世間には霊能者とか目につく気がするし、霊能を売り物にした宗教とかもたくさんあると思うんだけど、そういうところに、必要なときに頼ったりするのでいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
いずれにしても、霊現象そのものは、大変くたびれるものですから、長時間するものではありません。また、日々、点検をしないと、あるときまではうまくいっていたものが、途中から悪霊現象に入れ替わるということがよくあります。
宗教の教祖などでも、それが非常に多いように思います。ある程度の霊格を得て、最初悟りを開いたときには、守護霊や指導霊の声が聞こえていたものが、途中から欲が募ってくると悪霊現象に入れ替わってきて、まったく自制がきかなくなります。
しかも、自分はものすごく偉いのだと思い込んでいると、それを反省する機会がないので、ついに改まることもなく進んでゆくことになります。そしてその信奉者全員が悪霊に憑依されてゆく。こうしたことがたくさんあります。
現代において大きくなっている宗教教団のなかにも、邪教団と言われる悪霊の拡大生産機関のようなところがたくさんあります。特に霊能系統のところは気をつけなければいけません。
また密教の系統でも、呪詛(じゅそ)といって、人を祈り殺す、人を呪うようなことをするような教団がありますが、そういうところは完全に悪魔に支配されている教団です。そうしたところに行って霊能力を得ようなどということは、絶対にしてはなりません。
また、霊能力が一日で得られるとか、三日で得られるとか、そうしたことを吹聴して、誰でもが霊能者になれるということをやたら勧めるようなところもありますが、こうしたところにも絶対に近寄るべきではありません。
そうした霊能力は、先ほども述べましたように、まず心の浄化をして、「悟りに到る道」の過程で得られるものなら正しいわけですが、インスタントで得られるということは絶対にありません。インスタントで得られるものは、インスタントで得られるような霊です。要するにその辺の地上にウヨウヨしている不成仏霊たちが、自分たちが救われたいがためにとり憑いて、そして供養させるという形態をとっています。ですから、絶対そうしたものに近寄ってはなりません。
「触らぬ神に祟りなし」ということは一般的には正しい行為なのです。あまり霊能者などに頼って人生を決めようとしてはなりません。
やはり、人類の昔からの遺産とも言うべき高い道徳的な格率、そうしたものをベースにした宗教こそが本物であって、霊能力のみを吹聴する宗教というのは、どうかなるべくなら避けておいていただきたいと私は思います。
そして、自分の人生の判断をあまり霊能者などに頼るのではなく、やはり「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内における結果に対して足ることを知って、「自分の望む以上、自分の努力以上の成果は得まい。そして、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこう」と思うことが大切です。
(192~195ページ)
宗教の教祖も、悟りを開いたときには守護霊や指導霊の声が聞こえていたのに、途中で悪霊現象に入れ替わってきて自制がきかなくなることがある。
密教系統で呪詛をするような教団や、誰もが霊能者になれるとやたら吹聴する教団は、悪魔や悪霊に支配されているので、そうしたところで霊能力を得ようなどとしてはならない。
自分の人生の判断を霊能者などに頼るのではなく、「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内の結果に対して足ることを知って、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこうと思うことが大切である──。
霊能力というのは、現実に存在するからこそ、危険がとても大きいと、大川隆法先生は説かれます。
最初は正しい指導を受けている霊能者であっても、ても、いつのまにか悪霊の指導にすりかわっていることが多いわけです。
「自己責任の原則」というのがこの世にはあって、すべては自らの自助努力の結果です。
考えてみると、間違った霊能者や霊能信仰に近寄ることで、逆に悪霊に憑依されて不幸になったりするのも、この「自己責任の原則」の結果ではあります。
そうではなくって、足ることを知りつつ自助努力し、「常勝思考」で自らの運命を切り拓いていく努力をしようというのが、大川隆法先生が教えられる、あるべき人生の生き方だったのだと改めて私は腑に落ちた気がしているのです。
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『宗教の挑戦』
大川隆法著 |
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