした逆境のなかにあって、必ず何かをつかんだのだと思います。そうした逆境のなかにありながら、普通の人でも達せられないようなところまで上がってくる方、登ってくる方には、必ず共通する面があります。
 このような方がたに共通する面について、私が観察して思うところをあげてみます。
 まず第一点は、そうした逆境や困難を、決して他の人のせいにしないということです。決して、他の人のせいにしたり、運命をのろったりするようなことはしません。そのようなことをしても、何のプラスにもならないということを、充分に知っているからです。他の人のせい、運命のせいにしない──これが第一点です。
 二点目は、自分に与えられた運命を受け入れているということです。「これさえなければ」と考えるのではなく、その悪しき運命や逆境を受け入れています。受け入れているということは、それを現実だと見なして、その現実からいかに立ち直るかを考えているということです。悪しき運命、現実を受け入れる決意、勇気があるのです。
 三点目は、その逆境から必ず教訓を見出しているということです。この逆境が自分に教えんとしているものは、いったい何であるのかを、必ず見つけ出しています。その教訓を学んでいて、それが後のちまで、その人の心の宝になっているのです。必ず、大事な宝になっています。
 四点目は、「他の人を頼りにしよう」「他の人の援助で生きていこう」とは決してしていないということです。そうした不利な境遇のなかにいても、あくまでも独立独歩、独立不羈(ふき)の精神、あるいは自助努力の精神を忘れていません。与えられた運命を運命として見て、その現状を現状として受け入れ、しかし受け入れてそのままで満足するのではなく、それをみずからの力で打開しようとしているということです。この過程を必ず通っています。
(35~39ページ)

大川隆法先生は、何らかの失敗や逆境があっても成功している方に共通する4つのポイントを、今日は教えてくださっています。

第一に、逆境や困難を、他人のせいにしないこと。

第二に、与えられた運命を、受け入れる決意、勇気があること。

第三に、その逆境から必ず教訓を見出していること。

第四に、そうした境遇にいても、独立独歩、独立不羈の精神、自助努力の精神を忘れていないこと──。

うーん、とてもクリアなお教えじゃないでしょうか。

あとは、これを自分にあてはめたときに、具体的にどうすればいいかをしっかりと考えてみたとき、次にとるべき行動が、はっきりと見えてきそうです。

まさにこれこそ、人生の達人だけが説ける、真なる「智慧」の一つであると私は思っているのです。

 

『常勝思考』

大川隆法著

 

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フランスのルルドの泉で、病気が治る奇跡がたくさん起こってるって話を聞いたことがあるんだけど、ほんとなの。ただの泉の水をつければ、不治の病が治るなんて非科学的な話、ほんとに信じられるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ルルドの地に聖母マリアが現れ、その実証の一環として、「病気が治る」という奇跡が起きました。しかし、実は、ルルドの泉自体は、そこで起きる奇跡とは、まったく関係がないのです。泉の水の成分も関係がありません。
 ずいぶん多くの人が、その地に行っています。しかし、実際に病気の治る確率は百分の一もないでしょう。病気が治った例は、ごくわずかです。いろいろな人がルルドに行きますが、そのなかで、奇跡が必要な人には奇跡が現れてくるわけです。それが天上界の計らいなのです。全員が治るわけではありません。
 奇跡が必要な人とは、一つには、仏神の証明役として予定されている人です。もう一つには、奇跡が起きることによって、その後、大きな活動が期待できるような人です。この条件を満たす人に奇跡が起きるのです。
 ノーベル医学・生理学賞を受賞したアレクシス・カレル(一八七三~一九四四)は、ルルドの奇跡について書いています。彼がルルドに行くと、重病人が彼の目の前でパッと治ったのです。それは、天上界が、そういうことを彼に書かせたかったからです。彼の目の前で、末期症状の病人が、ほんとうに治ってしまったので、彼は、それについて書き、その話が全世界に広がったのです。
 このように、その泉にまつわる高級霊たちが、伝道の観点から奇跡現象を起こしているのです。彼らは、奇跡が必要だと思われる人に対して奇跡を起こし、そうでない人には奇跡を起こしません。(中略)
 ほんとうは、支援霊団、指導霊団が本気で「やろう」と思ったならば、あらゆることが可能です。ただ、三次元世界は霊界とは違う世界なので、奇跡は一定の例外としてのみ許されており、それをどういうかたちで起こすかは、ほとんど彼らの判断にかかっているのです。
 もっとも、信仰心とのかかわりで言えば、「信ずる者のところに奇跡を起こしたい」ということは彼らも考えています。どうしても、そういう面があるので、「信仰心は奇跡を起こす原動力になる」と言えます。
(171~175ページ)

支援霊団・指導霊団にはあらゆることが可能であって、奇跡が必要な人に奇跡が現れてくる。

奇跡が必要な人とは、仏神の証明役として予定されている人、また、奇跡が起きることで、その後、大きな活動が期待できるような人である。

もっとも、「信ずる者のところに奇跡を起こしたい」とは彼らも考えているので、信仰心は奇跡を起こす原動力になる──。

とても理解できるお教えだと思います。

たしかに、天上界の高級霊が、たとえば不治の病を治すような奇跡を起こしたとしても、唯物論者は、あれは誤診だったなどと言うだけでしょう。

そうすると、信仰心があるだけでは必ずしも奇跡が起きるわけではないが、少なくとも信仰心があることが奇跡の原動力になり、奇跡が起きる可能性を高めていくと考えてもよいのではないかと私は思っているのです。
 

『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉を聞いたことがあるんだけど、法(教え)についてればいいんじゃないかなあ。幸福の科学って、教えが書かれた書籍は書店で買えるわけだし、自分で勉強してればいいんじゃないの? なんで入った方がいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「人につかず、組織につかず、法につけ」という言葉は、「法を説く人がいるときには、その人の説く法に従いなさい。法を説く人が亡くなったときには、その人が遺した教えに従いなさい」ということを意味しています。
 これは、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」という、仏教の教えです。仏教では、昔から、「仏陀(ぶっだ)が生きているときには、仏陀の教えに従いなさい。仏陀が地上を去ったときには、仏陀の遺(のこ)した法に従って、各自が自分で心に灯をともして生きていきなさい」と教えているのです。
 ある言葉をそのまま字義どおりに受け取ることは簡単なのですが、それでは往々にして誤解することがあります。
 真剣に教えを求める気持ちがあるならば、きちんと指導者につくべきです。そうしないと分からないことがあるのです。
 「仏・法・僧」の三宝に帰依することが大事です。
 仏とは、仏陀、悟りたる人のことであり、法とは、仏陀の説く教えのことであり、僧とは、仏弟子の集団、サンガと、そのルールのことです。
 信者になって、サンガに帰属すれば、自分には分からないことを周囲の法友たちが教えてくれるようにもなります。
 それにもかかわらず、「私は自分独りで悟りますから」と言う人は、「独覚(どっかく)」(師なくして独りで悟り、目覚めること)の悟りを目指すことになるわけですが、その悟りは、ある程度のところ以上には行きません。
 やはり、信者となってサンガに帰属し、指導者の下で法友と共に学んでいくほうがよいのです。
(141~143ページ)

幸福の科学の言ってることに興味があって、もっと学んでみたいと思ってる人!

書籍だけで学ぼうとしても、ある程度以上のところには行けないんですよ。

サンガ(教団)に帰属して信者となることで、ほんとに学びが深まっていくんですよー。

ぜひ、お近くの精舎支部で「三帰誓願」(さんきせいがん)して、一緒に学ぶことをお勧めしたいと私は思っているのです。


『信仰のすすめ』

大川隆法著

 

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毎日、仕事に追われるだけで一日が終わってしまって、なかなか時間をうまく使えるようにならないんだけど、どうしたらいいの? なーんて切実な悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世の中に広く受け入れられている法則として、「パレートの法則」というものがあります。別名、「八割・二割の法則」ともいいます。これは、物事は八対二に分割することができるというものです。
 たとえば、ある会社で百万円の利益が上がっているとするならば、その百万円のうちの八〇パーセント、すなわち八十万円までは、社員のうちの二〇パーセントの人が上げているという考え方です。(中略)
 このパレートの法則をどのように使うかというと、仕事でも人間の集団でも何でもそうですが、物事が成り立っているときには、そのなかでいちばん重要なのは、二〇パーセントだと考えるのです。それは、この二〇パーセントを制する者は全体の八〇パーセントを制することができる、ということを意味します。(中略)
 漫然と仕事をするのではなく、漫然と物事を分析するのではなく、そのなかに含まれている重要な二割の部分をつかみ出すということです。これができれば、非常に大きな集中力と達成力、実現力を身につけることができます。そして成功していきます。
 人生に失敗するのは、多くの場合、その人が持っている完全主義が原因となっています。完全主義の欠点は、常に一〇〇パーセントをねらって、結局、ゼロを得てしまうことが多い点にあります。全打席ホームランをねらって、全打席三振になってしまうことがよくあるのです。(中略)
 ホームランではなくヒットを打つことに意識を集中すること、そうした二〇パーセントの努力によって、八〇パーセントにあたる成果をあげることが、おそらくできるようになるでしょう。(中略)
 男性の多くは、人生のうちの三十年、あるいは四十年を、一つの会社で過ごしています。その結果、成功する人もいれば、成功しない人もいます。重役や社長にまで出世する人もいれば、そこまで出世しない人もいます。それらはまさしく、一日一日の積み重ねの結果です。
 しかし、一日一日といいながら、一日の仕事時間のうちでほんとうに大切なのは、そのなかの二〇パーセントなのです。この二〇パーセントのなかにおいてヒットを打つことに心がけていた人は、必ずや立身出世することになっているのです。(中略)
 その日一日のうちの二時間なら二時間を、必ず成果を上げるために使うことです。一日のうち朝の九時から夜の七時まで働いているとするならば、勤務時間は十時間です。この十時間のなかで、自分を勝利させるための時間は二時間だということを考えるのです。そして、その二時間を一日のうちのどこに設定するか考えるのです。
 その二時間に、最も効率のよい、最も収穫の多い仕事をすることです。そうすれば、あとの八時間は、まあまあ平均のことをしていればよいのです。大きなミスをしないようにしていればよいのです。全力を集中して、この二割の時間、二時間を成功させることです。
(173~182ページ)

「パレートの法則」とは、物事は8対2に分割することができるという法則である。

仕事のやり方に、この法則を応用してみること。

特に、仕事時間のうち2割の時間に全力を集中して、最も効率のよい、最も収穫の多い仕事をするよう心がけること──。

今日のお教えは、時間を計画的に使うことで、時間効率をあげる方法とでも理解したらよいのでしょうか。

たんに時間に追われ、仕事に流されるのではなく、自分から積極的に仕事時間の配分を考えて、全力を集中する時間を作り出す、というのがポイントなんだろうと思います。、

たとえば、午前中の2時間だけは、誰にも邪魔されないような時間を確保するというのは、その典型例でしょう。

電話を取らなくてはならなかったりして、自分で仕事時間をコントロールできない立場にある人は、朝早く出勤する、という方法もあるのかもしれません。

いずれにしても、どうやって自分の勝利のための2割の時間を確保できるかは、まず「そうしよう」と思うことから始まると思います。

そう決意し、工夫を重ねていくことで、私たちは必ずや成功への道を歩んでいけることを、今日は教えていただいたのだと私は思っているのです。

 

『仕事と愛』

大川隆法著

 

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私って、ボランティア活動、毎日のように一生懸命してるんだけど、でも、ぜんぜん誰にも感謝してもらえないんだよね。これだけやってるんだから、もっとそれなりの扱いって、あるんじゃないの? なーんてことで悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 現在、多くの人が仏法真理に目覚め、光を伝えるために立ち上がっています。そして、いろいろなかたちでボランティアをしています。
 そこで、私は言っておきたいのです。お役に立ちたいという真剣な気持ちは、それ自体が尊く、その思いを起こして実践すると、自分自身の徳になります。与えた愛は自分自身のものになるのです。
 自分はこれだけのことをしたなどと思ってはいけません。また、それを他の人に認められようと思ってもいけません。自分がなした愛の行為、他に与えた愛を忘れてしまうことです。
 自分の行為を数え上げ、覚えているようではだめです。そればかりか、「だから、自分はこのように待遇されるべきだ。こうした見返りがあるべきだ」などと思えば、修行者として一歩も前進していません。考え方によっては、後退しているとも言えるでしょう。よい思いを起こし、よい行ないをしたとしても、それを忘れてしまうことが大切なのです。
 また、よい思いや行為が出るのは、自分にとって普通のことであり、ごく自然に思いが出て、ごく自然に身体や口が動くようでなければなりません。「こうしたいからする」「こうした行為をさせてもらうことがうれしいからする」「こうしたことが生まれつき好きだからやっている」という気持ちが大事です。その気持ちが尊いのです。
 人に知られようとする必要はありません。知られようとすれば、徳の部分が消えてしまいます。知られなくてよいのです。忘れることです。
 一方、難しいことではありますが、他の人からしてもらったことは、できるだけ記憶にとどめようと努力することです。
 自分がしたことはなかなか忘れず、反対に、他の人からしてもらったことは忘れやすいのが人間です。そのため、世の中には感謝の言葉が少ないのです。そうではなく、してもらったことはできるだけ記憶し、してあげたことは忘れていくことです。それでよいのです。
 してあげたことが自分に返ってこなくても、してもらった人は必ずうれしく思っています。その気持ちが次なる思いと行動を呼び起こします。愛を受けた人は、その愛を自分だけのものにしておけなくなり、他の人のために何かをしたいという気持ちに必ずなるのです。
 自分自身は見ることも聞くこともできないかもしれませんが、自分がなした愛が、愛自体で次なる仕事をしていくのです。
(44~47ページ)

与えた愛は、必ず与えた人のものになる。

でも、だからといって、自分を重要視してほしいとか、大事に扱ってほしいなどというような、見返りを求める気持ちがあれば、その光は自分のものにならない。徳とはならない。

愛は、与えきり。

自分自身は、この世で、その成果を見ることも聞くこともできなかったとしても、また誰からも自分の行為を知られなかったとしても、その行為はとても尊い。

それだけでなく、その愛は必ず次なる仕事をしていくのだ、と。

ボランティア活動の場というのは、そういう「与える愛」の実践の場であり、自分を高めていく、ありがたい修行の場でもあるってことだと私は思っているのです。
 

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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仏陀(ぶっだ)って、悟りを開いた方のことだと思うんだけど、悟りを開いたら、もう生まれかわないっていうのが、お釈迦さま(釈尊)の教えだったんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 ただ、もう一つ述べておかなければいけないことがあります。「悟りを開いた場合に、輪廻的な生存を断ち切って、輪廻の枠から外れて、もはや生まれ変わらないようになることができる」というようなことを、なぜ釈迦が言ったと伝えられているのかという理由についてです。
 これはいったいどういうことでしょうか。確かに、人間はあの世でも魂としての形状を持って生活をしており、この世との間を何百年かおきに転生輪廻しています。しかし、もう少し上の世界、すなわち菩薩界から上ぐらいの世界に入っていくと、人間的な魂の姿をとっていないことが多いのです。あの世でも、六次元光明界ぐらいまでならば、人間的な姿をとって生存しており、そのまま生まれ変わりを経験しているのですが、菩薩界から上になってくると、そうした人間的な形をとることがだんだん少なくなっていくのです。如来界ぐらいになってくると、通常の場合は人間の姿をとっていません。彼らも、生きているときの人間のようなイメージを持っていることはありますが、通常は意識体としてのみ存在しているのです。
 このように、確かに意識体としてのみ存在するようになってくると、もはや人間的な生まれ変わりをする魂ではなくなってきます。大きな意識の塊になるのです。それぞれに個性はあります。緑色だとか、青色だとか、黄色だとか、赤色だとか、いろいろな色彩を持ってはいますが、そうした意識体となって作用するだけの存在になるのです。
 こうなると、約束ごととして何度も何度も生まれ変わらなくてはいけないという、通常の人間の魂としての生まれ変わり、すなわち、カルマの刈り取り的な修行としての魂の生まれ変わりはないわけです。意識体としてあの世に存在しているわけですから、彼らにとって、魂の修行なるものは、ある意味ではなくなっているのです。
 しかし、地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはあります。それはあくまでも主体的な活動であって、「何百年経ったら生まれ変わらなくてはいけない」というような、業の刈り取りのために洗濯機のなかで回されているような魂修行ではないわけです。
 このような難しい理論を釈迦は説いたわけですが、弟子たちの理解が及ばず、そこまではわかりませんでした。「無我であるというから、死んだらなくなるのだろう」という程度のことしかわからない弟子が数多くいたわけです。これが混乱のもとになっていきます。
(152~154ページ)

菩薩界から上の世界では人間的な魂の姿をとっていないことが多く、如来界では、通常はそれぞれに個性はあっても、意識体としてのみ存在している。

そうなると、もはやカルマの刈り取り的な修行としての魂の生まれ変わりはない。

しかし、主体的な活動として地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはある──。

つまり、七次元存在である「菩薩」、そして八次元存在である「如来」を超えて、九次元存在である「大如来」(仏)には、すでに自分のカルマ(業)の刈り取りという意味での生まれ変わりはない。

だけれども、地上の人びとを救済するために、仏はあえて生まれ変わることがある。再誕することがある。

そして、この現代日本において、その極めてまれな出来事が、いままさに起きていることを、大川隆法先生は明らかにしておられます。

「仏陀再誕」というこの重大な真実を、もっともっと多くの人々に告げ知らせなくてはならないと、心から私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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オレって、今までずーっと、劣等感をバネにして頑張ってきたんだよねー。若いのにはまだまだ負けられないって思って、このトシになっても頑張ってるんだけど、これでいいのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはりそういう失敗や、あるいは性格上のマイナスや、能力の不足など、いろいろなものがあったとしても、それを打ち消すだけの成功をどこかでおさめていることがだいじなことのように思えます。何か成功体験があって、それは確固としたものだという感覚が自分自身にあると、その劣等感の部分が、ユーモアに消し込めるようになるのです。笑い話にもできるようになり、「私もこんな失敗をしているんだよ。」ということが人に言えるようになります。単に劣等感に悩んでいる人を見て、「私もそういう悩みがありましたよ。」と過去形で言えるようになる、これがだいじなことです。
 このように、劣等感の処方箋としては、最初はそれをバネに使って成功への道を歩むということもあるのですが、その次はその成功の感覚を実感として持つことだと思います。これを持たなければだめだと思います。この実感は、自分が確認できるということもありますが、できうるならば、他の人にも確認してもらえるようなものになっていく必要があります。それが安心感となって自分に返ってきます。
 次にどうするかというと、そういう劣等感などを味わって苦しんできた道程を他の人にも同じように歩ませ、苦しませようとするのではなくて、また、「おまえも少しは苦労したほうがよい。」などといったり、あるいは心の傷口に刃を突き刺すようなことはしないで、その道程をひとつの自分の体験として、ユーモアとして、人に話ができて、同じ苦しみにある人たちのその苦しみをやわらげてあげ、生きる道を教えてあげる、これがだいじなことだと私は思うのです。そこまでいかなければいけないと思います。
 こうしてみると、私はとくに年輩の方、壮年や実年の方に申し上げたいのですが、この年代になって、自己顕示で頑張っている人がいるとやはり気の毒に感じるのです。そういう年代の人はむしろ自分の失敗談を、他の人に対する、若い人たちに対する、処方箋として出してあげなければいけないと思います。人間は、歳をとると自慢話をしたくなりますけれども、自慢話ばかりしているのではなくて、自分の過去の失敗体験や、挫折体験を、上手に話してあげて、いろいろな人の悩みを緩和する、そういうところまでいかなければいけないのです。
 ですから、実年の方は、過去の失敗は隠蔽し、現状の自慢ばかりに走るのではなくて、どうか蓋を開けてください。蓋を開けて、これを出して、ユーモラスに話ができるところまでいってほしいのです。これをどうか目標にしていただきたいのです。「おれは失敗なんかしたことはないわ。」とか「自分が若いときはそんなじゃなかった。」とか、こういうことは言わないで、ご自分もいろいろ経験されているはずですから、そういう失敗の部分などを、どんどん出して言えるぐらいにならなければいけないと思います。
(41~43ページ)

劣等感を癒していくには、まず第一に、それをバネに使って成功への道を歩むこと。

第二に、その成功の感覚を実感として持つこと。

第三に、その道程をひとつの自分の体験として、ユーモアとして後輩に話をしてあげること──。

まだ若い方で、劣等感があるのなら、それをバネにして、これから実績をあげ、成功感覚を実感できるように頑張っていくしかないわけです。

でも、ほんとうに大事なのはそこから先なんであって、そういう過程をすでに経てきた方は、どうすべきなのか。

実績に裏打ちされたその自信を背景にして、自分の劣等感体験を、後輩たちに話してあげること。それもユーモアをもって楽しく話してあげることで、今苦しみの最中にある後輩たちの苦しみを和らげてあげること。

そこまでできるようになったとき、私たちは自分の劣等感に本当に勝利できたということを、大川隆法先生は教えてくださっているのだと私は思うのです。
 

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

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あの世って、やっぱりあるの。ほんとにあるんだったら、死後の生活って、どんなふうなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『渡部昇一 死後の生活を語る』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように述べておられます。

 著名な評論家でもあった昇一先生の、霊になって半年の衝撃レポートである。もちろん、オカルトでも、ホラーでも、スリラーでもない。新鮮な目で、この世とあの世の実体験の違いを語って下さっており、「目から鱗」の人も多かろう。
 私の国民へのお願いは、少なくとも、死ぬ前にこの本一冊ぐらいは読んでおいて頂きたい。さらに、できれば学生時代ぐらいから読んでおいて下されば、その後の人生は全く違ったものになると強く断言しておきたい。
 まことにぜいたくな願いであるが、あの世での経験がたまれば、折々に昇一先生にレポートして下されば幸いだと思っている。
 永らく、宗教では「実在の世界」といわれていた世界の実相が、ありありと分かる本書は、バイブル(聖書)以上にインパクト(強い影響)があるのではなかろうか。
(182~183ページ)

少なくとも、死ぬ前にこの本一冊ぐらいは読んでおいて頂きたい──。

大川隆法先生の公開霊言は、もう777回に達したと聞きました。

書籍も、何百冊になったんでしょうか。

これだけ、思想性が深い霊言からやさしく楽しい霊言、高級霊からサタンまで、バラエティに富んだ霊言の数々を読み続けてみて、これが単なる創作だなどと言えるはずもありません。

読みもしないで悪しざまに言ってる人もいるようですが、もう論外と言うべきでしょう。

そんななか、生前の渡部昇一先生のご著書を読み、テレビで語られるお姿を知る者にとって、帰天半年後の渡部先生の霊界レポートは、霊界の実在について、これ以上ないほどのリアリティをもって迫ってきます。

あの世を信じる人にはもちろんのこと、あの世を信じられない人にこそ、本書は強く強くお勧めできる書物であると私は思っているのです。

『渡部昇一 死後の生活を語る』
 大川隆法著


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なんで学校なんて行かなきゃいけなくって、何度も何度も、試験を受け続けなきゃいけないの。もういいかげん、試験勉強なんて、解放してくれたっていいんじゃないの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学年のなかで縁起の理法が完結しているのはよいことです。
 失敗することもあるでしょうが、それはその後の重要な参考になります。「なぜ目標に到達できなかったのか。なぜ成功できなかったのか」ということを考えて得た教訓は、その後の学びに役立つのです。(中略)
 どちらかといえば、能力の低い人、才能が充分でない人ほど、甘い見積もりを立て、うぬぼれるのが早いのです。(中略)そのような人たちを訓練するには、原因・結果の法則を、何度もくり返し実証してみせる必要があります。
 簡単に慢心してしまう人たちは少し鍛練を必要とするので、彼らを自由に放置しておいてはいけません。それが、長い目で見て、彼らが不幸な人生を送らないために必要なことなのです。
 知的な部分の重しが足りなければ足りないほど、簡単に慢心してしまいます。しかし、(中略)ほんとうに頭のよい人や才能のある人ほど、意外に謙虚です。自分が失敗する場合や、うまくいかない場合のことがよく分かっているので、「成功した」という達成感がなかなか持てないのです。
(40~42ページ)

学年のなかで「縁起の理法」が完結しているのはよいことである。

失敗することもあるが、なぜ目標に到達できなかったのか、なぜ成功できなかったのかを考えて得た教訓は、その後の学びに役に立つ。

うぬぼれるのが早い、能力の低い人や才能が充分でない人たちを訓練するには、この「原因・結果の法則」を何度もくり返し実証してみせる必要がある──。

ここで「縁起の理法」と「原因・結果の法則」は、同じ法則の違う呼び名と考えてよいと思います。

学年のなかで「縁起の理法」が完結しているというのは、たとえば「勉強をきちんとした」というよい原因で、「いい成績」というよい結果が出る。「勉強をさぼった」という悪い原因があれば、「成績が下がって進級できない」とか、「受験に落ちて浪人する」というような悪い結果が生じる、ということでしょう。

実社会に出てみると、仕事をがんばったからといって必ずしも報われるわけではありませんし、逆に仕事をさぼったからといって、すぐ結果にはねかえってこないこともあったりするわけで、原因・結果の因果関係が見えにくくなることが多いと思います。

けれども、学生時代というのは、1年間の学年のなかで「原因・結果の法則」がはっきり見てとれることが多くて、それは人生にとって大きな教訓になるし、深い学びになるということなのだと思います。

つまり、社会に出て以降の人生を幸福に生きていくための訓練期間でもある学校時代に、試験勉強をがんばって乗り切っていく体験はとてもとても大切なものであることが、改めてしっかり納得できたと私は思っているのです。

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

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「無我」って、よく聞くんだけど、何のことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 あなたが、あなた自身だと思っているものは、実は皮袋にしかすぎないのです。皮袋なのです。それをあなたは、あなただと思っているのです。
 永遠に尽きることのない、永久の、悠久の大河である神仏のエネルギー、そのなかに生きているものがあなた自身です。その悠久の大河に、羊の皮袋でもって水をすくい、それをくるんだものを、あなたは自己だと思っている。この皮袋のなかに入った水たまりが自分だと思っている。しかし、それはほんとうのあなたではない。それは皮袋の感覚にしかすぎない。
 眼・耳・鼻・舌・身・意というものを否定した、真実の自己というものを見つめなさい。まず、その眼の感覚によって見えるもの、それがほんとうの姿であるかどうかを、もう一度、深く深く考えてみなさい。
 たとえば、夏の虫で蛾(が)というものがあります。この蛾は、光を見れば飛んでいきます。それが熱を持っていない灯(あかり)なのか、それとも自分の身を焦がすような炎なのか、その区別さえつきません。彼らは、灯を見ては飛んでいきます。
 それが小さな生き物だから、そのように見ることができますが、人間もまた、そのようなものだということを知らなくてはならないのです。あなた方も実は、その灯を求めて飛んでいく蛾のような、愚かな生き方をしているのです。
 なぜそうなるのか──。そう、無明(むみょう)だからです。自分自身が灯のない状態だからです。そして、灯と思うものを求めて飛んでいくのだけれども、それが実は、真実の灯ではなく、身を焦がす蝋燭(ろうそく)の炎であることがよくあるのです。
 蛾においては、それは眼の錯覚ですが、人間においても同じことがあります。眼を通しての錯覚、鼻を通しての錯覚、耳を通しての錯覚もあります。あるいは舌を通しての錯覚、指先、手を通してなどの肉体の感覚、こうしたものの錯覚が、ほんとうはあるのです。それによって、善悪美醜というものを感じとっているのです。しかし、それらの感覚は、ほんとうは魂から見た善悪美醜とは違ったものに価値を感じていることがあることを、あなた方は知らなければなりません。
 肉体を持ってこの世の生活をしていても、そのなかに霊的なる意味合いのあることも、もちろん数多くあります。それを見抜いていくことこそ、ほんとうの智慧ですが、そうではなく、この世的な価値観に付属した、肉体感覚的な自己像や他人像に狂わされると、蛾のように身を滅ぼしていくことになるということを、繰り返し繰り返し、私はお話ししているのです。
(31~33ページ)

だからこそ、この肉体感覚から来る、にせものの我(われ)を否定しなさい、と。

これが、2500年前にインドの地で、釈尊(お釈迦様)が説かれた、「無我」の思想だった──.

これを大川隆法先生は、現代日本の言葉で、さまざまな角度から分かりやすく説いておられるわけです。

今日は、仏教思想のなかでも最重要の言葉のひとつ、「無我」のお教えをご紹介してみました!

 

『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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社会人はというと、仕事は忙しいし、社会勉強の時間も必要だし、もうお勉強なんて学生時代だけで十分だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『凡事徹底と静寂の時間──現代における“禅的生活”のすすめ』(幸福の科学出版)で、次のように述べておられます。

 私も今でも勉強を続けてはいますけれども、自分としては、「今、勉強していることは、『十年後に私が仕事をできるかどうか』ということにかかわっているのだ」と思っています。「六十歳で勉強したことは、七十歳で仕事ができるかどうかにかかわっている」と思いますし、「五十歳で勉強したことが、今、六十歳で仕事ができるかどうかにかかわっている」ように感じていますので、それは、最後まで続くのではないでしょうか。
 私の年齢前後になってくると、この世的な友達や、かつての知り合いなどには、そろそろ仕事の終わりが近づいてきている人や、すでに終わってしまった人も多くなっているころでしょう。そういうときに、志を下げずに精進をしていけば、まだまだ新しい仕事は開けてくるものだと思っています。そういうことも忘れないでください。
(94ページ)

大川隆法先生であっても、今でも勉強を続けておられる。

いまの勉強は、十年後に自分が仕事をできるかどうかにかかわっている。

引退の時期が近づいていても、志を下げずに精進していけば、まだまだ新しい仕事は開けてくるものだ──。

すでに2300冊を超えたというのに、毎年毎年まだまだ連綿と著書を出し続けておられる大川隆法先生にして、今でも勉強を続けておられるというのは、驚くべき話です。

その大川隆法先生が語られるからこそ、十年後を見据えていま何をしなければならないかは、とても考えさせられるお教えだと思います。

本書は、自らの知的レベルをあげたい方、仕事能力を高めていきたい方、そして長く現役で仕事を続けていたい方などにとって、必読の書籍ではないかと私は思っているのです。

 

『凡事徹底と静寂の時間』

 大川隆法著



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オレって、熱い情熱で友だちを説得してきたんだけど、年上の人を説得しようとしても、うまくいかないんだ。どうすればいいんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分より年配の人を説得することが難しいのは当たり前です。通常、相手は「説得されまい」として頑張るのです。
 どうすればよいかというと、「自分は年下で、相手は年上」ということがはっきり分かる年齢差であるならば、かわいげのある人間になることです。かわいげがあると、相手に「この人を引き立ててやりたい」という気持ちが起きるのです。
 年下の人の言うことであっても、その人が、かわいげのある人だと、年上の人は言うことをきいてあげたくなるものです。「まあ、受け入れてやるか」という気持ち、言い換えると、「負けてやるか」という気持ちを、いかに起こさせるかが大事なのです。
 それでは、どのようにすれば、かわいげが出てくるのでしょうか。これは、ものの見方や考え方、振る舞い方によって、かわいげを出す以外にないと思います。
 若い人のなかには、年配者に非常にかわいがられる人がいます。そういう人は、茶目っ気があって、年配者にも自由に意見が言えるような雰囲気をつくっているのです。その雰囲気が非常に大事です。(中略)
 年下の人が高飛車にものを言うのはよくありません。「自分は立場も低いし、経験も足りないし、いろいろなことが分かっているわけではない」という点を自分で認めておくことです。
 その上で、「こういうことを私は発見しました」という部分を相手に認めてもらうことは可能だと思います。
 「あなたの考え方は充分に分かりますが、こういう考え方もあります」という態度で接することです。「説得されている」「操縦されている」と相手に思わせないで、その方向へと自然に導くことが大事なのです。(中略)
 さらには、年配者を好きになり、「その人から学びたい」という気持ちを持つことも大事です。
 人間は、自分に対して好感を持っている人や、自分から何かを学びたいと思っている人に対しては、心を開くものです。
 したがって、相手に好感を持ち、「学びたい」という気持ちで接しながら、相手の話を聴いているうちに、「私は、こういうことを発見しました」というような話をする方法もあります。
 年配の人は、頼りにされると頑張るものです。あなたが年配者を頼りにすれば、その人は、あなたの話を喜んで聴いてくれるでしょう。
 結局、年配者を説得するときには、自分は一段下がりながら、所期の目的を達成するように努力することが大切なのです。
(25~29ページ)

自分より年配の人を説得するには、まず、かわいげのある人間になること。

高飛車にものを言うのではなく、「あなたの考え方は充分に分かりますが、こういう考え方もあります」という態度で接すること。

年配者を好きになり、「その人から学びたい」という気持ちを持つこと──。

「自分は一段下がりながら、所期の目的を達成するように努力する」、というのは、とても大事なポイントだと思います。

情熱一本で、というのは若さの特権ではありますが、こういう身の処し方というのは、まさに人生の叡知、なんですよね!

 

『感化力』

大川隆法著

 

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人間って、神さまに創られたんだから、神さまと人間って、まったく別の存在でしょ。そう考えない宗教なんてのもあるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 世界の宗教には、大きく分けて二通りの流れがあります。
 一つは、「神人(しんじん)隔絶型」とでもいうべきもので、神と人とが隔絶されていて、まったく別のものとして切り離されているかたちの宗教です。
 キリスト教などはその典型です。(中略)
 もう一つの宗教は、「神人合一型」とでもいわれるものです。(中略)神と同じようなものを本質に持っているのだから、この世的にさまざまな迷いもあろうし、穢(けが)れもあろうし、罪もあろうけれども、そういうものを払い除け、取り除けていき、修行をしていったときには、人間は神と一体になっていくことができる、神そのものに人間が変わっていくことができる、こういう考え方の宗教です。
 この代表的なものとして、仏教があります。(中略)この神人合一型では、宗教は自力中心型にならざるをえないということになると思います。
 もちろん、一方だけが真実で、他方は完全な間違いということはありません。神人隔絶型は、(中略)巨大な神の御前で、ほんとうに小さな人間が、謙虚にその他力の力にすがることによって、心を正しくして生きていこうとする考え方です。ですから、謙虚さもありますし、祈りもあります。感謝もあるでしょう。そして、神の恵みのなかに生きていこうとする考えですから、これはこれで間違っているというわけではありません。
 しかし、この神人隔絶型は、どちらかというと、性悪説に傾きがちであることが多いのです。「人間は罪深いものであって、許しがたいものである。許されないものである。しかし、神の一方的な恵みによって許される」という傾向を持っているのです。
 これに対して、神人合一型は、自らが神に近づいていこうとする思想ですから、どちらかというと、その内に非常に強いものを秘めています。これは、ある意味では、性善説を内に秘めているものだと思います。つまり、「もともと私たちは神と同じような尊い性質を持っているのだ。だから、それに近づいていくことができるのだ」という考え方であるわけです。(中略)
 この両者は、どちらも正しい考え方ではありますけれども、やはり私としては、「人間のなかには素晴らしい素質があるのだ。そして、自らそれを磨きだしていくことができるのだ」という考え方を中心にしております。(中略)
 わざわざ、この三次元世界、現象世界に生まれてきて修行をする、それも一回きりではなくて、何度も何度もくり返しながら修行をする人間、という観点から見たならば、生まれ変わってくるたびに、「自分は罪の子です。神様、許してください」とお願いしては許してもらう、ということをくり返す宗教と、「私は、生まれ変わるたびに魂修行をなして、一歩一歩、高みに登っていこう」とする宗教と、結局において、どちらがより多くの善を生み出すことができるか、より多くの人間を幸福の彼岸に導くことができるか、ということを考えてみると、やはり、私は自力型のほうが勧められるのではないかと思います。
(14~19ページ)

世界の宗教には、大きく分けて、キリスト教のような「神人隔絶型」と、仏教のような「神人合一型」という、二通りの流れがある。

一方だけが真実で他方は完全な間違いということはなく、神人隔絶型には謙虚さや祈りも感謝もあるが、性悪説に傾きがちであり、神人合一型は、自らが神に近づいていこうとする思想であって、性善説を内に秘めている。

人間は何度もくり返してこの世に生まれ人生修行をしているのだから、結局どちらがより多くの善を生み出せるか、より多くを幸福の彼岸に導くことができるかの観点からは、やはり自力型のほうが勧められる──。

つまり、幸福の科学は、宗教を大きく二つに分けたこの考え方に照らせば、どちらかというと「神人合一型」の宗教であり、自ら一歩一歩進んでいこうとする「自力中心型」の宗教である、ということだと思います。

「人間のなかには素晴らしい素質(仏性)があって、自らそれを磨きだしていくことができる」、というのは、とてもポジティブで勇気がわき出てくる思想ではないかと改めて私は感じているのです。

 

『心の挑戦』

大川隆法著

 

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