ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



宗教っていろいろあって、何がなんだか分からないよね。幸福の科学は「世界宗教」になるって言ってるけど、他の宗教の教義、何がどう違うのかって、どこから勉強したらいいの?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教社会学概論』――人生と死後の幸福学(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように教えておられます。

 幸福の科学大学では、宗教としての「幸福の科学」の基礎教学も学ぶことになると思う。その際に、宗教教養といえるためには、他の世界宗教らとの教義の異同を、簡潔に整理しておく必要があるだろう。
 本書では、一般に考えられている、世界宗教としての「仏教」・「キリスト教」・「イスラム教」を比較しつつも、社会学者マックス・ウェーバーがその『宗教社会学』で「儒教」「ヒンドゥー教」をも含めて、五つを世界宗教と分類しているので、この二つも考察の対象とした。さらに、「キリスト教」「イスラム教」を理解する上で必須な宗教教養として「ユダヤ教」に言及し、「日本神道」と「ユダヤ教」「イスラム教」「仏教」「儒教」との共通項や特徴も比較してみた。また、中国の宗教を理解する上で、「儒教」と補完関係になっている「道教」の霊的な特質に言及した。
 本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになると思う。
(1~2ページ)

「幸福の科学」の基礎教学を学ぶに際しては、教養として、他の世界宗教との教義の異同を整理しておく必要がある。

本書では、一般に世界宗教と言われる「仏教」「キリスト教」「イスラム教」だけでなく、「儒教」「ヒンドゥー教」、さらに「ユダヤ教」「日本神道」「道教」も考察した。

本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになる――。

幸福の科学の教えを本当に知りたいのであれば、他の巨大宗教の教えがどんなものなのか、宗教の違いによって人々の考え方や行動様式にどう違いが出てきてるのかを知ることが必要になるのは、当然のことなんだろうと思います。

でも、世界宗教クラスになると、その文献といっても膨大すぎて、その教えの影響なんて言っても、入門書から読むにしても何がなにやらで、途方に暮れてしまいます。

そこを、大川隆法先生は、わずか一冊で世界の主要宗教を比較しつつ、その特徴や特質、そしてその宗教がどういう文化や歴史をつくってきたのかまで、手短に教えて下さっているわけです。

本書は、世界宗教とは何かを、宗教全体を見渡しながらまずは手軽に学びたい方、幸福の科学の宗教全体のなかでの位置づけや、日本神道の世界の中での位置づけを知りたい方などに、強くお勧めできる必読の1冊だと私は思っているのです。
 

『宗教社会学概論』

 大川隆法著


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原始キリスト教で最大の伝道者だったパウロって、そもそもキリスト教を迫害してたのに、イエスの弟子から、見えなくなった目を見えるようにしてもらって回心して、伝道者に変身したんでしょ。そんなのって、天上界の計画だったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『パウロの信仰論・伝道論・幸福論』(幸福の科学出版)で、そのパウロ本人の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 うーん、まあ、おそらく、「計画」と言えば「計画」ではありましょうけれども、ただ、「後れを取った」ということについては、否めないものがあります。
 やはり、イエスご生前にお会いして、その説法を聴いてみたかったですねえ。同時代に生きていて、「イエス生前には迫害する側にいた」ということは残念なことです。
 私も、いわゆる今のユダヤ教を学問としてやっていたため、それに照らして考えれば、当時のイエスの教えは、とても異端だったのです。あなたがたの時代で言えば、いわゆる新興宗教にすぎないわけですから、伝統的なユダヤ教の考えから見れば、みな、当然異端と思って、迷うことなく弾圧の側に入っていました。
 まあ、人は、旧いものを信じるし、学問的に学んだものは、なかなか捨てられないっていうところがありますよね。
 でも、「イエス死後、二、三年もたってから回心して、クリスチャンになった」っていうことに対しては、「大きな機会を取り逃がした」という気持ちがとても強いです。
 まあ、私のように迫害の主役的存在であった者が、「天上界のイエスの声を聞き、光を見、盲目になり、それが奇跡的に治癒される」というような体験を通すことによって、キリスト教が真なる宗教であることの証を立てる役ができたということは、そういう運命であったのかもしれません。
 しかし、「イエスご自身が私に啓示を送られた」ということから見れば、私は、もともとイエスの弟子になるべく生まれたのであるのに、罪深い何年かを送ったのだと思われます。
(31~33ページ)

天上界のパウロ自身は、イエスの死後何年もたつまでクリスチャンにならなかったことに対して、大きな機会を取り逃がした気持ちがとても強い。

イエスご自身が直接、啓示を送られたことから見れば、パウロはもともとイエスの弟子になるべく生まれたのであるのに、罪深い何年かを送ったのだと思われる――。

伝道者パウロの「ダマスコの回心」というのは、少しでもキリスト教を勉強した人にとっては、誰もが知る有名なエピソードですが、私たちは同様の事例として、有名なジャーナリスト・筑紫哲也氏の大回心のケースを見聞きしています。

今日の天上界のパウロの霊言は、「ダマスコの回心」について、計画とか運命といえばそうだったかもしれないと述べつつも、当初からの計画ではなく、遅れをとってしまった自分をイエスさまが天上界から指導されて、道を修正されたと考えておられるようです。

要は、何が運命であり、何がそうでなかったのかというのは、それぞれの人の立場からさまざまな見方が可能なのものであって、人生計画というのはただひとつしかないような単純なものではない、ということをパウロは述べておられるように私は思うのです。

 

『パウロの信仰論・伝道論・幸福論』

 大川隆法著


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転生輪廻っていうけど、人間は人間にしか生まれ変わらないんでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間として生きていることのありがたみが、どうしても分からない人は、死後、畜生道という所に堕ち、霊界の地獄界で、動物のような姿をして生活してみることもあります。
 それでまだ分からなければ、地上の動物の肉体のなかに、一時期、魂として宿る修行まであります。そういうコースも、ほんとうにあるのです。
 牛であろうが、豚であろうが、馬であろうが、猫であろうが、何でもよいのですが、「もし自分の魂が人間以外の動物に宿ったら、どうなるか。そこで何年か生きたら、何をどう感じるか」ということを、みなさん、想像してみてください。
 人間として生きていて、不平不満や愚痴を言い、人のことを悪く言い、親を恨み、社会を恨み、会社を恨み、出世させてもらえないことを恨み、お金が少ないことを恨み、ものが自由に食べられないことを恨んでいるとしても、たとえば、「野良猫になって二年を送り、その目で人間を見たら、どう見えるか」ということを考えてみてください。
 そうすると、人間というものは、それはそれは“王様”です。誰もが王様や女王様に見えるほどの暮らしをしています。「よく、それで不満を言うものだな」ということです。
 最終的には、そのくらいの訓練までやらないと分からない人もいます。そういう人だっているのです。霊体は自由自在なので、ほんとうに、何に宿ることも可能なのです。(ただし、人間霊は人間に生まれ変わるのが原則です。)(中略)
 人間の尊厳というものを考え直し、この世の修行の意味を知り、「死後の生命というものが、ほんとうにあるのだ」と知った上で人生を生きることが、どれほど大事であるかということに気がついていただければ幸いです。
(81~84ページ)

人間として生きていることのありがたみが、どうしても分からない人は、死後、畜生道という所に堕ち、霊界の地獄界で、動物のような姿をして生活してみることもある。

人間霊は人間に生まれ変わるのが原則であるが、それでまだ分からなければ、地上の動物の肉体のなかに、一時期、魂として宿る修行もある。

人間の尊厳を考え直し、この世の修行の意味を知り、死後の生命がほんとうにあると知った上で、人生を生きることがどれほど大事であるか、ということに気がついてほしい――。

とっても不思議な話です。

でも、なぜ昔から「畜生道」という地獄の話があるのか。

また、犬とかネコとかウサギとかに、あまりに人間くさい感じがする動物を見ることがあるのはなぜか、です。

転生輪廻といっても、インドなどでよく言われるような、人間が魚に生まれたりすることは原則としてないのが前提の話で、とてもまれなことだというのは、ほんとうに救われる思いです。

にもかかわらず、やはりそういう転生もあり得るというのは、わがままいっぱいの私たち人間に対して、「人間の尊厳」を教えるための仏の慈悲の一つであるのだろうと、改めて私は思っているのです。
 

『神秘の法』

  大川隆法著


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霊言集にはいろんなマスコミの人が出て来るけど、筑紫哲也って、今何をしてて、地上のことをどう見てるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『筑紫哲也の大回心』――天国からの緊急メッセージ(幸福実現党刊)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 まったく予想しない展開であった。
 数百回にわたる公開霊言で、私が明確に特定の人物を招霊しているのに、割り込んできて本一冊分の霊言をするというのは、ハプニングというには驚きが多すぎ、失敗というよりは、予期せぬ霊界の「リアリティ」を見せつけられた思いだった。質問者も、会場の聴衆も、おそらく同じ思いであったろう。
 先週、田原総一朗氏の守護霊霊言のあと、「筑紫哲也さんが準備しているようだよ」と一言述べた。頭の片隅には置いていたが、今週の初めの月曜日には、私は「原爆投下は人類への罪か?」と題して、米国、トルーマン大統領とF・ルーズベルト大統領の霊にそれぞれ戦争責任を問うた。驚くべき結果だった。
 そして、水曜日(六月五日)に、中曽根康弘元総理の守護霊を呼ぼうとした時、本書の幕が切って落とされたのだった。あとはとにかく読んでもらうしかない。

あとがき
 私たちはどうやら誤解していたようだ。
 テレ朝「報道ステーション」のメインキャスター・古館伊知郎氏の守護霊、「朝生」の司会者・田原総一朗氏の守護霊をたて続けに呼んだあと、五年前に亡くなったTBSの「NEWS23」のメインキャスターの筑紫哲也氏を呼んでも、どうせ朝日系の同じディベイトになると思っていたのだ。
 しかし、結果はあっと驚く展開を始めた。彼は帰天後、大回心をなし、自分の生前のフィロソフィーを投げ捨てて宗教的な悔悟をとうとうと語り続けたのだ。
 「マスコミが間違えば、この国に未来はない」──、そのことへの責任感と懸命な熱意があったのだ。もともと宗教的人格があった人が、その霊的な眼を開かないままに帰天した時、突如の大光明に照らされて、一大回心がなされることもあるのだ。まるでパウロの「ダマスコの回心」を思わせるようなメッセージであった。あやまてるマスコミ人たちへの救国のメッセージと言ってよいだろう。
(1~2、186~187ページ)

大川隆法先生がこれまで見せ続けて来られた霊能力からして、呼ばれた霊人以外の霊人が割り込んで来るというのがそもそも驚きです。

それも、まったく帰ろうとせず、結局、本1冊分にわたって公開霊言してしまうなどというのは、長く幸福の科学の教えを学んでいる者の一人として、まさにびっくり仰天の記録です。

しかもさらに驚くのがその内容です。

筑紫哲也氏は、朝日新聞の記者、朝日ジャーナルの編集長、「NEWS23」のキャスターなどを務めた方ですから、ちょっとマスコミ関係に詳しい人であれば、左翼系マスコミ人の典型の考えの方だろうと考えるところです。

そして左翼系の方はあの世を認めていないのが普通のことですから、当然、暗い世界からのメッセージかと思いきや、明確に天国から発せられた「大回心」のメッセージだったというのです。

「ダマスコの回心」で有名な「パウロ」とは、イエスの弟子たちを大弾圧していて、突如、ダマスコの地で大回心をし、キリスト教徒となって大伝道活動を繰り広げ、殉教した有名な聖人です。

「第二のパウロ」として、後世、名を残すことになるかもしれない、あの筑紫哲也氏の「救国のメッセージ」とは?

本書は、筑紫哲也氏の記憶がまだ鮮やかなみなさんにはもちろんのこと、ジャーナリズムに興味があるすべての人に対して、強く強くお勧めできる一冊であると改めて私は思っているのです。
 

『筑紫哲也の大回心』――天国からの緊急メッセージ

 大川隆法著


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社長になったら、社長室で決裁の仕事をするのは大切な役割だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 大局観、全体観を持たない人は、経営者として、あまり優れた素質があるとは言えません。
 たとえば、たまたま何かの技術を持っていて、その技術によって、ある商品を開発し、売り出したところ、それがヒットしたとします。しかし、それが個人のレベルを超えて事業化され、会社が設立されたときには、経営というレベルの問題がどうしても出てくるので、技術へのこだわりだけでは、残念ながら、会社の運営は難しくなってきます。
 そのような場合には、やはり、全体を見る目、大局観が大事です。常に全体を見ているということです。「会社全体、市場全体、あるいは日本の経済、世界の経済、それから政治が、どのように動いているのか。今後、どのような世の中になるのか」、こうした大局観を常に磨いている必要があります。
 これは、「考えつづける」という作業の延長でもありますが、外部環境についての新しい情報などを常に集めつづける姿勢が大事なのです。
 そして、従業員が考えていないような、大きなスケールの発想も持たなければいけません。従業員が自分の仕事だけをしているときに、会社全体のこと、あるいは、外部との関係や未来のことなどを考える人が必要です。それが経営者としての資質だと言えるでしょう。
 こういう大局観は、心して磨かなければいけません。大勢の人を率いていくには、この大局観が大事なのです。これには素質的な面もかなりありますが、そうした素質に気がついても、「磨かざれば光なし」ということです。そうした大局観を常に磨く必要があるのだと思わなければいけません。(中略)
 しかし、大局観だけにこだわっても、経営者としては成功しません。
 日本型社会においては、階層が十段階も十五段階もあるような会社や役所などがありますが、こういうところで上のほうにいる人のなかには、単に年功序列で押し上げられただけで、必ずしも能力が優れているとは言えない人もいます。
 そういう人のなかには、大局観というものを、要するに、「大勢の人の上に乗っかっていて、書類に幾つも押されるハンコのうち、最後のほうのものを押すこと」というように考えている人もいます。そのような仕事をしていても、組織が繁栄・発展しているのであれば、それはそれでよいのかもしれませんが、いまの厳しい時代を生きていくには、それは必要な能力であるとは思えません。
 したがって、大まかなことが見えると同時に、小事、小さなことも、おろそかにしないことが大事です。そこに、あすへのチャンスがあります。
 「自分は一万人の会社の社長だから、社長室でハンコだけ押していればよい」という考え方もあるかもしれませんが、やはり、小さな変化を常に見つづける必要があるのです。
(179~182ページ)

たまたま何かの技術によって、ある商品を開発し売り出したところ、それがヒットして事業化され、会社が設立されたときには、経営という問題がどうしても出てくる。

会社全体、市場全体、あるいは日本の経済、世界の経済、政治が、どのように動いているのか、どのような世の中になるのかなど、外部環境についての新しい情報を常に集め続け、全体を見る目、大局観を常に磨いている必要がある。

年功序列で押し上げられただけの人のなかには、大局観というものを、「大勢の人の上に乗っかって、書類にハンコのうち最後のほうのものを押すこと」と考えている人もいるが、いまの厳しい時代を生きていくのに必要な能力とは思えない――。

そして、今日ご紹介したお教えで大川隆法総裁先生が説かれる経営マインドの要諦は、「大局を忘れず、小事をおろそかにしない」ということなのだと思います。

今の時代、社長という立場にある方にはもちろんのこと、ひとつの部門や組織の責任ある立場の方にとって、いろんな意味で学びになる大事なお教えの一つではないかと改めて私は思っているのです。
 

『常勝の法』

  大川隆法著


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ピラミッドパワーってあるんでしょ。その秘密、どうやったら知ることができるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『トス神降臨・インタビュー アトランティス文明・ピラミッドパワーの秘密を探る』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 まことに神秘的な本であろう。現代人を午後の眠りの中で不可思議な世界へと誘っていく。
 この一冊の本の中に、現代の学問の中で見失われた「何か」が隠されている。それは「常識」を超えた「超常識」であり、「過去」「現在」「未来」を貫く「智慧」でもあろう。
 新しい学問の端緒も、またこの本の中にある。過去の文明の姿を描く時、なぜか未来の文明のシルエットが視えてしまうのだ。
 トス神の語る通り、何らかのクォンタム・リープ"quantum leap"を起こさない限り、「歴史の終わり」が近づいているのだろう。我々の挑戦は、「ピラミッドパワーの秘密を探る」ところから始められるべきだろう。
(1~2ページ)

みじかいまえがきですが、「現代の学問の中で見失われた何か」、「超常識」、「智慧」、「新しい学問の端緒」、「未来の文明のシルエット」等々、魅力的なキーワードのオンパレードです。

大川隆法先生の御著書は、もう3100書を超えたそうですが、こんなまえがきは本書が初めてでしたし、その後も同種のまえがきはないのではないと思います。

アトランティス文明、トス神、そしてピラミッドパワーの秘密に興味がある方にとって、本書は掛け値なしに絶対の必読書であると、改めて私は思っているのです。
 

『トス神降臨・インタビュー
 アトランティス文明・ピラミッドパワーの秘密を探る』

 大川隆法著


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オレって能力あるはずなのに、立場も給料も下げられたりして、納得できないよね。やっぱり辞めて独立するべきなのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『サバイバルする社員の条件』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 今の社会状況では、独立しても、成功する可能性は極めて低くなっています。一説には、会社を立ち上げてから十年後まで生き残っている確率は十分の一、二十年後には百分の一以下とも言われている時代なので、それだけ難しいのです。(中略)
 そういうわけで、「将来、違う道で生きていきたい」と思う人は、早めに能力を磨いておくことが大事かと思いますが、「自分には大した能力もない」と思うのであれば、多少、社内での位置を下げられたり、給料を下げられたりしても、それに「耐える力」が必要です。
 一文無しになって、失業手当だけで生きていったり、会社をつくって潰してしまったりするよりは、例えば、六十万円の給料が三十万円になったとしても、「まあ、『年金よりはまし』という程度なら、会社にいられるかな」という考えでしたら、会社に残ることもありえます。その仕事を淡々とこなし、ほかの人に迷惑をかけないようにしながら、自分のワールドをつくって、自分なりの成長を楽しめる部分をつくることが大事ですね。(中略)
 人事というものには、どうしても組み合わせがうまくいかないことがあります。会社としても、「何とかうまく調整したい」と思っていても、一年や二年はどうしようもない場合があるのです。
 まあ、「浮かぶときもあれば、沈むときもある」と思ってください。ある意味では“巡り合わせ”なので、「これも経験だ」と思って耐えていれば、そのうち、よいこともあると思います。(中略)
 「早期退職に応じるかどうか」ということについては、やはり、会社によっても違いがあるので、何とも言えませんけれども、それは、「自分の仕事の専門知識以外に、何か自己啓発や教養を積んでいるかどうか」ということにもよるでしょう。そういうものがない人にとっては、やはり、同じ仕事を続けていたほうが安全なこともあります。(中略)
 自分自身に対する世間からの評価は変わるかもしれませんが、「それでも、今までの仕事に関係した仕事を続けたい」と思う人であれば、プライドを少し抑えて仕事を頑張るべきです。
 何らかの準備をしていた人ならば、それを試してもよいでしょう。能力があれば、取引先など、いろいろなところから目をかけられ、引き抜いてくれることがあるかもしれません。
 いずれにしても、今は、それほど甘くはない時期なので、「あまり短気にならないほうがよい」と、私は思います。最終的に、「人事には調整が働く」ということを信じたほうがよいでしょうね。
(129~136ページ)

今の社会状況では、独立しても成功する可能性は極めて低いので、特に自己啓発や教養を積んでいない人は、多少、社内での位置や給料を下げられたりしても、あまり短気にならず、「耐える力」が必要である。

人事は、浮かぶときもあれば沈むときもあり、ある意味では“巡り合わせ”なので、これも経験だと思って耐えていれば、そのうち、よいこともある。

仕事を淡々とこなし、ほかの人に迷惑をかけないようにしながら、自分のワールドをつくって、自分なりの成長を楽しめる部分をつくることが大事である――。

慎重な言い回しながら、大川隆法先生は、安易な退社独立には反対されています。

そして、人事や給料に不満があるときの「耐える力」の要諦について、説かれています。

これは、10年前に刊行された書籍のお教えですが、当時よりもコロナ禍の今のほうがさらに厳しい経済情勢だと思いますので、今であればなおさらあてはまるお教えのように思えます。

いずれにしても今日は、いつの時代にも普遍的な、社員として「サバイバルする」ための大事なポイントの一つを教えていただいたのだと私は思っているのです。
 

『サバイバルする社員の条件』

 大川隆法著


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幸福の科学っていうけど、「科学」って「幸福」に関係あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アランの語る幸福論』(幸福の科学出版)で、「幸福論」で有名な哲学者・アランの霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 「幸福」とは、実は両面からできていて、人は、体調がよければ機嫌がよく、幸福になれますが、病人は、どうしても不幸を語ることが多いものです。
 例えば、栄養が足りないために病気になっているのであれば、まず、栄養を取り入れることも大事でしょう。
 もちろん、強い精神の持ち主であれば、断食していても、心が平静である方が、なかにはいらっしゃるかもしれませんけれども、それは、万人に通じる哲学とは思えませんね。
 私は、その意味で、現代的なかたちでの哲学のあり方を探究した結果、「一つの考え方の括りとして、『幸福論』というテーマで出してみることがよいのではないか」と考えたのです。
 その幸福の原因は、要するに、自分の幸福を妨げているもの、つまり、“ピンの発見”ですね。
 「私は、何をもって不機嫌になっているのか」「何をもって、不幸感覚が強くなっているのか」「何をもって、怒っているのか」ということを、そのまま放置するのではなく、自己分析していく態度を身につけることが、やはり、哲学ではないかと思ったわけです。
 「人間は、自分で幸福になることができる。原因を分析し、それに対処していこうとする態度を身につけることによって、その決意にふさわしい分だけ幸福になることができるのだ」ということですね。それを、「『思えば幸福になる』ということだ」って、簡単に言うことも可能ですけど。
 ただ、あまり情緒的なほうに持っていきすぎると、肝心なものを見失うことがございますのでね。
 例えば、脚気という病気が流行ったとき、最初は、「ビタミン不足が原因だ」と分からないでやっておりましたが、脚気がビタミン不足で起きるのであれば、ビタミンを供給することで解決されますよね。(中略)
 実際は、「戦争の死者よりも、脚気による死者のほうが多かった」とも言われておりますけれども、 これなんかは、歩けなくなったことについて、上官が、「精神が弛んどるからだ!」と怒るだけで解決する問題ではありません。
 海軍では病気があまり発生せず、陸軍で多く発生したならば、それには必ず原因があるはずですよね。だから、そのへんを勉強しなければいけなかったと思うんです。要するに、脚気が出なかったのは、サラダや、パン食が原因であったわけですよね。
 こういう、科学的態度も入れなければ、「現代的な幸福論」は説けないのではないかなあという感じを、私は持っています。
(38~42ページ)

人は、体調がよければ機嫌がよく、幸福になれるが、病人はどうしても不幸を語ることが多いものである。

人間は、自分の幸福を妨げている原因(“ピン”)を分析し、それに対処していこうとする態度を身につけることによって、その決意にふさわしい分だけ、自分で幸福になることができる。

例えば、脚気という病気がビタミン不足が原因だと分かれば、ビタミン供給で解決されるのであって、そういう科学的態度も入れなければ、「現代的な幸福論」は説けないのではないか――。

大川隆法先生は、以前、有名なアランの「幸福論」の内容を紹介しながら、その教えを現代的に分かりやすく説いておられたことがあったと思います。

それがきっかけで、私もアランの「幸福論」を読む努力をしてみたことがあります。

ただ、もう百年近い昔の作品ですし、原典のフランス語からの翻訳の問題か、すっとわかる感じがぜんぜんしませんでした。

ところが本書では、そのアラン自身が現代日本語で、自分の考えをストレートに分かりやすく講義して下さっているわけで、その分かりやすさと内容の深さは、本当に感動ものです。

何度も繰り返しになりますが、誰が何と言おうと、やはりこの霊言集というのは「現代の奇跡」であるのは間違いないと、改めて私は確信しているのです。
 

『アランの語る幸福論』

 大川隆法著


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ね、人生で成功するための秘訣って、ないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ヒルティの語る幸福論』において、有名な「幸福論」で名を残した哲学者、カール・ヒルティの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 私は七十七歳ぐらいで死んだかと思うので、まあ、数十年の人生でございます。
 みなさん、わずか数十年であっても、考え方と毎日の過ごし方で、ずいぶん違ってくるものなんですよね。
 スイスには、過去、多くの人が生まれ、生き、死んでいったし、また、若いころには、優秀な方を、私はたくさん見てきました。私ぐらいの方は、ほかにもたくさんいたのではないかと思います。大学時代や若い社会訓練の時代等を見ると、優秀な方は、ほかにもたくさんいたと思うんですよ。
 ただ、七十七年の人生を終わってみると、私への社会的評価は、ある程度、定まってはいたのかなと思います。
 これは、ほとんど「勤勉な習慣の確立」の賜物なんですよ。
 それは、「『時間というものは、結局、神様からの最大の賜りものだ』ということを自覚しているかどうか」ということだと思うんですね。
 「自分の時間だ」と思っているからこそ、時間の“無駄遣い”をするんです。「神様からの授かりものだ」と思ったら、「今日一日において、何かを一歩前進させなければ、一日を終われない」という気持ちにかられるんじゃないかと思うんですね。
 明日、命があると思うな。
 これは、「明日もあるとは限らないですよ。だから、その日その日に積み重ねていくことが大事で、その積み重ねが、同じく平凡に出発した人たちの人生に差をつけていくものだ」と思うんですね。(中略)
 各人の一日の時間は、どのように使うことも許されているのですけれども、「その許された時間を、いったい、どのようにして、毎日、『建設的な方向』に積み立てていくか」ということが大きいのではないかと思うのです。
 私は、先ほど、「体系的な書物を書くほどの時間はなかった」ということを申し上げました。それはそうなのですけれども、そこまでは行かなくてもいいと思うんですね。「毎日毎日、煉瓦を一個積んでいく」ということを考えることが、結局、大きな仕事を成し遂げていくのではないかと思うんですよ。
 私のみならず、ほかの方々も、その多くは平凡な方々だと思います。
 「あるとき、神の偉大なるインスピレーションが下りてきて、ものすごい着想を得、それが世界的な大事業になる」という人もいるかもしれませんけれども、そういうことを願うより、「『毎日毎日、煉瓦を一個ずつ積んでいく』という堅実な仕事を、一定の年数続けていくと、それが、あるとき、大きな仕事に変じていくことがあるのだ」ということを信じたほうがいいと思います。
 私は、「成功の本質は勤勉にある」と思うし、「勤勉は習慣からできるものだ」と思います。だから、やはり、「努力して自分をしつけなければいけない」と思いますね。
(108~109、111~112ページ)

人生は、考え方と毎日の過ごし方でずいぶん違ってくるのであり、自由に使える一日の時間を、どのようにして毎日、建設的な方向に積み立てていくかが大きい。

偉大なインスピレーションを願うよりも、毎日毎日、煉瓦(れんが)を一個ずつ積んでいくような堅実な仕事を一定の年数続けていくと、それがあるとき大きな仕事に変じることがある。

成功の本質は勤勉にあるし、勤勉は習慣からできるものであって、勤勉な習慣の確立は、時間を神様からの最大の賜りものだと自覚しているかどうかである――。

カール・ヒルティは、生前に著名だった本業(法律家、大学教授、政治家)よりも、いわば副業としての著作によって、哲学者として後世に名を残している方だと聞きます。

何かを生み出して行くことを志すとき、今日ヒルティの語るところは、ものすごく心に響きますし、忙しい現代人の私たちにも、とても参考になる教えではないでしょうか。

このブログの毎回の記事は、ここでヒルティが説かれた煉瓦の1個になっているんだろうか。

私は「時間を神様からの最大の賜りものだ」と、しっかり受け止めていたんだろうか。

そんな反省の言葉が、心に浮かんできます…。

いずれにしても、わかりやすい現代日本語で、あのヒルティ先生の言葉を直接、学ぶことができる本書を、一人でも多くの現代人に強くお勧めしたいと改めて私は思っているのです。
 

『ヒルティの語る幸福論』

 大川隆法著


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マイケル・ジャクソンって、亡くなってだいぶたったけど、あんなすごいエンターテイナーだったんだから、天国にいるのかな。でも「スリラー」なんて映像、地獄の亡者みたいなのがたくさん出てきてたし、もしかして地獄にいたりして? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)で、こう紹介しておられます。

 この人は、いちおう大丈夫のようです。「スリラー」などの映像を見ると、やや怪しい感じもありますが、やはり、人々に喜びを与えた面のほうが大きかったようです。
 また、本人は自分が黒人であることに劣等感を持っていたようですが、「黒人出身で世界的なスターになった」ということで、黒人の世界の「光」になった部分はあったようです。
 そのため、彼は、現在、音楽や芸術家系統の神様の世界に入っていく道の途中にいます。どのくらいの所まで辿りついているかというと、もう八合目ぐらいまでは還っている感じです。
 霊界には、音楽家、アーティストたちの世界があり、レベルはいろいろありますが、彼はかなり上のほうだと思います。現代の音楽なので、昔の音楽と単純に比較するわけにはいきませんが、どのレベルに相当するかというと……。
 (約十秒間の沈黙)
 けっこうトップクラスに近いあたりだと思います。
 『黄金の法』に名前の出ている人や、霊言集(『大川隆法霊言全集』〔宗教法人幸福の科学刊〕)に霊言が収録されている人で言えば、ピカソやベートーベン、モーツァルトなどがいるような世界に還るようです。
 彼の場合は、音楽以外に、もう一つ、「黒人たちの光になった」という意味での功績があったことも理由でしょう。(中略)
 光の世界に還っています。あれだけの有名人になったので、晩年には、周りからの嫉妬が渦巻いたり、事件に巻き込まれたりしたこともありますが、「プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった」ということでしょう。(中略)
 マイケル自身は、光の世界に還っていて、レベル的には、芸術家系の魂としてはトップクラスの人の一人です。
[注]ピカソは菩薩界上々段階の梵天界、モーツァルトは菩薩界、ベートーベンは菩薩界下段階に還っている。『黄金の法』第1章参照。
(84~90ページ)

マイケル・ジャクソンは、光の世界に還っている。

プラスの面とマイナスの面を比較衡量すると、多くの人に夢と希望を与えた部分のほうが大きかった。

還ったのは、菩薩界や梵天界と呼ばれる高級霊の世界であり、芸術家系の魂としてはトップクラスの一人である──。

いやあ、考えてみたら当たり前の話ですけれど、音楽家の光の天使というのは、クラシック音楽の領域だけじゃなくって、現代のPop Musicの世界にもいたんですね。

最近また、インターネットの動画で、マイケルの曲に合わせて見事な振り付けで踊ってる人の映像を、よく見かける気がします。

改めて、今日のお教えに触発されて、マイケルが残してくれた素晴らしい楽曲の数々を、少し聴き直してみたいと私は思っているのです。

『エクソシスト入門』

 大川隆法著


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どんな生き方をした人は天国に還れて、どんな生き方をした人は地獄に堕ちちゃうの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法――エル・カンターレの世界観』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 どのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行くのか―。この問題に関して明確に教えてくれるところは、現在、ほとんどありません。また、あの世の存在を信じている人であっても、自分の生き方を霊的な目で見たとき、天国にふさわしい生き方なのか、地獄にふさわしい生き方なのかが分からないのです。
 最も簡単な考え方では、いわゆる戒律に照らして、「罪」と「罪でないもの」とを分け、「罪の多い者は地獄に堕ち、罪の少ない者は天国に行くのだ」としています。
 これは昔から流行っていた考え方です。ここ何千年かの人類の歴史のなかでは、洋の東西や民族を問わず、こうした考え方がありました。有名なものとしてはモーセの十戒があります。モーセ以前にも、メソポタミア地方においては『ハムラビ法典』がありました。
 現代では法律というものがありますが、法律の淵源は何かというと、結局、光の指導霊たちが説いた法なのです。しかし、その法を人々に分かりやすく説明することが不可能なために、ときおり、それが戒律のかたちで教えられました。つまり、「これはしてもよいが、これはしてはならない」という戒律として与えられたのです。
 したがって、霊的な世界を知っている人間も含めて、大部分の人間にとっては、「自分は戒律に反した生き方をしなかったか」という観点を持てば、天国・地獄というものを考えやすいと思います。
 確かに、物事の善悪を容易に分けるという意味において、戒律には分かりやすい面があると言えます。最も典型的な戒律は、「人を殺すなかれ」というものでしょう。「人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける」というものです。あるいは、「物を盗むなかれ」という戒律もあります。「物を盗めば地獄へ、物を盗まなければ天国へ」という、こうした二分法的な考え方があります。
 これも一概には幼稚と決めつけることはできないのであって、そうしたもののなかにも確かに真実が光っていると言えます。
 しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、そうした戒律ではないのです。
 結局、六十年、七十年の人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行っています。しかも、その本質を発揮すればするほど、高い天上界へ昇っていっているのです。一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けています。これがほんとうの姿なのです。
(40~43ページ)

最も簡単な考え方は、「戒律に反した生き方をしなかったか」という観点であり、そのなかにも確かに真実が光っているが、しかし、天国・地獄をほんとうに分けるものは、戒律ではない。

人生を通して、仏の子としての本質に気がついた人は天国に行き、その本質を発揮すればするほど高い天上界へ昇っていっている。

一方、仏の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人は、地獄界で厳しい試練を受けているのが、ほんとうの姿である――。

今日ご紹介したテーマを、まるまる1冊を使って分かりやすく説かれているのが、最新刊の『地獄の法』であるわけですが、今日は、最初期に別の角度から説かれたお教えになります。

ここでは簡単に「仏の子としての本質」と説かれていますが、考えてみると、これはけっこうむつかしい言葉なのかもしれない気がします。

その本質を発揮するとは、たとえば、愛すること、愛を与えること、と考えてみるとわかりやすいのかもしれません。

そのあたりが何かを本当につかむことこそが、「悟り」と呼ばれるものの一つの姿かもしれないと、改めて心静かに私は思っているのです。
 

『永遠の法』

  大川隆法著


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イエスさまが十字架にかかったのは、人類の罪をあがなうためって、教えてもらったよ。これって、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『キリストの幸福論』において、この根源的な質問に対して、まさにそのイエス・キリストの霊が直接、率直に答えられたお言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 ただ、私自身は、うーん、どうでしょうかね。まあ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かったと考えていたか」と問われたならば、率直なところ、「そのようには考えていなかった」と言わざるをえません。
 後世の弟子たちや教会が、どのような議論を立てたかは別といたしまして、私自身は、「インスピレーションの赴くまま、神の命じられるままに行動をなし、そして、御心のままにその身を委ねた結果、私の言葉は、ローマの兵士たち、あるいは、ユダヤの民衆たちをも説得することができず、罪人と共にゴルゴタの丘で十字架に架かった」ということです。
 人間イエスとしての生命は、それで終わっております。
 その重い十字架を背負って丘に登りて、そうして、磔にあったときに、「人類の罪を贖うために自分が死のうとしていたか」といいますと、自分自身は、必ずしも、そのように思っていたとは思いません。むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っていました。
 エルサレム入城については、神よりの使命が下っていたし、予言的には、そこで死するであろうということも伝えられてはおりましたので、「神の言葉であるならば、それは受けねばならん」とは思っておりましたけれども、「なにゆえに、人々を、わが教えに“帰依”させることなく、その前に、十字架にて、この世を去らねばならぬか」ということに関しては、やはり、幾分、残念な気持ちがあったことは否めません。
 さまざまな奇跡を起こしたことが、『聖書』には書かれております。しかし、最期において、あまりにも人間的な死に方をしておりますので、「これの持つ意味が、いったい何であるのか」ということは、その時点の私にもまた、十分には理解できていなかったと思います。
 むしろ、できるだけ、数多くの人々に福音を宣べ伝え、癒やしを与えたけれども、そのことよりも、人々はわが罪を裁く者の勢力のほうに大多数が加勢していき、わが弟子たちもまた、散り散りになっていった。まあ、これは、ある種の教団の壊滅と同時に、わが死が訪れたわけでありますので、そのことに対して、「神の仕組みとして、はたして、これで成功するのかどうか」という気持ちがあったことは否めません。
 「決して、人々の罪を贖うというような気持ちで十字架に上ったわけではなかった」というのが率直な気持ちです。私が十字架に架かったことにおいて、のちの人々が、十字架をキリスト教のシンボルとし、その信仰を広め、伝道をして人々を救済することで、結果的には、「イエスの死は無駄にならなかった」ということを宣べ伝えていたのではないかと考えております。
 だから、「贖罪思想」は、どちらかというと、弟子がつくった思想に近いのかなあというふうに考えてはおりますけれどもね。
(28~31ページ)

イエスさま自身は、率直なところ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かった」とは考えていなかった。

むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っており、その時点では、その意味が十分には理解できていなかった。

だから、「贖罪(しょくざい)思想」は、どちらかというと弟子がつくった思想に近いと考えている――。

慎重に言葉を選んでおられると思います。

でも、考えてみると、いくら救世主であったにしても、イエスさまはこの世に人間として生まれ、生きておられたわけですから、とても納得できるお言葉ではないでしょうか。

そしてこれが真相であったとしても、そのことによって、弟子たちがその教えを命をかけて述べ伝え、キリスト教を世界宗教へと発展させていった、数えきれない貴い努力が否定されるわけではないと私は思っているのです。
 

『キリストの幸福論』

 大川隆法著


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とにかくうまく行かないんだ。いま逆風なんだよね。めげちゃうよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私が、あなたがたに心していただきたいと思うことは、「光の使命を果たせ」ということです。この言葉を、どうか、深く胸に刻んでいただきたいのです。
 世間の情勢を客観的に見るかぎり、できないこと、不可能なことは数多くあります。環境だけを見て、できない理由を探せば、それは数限りなくあるでしょう。「これが原因でできない」「こういうことがあったために駄目だった」という言い訳は幾らでもできるでしょう。おそらく、その言葉のとおりであり、言っていることに嘘はないと思います。
 しかし、「世の中や人生には、いつも追い風ばかりが吹いているわけではない」ということも、また真実なのです。追い風のときにしか前に進めないのであるならば、あまりにも弱々しく、また、あまりにも頼りないと言わざるをえません。
 「追い風であろうと、逆風であろうと、風の止まった凪であろうと、しかれども、わが使命を果たす」という気持ちが大事です。
 まず、自分自身の心に問うてください。「使命感に灯がともっているか」ということを己に問うことから始めてください。
 客観的な事情や条件において、悪いことは数限りなくあるでしょう。しかし、そのときに、まず、自分の内を見て、「己の心のなかに使命感の灯がともっているか。たいまつの炎が燃えているか。ろうそくに炎がともっているか」ということを見ていただきたいのです。
 それが大事です。その炎が、その光が、ともっているかぎり、あなたがたは前進を続けることができるでしょう。どのような日が来ようとも、どのような嵐が来ようとも、雨が降ろうとも、風が吹こうとも、雪が降ろうとも、しかし、その灯がともっているかぎり、あなたがたは、毎日毎日、前進せざるをえないでしょう。
 それは、「世の中を照らす」という使命を自分が知っているからにほかならないのです。
(284~286ページ)

客観的な事情や条件が悪いことは数限りなくあるが、いつも追い風ばかりが吹いているわけではない。

そんなときは、「己の心のなかに使命感の灯がともっているか」ということを見るならば、その炎が、光がともっているかぎり、前進を続けることができる。

「光の使命を果たせ」という言葉を、どうか、深く胸に刻んでいただきたい――。

いまやろうとしてることは、自我我欲なんだろうか。

それとも、大事な家族や友だちたちのため、あるいはもっと広く、社会のためとか日本のため、世界のための愛の活動なんだろうか。

もちろん、自分の利益のためだけの自我我欲で動いても、天の助けはなく、うまく行かないということは、それはあるだろうと思います。

しかし、そうではなく、仏法真理を学んでいる自分が、ユートピアを創るために一生懸命に活動しているのに、強い逆風で進むことができないとき。

そんなときこそ、「光の使命を果たせ」というこの仏の言葉を思い起こし、噛みしめるべきなのだと思います。

そうすれば、この仏言に導かれて、必ずやまた一歩ずつ前に進んでいくことができるのだと、強く強く私は思っているのです。
 

希望の法―光は、ここにある

『希望の法』

  大川隆法著


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ハンナ・アーレントって、幸福の科学でよく名前を聞くと思うんだけど、いったいどんな人なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ハンナ・アーレント スピリチュアル講義――「幸福の革命」について』(幸福の科学出版)のはじめに(Preface)で、次のように説いておられます。

 This is the end of the political tradition and political philosophy. And also, this is the beginning of everything. Awakened new-age shall be built upon our “Happiness Revolution”. That is, new resurrection of God's Love.
 You'll soon know “who is new Isaiah” and “who is new Christ”.
 Now listen to this good news from Heaven.
 I will invite all of you. However, only some are able to be chosen to be disciples to fulfill my mission.

 これで政治的伝統も政治哲学も終わりとなるのだ。そして、これこそが、すべての始まりとなる。覚者による新時代が、われらの「幸福の革命」の上に打ち樹てられるのだ。つまり、神の愛が新しく復活するのだ。
 本書を読み進んでいけば、誰が新しきイザヤであり、誰が新しきキリストであるかがわかるだろう。
 今こそ天上界からのこの福音に耳を傾けるがよい。
 私は読者のすべてを導こうとしている。
 しかしながら、わが使命を成就するために、弟子として選ばれる人は限られるはずだ。
(2~3ページ)

本書は、有名なユダヤ系ドイツ人の政治哲学者であるハンナ・アーレントの霊に対して、英語で行なわれたインタビュー(「霊言」)の対訳本です。

いやインタビューというよりも、なんだか、ハンナ・アーレント教授による厳しい少数精鋭の政治哲学ゼミの様子をかいま見た感じがする、とても歯ごたえのある霊言集になっています。

格調高く、またよくよく読めばとんでもなく深い意味がこめられた、このまえがき(「はじめに」)ですが、さて、誰が新しきイザヤであり、誰が新しきキリストであるのでしょうか。

その署名部分に、「Master Ryuho Okawa(主 大川隆法)」と綴られているのを見逃すわけにはいかないと私は思っているのです。
 

『ハンナ・アーレント スピリチュアル講義』

 大川隆法著


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私って、いま恋愛してるんだ。でも信仰者なんだし、幸福の科学の教え以外に恋愛のアドバイスを求めちゃいけないの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『恋愛学・恋愛失敗学入門』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。

 あまりに“滅菌”して“純粋培養”しすぎると、意外に、妥当な判断というか、合理的な落としどころが見えなくなる場合もあるので、恋愛等については、やや、雑学を必要とする面があると私も思っています。
 当会は、「教義以外は一切読んではいけない」とは言っていないので、多少、雑学を勉強しても構いません。世間にはくだらないものもありますが、いろいろなものを読むなかに、人生のヒントを得ることもあるため、そういうものをすべて否定しているわけではないのです。
 社会的な雑学であっても必要なものは、ある程度、勉強してもよいでしょう。仏法真理に則った生き方をしていない人の言葉であっても、そのなかに、キラリと光るもの、汲むべきものがあることもあります。世の中には、世間解のある人もいるので、そういう人のアドバイスを聞かなければいけないところもあるかもしれません。(中略)
 いずれにしても、パンデミック(感染症の世界的流行)のように、社会的に広がると困るような現象というのは、あまり望ましいとは思いませんが、社会として緩やかな防波堤を築きつつ、そのなかで、責任ある個人が、責任ある判断をし、自分の人生にそれだけの重しを背負おうとするのであれば、その判断に忠実に生きることも一つかと思います。
 そういう意味で、今のところ、私には、「一般的な大きな戒律で、全員を一律同じように縛ろう」という気持ちはあまりありませんし、そういう戒律も、今世、特には説いていません。(中略)
 ただ、教えのなかで方向性は出ているので、そのなかで、個人においても社会においても、前進する方向で物事を考えていってください。
(117~122ページ)

純粋培養しすぎると合理的な落としどころが見えなくなる場合もあるので、恋愛等については、雑学を必要とする面がある。

当会は、教義以外は一切読んではいけないとは言っておらず、多少、雑学を勉強しても構わない。

大きな戒律で全員を一律同じように縛ろうと考えていないので、そういう戒律も特に説いてはいないが、教えのなかで方向性は出ているので、そのなかで個人においても社会においても前進する方向で物事を考えていけばよい――。

“宗教って、戒律だろ。ほかの本を読ませないんだろ?”みたいな誤解をしている人も、世の中にはいるように思います。

でも、幸福の科学は、ぜったいにそんな宗教ではない。

あれをしてはいけない、これをしてはいけない、といったような戒律はそもそもありませんし、大川隆法先生の経典以外を読んではいけないこともありません。

もちろん、あまりに地獄的な本を読み続けるようなことは、貴重な人生の時間の無駄使いでもあるし、心にとって害になりますから、あまり推奨されないというだけのことでありましょう。

恋愛という人生の一つの試練においては、大川隆法先生の説かれる自由にして寛容な幅広いお教えの方向性をくみとりつつ、自分が前進し発展していく方向で、自ら判断し決断していきたいものだと私は思っているのです。
 

『恋愛学・恋愛失敗学入門』

 大川隆法著


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