ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「阿羅漢(あらかん・あらはん)」って言葉を聞くことがあるんだけど、それって何なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦の教えのなかで、教育目的としていちばん重視されたのは、阿羅漢の状態となることでした。(中略)阿羅漢とは、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる、最初の段階なのです。
 阿羅漢の境地は、私の説いている段階論で言えば、六次元光明界の上段階の悟りに相当します。六次元の悟りというのは、仏法真理を知的に詰めていって悟る段階ですが、六次元の上段階は菩薩の前段階であり、ここにいるのは、菩薩の卵、菩薩への登竜門にいる人たちなのです。
 阿羅漢の状態にもいくつかの段階がありますが、ここでは二つに大別しておきましょう。第一は「阿羅漢向(あらかんこう)」という状態です。これは阿羅漢に向かっている状態です。第二は「阿羅漢果(あらかんか)」という状態です。「果」とは結果という意味であり、阿羅漢果とは、すでに阿羅漢に達した状態のことをいいます。
 阿羅漢向と阿羅漢果の違いは、どこにあるのでしょうか。プロの修行者としての自覚を持って生きており、心が悩みや苦しみから解放された境地にあって、常に精進を怠っていなければ、阿羅漢向の状態にあると言うことができます。そして、阿羅漢果となるためには、そうした状態が少なくとも二、三年は続いているという実績が必要なのです。
 心が穏やかで執われがなく、少々のもめごとや波風があっても心が乱されない状態、そして、みずからをよく振り返り、精進を怠らず、ある程度、天上界からの指導も受けられる状態、こうした状態が三年続けば、阿羅漢果になったと言えます。(中略)
 阿羅漢向になるだけであれば、人によっては一週間ぐらいで可能です。幼いころからの記憶を取り戻して、間違った思いと行ないを一つひとつ反省し、両眼から涙がほおを伝うにまかせて、「法雨」を流したとき、守護霊の声が聞こえ、その光を浴びて、阿羅漢の状態になることがあります。(中略)
 しかし、この状態が長く続くかどうかが鍵となります。一週間ぐらい山にこもって反省行を行ない、阿羅漢に近い状態になったとしても、下山して日常生活に戻ると、また心に曇りをつくってしまうのが人間の常だからです。(中略)
 いったんは阿羅漢向に達しても、そこから転落する者が数多いのです。それはちょうど、崖道を登っている人たちが、頂上まであと少しのところで、ゴロゴロと転げ落ちていく姿にも似ています。
 阿羅漢向になるのは、ある意味で万人に可能ですが、阿羅漢果に達するのは非常に難しいのです。阿羅漢向に達することは、仏法真理を学び、修行をしていけば、おそらく百人が百人とも可能でしょう。しかし、阿羅漢果に達するのは、その百人のうちの四人か五人にすぎないのです。
 そして、阿羅漢果に達した人たちのなかで、菩薩の境地にまで入っていけるのは、十人のうち一人にも満たないのが実情です。
(238~242ページ)

阿羅漢とは、六次元光明界の上段階の悟りを得て、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる最初の段階。菩薩の卵、菩薩への登竜門に至った段階。

この阿羅漢向になるのは、仏法真理を学び、幼いころからの間違った思いと行ないを一つひとつ反省していくような修行をしていくことで、万人に可能ではある。

しかし、それを2~3年間維持して、阿羅漢果にまで達するのは、非常に難しい──。

ここでは、真の意味の仏道修行(プロの宗教者としての出家修行)において、阿羅漢向から阿羅漢果に達し、さらに菩薩の境地にまで入っていくことの厳しさが、淡々と、しかしだからこそ安易に慢心を許さない形で語られています。

私たちは普通、プロとしての出家修行をするわけではありませんから、大半の人にとって、参考程度に聞いておけばよい話なのでありましょう。

真のプロの道は果てしなく厳しいものであることを念頭に置きつつも、植福(布施)や伝道から始まる在家としての修行を積むことで、心の平安を得て、まわりにも少しずつ幸福を広げていくのが信仰者のあるべき姿ではないかと私は思っているのです。
 

『釈迦の本心』

 大川隆法著

 

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仏教思想って、本ごとにバラバラなこと言われてて、何がなんだかわからんないんだけど、どう整理して理解していけばいいの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦には、八万四千の法門があったと言われるほどに、その教えの内容には高低があり、その幅にも、目を見張るようなバラエティがあります。しかし、その考えの柱を取り出すと、次の五つになります。
 一番目の柱とは、実相世界と地上世界、すなわち、三次元の現象世界との関わりです。釈迦が常々説いていたのは、こういうことです。
 人間には、生まれて来る前にそこにおり、死して、またそこに還る永遠の実相、実在世界があり、この世は仮の世にすぎないのだ。実在の世界が、根元の仏の創造意志によって現出したように、この三次元世界も、実在の世界の投影にすぎず、人間は、影絵の世界に住んでいるようなものである。この影絵の世界、仮の世界こそ唯一の世界だと錯覚して、人々は、地上に執着を持ち、さまざまな苦しみをつくってゆくのである。この苦しみから逃れるためには、自分が本来いた実在の世界を想い起こすことだ。そして、物質人間の執着を断って、本来の実相人間になることだ。さすれば、そこに生の苦しみなく、老いる苦しみなく、病の苦しみもない。そこにあるのは、ただ歓喜の世界であり、光煌めく光明の化身としての人間なのである。人々よ、このことを、まず、悟りなさい、と。これが教えの最初の柱でした。
 教えの二番目の柱とは、時間論です。一番目の柱を空間論とするならば、二番目の柱は、時系列的なものの考え方にあります。そのひとつが縁起の法です。この現象世界、実在世界を貫く法則は、原因と結果の法則であり、あるできごとと次なるできごとを結びつけるもの、あるいは、ある人と次なる人とを結びつけるものを縁といいます。そして、すべてのものごとは、この縁によって生ずるのです。しかも人間は、永遠の時間の流れのなかで生まれ変わり続けてゆくという転生輪廻の法則から逃れられない存在なのです。この転生輪廻も、原因あって結果ありの因果の法則に支配されております。
 来世がどのような世界で、どのように生きるかは、今世をどう生きるかにかかっており、今世の自分の魂の傾向とか、自分がおかれた環境などは、前世に起因しているのです。しかし、逆にいうならば、今世を素晴らしく生きることによって、輝ける未来世が約束されているのだと言えます。ですから、悪しき因果の循環を断つためには、今世において努力精進し、運命に翻弄されている自分の生活を立て直す以外にないのです。これを解脱といいます。そして、運命に支配されない金剛不壊の目分を発見することを悟りというのです。しかも、悟りによって如来の境地に達すれば、人間は、因果の法則で転生輪廻することから解放され、自分の自由意志によって、転生をすることが可能となります。こういう教えが、二番目の時間論なのです。
(144~146ページ)

というわけで、いろんな整理の仕方があるんでしょうけれども、ここでは『黄金の法』で、「思想的観点」から整理されている5つの柱の、さわりの部分を引用してみました。

5つの柱とは、1つ目が空間論、2つ目が時間論。

そして、3番目以降は?

気になる人は、ぜひ大川隆法先生の『黄金の法』を、ひもといてみて下さいね! 

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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仏教では、たとえ悪人であっても、すべての人が成仏できるって考えてるんでしょ。成仏って、仏になるってことだよね。人間は仏性を等しく持ってるんだし、御仏の慈悲がすべての人を救いたもうのは、当たり前の話なんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仏性とは「悟りの性質」という意味です。ですから、みなさん一人ひとりの心のなかに仏性があるということは、言葉を換えるならば、「一人ひとりに悟りの性質がある」ということです。これは「悟りの可能性」と言い換えてもかまわないと思います。
 ただ、ここで心すべきことは、(中略)「すべての人に、仏になる可能性がある、悟りの性質がある」ということは、必ずしも、「すべての人が、如来になれる、仏陀になれる」ということではないのです。それまでのあいだに、きちんとした適正なる過程を経なければならないということが、一つの注意事項として入る、ということを忘れてはいけません(中略)
 新宗教であれ、伝統宗教であれ、共通した傾向性として、「仏性という思想について誤解をしている」ということがあると思います。(中略)「みんなが努力して仏にならなければいけない」という考え方から、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれるよ」と言っている、そういうところがあるのです。
 たとえば、「人間は、大海を漕ぎ渡って、向こうの大陸まで渡ることが可能である」という考え方があるとしますと、(中略)それを言っても誰も船出をしないので、ついには大海の定義を変えてしまって、「人間は水たまりを飛び越すことが可能である」というような、小さなレベルに下ろしてしまっているわけです。(中略)
 人間が雨後の田舎道にできた水たまりをひと跨ぎで越えるぐらいのことに、いったいどれほどの手柄がありましょうか、功績がありましょうか、喜びがありましょうか、また修行がありましょうか。そうではないのです。
 たとえば、太平洋をヨットで横断するのならば、その間には、非常に艱難辛苦を伴います。雨も降る。太陽も照りつける。食糧がなくなる。水がなくなる。筋肉は痛む。身体はジリジリと日焼けしてくる。そのなかで、苦労をしながら大海を渡ると、その間の、たとえようもない試練のなかで、魂が鍛えられることもある。そして人生が磨かれることがある。また雄大な海のなかで思想を深めることができる──。
 そういう、他の誰もが経験していないようなことを経験できた人がいて、海を渡っていく素晴らしさを懇々と説いたところ、「なるほど、私たちも海を渡れるのか」ということで、最初の頃の人たちは、努力して、ボートを漕いだり、ヨットに乗ったりして、湾のなかで練習をしていた。ところが、それが二千数百年後には、いつのまにか、「水たまりをひとっ飛びに渡ることが悟りである」というような思想になって広がっていたとしたら、どうでしょうか。
 最初に太平洋を渡って、その素晴らしさを人々に伝えた人は、それを知ったらどうなりましょう。「私は水たまりを飛び越すことをもって悟りとは言わなかった。そんなことではなかった」と、きっと言うに違いありません。
 今、釈迦が、現時点での日本の仏教のあり方をみたら、これとまったく同じ思いがして当然であると私は思うのです。
(48~53ページ)

仏性とは「悟りの性質」という意味であり、「悟りの可能性」と言い換えられる。

「すべての人に悟りの性質があること」が即ち、「すべての人が、如来や仏陀になれる」ということではなく、それまでのあいだに適正なる過程を経なければならない。

ところが、多くの宗教は、この仏性の思想を誤解し、仏の基準を引き下げてしまうことによって、「だから、みんな仏になれる」と言っているところがある──。

既存の仏教では、たとえ悪人であっても、念仏さえ唱えれば仏になれると説いている宗派が最大と言われいると思います。

でもその教えは、お釈迦様(釈尊)の当初の考えからは、かなり外れてしまっているということだと思います。

いくら人間には等しく悟りの性質、仏になる可能性があるといっても、やはり、大宇宙をつらぬく「縁起の理法」(「原因・結果の法則」)があるわけです。

適切な修行を積むことで、今世、悟りを開くこともあるでしょう。また、そういった修行を重ねて行き、長い長い転生の間に、如来や仏陀に至ることはあり得ることだと思います。

しかし、「適正なる過程」と大川隆法先生が説かれているような、適切な修行を何もすることなしに、念仏を唱える程度では、一足飛びに仏(仏陀)になるようなことは起こらない、ということなのだと私は理解しているのです。

『心の挑戦』

 大川隆法著

 

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仏教って、ほんとに教えが多すぎてわかんないじゃない。まず何をつかめばいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀の証明』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 肉体というのは有限なのです。有限とは文字どおり、「限りがある」ということです。限りがあるということは、それに執われ、こだわり、執着して、心を縛りつけても、結局は無常のものであるということです。
 無常とは、「常ならず」ということです。「肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである」──これは簡単なようでありながら、結局、仏教の基本であり中心なのです。まず、ここから入っているのです。
 釈尊の悟りからいうと、結局、人間の悩みや苦しみのもとは肉体なのです。肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」ゆえに、不幸が来るのです。実は、これが大きな出発点なのです。簡単なようでありながら、よくよく考えてみると、確かにそのとおりです。
 幸福の科学の会員のみなさんは、日々、仏法真理を学んで活動していますから、人間は霊的存在であるということを、ごく初歩の真理のように思うかもしれません。しかし、仏法真理に目覚める前には、あの世の世界を中心にものごとを考えるとか、霊的存在としての自己認識から世界を見るなどというようなことは、できていなかったでしょう。
 同じように、今でもまだ、そうした人が大勢いるわけです。彼らは、毎朝、電車やバス、タクシーなどで、一時間以上揺られながら会社に出勤し、一日を終えて帰ってくるということをくり返していますが、残念ながら、根本のところに目覚めてはいません。
 肉体に宿りながら肉体を超えるというのは、非常に難しいことです。肉体に宿って生きながら、「肉体的生存を超えた存在が自分である」ということを知ることは非常に難しいことですが、実は、これが悟りの第一歩なのです。
(57~59ページ)

肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである。

人間の悩みや苦しみのもとは肉体であって、肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」ゆえに、不幸が来る。

肉体に宿って生きながら、「肉体的生存を超えた存在が自分である」と知ることは非常に難しいが、これが悟りの第一歩である──。

つまり、ここで教えられているのは、こうことではないでしょうか。

肉体は常ならず。その肉体的生存を超えた存在、つまり霊的存在としての霊魂こそが、ほんとうの自分である、と。

実は仏教の基本はこれを知ることであって、それが悟りの第一歩として、「目覚めた」ということでもあるのではないかと私は思っているのです。
 

『仏陀の証明』

 大川隆法著

 

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仏教っていうのは、この世での生活を否定して、あの世で極楽に行くことを求めてたんじゃないの。それは今の時代も維持されるべき教えなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 二千五百年前の釈迦仏教は、「この世への執着を去り、この世に還ってこなくなることが幸福だ」ということを説いたと捉えられます。しかし、この世が発展し、環境がよくなったため、この世に生まれ変わってくる人が増えています。時代は釈尊の教説とは反対の方向に動いているようです。
 この部分については思想的な戦いの決着がついていません。むしろ、インドでは、仏教が滅びて、現世肯定的なヒンズー教が広がり、人口が増えているので、釈尊の教えの反対になっているように見えなくもないのです。
 このように、「宗教的思想は現代において検証し直されているのではないか」と思います。
 ここで、私が基本的な立場として言っておかなければならないと思うことは、「新しい宗教としては、これからも日進月歩するであろう科学技術文明そのものを否定するかたちの宗教にはしたくない。世の中が便利になるのは結構なことである」ということです。
 かつては東海道を徒歩で移動していましたが、やがて、移動手段が、馬になり、鉄道になり、飛行機になり、リニアモーターカーになっていくこと自体は、それはそれでよいでしょう。それだけ密度の高い人生経験を積めるようになるので、それを宗教的に否定しようとは思いません。
 また、魂としてでなければ宇宙空間に行くことはできなかったのに、スペースシャトルなどの宇宙船によって、肉体を持ったままで宇宙に行ける時代が来たことも、宗教的に否定しようとは思いません。
 ただ、その高度な科学技術文明に釣り合うだけの霊性、霊的なバランス感覚は必要であると思います。「この世が進歩し、住みやすくなるにつれて、あの世的なもの、霊的なものを忘れていく」ということであるならば、この世に生まれ変わった人の多くが地獄人口へと転化していく可能性は、極めて高いと言わざるをえません。
 そういう時代であるからこそ、霊的な思想を信じる人々の裾野を広げていかなければならないのです。「霊的な思想は、決して古代だけのものではなく、現代にも必要なものなのだ」ということを伝えていく使命が、幸福の科学に課せられているのです。
(293~296ページ)

この世が科学技術の力で進歩して、便利になっていくのは、とてもけっこうなことです。

その便利な環境を求めて多くの魂が生まれ変わってきていることは、むしろ好ましいということになります。

つまり、大川隆法先生は、はっきりと述べておられませんが、その意味では、2500年前にお釈迦さまが説かれた仏教の教えは、現代においては適合しなくなってきている部分もあるってことだと思います。

そして、そこで大事なのは、この高度な科学技術文明に釣り合うだけの霊性も必要だということ。

それを抜きにして、単純にあの世的なものや霊的なものの否定に行くのであれば、あの世に還ったときに、天国ではなく地獄へと行ってしまうことになる。

だからこそ、「霊的思想は現代にも必要である」と、広く述べ伝えていかなくてはならない、と。

これを確信をもって伝えることができる、幸福の科学の使命は、それこそ限りなく大きなものだと私は改めて思っているのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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大川隆法先生は、お釈迦さまの生まれ変わりなんだって? お釈迦さまの時代だって、霊界があって、宇宙があって、他の星があって、というのは同じはずなのに、お釈迦さまの説いてた話って、いま大川隆法先生が説いてるのと、だいぶ違わないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 実在界に対する釈迦の認識はかなり進んだものであって、九次元宇宙界の本質まで悟っており、「九次元世界は地球だけで完結するものではなく、地球以外の惑星にも広がっている。他の惑星にも素晴らしい霊人たちが数多くいて、修行をしている」という事実もつかんでいました。
 また、「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」という自己拡大の経験をしたときには、地球という惑星が非常に小さな点となり、みずからの内臓の細胞の一つになっていくのを実体験していたので、宇宙というものの感覚もつかんでいました。
 しかし、それらを当時の弟子たちに説くのは非常に困難だったため、さまざまなたとえ話で語るにとどめていました。当時の人びとは、宇宙の構造を聞くまでには、魂の勉強が進んでいなかったのです。
 現在、私は実在界の姿を解明していますが、そうした世界について、今から二千五百年前のインド社会という限界のなかではありますが、釈迦はすでに知っていたのです。
 ただ、釈迦に足らざるところがあったとすれば、地上にいるときの世界観が、まだいくぶんインドを中心としたものだったために、幽体離脱をして実在界に行っても、会っている霊人たちが、主としてインドを霊域とした人たちだったということです。違った霊域の人びとと会うには非常に難しい面があったと言えます。
 また、実在界には、いろいろなスタイルで生きている人が数多くいて、釈迦が彼らを非常に珍しい眼で見ていたことも事実ですが、「彼らの存在がいかなるところからきているのか。彼らはどのような生活をしているのか」ということを、深く追究しないままに終わったところがあります。
 しかし、釈迦が幽体離脱によって実在界を実体験したことは、生と死の意味、人生の目的、転生輪廻を説く際に、大きな力となったことは事実です。実在世界の発見によって、彼の思想はいっそうの高まりや深み、真実感を得たのです。
(154~157ページ)

釈迦(釈尊)は、九次元宇宙界の本質や、宇宙人たちの存在、宇宙の感覚をもつかんでいたが、当時の人々がこれらを聞くまでに魂の勉強が進んでおらず、さまざまなたとえ話で語るにとどめていた。

また、インドを中心とした世界観だったために、実在界でも主としてインド霊域の霊人たちと会っており、他について深く追究しないまま終わったところがあった。

しかし、釈迦が幽体離脱で実在界を実体験したことは、その思想に高まりや深みを与え、生と死の意味、人生の目的、転生輪廻などを説く際に、大きな力となっていた──。

2500年前のお釈迦さま(釈尊)の時代には、本当の悟りをつかんでおられても、時代の制約や弟子たちの理解力の限界があって、全世界の人々のことや、宇宙人を含む大宇宙の真実についてまで、十分に説くことができなかったわけです。

でも、現代日本で悟りを開かれた大川隆法先生は、そのような時代の制約からはかなり自由に、広大無辺な悟りの世界を、書籍で、講演で、惜しみなく開陳してくださっています。
 
あとは、そのお教えを受ける私たちの理解力の限界が、このお教えの限界にならないように、しっかりと心を開いて虚心に学び続ける努力が求められているのではないかと私は感じているのです。
 
 
『釈迦の本心』

 大川隆法著



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宗教に入れば、「解脱(げだつ)」できるんでしょ。で、神秘体験できるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 解脱とは「心の自由を手にすること」と説明しましたが、真実の宗教の立場からみて、それでは「心の自由を得る」とはいったいどういうことなのか、その内容を吟味してみたいと思います。
 まず最初に挙げるべきものとして、「信解脱(しんげだつ)」というものがあります。これは「信仰心による解脱」ということです。この信解脱は、「疑」の克服がその中心であると一般的に言われています。
 疑とは何であるかというと、正しい神理、仏法、あるいは法を説く仏陀、如来に対する疑いです。そういう三次元的な、この世的な疑問や疑いを解くこと、疑いを否定して、そして信じること、これが疑の克服に当たるわけです。
 そうしてみると、ここではまず、次のようなことが言えると思うのです。
 正しい宗教を信じない人、真実の仏陀の教えを信じない人にも二種類あって、一つは宗教心のまったくない人です。宗教心がまったくなく、宗教そのものを信じない。そういう教えなるものがあるということを信じない。あるいは、あの世とか、神仏とか、霊とかをまったく信じない方です。かなり頑迷ですし、魂的にみれば、そうとう曇りがかかっており、また発展が遅れている方であることは間違いありません。こうした無神論的あるいは唯物論的な考えを持っている人に、その疑問を解いてもらうということもありましょう。
 もう一つは、神仏を信じ、宗教を信じているにもかかわらず、間違った宗教にどっぷり浸かっている人、要するに〝悪霊型宗教〟に染まっている人です。「邪見」といって、間違った教えを信奉していたり、「戒禁取見(かいごんじゅけん)」といって、間違った修行方法や戒律などを守っている人が、地上にはまだ数多くいます。
 こういう人たちが、自分たちの間違いに気がついて、真実の仏陀の教えに帰依し、この教えについていこう、そして自分自身を高めていこうという境地が固まったときに、これを「信解脱」といいます。要するに、信仰心による解脱です。
 つまり、この世的な疑いや、間違った宗教による悪しき見解を振り払うことができ、そして神仏に向かってまっすぐに進んでいく道に入ったということです。これを、「預流(よる)」ともいいますが、悟りの段階としては第一段階です。正しい信仰の流れのなかに入ったというのが、この信解脱です。
 この際に、「では、単に信じればよいのか」というような考えもあるかと思いますが、ただ信じるというだけでは、やはり弱いかもしれません。というのは、宗教ではどこも「信じなさい」ということを言うので、宗教心のある人でも、他人に勧められて、「これはいい」と思って信じたけれども、しばらくすると他の宗教が出てきて目移りをするということは、いくらでもあるからです。ですから、この信解脱においても、ある程度の智慧、知識的な理解が必要になると思います。要するに、正しい教えであると自分が納得できる程度の、最低限の神理の理解は必要なのではないかと思います。(中略)
 これは、第2章「戒律とは何か」の説明で言えば、どちらかというと「三帰五戒」の段階が中心ではないかと思います。戒律を守って生きていこうとする、あるいは幸福の科学のルールを守って生きていこうとする決心ができた段階です。この段階で、悪魔とか悪霊などの誘惑から、かなり脱することが可能となっています。
(204~208ページ)

「解脱」にも段階がある。

神秘体験うんぬんではなくって、最初の解脱とは、「信解脱」。

これは、「疑」を克服した信仰心による解脱である──。

幸福の科学では、まずは主エル・カンターレを信じることができる方が「入会」できます。

その先には、仏・法・僧の三宝を信じることを誓願する「三帰誓願式」というものがあります。

ただ入会しただけで解脱するわけではなく、教団の中で勉強したり伝道したりと一定の修行をするうちに、この三帰誓願をしようと決意できる段階あたりが、この「信解脱」に該当するのだろうと、私は理解しています。

では、その先にある解脱の段階とは何かですが、これについてはやはり、本書の続きの部分を、ぜひ手にとって読んでみていただければと私は思っているのです。


『沈黙の仏陀』

 大川隆法著

 

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仏教って、教えが多すぎて、よくわかんないよ。要するに、教えの核の部分を取り出したら、何が大事なの? なーんて要領のいい疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」という言葉があります。要するに、上に向かっては悟りを限りなく求め(上求菩提)、下に向かっては一人でも多くの人を救おう(教化しよう)とする(下化衆生)ということです。仏教の根本精神はここに尽きているわけです。
 このなかの「上求菩提」、悟りを求めていこうとするところに小乗仏教の中心概念があるわけです。悟りを求めていこうとしたら、どうしても世間に関わってはいられなくなり、結局は出家者として修行するしかないという流れがあります。
 それから「下化衆生」、人びとを救っていこうとしたら、もうそんな戒律だとか何とかと言ってはいられません。人びとと一緒になって救っていかなければいけなくなります。あるいは、一人でも多くの人に宗教心を起こさせなければいけなくなります。そうすると、釈迦がたとえ八万四千の教えを説いたとしても、「そんなことはどうでもいい。『南無阿弥陀仏』だけでもいい。『法華経』を持っているだけでもいい」と、そういう簡単なところにまで落としていってでも、人びとに法縁をつけなければいけない──「下化衆生」を極端に進めると、そこまでいくわけです。
 この両方を、過去の仏教は経験したわけです。そして今、かなり生命を失った状況まできていると思います。
 ですから、本来の趣旨に立ち返ってみると、私たちがしなければならないことは、はっきりしているのです。「上求菩提・下化衆生」なのです。
 人間は安易な方向に流れていきますから、どちらか一方に走りたがります。方向性が一定だと楽なのです。
 「上求菩提」というと、「ああ、そうか。悟りを求めたらいいのか。それでは、世間のことは、一切、断ち切って、山のなかに籠もって修行に打ち込もう」となります。これはある意味では楽なのですが、この世に対する責任を放棄しています。(中略)
 逆に、「下化衆生」も結構ですが、お坊さんが、一生懸命、商売に励んで俗化している姿が、あちらにもこちらにも見受けられます。本来の教えそのものを放棄して、教学もせず、修行もしない生臭坊主が横行していることも多いです。(中略)
 私たちがしなければいけないことは、結局、この矛盾する方向性を統一すべく精進するしかない、矛盾にひるまず、この統一性をあくまでも追求する姿勢を忘れてはいけない、ということです。
 すなわち、あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団でなければいけないのです。これは根本の仏教のなかに、もともとあるものであって、どちらか一方でよいというものではないのです。
 そこで、どうすればよいかというと、修行者としては、やはり自分には厳しい態度が必要です。要するに、修行する心、悟りを求めていく態度において自分には厳しく、ということです。同時に、人を救うわけですから、他人に対して優しくあらねばなりません。「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が、「上求菩提・下化衆生」の態度だと思うのです。
(87~90ページ)

仏教精神を核にした幸福の科学の教えを信じる人には、「上求菩提・下化衆生」の精神が必要である。

あくまでも悟りを求める集団でありながら、同時に人びとを一人でも多く救っていきたいと願う集団の一人であること。

「自分には厳しく、人には優しく寛容に」という態度が常に求められている──。

仏教の教えの核心といっても、仏教の教えはあまりに広大すぎて、どの角度からどう迫るかでとらえ方も異なってしまうんだと思います。

しかし、大川隆法先生は、小乗仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の流れなどを詳細に解説された上で、2500年続いてきた「仏教の根本精神」がどこにあるのかを、こんな形で、とてもわかりやすく私たちに説いて下さっています。

これはとてもありがたく尊いことではないでしょうか。

再誕の仏陀(生まれ変わった釈尊)であるからこその教えであるのだと、改めて深く私は感じているのです。
 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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「無我」について、一度、記事があったけど、なんでお釈迦さまがそんなこと説いたのか、やっぱりよくわかんないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心。あるいは我見──我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。
 そして、それが最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」ぐふとっく求めても得られない苦しみ)です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともとは「我」のところからきているのです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。
 「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。(中略)
 まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。
 ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。
 本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。
 この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己れを空しうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。
 神仏と一体になるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。
 無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。(中略)
 要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体になるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなた方を生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。
(161~165ページ)

お釈迦さまが、「無我」の教えを説いた理由の一つは、人生の苦しみのほとんどは執着に原因があって、その執着を取り去るために、「我」を取り去る教えが必要だったから、ということ。

そして、この無我というのは、「我」がないと言ってるわけではなくて、一つには、反省・瞑想・祈りによって神仏と一体になること。

もう一つには、利他・愛他で他人と一体になること、を教えていること──。

サラッと書かれてますけれども、これは、仏教の根本のもっとも深い部分を、現代日本の言葉で、しかも分かりやすく教えて下さっているところに、その凄さがあるわけです。

長年、たくさんの仏教学者がよってたかって研究してもよく分からなかった仏教の核心部分を、こんな形で説くことができる方は一体全体、誰であるのか。

それこそが実は、「仏陀」であり、大川隆法先生であるのだと、私は確信しているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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キリスト教って、世界宗教なんだろうけど、自分たちが神によって選ばれた特別な民族だとか、聖書に書いてあるんでしょ。選んだ民族しか愛してくれない神さまなんて、ちょっとついていけないなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 また、『聖書』の一部である『旧約聖書』において、イスラエルの人びとと神との契約の流れを見るにつけても、信じがたいものが数多くあります。
 いちばん問題があると思えるのは、モーセが「出エジプト」をなしたときのことです。当時、ユダヤ人の壮年男性が六十万人ほどいたと記録には遣(のこ)っています。その数が事実だとしても、この壮年男性六十万人を導いた神が、ユダヤ人、イスラエル人だけを守護し、イスラエル人とだけ契約し、異民族や、他宗教を信ずる者たちを排撃する神であるとするならば、この神がほんとうに造物主であり、唯一の神であり、世界を創った全智全能の神であると、みなさんは信じられるでしょうか。(中略)
 民族神は造物主にはなれません。民族神は、全世界を創り、全世界の人びとを幸福に生かすことはできません。民族神の使命は、限られた民族の幸福を願うことです。その民族神の上に、全民族、全世界の人びとを幸福に導こうとしている霊人たちがいます。これが霊界のほんとうの姿なのです。
 したがって、数の上では世界の十数億の人びとのあいだに広まったとされるキリスト教であっても、その信仰の原点のところにおいて、「民族神を造物主と誤ってはいないか」という論点があるのです。
 さらには、キリスト教のなかにある「選民思想」──現代でいうならばナショナリズムともいうべき右翼的思想が、唯一神の考えだと思われたために、その後の数千年の歴史のなかで、どれだけ多くの血が流れたことでしょうか。『旧約聖書』を読めば、モーセを導いた神は、「カナンの地を自由に奪い取ってよい」「イスラエル以外の民族を打ち殺して、土地を奪ってよい」と教えています。きわめて偏狭でナショナリスティックな指導をしています。オールマイティーの神ではありません。
 神がそのように、「暴力を振るい、人びとを殺して、土地を奪ってよい」と言っているから、その後のキリスト教徒たちの流れを見なさい。その教えを広げるために、どれほど植民地主義的行為をなしたか。どれほど多くの人びとを苦しめたか。アフリカ大陸をケーキのように切り取ったのは誰であったか。キリスト教徒たちではなかったか。アメリカの地において、父祖伝来の地に住んでいたインディアンたちを、ほとんど絶滅の危機に陥れたのは誰であったか。クリスチャンの仕業ではなかったのか。
 それは、その教えのルーツ(根源)において、ゼネラル(普遍的)な神の思想ではないものが入っているからです。(中略)
 しかし、キリスト教を、このような偏狭な思いから救い、世界宗教になすために、歴史上、大きな力が働いています。これが、ローマ帝国以降、ヨーロッパにキリスト教が広まっていくときに働いた、霊天上界の力、愛の力、愛の教え、愛の神エル・カンターレの指導です。
 古代ユダヤの預言者たちを地上に出したときに、「エロヒム」、あるいは「エル」という名で彼らを指導したのもエル・カンターレです。そこには、カトリックのもとである普遍主義、普遍的なる教えがありました。しかし彼らは、肉を持つ人間の悲しさとして、それを理解しきることが、なかなかできませんでした。
(24~27ページ)

キリスト教の方には信じがたい話だろうと思いますが、ここで大川隆法先生は、大変なことを説いておられます。

キリスト教には、イスラエルの民族神の教えと普遍的な神の教えが混在しているが、この普遍的な神である「エロヒム」や「エル」こそが、実はエル・カンターレであったのだ、というのです。

『黄金の法』をひもといてみると(279~280ページ)、ここでイスラエルの民族神と言われているのはヤハウェと呼ばれる神であり、実は「エンリル」という九次元霊であったことが明かされています。

従来のキリスト教では、神は唯一神のはずなので、ヤハウェもエロヒムやエルもこの唯一神のことを指しているとしか理解されませんでした。

でも、九次元という最高霊域に10体の大霊がおられ、いずれも「神」と呼ばれてきたことを知ることで、ここでのお教えの意味がよく分かってきます。

また、キリスト教は普遍的な愛の教えを説くはずなのに、なぜに歴史上たくさんの過ちを犯してきたのかなど、多くの宗教的疑問が解消されてきます。

さらに、「日本発世界宗教」と表現される幸福の科学が、日本人について、旧約聖書に言う意味での“選ばれた民”などと位置づけていないことにも改めて気づかざるを得ません。

そして、その理由についても、今日のお教えでよく理解できた気が私はしているのです。 

 

『信仰告白の時代』

 大川隆法著



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仏って、仏典では、「長いあいだ修行して仏になる」と書いてあったり、「初めから仏である」と書いてあったりもするんじゃないかな。どう理解したらいいんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人問的属性を超えた存在である仏には二つの現れ方があります。すなわち、「初めから、役割上、仏としての姿形を持って仕事をしている存在」と、「いったん、片々たる魂となって個々の肉体に宿り、永遠の修行を経て、元なるものに近い姿に帰っていった存在」という二つの現れ方があるのです。
 実は、魂というものは、創られた時点がすべて同時期ではありません。いろいろな時期に、いろいろな環境下で創られた魂の群れというものがあります。また、創られた時点に差があるだけでなく、創られた目的が違う場合もあります。
 創られた時期の違いで言うと、たとえば、ある百億ほどの魂の群れが、いまから二十億年ぐらい前に創られたとします。その魂群は、転生輪廻をして魂修行を行います。その後、十億年ぐらいたってから、また何十億かの魂の群れが創られたとします。そうすると、二十億年ぐらい前に創られた魂群のなかには、その十億年間の転生輪廻の過程で、そうとう魂修行をして、かなり魂が進化しているものがいるはずです。こういう魂たちは、あとから創られた魂群のところへ、最初から高い悟りを得ている仏の姿で現れてくることもありうるのです。
 これは究極の秘密なので、あまり明かせないのですが、「古い魂ほど、進化して偉くなっていることが多い」と考えてよいでしょう。
 ただ、魂の群れのなかには、やはり、一定の目的のために最初に創られた、先生役の存在があります。
 たとえば、日本の大学には、まだ百数十年という短い歴史しかありませんが、多くの場合、「その大学の卒業生が、そこで助手になり、助教授になり、教授になる」という過程を経ることになります。
 しかし、最初に大学をつくったときには、やはり、先生がいないと授業はできないので、よそから先生に来てもらったでしょう。
 それと同じように、初めて魂を創るときには、どうしても先生役の魂も創らなくてはいけなかったのです。
 そのあとは、「教育の過程で、優秀な人が、どんどん先生になっていく」ということになったわけです。
 このようなたとえで、仏という言葉を理解してください。
(150~153ページ)

魂の群れのなかには、一定の目的のために最初に創られた、先生役の存在がある──。

「究極の秘密」として、二十億年ぐらい前とか、十億年前とかいうスケールで語られていて、想像を絶する話ではあります。

でも、つまりは、仏にはやはり二つの現れ方があったのだ、それを仏典は書きあらわそうとしていたのだということなんだと私は理解しているのです。

 

『信仰のすすめ』

 大川隆法著

 

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禅定について書かれた記事が、以前あったよね。でも、さわりだけとか言って、よく分からなかったんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 瞑想の状態に入っていきますと、心はもう三次元にはありません。心の状態は四次元以降の異次元世界のなかにあります。
 そして、たとえば、あなたがその瞑想の状態で死んだとするならば、あなたの魂は、その心の統一度に応じた世界に還るということになります。瞑想の際に、自分の精神がもし地獄的なるものであったら、死ぬと地獄に還るわけです。天国的なるものであったら、その念いのレベルに応じた世界に還ることができるのです。
 不思議なもので、人間の心にも一定の実力があって、常日頃、自分が考えている世界から、ほど遠いところには行かないものです。そして、最高のものを念おうとしても、やはり〝その人なりの最高″というべきものがあって、なかなか、それ以上のものには近づくことができないものなのです。(中略)
 天国に還るところまでは、どの方にも、ある程度は可能です。それからあと、光の菩薩として、いかなる階梯を昇ることができるのか。高級なる、高度なる、いかなる世界への参入が許されるのか。それがやはり、「みなさんの常日頃の精進がどこまで進んでいるか」ということと関係があるのです。
 もちろん、過去世での魂修行もあります。過去、幾転生したなかで、どの程度の魂の実力を培ってきたかということがあります。その魂の実力に応じて、今世でも潜在意識の宝庫の聞き方は、当然違います。ですから、今世だけの修行で、すべてが可能なわけではありません。
 しかし、「少なくとも今世の修行において、心の塵や垢を落とし、磨き上げることによって、自分の守護霊と交信するところまでは可能です」ということを、私は何度も何度も申し上げております。これが、「誰もが阿羅漢(あらかん)になることはできます」と言っているのと同じことであるわけです。
 常に心の錆落としをし、そして心を統一することを心がけていますと、自然自然に、潜在意識の世界である、自分自身の魂の兄弟、守護霊たちと交流することができます。
 その体験は、なんともいえず幸福な体験です。「彼らは常に見守ってくれている」ということを感じます。毎日の生活をしていても、温かい眼差しで自分を見ているものがある、自分を支えているものがある、という気持ちがします。そして感謝の気持ちが出て、ぽかぽかとした温かい気持ちになって、すべての人々に善意をふりまいていこうという気持ちが起きてきます。
 禅定は、禅定のみのためにあるのではありません。禅定をすることによって、自分自身が本来、来(きた)った世界と、もう一度交流するチャンスを得て、本来の世界に対する理想を抱き、また本来の世界から、自分の魂の兄弟、あるいは、より上位の先生役である指導霊からも光をいただいて、毎日毎日を生活していくための新たな活力源、エネルギー源と変えていく──それが禅定の本質なのです。
(105~108ページ)

ここで出てきている「阿羅漢になる」というのは、旧来の仏教の世界で「悟りを開く」というのとほぼ同じ意味になる、とも教えていただいてます。

つまり、とてもやさしく話して下さっているわけですが、ここでじつは、悟りの本来の意味と目的、そして悟りの開き方というような、ものすごく深遠な世界が説かれていると思うのです。

禅定や瞑想についてこんな明快な教えというのは、やっぱり仏陀であり救世主であられるからこそ。

教えとして座学しているだけでなくって、ときどきは瞑想を実修してみることで、このお教えの本当の凄みをもっと実感してみたいものだと私は思っているのです。

 

『心の挑戦』

 大川隆法著

 


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お釈迦さまって、他の思想家から形而上学的な論争を挑まれたけど、何も答えられなかったんだって? これが「無記(むき)」だって聞いたことがあるんだけど、なんでなの。哲学的論争はできない方だったのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 マールンキャ・プッタという人が、釈迦に「人間の死後の生命はどうなるのか。生存はどうなるのか」「宇宙は有限か無限か」というような形而上学的な質問をしましたが、それに対して釈迦は答えなかったという話が『箭喩(せんゆ)経』のなかに出ています。これを「無記(むき)」といいます。そして語ったのが、有名な「毒矢の譬え(たとえ)」です。これは知っている方も多いでしょう。
 どこからともなく飛んできた毒矢が身体に当たって、死にそうな人がいました。そこで、矢を抜いて治療しようとしたら、その人が言うのです。
 「待ってくれ。矢を抜かないでくれ。この矢が、誰が射たもので、どの方角から飛んできたもので、いかなる種類の毒を塗っているのか、その説明を聞かないかぎり、治療してもらっては困る」
 そこで、治療しようとした人は、
 「しかし、そのようなことを言っていたら、その間に毒がまわって死んでしまう。いま必要なことは、そういうことではなくて、まず矢を抜いて、その毒がまわらないようにきつく縛り、血を抜いて、治療することである。矢は誰が射たか、どの方角から飛んできたか、矢は何の材質でできているか、何のためにその人を射たのか、そんなことを考えるのはそれから後でもよいだろう。まず治療することが大事だ」
 と、応えるわけです。
 すなわち、「人生の向上に少しも役立たない形而上学的な議論、この世的な具体性のない抽象的な議論ばかり重ねても、人はよくなることも救われることもないのだ。そういう議論に立ち入ることを避けて、まず、あなた方は自分の人生を正しくせよ。まず、正しき心の探究をしなさい。八正道を究めなさい。そうすれば、あなた方は、その苦しみから逃れて幸福な道に入れるのだ。まず、それを実践しなさい。『霊魂が死後どうなるか』とか、『宇宙は有限か無限か』とか、そんな話をしたところで何になるか」ということを言っているのです。
 これが「毒矢の誓え」で語った話なのですが、弟子たちはその真意がわからないため、「では、死後の世界はないのだ。宇宙はないのだ。この世だけなのだ。この世だけきちんと生きればよいのだ」という説明になっていくのです。(中略)
 これは対機説法です。
 ただ、その人に合わせた話をしているのに、すぐ一般化するワンパターン人間がいます。一般化するときに、知力が弱いと杓子定規になっていくわけです。
(156~159ページ)

問いに対して、あえて答えないことも、その人に対する愛だってことも、実はある。

そして、その説法を単純に一般化してしまうと、仏の真意は間違って伝えられていく。

仏の教えは、対機説法であって、ある時、ある場所で、ある人に対して、その機根に合わせて縦横無尽に説かれるもの。

だからこそ、法を受けとめ、これを後世に伝えていく弟子たちにも十分な知恵が必要であると私は思っているのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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千日回峯(せんにちかいほう)で、阿闇梨(あじゃり)になったお坊さんっているよね。やっぱり悟りを得るためには、山での厳しい修行が必要だってことなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、二千五百年前のお釈迦さまの悟りを解説して、こう説いておられます。

 二十九歳までのカビラ城のなかでの優雅な生活、物質的に恵まれ、快楽に恵まれた生活のなかでは、人生の本当の意味、疑問に答えてくれるものはなかった。快楽のなかにあるものは、人間としての堕落だった。(中略)ゆえに、極端な快楽のなかに生きることは、人間を真に幸福へと導く道ではない。少なくとも悟りという名を冠したところの幸福に導く道ではない。
 一方、六年に及ぶ難行苦行の道も、結局、それは肉体をいじめぬき、最後は地上の生命を断つという論理的帰結になるだけであって、もし、この世に生まれてきた人間が、みずからの生命を断つことが修行であるならば、生まれてこなかったほうがよいということになる。論理的に考えてもそのようになる。何のために生まれてきたのか、その意味がない。生まれてきた意味、人生の意味という疑問に対する答えとはならず、それからの逃避となっている──。(中略)
 考えてみれば、たとえ針のむしろの上に坐ったところで、たとえ一本足で立ちつづけたところで、たとえ水のなかに魚のように潜ったところで、人間としての魂の向上、認識力の向上、知性や理性に沿った発展ということは、到底考えられないのです。
 仏教の思想においては、両極端を去って中道に入ろうとしたということ、その発祥における行動の原型というものが、仏教思想の大きなバックボーンになっているということを、まず知らなければいけません。
 ゆえに、実践論的観点からの中道とは、快楽主義あるいは苦行主義といった両極端を否定して、中(なか)なる道に入るということです。これは、ほどほどの道に入るという意味では決してなく、極端を否定したところに現われる境地なのです。「結局、その両極端には答えがない」ということを、はっきりと知った後に得られた境地であり、ほどほどの、いいかげんな生き方をすれば得られるという境地ではありません。それをまず知っておいてください。
 これが実践論的観点からの中道です。これは、現代においても、悟りを求めていく際に参考とされる考え方の一つではないかと思えるのです。
 現代でも、難行苦行をしている人はまだたくさんいます。インドにもいます。日本にもいます。山のなかで千日回峯をして阿闇梨(あじゃり)になったというような方もいます。もちろん、身体は健康になるでしょう。あるいは精神力も鍛えられるかもしれません。ただ、これは悟りとは無縁の行為です。それ以外のいかなるスーパーマン的な修行方法も、実は悟りとは無縁のものです。
 一方において、堕落した生活──みずからを甘やかし、みずからの欲情のままに生きるような生活のなかで悟りが得られるわけではないのも、もちろん当然のことです。
 ゆえに、「みずからを律し、中道に入って修行する態度をとってこそ、修行者は悟りを得る道に入るのだ」という実践論的な観点を知らなくてはなりません。
(22~26ページ)

「実践論的観点からの中道」という難しい言葉が出てきています。

要は、抽象的な思想としてではなく、修行論として実践的に「中道(ちゅうどう)」という言葉を考える、とでも理解すればいいんでしょうね。

こうしてお釈迦さまは、快楽主義を否定し、苦行主義もまた否定した、中(なか)なる道、つまりは日々の生活の中でみずからを律し、心の修行を地道に推し進めていくことこそが、悟りへ向かう「王道」であることをつかまれた──。

・・・うーん、今日はちょっと難しかったでしょうか。

この「悟り」の問題については、大川隆法先生は本当にさまざまな角度から説いておられます。

また別の機会に、そのお教えをご紹介するなかで、この悟りの意味をもっと深めてみたいと私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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キリスト教で教えられる「処女懐胎」って、ほんとなのかな。イエスさまは救世主だったのに、なんで十字架にかけられてしまったの。キリスト教の本を読んでも、どうしても納得できないんだけどな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 『聖書』には、「処女マリアが懐妊してイエスを産んだ」ということが、奇跡として語られていますが、これについて考えてみましょう。
 現代でも、結婚式のとき、すでに妊娠していて、おなかの大きい花嫁さんはよくいます。おなかが大きいために、新婚旅行に行けないという人もいます。
 結論的に言えば、おそらく、二千年前にそういうことが起きたのだと考えてよいでしょう。結婚前に身ごもったのだろうと思います。それだけのことです。
 しかし、宗教としては、それを「処女懐胎」と称し、二千年間、押し通しています。ずっと押し通すと、それなりに論理が通ってきて、むしろ、それが神秘的な部分になってくるのです。
 そうすると、単なる男女の問題ではなくなり、「人間というのは、肉体としてのみ生まれるのではなく、聖霊が宿って生まれるのだ。魂が宿るのだ」という、神秘的なものになってきます。そして、「聖霊が宿って、イエスが生まれたのだ」ということを重視する思想になります。確かに、「聖霊が宿る。魂が宿る」というのはほんとうのことです。
 さらに、「イエスは罪なくして生まれたのである。穢(けが)れなくして生まれたのである」ということを象徴的に表すことになります。この世的には、強引にこじつけた話でしょうが、象徴的には、そういうことになるのです。
 では、イエス自身についてはどうでしょうか。
 イエスは教えを説き、彼には十二人の主要な弟子がいました。また、彼に従う群衆が何百何千といました。ところが、三年あまり伝道をすると、彼は罪人と一緒に十字架にかかって死んでしまいました。
 弟子たちは、「十字架にかかっても、天使が来て救うのではないか。最後に奇跡が起きるのではないか」と思って見ていたのですが、イエスはそのまま死んでしまったのです。奇跡はまったく起きず、だれも助けに来ることはなく、いばらの冠をかぶせられたイエスは、ほんとうに死んでしまいました。これは大変な驚きでした。
 弟子たちはショックを受け、いったん離散して、いなくなってしまいました。
 しかし、やがて、弟子たちは、この罪人として死んだ人のことを、「救世主である」と主張しはじめ、「イエスは復活した」と言い出します。そういう信仰を立てて、押し通すのです。そうすると、しだいにそれが通っていきます。
 イエスの復活は、魂においては、そのとおりです。肉体は死んでも、魂は死んでいません。この世では罪人として死んでも、天上界では、偉大な魂として、よみがえっています。復活は、そのことを象徴しているのです。
 ところが、『聖書』を読むかぎりでは、ゾンビのように肉体的によみがえったとしか読めません。そのように書いてあります。かなり強引であり、それは事実ではないのです。
 しかし、そのような復活の思想を打ち出し、救世主信仰を立てています。この世的な見方からすると、まったく正反対であり、百八十度違う話ですが、そういう信仰を立てて、押し通すわけです。
 押し通しているうちに、それが、しだいに真実になっていきます。不思議ですが、これが宗教の世界なのです。(中略)
 宗教には非常に不合理なところがあります。「不合理なればこそ、我、信ず」「不合理であるからこそ信じる」という部分が、宗教にはどうしても残るのです。(中略)
 その不合理ななかに、実は象徴的なものがあります。肉体的、物質的なもの、この世的なものを超えた、象徴的な真実があります。その象徴的な真実を誰もが信じはじめたときに、それは不滅のものになるのです。
(131~137ページ)

キリスト教の方にとっては、ここで説かれている教えは、にわかに納得しがたいかもしれません。

けれども、いくら二千年前の話だからといって、象徴的になんとなく読むのではなくて、自分の頭でその意味をしっかりと考えてみるのも、大切なことなんじゃないでしょうか。

二千年前にイスラエルの地で何が本当に起きたのかは、現代日本に生きている私たちにも十分に理解できます。

その一助となる大川隆法先生の教えの一部を、今日はご紹介してみました! 


『大悟の法』

大川隆法著

 

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