ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



もう歩けない。疲れちゃったよ。ずっと歩いてきたけど、もうだめだよ。無理だよ。 なーんて、めげちゃってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

目覚めよ、目覚めよ。
強くあれ、強くあれ。
信じよ、信じよ。
道は開ける。
その道を、うまずたゆまず歩いてゆくのだ。
私は、あなたがたと共にある。
私があなたがたを背負って歩いているということを、
忘れてはならない。
(51~52ページ)

この「私」というのは、この世に下生(げしょう)された仏陀、つまり「仏」、なんですよね。

私たちの目には見えなくっても、仏はいつも私たちと共にいて下さる。そして実は、仏は私たちを背負って、この人生行路を歩いてくださっているのだって。

この仏の言魂の力強さに、勇気が湧いてきませんか?

「目覚めよ」「強くあれ」「信じよ」、そして、「道は開ける」──。 

 

永遠の仏陀―不滅の光、いまここに 『永遠の仏陀』

 大川隆法著

 

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成長とか発展なんて言われても、毎日、仕事に追われて、残業の嵐なんだよ。どうやってこんな状態で、将来のことなんて考えれるんだよ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 勉強することから始まって、次に、仕事能力を磨き、段取りをつけ、それから、「どうやって、安定的に、さらなる成長をするか」ということを、いつも考えていくことは、とても大事なことです。
 毎日毎日、自分の受け持ちの仕事に追われ、仕事が溢れている人だと、そうはなりません。「いかにして仕事を要領よくスムーズに片づけていくか。そして、いかに数年先のことまで考えるか」ということが大切です。(中略)
 仕事に追われていて何も考えられない人、「おれは忙しいのだ。残業、残業で、忙しい、忙しい」ということばかり、いつも言っている人は、智慧や技術、体力の面で、何か足りないものがあるのではないでしょうか。
 それをもう少し自分で訓練し、鍛えることによって、先見性のある仕事をすることはできないでしょうか。先を予測して、少しでも早く仕事をし、余裕をつくることはできないでしょうか。
 遊んでいて、ゆとりが出ることはありません。
 片づけなければいけない仕事が一定量あるとき、たとえば、「一カ月をかけて、これだけの仕事をしなければいけない」というときに、その仕事を、もし十五日で片づけることができたら、残りの十五日分、ゆとりが発生します。この十五日で、また新しいことを探究してもよいし、新しい仕事をしてもよいわけです。さらに、十五日で片づけるはずだったものを一週間で片づけてしまうと、もっと余裕が出てきます。
 そのように、仕事能力を上げ、仕事を早く片づけていくのです。余裕というものは、仕事をぐっと凝縮し、早く片づけていくことによって、出てくるものなのです。
 それをせずに、だらだらとやっていて、締め切りが近づいてから、「大変だ、大変だ」と言って忙しそうにすることを、仕事をすることだと考えているのであれば、それは甘いのではないかと思います。
 普通の人は、たいていそうですし、普通より能力が上の人でも、そうかもしれません。作家でも、締め切りがないと、なかなか原稿が書けません。締め切りがあって、編集者にねじ込まれ、〝監禁〟されて、やっと書いています。
 会社の仕事でも、納期といって締め切りがありますが、締め切りよりも、一日でも二日でも早く仕上げることが大事です。納期を一日過ぎ、五日過ぎ、十日過ぎるようだと、人間として信用がなくなっていきます。締め切りよりも、一日でも二日でも早く仕上げていくと、信用ができると同時に余力ができてきます。さらにもう少し仕事ができる余力が出てくるのです。これを目指さなければいけません。
 このような努力をしていると、個人としても発展できますし、組織としても、まだまだ発展する余地があります。
(92~95ページ)

どうやって、さらに成長するかを、いつも考えていくこと。

そのためには、仕事能力を上げ、仕事を早く片づけていく努力をして、ゆとりを作っていくこと──。

たとえば、先がどうなるかを予測しつつ仕事をする訓練を重ねていくことで、今は時間があるように思えても、実は時間が残り少ないことが分かって、だらだらとすごす時間がなくなるのかもしれません

体力がないから、すぐ疲れてしまって仕事が片づかないと思うのであれば、自分への投資と割り切って、フィットネス・クラブに入って長期的に体力アップの努力をしていくことで、仕事が早く片づいていくのかもしれないですよね。

要は、仕事に追われて何も考えられないと思うのであれば、自分には、智慧や技術、体力の面で何が足りないかを考え、それを補充していくように心がけて、考える時間を作っていくのが大切だってことなんだと私は理解しているのです。


『青春の原点』

 大川隆法著

 

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仕事でちょっと成功してきてるんだよね。そういうときって、何か注意点、あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みずからが成功する過程において、「自分一人の成功にしない」ということは、極めて大事なことです。(中略)
 一生懸命に働いているのに、まったく他の人々から認められず、尊敬もされないのでは、辛いでしょうし、やる気もでないでしょう。何十年も働いていくためには、出世意欲を持つことは、よいことだと思います。ただ、課長や部長、役員になっていく過程のなかで、仕事や、自分の志の全部を、「自分の成功」という一点に絞りすぎないことが大事です。(中略)
 たとえば、自分が部長になる過程で、ほかの人に対して、その人の成功のために、仕事のお手伝いをしてあげたり、引き上げてあげたり、自分の成功のノウハウを分けてあげたりするのです。(中略)
 成功の流れのなかにある人は、ほかの人から、かなり、うらやましがられたり嫉妬されたりするものです。
 それは、ある程度は、しかたがないことです。(中略)ただ、嫉妬される立場になった場合には、「他の人のために生きたい」という気持ちを常に持っておくことが大切です。それを外に出す必要はありませんが、常に心のなかに持っておくのです。
 また、他の人が自分より大きな成功をしたときには、自分のほうにも競争心や嫉妬心が出てきたりしますが、それを、極力、抑えることです。そして、自分の思いに反するとしても、その成功をほめてあげることです。「素晴らしいですね」と祝福してあげるのです。
 たとえば、他の会社が自分の会社よりも、どんどん大きくなっていったときには、「あそこは、たまたま、うまいことをやって成功した」などと言わずに、「素晴らしい成功ですね。わが社も、できれば、そのようになりたいと思っております」と言える気持ちを持ったほうがよいのです。
 「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。人の不幸や失敗を願うと、その貧しい心が、結局は自分のほうにも失敗を引き寄せてしまうのです。
 みなさんも、人の失敗を願っている人を、それほど、応援したり、支持したり、担いだりしたくないでしょう。むしろ、人の幸福を願っている人を担ぎたいでしょう。それと同じことです。
 「その会社が成功すれば、ほかの会社がみな不幸になる」というような会社は嫌なものです。会社が大きくなってもよいのですが、「産業界全体のために頑張りたい。この産業で頑張ることによって、できるだけ国全体や世界に潤いを与えたい」という気持ちを持っていることが、成功を続けるための条件なのです。(中略)
 「ほかの人の成功を願う」ということは、お人好しに見える面もあるのですが、自我我欲を、目一杯、出しきるのではなく、それを抑えることによって、実際は、多くの人々の支持を受けることになり、実りの大きな幸福や成功を得ることができるのです。
(192~196ページ)

みずからが成功する過程において、自分一人の成功にしないように心がけること。

自我我欲を抑えて、ほかの人の成功を願い、お手伝いをしてあげたり、引き上げてあげたり、成功のノウハウを分けてあげたりすること。

他の人の成功を祝福すること──。

これって、考えてみると、仏法真理のもっとも基本中の基本である「与える愛」を、成功の過程(プロセス)に具体的にあてはめたらこうなるという、とても分かりやすいお教えでないかと私は思っているのです。

 

『希望の法』

 大川隆法著



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学校をとっても優秀な成績で卒業して、意欲満々でいまの会社に入ったんだけど、ぜんぜん私を評価してくれないんだ。さっさと辞めちゃって、転職しようかなあ? なーんて悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1996年に発刊された『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「在学中は優秀な学生であっても、社会に出たら、すぐには評価されない」ということも、厳粛な事実として知っておいてほしいと思います。
 みなさんが、大学卒業後にいろいろなところに勤めても、最初の三年ぐらいは、勤務先の会社や役所にとっては、はっきりいって、みなさんの存在はマイナスなのです。給料を出してはいますが、残念ながら会社にとってプラスにはならず、むしろ会社は損をしているのです。
 というのは、その人自身が仕事をしても、それほどのプラスを生まないうえに、ベテランがその人を教えなければいけないからです。その人を教えることによって、ベテランはエネルギーをそうとう吸われてしまうので、仕事のマイナスになります。
 みなさんが入社してから三年間ぐらいは、実際は、みなさんは会社にとってマイナスなのです。そして、三年程度が過ぎたあたりから、ようやく仕事に熟練し、貢献度が出てきてプラスに転じるのです。
 したがって、大学四年生の人は、最高学年ということで自信満々でしょうが、卒業して実社会に入ると、まさに〝天国と地獄″であって、最下層まで落ちるのです。最高学年から最下層まで落ちて、プライドのギャップに耐えられないということが、社会人一年目に起きる事態です。
 もちろん、プライドのあまりない人は、何も感じずに、そのままいってしまうかもしれません。しかし、「自分は優秀な学生だ」という自覚のあった人は、このギャップに耐えかねて悶えるのが普通です。(中略)
 しかも、優秀な学生の場合には、その優秀さを二十代ではあまり発揮できないことが多いのです。そして、三十歳ぐらいになってから、少し頭角を現わします。(中略)
 そして、ほんとうに能力の高い人の場合には、その人の能力が実際に認められはじめるのは四十歳ぐらいからなのです。というのは、管理職になるぐらいの年齢にならないと、能力がどの程度かということは、ほんとうには測れないからです。
 特に、今の日本の大学教育では、実用性のある学問をあまり教えていないので、大学で勉強したことが、社会に出てからはとんど役に立たないというのが現状です。二十代の段階では、大学で学んだことは無用の長物に近いわけです。
 しかし、それが効いてくるのが四十歳を過ぎるころからです。三十代で少しずつ効いてきて、普通は管理職になる四十歳ぐらいから、違いが明らかに現われてきはじめるのです。(中略)
 入社時点では、すぐに認められようと思ってあがく必要はありません。そのときは、認められようと思ってあがくのではなく、時間を耐えることです。何事も自分自身の問題として捉え、周りの人の評価ではなく、自分自身が納得のいく勉強や仕事をすることに専心するべきです。そうしたことが大事な時期だろうと思います。
(42~47ページ)

すぐに認められようとする必要はない。

管理職になるぐらいの年齢にならないと、人の能力はほんとうには測れない。

だから、時間に耐えよ。まわりの評価ではなく、自分自身が納得のいく勉強や仕事をすることに専心せよ──。

せっかく入った会社を、3年以内に辞める若者が増えてるそうですけれども、この大川隆法先生のお教えに照らしたとき、ちょっと待て! って心から思います。

一部、例外の方もいるんでしょうけれど、でも、新入社員ってのは、3年やそこらでは、まだまだ会社にとってはマイナスの存在でしかない方が大部分のはず。

それを、高く評価されないからといって、簡単に転職を繰り返すのが、ほんとに自分のためなのかは、よくよく考えるべきだということだと私は思っているのです。

 

『青春に贈る』

 大川隆法著

 

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天国と地獄って、神さまがわざわざ二つの世界を作ったの? なんで、そういう作り方をしたの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いまは、天国と地獄は、かなりはっきり分かれているのですが、以前は、まだ、そうでもありませんでした。地獄の人口が増えてきたので、地獄の人々をしっかりと隔離しなくてはいけなくなって、はっきり分かれてきたのですが、以前は、天国と地獄がまだ分かれていなくて、精霊界のような所で共存していた時代もあるのです。
 そういう時代には、やや天国的な霊は、いわば高台の上のほうで生活していました。住宅を買うときには、見晴らしのよい所は値段が高いわけですが、そのような小高い所で、やや天国的な意識の霊たちは生活していたのです。
 そして、いまで言えば、地獄的な人たち、低霊界、低位霊界の人たちは、同じ空間、同じ地域のなかではあっても、丘の麓のほうの、池や沼のあたりとか洞窟とかに住んでいました。「じめじめした沼地の地下に住んでいる」とか、「洞窟のなかに住んでいる」とか、だいたい、そのような感じで住んでいたのです。(中略)長らく、そういう状態でした。
 しかし、地域が同じなので、両者がお互いに接触する場面があります。両者が接触すると、やはり、不愉快なことが多いのです。お互いに不愉快な気分を昧わい、「あんなやつと一緒にいるのは嫌だな」という思いが、だんだん出てきます。それで、しだいに両者の距離が開いてきたのです。
 「もっと、違う所へ行ってくれないか」ということで、悪い人たちがグーッと地下に押し込められたため、しだいに地下も大きくなって、地下帝国ができ上がってきましたし、天国のほうも、「一緒は嫌だから、少し、それらしくしてほしい」というようなかたちになり、霊界も、だんだん、住み分けがはっきりしてきたのです。
 あの世は思いの世界なので、その町の住民が、みんなで話し合って、「このような町並みにしよう」「このような生活空間にしよう」などと決め、思いを合わせると、そういう天国的な町並みになってきます。
 池や沼のあたりとか洞窟とかで、うろうろしていた連中は、いわば浮浪者のようなものでしょうか。公園などには怪しげな浮浪者がいたりしますが、あのような感じだったのです。そこで、「彼らを隔離しないと、町の値打ちが下がる。ちょっと嫌だから、彼らを押し込めようではないか」ということになり、大勢の人が、念力を合わせて、彼らをダーンと下に落とし、バシッと空間を仕切ったのです。そうすると、下のほうの空間ができます。そして、だんだん、それが大きくなってきたわけです。
 そういう理由で天国と地獄が分かれはじめ、地獄が大きくなってきたのです。
(60~63ページ)

そうだったんだあ! という驚きの真実。

天国と地獄は、神さまや仏さまが最初からそういう形で作ったわけじゃなかったんだ。

ってことは、地獄をなくしていくこともまた、多くの人の力が集まればできるってことではないかと、私は思っているのです。

 

『神秘の法』

 大川隆法著

 

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友だちがうらやましいんだよね。なんであの人だけ、あんなに恵まれてるの。神さま、不公平だよね。悔しくってしょうがないの。こんな感情って、普通だよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀再誕』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

また、嫉(そね)んではならない、妬(ねた)んではならない。
このようなことも心しなければならない。
決して、他の者を嫉み、また妬んではならない。
修行者にとって、これも大切な教えだ。
あなたがたは修行しているうちに、
他の人のよき評判を聞き、
他の人の心境が進んだことを聞き、
そして、知らず識(し)らずのうちに妬みの心が出てくることがあるだろう。
嫉みの心が出てくることがあるであろう。
しかし、負けてはならない。
このような嫉みや妬みを心にためて生きるということは、
愚かな生き方であるということを知らねばならない。
そのような心を持ってはならない。
優れたる者と出会ったならば、
優れたる者を愛し、
優れたる者を敬愛せよ。
優れたる者を敬え。
優れたる者を敬うことによって、
あなたがたも、はじめて優れたる者に近づかんとしているのだ。
優れたる者を敬うことによって、
あなたがたの進歩への、第一歩を踏みしめているのだ。
修行者にとって、妬みの毒ほど恐ろしいものはない。
十年、二十年の修行も、
この妬みの毒によって、一瞬にしてあぶくのごとく消えてゆく。
過去あれだけ積み上げてきた徳が、
妬みを起こすことによって、一瞬にして消えてゆく。
妬みがよくないのは、それが何人をも幸福にしないからだ。
妬まれた相手をも幸福にせず、
妬んだ自分自身をも幸福にしないからだ。
それは、心の調和を乱し、心の安らかさを乱す。
それが悪であることを知ったならば、決して妬んではならない。
敬愛せよ、優れたる者を愛せよ。
才ある者を愛し、経験ある者を愛し、叡智ある者を愛せ。
それが大事なことだ。
(138~141ページ)

「心の法則」に照らすと、素晴らしい友だちを愛し敬うことで、はじめてその友だちの素晴らしさに近づくことができ、自分も幸福になる。

その友だちを妬み、否定すれば、自らをその素晴らしさから遠ざけることになって、不幸になってしまう。

つまりは、修行者への言葉という形をとっていますが、これは修行者でなくともあてはまる、普遍的なお教えなのだと私は思っているのです。

 

『仏陀再誕』

 大川隆法著

 

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「ヘルメス」って、幸福の科学の本ではよく出てくるけど、どういう方なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ヘルメスは現代ではかなり誤解されており、その正確な姿は、わずか一割か二割ぐらいしか伝わっていないと言えます。
 『ギリシャ神話』などを読んでみても、ゼウスという非常に人間的な神がいて、そのゼウスが数多くの妻に産ませた子供たちの末子にあたるのが、ヘルメスだとされています。また、ヘルメスは兄のアポロンにさまざまな悪戯をしたとも語られています。
 しかし、これは真実の歴史には合致していません。アポロンは確かにゼウスの子なのですが、ヘルメスはゼウスの子ではないのです。
 また、オリンボス十二神というのはゼウスの一家であり、ヘルメスはその家族の一員とされていますが、これは、ゼウスを中心として前後一千年ぐらいのあいだに出た光の指導霊たちを、一つの家族としてしまったものなのです。
 実際には、そうした光の指導霊たちが一つの家族のなかに出たわけではありません。一定の霊的な系譜、あるいは霊光線を引いていることが、家族の話となって後世に伝わってきたのです。
 ゼウスはいまから三千七百年ほど前のギリシャに生まれた人ですが、ヘルメスはこれよりさらにさかのぼります。四千二百年から四千三百年ぐらい前、ゼウスより、五、六百年ほど前に生まれていました。やがて数百年がたち、ヘルメスの法が下火になった時に、ゼウスが出て、その法を継承したのです。その時に天上界からゼウスを指導したのもヘルメスでした。
 ヘルメスはいまから四千二、三百年前、ギリシャの地を中心に、繁栄、発展の法を説き、また、副次的な教えとして、さまざまな芸術の教えも説いたのです。
 当時、ヘルメスの法を学び、日々、それを行じている者には、商売が非常に繁盛する、仕事がうまくいくなど、さまざまな現象的奇蹟が起こりました。そして、その力は決して悪魔から出ているものではなく、神から出ているものであることを証明するため、ヘルメスは芸術の領域をかなり強く前面に押し出しました。絵画や音楽、詩など、芸術面から証明を行なったのです。
 昔からギリシャには「悪魔は芸術を解さない」ということわざがありました。悪魔には芸術が分からないというのです。そのため、当時は、芸術的な光を放つことが、偉大な神の子であることの証明ともなっていたのです。
 これは真実です。地獄の悪魔たちは、いつも闘争と殺我をくり返しているので、芸術が分からないのです。音楽を楽しむ余裕も、詩を吟ずる余裕も、文学を語る余裕も、彼らにはありません。そうした精神的余裕がないのです。
 また、ヘルメスは、人間として生きていく道、「日々の仕事をしながら、どうやって真理を実践していくか」ということも説きました。
 ヘルメスはおもに 「在家の法」を説いたと言ってよいでしょう。
(181~184ページ)

このヘルメス神は、大川隆法先生の過去世の姿でもあったんですね。

四千数百年前に活躍されたヘルメスの若い頃の姿は、『愛は風の如く』全4巻の物語として刊行されてますし、これを原作としたアニメ映画『ヘルメス──愛は風の如く』が、1997年公開されました。

いま、映画『さらば青春、されど青春。』が大ヒット上映公ですが、20年前には、こんな名作がすでに公開されていた事実を、今日はお伝えしておきたいと私は思っているのです。 

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著

 

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私の理想って、絶対に正しいと思うんだけど、何年も思い続けてるのに、まだ全然、実現にほど遠いんだよね。天上界も認めてくれるはずの理想なのに、どうしてこんなに実現しないのかなあ? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生修行において、理想を実現する際に、いちばん大事な勘どころは、「時間を耐える」ということです。これが非常に大事なのです。(中略)
 理想というものは、正念、正しい念を持ち、時間を耐えて修行していくなかで、必ず実現していくものです。理想の実現を願っているのに、よい結果が出ないので焦ったり、それが執着になったりするのであれば、正しい修行のあり方ではないのです。
 理想の実現を焦って苦しみをつくってしまう場合には、その理想実現の願いが、ほんとうに心の深いところから出ているものではなく、心の非常に浅いところでの思いなのではないかということを、点検する必要があります。
 正しくない願いは成就しないほうが幸福なのです。ところが、それが分からないことは多いのです。
 たとえば、「自分は、こうしたい。こうするのが天の意志だ」と思うことがあるでしょう。しかし、時間がたってみると、「あのときに実現しなくてよかった」と分かる場合もたくさんあるのです。(中略)
 自分の願いが、天意、天の意志に適ったものであるかどうかの判断は、その時点での自分の認識力にかなり支配されます。そのため、忍耐をしながら努力している過程で生じてくる結果を、冷静に見る必要があります。それがどのように表れてくるかを見て、天意がどちらにあるかを判断することです。
 それによって、「天の意志は、自分が思っていることとは違う」ということが分かったときには、その天意のままに運命を受け入れる覚悟をすることが大事です。
 人間心で思うことには、正しくないものもあります。その時点での判断材料を集めて考えてみて、それが正しいと思えても、何年かたってみると、「自分には、もっとよい道があった」ということが分かる場合もあるのです。
 したがって、最初にも述べたように、正念において大事なのは、「時間を耐える」という気持ちです。時間を耐えて修行しているなかに天意がはっきり出てくるので、それを読み違えないようにしてください。
 そして、それが自分の思いとは違う方向に流れていると、はっきり感じたならば、潔く軌道修正をすることも大事です。
(44~47ページ)

まずは、時間を耐えて、努力を重ねること。

そのなかに表れてきた天意を、冷静に、読み違えないようにすること。

そのとき、自分の思いが天意に反していると分かったときには、潔く軌道修正していくこと──。

天上界の思いを実現しようとしてるんだから「霊速」で実現すべきだ、なーんて自我力を出さないことなんだと思います。

時間に耐えることこそが、理想実現のための最大の勘どころなんだと、今日はとても腑に落ちた気が私はしているのです。

 

 

『感化力』

大川隆法著

 

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世間には霊能者とか目につく気がするし、霊能を売り物にした宗教とかもたくさんあると思うんだけど、そういうところに、必要なときに頼ったりするのでいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いずれにしても、霊現象そのものは、大変くたびれるものですから、長時間するものではありません。また、日々、点検をしないと、あるときまではうまくいっていたものが、途中から悪霊現象に入れ替わるということがよくあります。
 宗教の教祖などでも、それが非常に多いように思います。ある程度の霊格を得て、最初悟りを開いたときには、守護霊や指導霊の声が聞こえていたものが、途中から欲が募ってくると悪霊現象に入れ替わってきて、まったく自制がきかなくなります。
 しかも、自分はものすごく偉いのだと思い込んでいると、それを反省する機会がないので、ついに改まることもなく進んでゆくことになります。そしてその信奉者全員が悪霊に憑依されてゆく。こうしたことがたくさんあります。
 現代において大きくなっている宗教教団のなかにも、邪教団と言われる悪霊の拡大生産機関のようなところがたくさんあります。特に霊能系統のところは気をつけなければいけません。
 また密教の系統でも、呪詛(じゅそ)といって、人を祈り殺す、人を呪うようなことをするような教団がありますが、そういうところは完全に悪魔に支配されている教団です。そうしたところに行って霊能力を得ようなどということは、絶対にしてはなりません。
 また、霊能力が一日で得られるとか、三日で得られるとか、そうしたことを吹聴して、誰でもが霊能者になれるということをやたら勧めるようなところもありますが、こうしたところにも絶対に近寄るべきではありません。
 そうした霊能力は、先ほども述べましたように、まず心の浄化をして、「悟りに到る道」の過程で得られるものなら正しいわけですが、インスタントで得られるということは絶対にありません。インスタントで得られるものは、インスタントで得られるような霊です。要するにその辺の地上にウヨウヨしている不成仏霊たちが、自分たちが救われたいがためにとり憑いて、そして供養させるという形態をとっています。ですから、絶対そうしたものに近寄ってはなりません。
 「触らぬ神に祟りなし」ということは一般的には正しい行為なのです。あまり霊能者などに頼って人生を決めようとしてはなりません。
 やはり、人類の昔からの遺産とも言うべき高い道徳的な格率、そうしたものをベースにした宗教こそが本物であって、霊能力のみを吹聴する宗教というのは、どうかなるべくなら避けておいていただきたいと私は思います。
 そして、自分の人生の判断をあまり霊能者などに頼るのではなく、やはり「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内における結果に対して足ることを知って、「自分の望む以上、自分の努力以上の成果は得まい。そして、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこう」と思うことが大切です。
(192~195ページ)

宗教の教祖も、悟りを開いたときには守護霊や指導霊の声が聞こえていたのに、途中で悪霊現象に入れ替わってきて自制がきかなくなることがある。

密教系統で呪詛をするような教団や、誰もが霊能者になれるとやたら吹聴する教団は、悪魔や悪霊に支配されているので、そうしたところで霊能力を得ようなどとしてはならない。

自分の人生の判断を霊能者などに頼るのではなく、「自己責任の原則」を貫いて自助努力し、自分の与えられた範囲内の結果に対して足ることを知って、たとえどのような悪いことが起きようとも、また立ち直っていこうと思うことが大切である──。 

霊能力というのは、現実に存在するからこそ、危険がとても大きいと、大川隆法先生は説かれます。

最初は正しい指導を受けている霊能者であっても、ても、いつのまにか悪霊の指導にすりかわっていることが多いわけです。

「自己責任の原則」というのがこの世にはあって、すべては自らの自助努力の結果です。

考えてみると、間違った霊能者や霊能信仰に近寄ることで、逆に悪霊に憑依されて不幸になったりするのも、この「自己責任の原則」の結果ではあります。

そうではなくって、足ることを知りつつ自助努力し、「常勝思考」で自らの運命を切り拓いていく努力をしようというのが、大川隆法先生が教えられる、あるべき人生の生き方だったのだと改めて私は腑に落ちた気がしているのです。
 

『宗教の挑戦』

 大川隆法著

 

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春になって、落ち込んでるんだよね。私ってダメだなあって思うことばっかりでさ。・・・なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アイム・ファイン』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ときおり、「称賛ノート」というものをつけてみる必要があります。自分が生まれてからこのかた、どういうところがよいと人にほめられたことがあるか、もう一度、自分の過去の歴史を振り返ってみるのです。
 そうすると、ほめられたこともあるわけです。「怒られてばかりだった」と思うのは被害妄想であって、そういうことはないのです。やはり、どのような人間でも、よいところはあるものなので、ほめられたことがあるはずです。ただ、ほめられたことはすぐ忘れて、怒られたことばかりをいつまでも覚えているから、そう思うだけなのです。
 したがって、自分の歴史をたどってみて、自分のよい面を書き出してみることです。
 そうすると、「どうやら、自分は、こういう方面に長所があるらしい」ということが分かるはずです。これは、やってみないと分からないことであり、意外に考えていないものなのです。

 たとえば、「自分は女性にもてないと、くよくよしていたけれども、よく考えたら男性には評判がよかった」ということもあるわけです。男性から見れば、女性にもてる男性は嫌なものです。悪口の対象になります。それに比べて、女性にもてない男性には安心感があります。他の男性を安心させるという意味で、長所がある場合もあるわけです。
 そこで、「女性と仲よくできなくても、男性と仲よくする方法があるのではないか。男性と一緒に、仲よく仕事をしたり遊んだりする方法もあるのではないか」という方向で、自分を磨いているうちに、いつのまにか、女性も、男性のあいだで評判がよいあなたを発見し、「同性のあいだで評判のよい男性は、やはり素晴らしいのだろう」と思って、だんだん注目するようになることもあるわけです。

 まず、浮上の原理として、自分の心をもう少し理想的なところまで高める原理というものを探究してみてください。
 そして、「自分は、こういうところは間違っているけれども、この部分については、ある程度、自分でも評価できるし、人も評価してくれる」という部分があれば、その部分を基準にして、間違っている部分を照らしてみると、「自分は、どうすべきであったのか」ということが分かります。
 この理想的な部分がない人は、「自分は、どうすればよいのか」ということが、まったく分からないのです。
 そういう性格の人は、反省もよいけれども、まず、もう少し、自己確立、自己信頼の部分を伸ばしていく必要があります。
(64~67ページ)

落ち込んでしまってしょうがないときには、自分で「称賛ノート」をつけてみること。

落ち込んだ心を浮上させてみることで、その先の展望が開けてくる──。

ほんっとに驚きですけれども、これは、とても効果がある対策だと保証できます。

簡単なことでも、なんて確実な効果がある教えなんだろうって思います。

人生の達人のお教え、ほんとに凄いなあと私は思っているのです。

 

『アイム・ファイン』

 大川隆法著

 

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あの世ってのが本当にあって、守護霊ってのが本当にいるのなら、この世でも、もう少し感じ取れないと、おかしいんじゃないの。そんなのまったく分かんないのに、死後は地獄だとか天国だとか言われても、それじゃあ、神様がいじわるなだけなんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ただ、私は、霊的な体験をしている数少ない人間の一人として、「分からないには分からないだけの理由がある」と、つくづく感じるのです。
 現実に、霊たちの姿が見えたり、声が聞こえたり、霊たちのしていることや、彼らがこちらに働きかけていることが分かったりする状態で、この世の人間が地上の生活を全うすることは、極めて厳しいことなのです。「霊たちに見られている」ということが分からないようになっているので、この世の人間は、プライバシーを保つことができ、いろいろなことができるのです。それが、「ガラス掛りの状態で見られている」と思うと、たまったものではないでしょう。
 テレビドラマなどで、警察の取調室に、「こちらからは見えないが、向こうからは見える」というミラーガラスが付いており、それを通して、本人に分からないように別室から観察している場面が出てきたりしますが、あの世とこの世の関係も、実は、そのようになっています。「あの世の霊人たちからは、この世を自由に見ることができるが、この世からは、あの世が見えない」というかたちになっているのです。
 これを理不尽と見る考えもあるでしょうが、霊的な世界を実体験している立場からは、この世の生活においては、霊的なものが見えたり聞こえたりしないほうがよいと言えます。「異次元世界との交流をしながら、この世で生活する」ということは、かなり厳しいものがあり、生活に支障が出るでしょう。
 ただ、そういう世界を忘れてしまってはいけないので、霊能者や預言者、宗教家など、例外として認められた一部の人が出て霊的な世界について説き、それを広げるのですが、大多数の人は、それを実際に体験することはありません。あるいは、人々が忘れ去らない程度に、ときどき、霊的な経験をさせるのですが、日ごろは霊的なものを感じないようにしてあるのです。
 そういうシステムを守っていることが、よく分かります。
 それはそうです。たとえば、「きょうのお昼ご飯は何を食べようか」と思ったら、「これにしなさい」という声が、あちこちから聞こえてきたりすると、普通の生活はしにくくなります。
 また、何かをするたびに、いちいち、あの世から声が聞こえたり、あの世の人の姿が見えたりすると、この世の人間の主体性がなくなる面もあります。そのような環境下では、この世の人間として責任や自覚を持ち、主体的に判断しながら生きることは、かなり厳しいでしょう。
 そういう両面を考慮して、このようなかたちになっているのです。
(286~289ページ)

あの世の霊人たちからは、この世を自由に見ることができるが、この世からは、あの世が見えないというかたちになっているのには理由がある。

現実に、霊の姿が見えたり声が聞こえながら、逆に、ガラス掛りの状態で見られていることが分かると、この世で地上生活を全うすることは極めて厳しい。

ただ、そういう世界を忘れないように、例外として認められた一部の人が霊的な世界について説いたり、人々が忘れ去らない程度にときどき霊的な経験をさせるシステムになっている──。

そういう仕組みになってるからこそ、夢を見る体験は大切なことであるわけです。

また、あの世のことを実体験し続けておられる大川隆法先生のような宗教家の教えを素直に学んでみることもまた、とてもとても大切なことだと私は思っているのです。

 

『復活の法』

 大川隆法著

 

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成功するには、覇気(はき)って大事だよね。目上がどうとか、上司だとか部下だとか言ってるんじゃなくって、実力主義でいかなきゃね。・・・なーんて勢いのいい若い人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「王道」を語るにあたっては、「覇道(はどう)」とは何かを知らねばなりません。王道の対極にあるものとして、覇道というものがあります。この覇道に生きる者であっても、この世的に位人臣を極めることはありえますし、優秀なる人物であり、才能あふれる人物であることもあります。しかし、彼らには主として二つの特徴があるのです。
 その一つは、先ほど言いましたように、品性というものに香りがない、別の言葉で言うならば、品性において尊敬できないものがあるということです。それは、その人の魂の傾向性が、違ったところに向いているということを意味するのです。これが第一の関門なのです。この品性が違った方向に向いている人には、王道に入る資格がまずありません。
 この品性とはいったい何であるか。これについて語ろうとすれば、多くの言葉を費やすことになりましょうが、いやしくも王道に人らんとする者であるならば、その心のなかを見られ、その姿を見られ、他の者の目に己が姿をさらされたとしても、陰日向(かげひなた)なく、誰恥じることなき姿である必要があるということです。人前でいくらとり繕ったところで、その裏で、他の人の目に決してさらすことができないような思いを持ち、言葉を発し、行ないをしているならば、これは品性劣ると言わざるをえません。
 そして、覇道に生きる者のもう一つの特徴は、折り目正しさ、礼儀正しさというものの欠如でありましょう。あちこちに、やり手といわれる方は数多くいるでしょう。しかし、そのなかで王道に入るのではなく覇道に入っている人の特徴は、自分の上にある者、自分の上司にあたる者、優れたる者に対して敬意を表さないというところにあるのです。強き者を見て、いたずらにそれを愚弄し、あるいは軽蔑の言葉を表わし、単に尊敬しないだけではなく、陰でその人たちのことを悪しざまに言う心、これがすなわち礼を失した心です。こうした心で生きている人が、覇道に生きる者なのです。
 みなさんのなかには、みずからをエリートと思っておられる方も数多くいるでしょう。しかし今、己が心を止めて静かに振り返っていただきたい。自分は王道に入っているか、覇道に入っているかを──。覇道に入りし者は、この世において、たとえいかなる地位や名声を得ようとも、やがて、生きているうちか、あるいは地上を去った後に、必ず破滅が待ち受けているのです。それを知らねばなりません。
 ゆえに、優秀なる人びとよ。他の人びとより優れたる資質を持ちたる人びとよ。まず第一に、礼の心を忘れるな。これを忘れたときに、あなた方の優秀さは、神の光を呈さぬものとなります。この礼の心を忘れたとき、それは覇道に陥ることとなるのです。これをまず守らねばなりません。
 そして、この礼の心は、あなた方が十年、二十年、三十年を通して、やがて出世の階段を歩んでいくときに、じつはどうしても必要なことでもあるのです。この礼儀正しさが、この折り目正しさが、この秩序を愛する心が、これがあなた方を世の波風から守ることになります。それは、単に処世のうえからのみ考えても、まことに優れた生き方であるということを知らねばなりません。
(209~212ページ)

人生において真なる指導者として成功するためには、「人生の王道」を知らなくてはならない。

そのための条件の第一は、「礼」の心である──。

今日は、真なる指導者の条件の一つ目が説かれた部分を、少しだけご紹介してみました!

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

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お寺には出家して修行してるお坊さんがいると思うけど、やっぱり、出家しないと、悟りをつかむことってできないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、「悟りの方法論」について、こう教えておられます。

 第一の方法は、修行を重ねつつ智慧を得、ある場合は、心の窓を開いて霊的現象を実体験しながら、認識力を拡大していくという道です。プロの修行者、プロの宗教家の道と言ってよいでしょう。(中略)
 第二の方法は、在家の修行です。これは、「この世に立脚点を持ち、三次元的な生活を送りながらも、心は仏法真理の世界に遊び、自分の余暇のすべてをつぎ込んで、自分なりに仏法真理の探究・学習・伝道に励む」という考え方であり、仏法真理の流布のためには、非常に大切な考え方だと思います。
 多くの人たちは、プロの宗教家になるところまではいきません。そのため、在家の修行というものも大事です。もちろん、在家の修行は出家の修行とは異なりますが、ある意味では、出家の修行よりも難しいところがあるのです。なぜなら、在家においては、仏法真理とかけ離れた日常生活が展開するからです。
 プロの修行者たちが修行に専念できるのに比べると、在家の修行者にはハンディがあると言わざるをえません。それは、砂地の上を走る状態、あるいは鉄の下駄をはいて走る状態と同じだと言えるでしょう。
 しかし、仏法真理とかけ離れた難しい世界のなかで、心を常に仏法真理に向け、修行者として生きていくのは、それだけの力がつくことでもあり、ある意味では非常に有利な立場にあるとも言えます。それだけ魂を磨く機会が与えられているということです。
 第三の方法は、悟りというものを多様なかたちに変化させながら、世の中に浸透させていくことです。第二の方法としてあげた在家の修行は、「職業は職業、仏道修行は仏道修行」と二分化して考えているのに対して、この第三の道は、悟りを宗教の世界から一般の世界に解き放つことを意味しています。
 すなわち、悟りそのものを求めるだけではなく、みずからが得た悟りを他のかたちに変形させながら、世の中に広げていくという手法をとるのです。みずからが学んだ仏法真理を、芸術や文学、思想、あるいは、ビジネス社会や家庭などの現実問題に応用して、多角展開していくということです。
 これは悟りの本道とは異なりますが、みずからの分を知った人間が、その範囲のなかで、みずからの悟りを実践していこうという生き方です。プロの修行者の道ではありませんが、多角展開としての、悟りの応用という道もあるのです。現実生活のなかに仏法真理を生かしていく実践を中心として、その経験を悟りとして身につけていくやり方です。
(228~232ページ)

幸福の科学にも、職員の方(「出家者」)は、本部や支部や精舎などにいます。

でも、大部分の人は、家庭で、会社の仕事の中で、専門家としての職業世界の中で、「在家」としての修行をしています。

その在家信者は、この世の生活を送りながらも、心は仏法真理の世界に遊び、自分の余暇のすべてをつぎ込んで、自分なりに仏法真理の探究・学習・伝道に励んでいます。

でも、このように「職業は職業、仏道修行は仏道修行」と分けるのではなく、もうひとつ、みずからが学んだ仏法真理を、芸術や文学、思想、あるいは、ビジネス社会や家庭などの現実問題に応用し、多角展開して、世の中に広げていこうと努力する在家修行の道もあるわけです。

うーん、幸福の科学の信仰の形態というのは、じつはかなりいろいろあるというのを、改めて認識した気が私はしているのです。

 

『釈迦の本心』

 大川隆法著

 

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私さ、親も学校の先生も分かってくれないんだけど、才能あるって思うんだ。でも、毎日がみがみ上から言われて、イヤなんだけどなあ。なんで私の才能を認めてくれないの? なーんて悩み持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、子供向けの書籍『子供にとって大切なこと』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 君も優秀な人かもしれない。しようらいは、えらくなるかもしれない。親以上のことをするかもしれない。親にない才能があるかもしれない。学校の先生には分からないような才能があるかもしれない。友だちが持っていない才能を持っているかもしれない。それは実際にそうなのかもしれない。
 君の才能は、いつか明らかになってくるだろう。でも、今はまだ明らかではないよね。「自分には才能があるんだ。」というプライドは持っていてもいいけれども、今は、すなおに教わらなければいけない時期なんだ。
 人から教わるためには、なかなかできることではないけれども、こしを低くして頭を下げなければいけない。
 頭を下げることができる人や、こしを低くできる人のほうが、しょうらいはえらくなり、こしが低くない人や、頭を下げないでいばっている人のほうは、実はえらくなれないんだ。このように逆になってくるんだね。
 プライドの高い人もたくさんいるだろうけれども、人に頭を下げて教えてもらうのにお金はいらない。すなおな気持ちで、「分からないので教えてください。」と言えば、いくらでも教えてもらえるけれども、ふんぞり返っていばっていたら、だれも教えてくれないんだ。(中略)
 中には、ふんぞり返るだけではなくて、自分がまちがっていても、開き直ってまちがいを押し通す人や、人の意見を聞く気のない人もいる。
 それは、プライドが高いからなのだろうし、本当のことを言えば、「きずつきたくない。」という気持ちの表れなんだと思うね。
 自分が分からないことやできないことを人に知られ、「そんなことも分からないのか。」と言われて、きずつくのは、いやなものだ。それで、自分を守りたくなる気持ちは分かる。
 けれども、「自分を守りたい。」という気持ちで、分からないまま行くと、結果的には、自分を守れず、自分をもっとだめにしてしまうことになる。そのままでは、しようらい、自分がもっと大きなはじをかいてしまうこともあるんだ。(中略)
 本当に強い人、本当に大きい人は、自分を強く見せようとしたり、大きく見せようとしたりする必要はないんだ。
 しょうらい、大きなことをなしとげるような人は、今やるべきことを一つひとつ積み重ねている。いつか大きなことをなしとげるにしても、子どもには子どもの時点でしなければならない修行があるのだから、今できる努力を一つひとつやっていくことが大切なんだね。
(133~140ページ)

本当に強い人、大きい人であるならば、それだけの才能を持っているのならば、いまはまだ、自分を強く見せたり、大きく見せたりする必要はない。

子どもには子どもの時点で、青年には青年の時点で、しなければならない修行がある。

だから、今できる努力を一つひとつやっていく。

それが、私たちが持っている才能を、将来、本当に開花させるためにとても大切なのだと、大川隆法先生は教えて下さっています。

考えてみると、これは若い人たちだけへではなくって、じつはそれなりに経験を積んで来た方にとっても、深い学びになるお教えだったのではないかと改めて私は感じているのです。

 


『子どもにとって大切なこと』

 大川隆法著

 

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愛が大切って、何度も何度も教えてもらってると思うんだけど、でも、愛って何なの。何をどうすれば「愛」なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的な目で見るならば、愛は、キラキラと輝きながら立ち昇っていく水晶の珠のような光を持っています。人を愛したならば一つの水晶の珠ができ、それがキラキラと光を放ちながら空高く上がっていく──そうした姿を私は数限りなく見ています。
 おそらく、人を愛したときに立ち昇る水晶の珠が、実在世界に還って、実在世界の輝きの秘密となるのだと思います。
 愛というものを知りたくば、まずそれを実践してみることです。人を愛するということの意味を知りたければ、まず、行為してみること、言葉に出してみること、何を人に与えることができるかを考えてみることです。
 愛とは、人に尽くさんとする思いです。人によかれと願うことです。多くの草花に、水をかけてあげたり、光を注いであげたり、養分を施してあげたりする行為なのです。
 人間は、生きていくときに愛という養分がなければ、充分に育つことができません。したがって、多くの人に水や養分、光を与えてあげることが、愛するということなのです。
 結局、きょうあなたが接する人に、一人でも多くの人に、喜びや生きがいを与えること、幸福感を創造してあげること──これが愛の行為なのです。
(19~20ページ)

大川隆法先生は、ここでは「愛」を、いろんな角度から教えて下さってます。

霊的な目で見た「愛」。実践することで分かってくる「愛」。

草花に何をしてあげればいいかというふうに置き換えて考えてみれば、「愛」の具体的な形は分かってくる。

たとえば、何を人にしてあげれるかを考えてみたり、「愛してる」って言葉に出してみたり。

そこまでストレートじゃなくても、さびしそうにしてる人に、思いやりのある言葉をかけてあげること。

きょう接する一人でも多くの人に、自分のできる範囲でいいのだから、幸福感を感じるようなことをしてさしあげること。

そうだ、なんだかむつかしく考えなくても、朝に明るく元気に挨拶することだって、「愛」の一つの形なんだって、改めて納得できた気が私はしているのです。

 

『愛から祈りへ』

 大川隆法著



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